尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大杉栄虐殺事件と甘粕正彦ー佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』を読む

2023年09月10日 22時58分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で持ってた本に、佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社、2008)があった。470ページを越える重くて厚い単行本で、持ち歩くのも大変。15年間放って置いたが、この機会に読まないと永遠に読まずに終わりそうだ。著者の佐野眞一氏も2022年9月に亡くなっている。「甘粕正彦」という名前も知らない人が増えてきたかもしれない。映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一が演じたが、「満州国」で暗躍したことで様々の伝説に包まれた人である。

 この本は当時はまだ存命だった関係者の家族を探して新資料を発掘している。その結果、「甘粕正彦」という近代日本史上でも非常に興味深い人物に限りなく迫ったと言える。近代日本史に関心がある人には絶対面白い本だと思う。一時入っていた新潮文庫版は品切れらしいが、図書館などで見つけられるだろう。甘粕と言えば、後半生の「満州時代」がなんと言っても興味深い。「満州国皇帝」になる溥儀を北京から連れ出した陰謀の実行者であり、その後大スター李香蘭(山口淑子)を擁する「満映」の理事長となった。「満州国」は昼は関東軍が支配し、夜は甘粕正彦が支配すると言われたという。

 興味深い後半生は省略して、ここでは「大杉栄虐殺事件」に絞りたい。前に関東大震災時の虐殺事件を何回か書いたとき、この問題は書かなかった。近代史に関心がある人なら誰でも知っているし、新しく考えるべき論点もあまりないと思ったのである。今回佐野眞一氏の本を読んでも、基本的な事情は変わらない。「甘粕真犯人説」を疑う人は昔から多く、むしろ「甘粕犠牲者説」の方が多いんじゃないかと思う。だが、それを実証することは不可能だろう。そもそも大杉栄虐殺指令文書が存在したとは思えない。
(大杉栄と伊藤野枝)
 無政府主義者(アナーキスト)の「巨頭」として知られていた大杉栄は、9月16日夕刻に豊多摩郡淀橋町柏木(現新宿区西新宿)の自宅付近で憲兵に連行され行方不明となった。この日、大杉と妻の伊藤野枝は、鶴見に住んでいた伊藤の前夫辻潤を訪ねたが留守だったため、近くに住む大杉の実弟大杉勇宅を訪れた。そこに大杉の実妹あやめと子どもの橘宗一(6歳)が偶然来ていて、子どもが東京の焼け跡を見たいと言ったため大杉たちが連れて帰った。この橘宗一はアメリカ生まれで、アメリカは国籍が出生地主義なので、アメリカ国籍も持っていた。(上記画像の子どもは橘宗一少年ではなく、大杉夫妻の子ども。)

 そのまま3人の行方は知れず、心配した宗一の家人はアメリカ大使館に連絡した。その後、警察に捜索願を出したが、この件がもみ消されずに公表されたのは、少年殺害が外交問題になりかねなかったためだろう。亀戸事件や中国人王希天の場合は、誰も責任を取らずに真相は隠ぺいされた。大杉栄殺しも同じように隠ぺいするはずが、少年殺害があったために隠しきれなかったとも考えられる。もっとも大杉の知名度は非常に高かったので、裁判なしに済ませるわけにはいかなかったかもしれない。その後マスコミも動き出す中、20日になって事件内容も不明のまま、福田雅太郎戒厳司令官の更迭、小泉六一憲兵司令官小山介蔵東京憲兵隊長の停職が公表され、甘粕正彦憲兵大尉と森慶次郎憲兵曹長を軍法会議に付すという発表がなされた。
(甘粕正彦憲兵大尉)
 その後開かれた軍法会議では、甘粕が「単独犯行」を「自白」した。もっとも宗一少年殺害は違うのではないかと弁護士から指摘され、それを認めた。その後、3人の憲兵が「自首」して軍法会議に付せられた。その間の詳細は佐野著に詳しいが、いちいち書くまでもないだろう。結局、甘粕が懲役10年森が懲役3年3憲兵は無罪となった。

 この判決(事実認定)にはおかしなところが多く、佐野氏も明らかに上層部関与説に立っていると思われる。ただ事柄が事柄だけに実証したとまでは言えない。最後の最後に本人の言葉が紹介されているが、それは「伝聞」に過ぎない。この本の中に死因鑑定書が公表されている。これ自体不思議な運命の下に残された貴重なものである。それを見ると、「自白」は明らかに不十分で信頼出来ない。大杉の身長は163.9㎝で、それより身長が低い甘粕が後ろから絞殺するのは難しい。実際には大杉と伊藤は踏んだり蹴られて胸部骨折していて、誰がやったかはともかく複数人によって極度の暴行を加えられていた。

 甘粕は当時「東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長」であり、森憲兵曹長は当時「東京憲兵隊本部付(特高課)」だった。つまり、森は甘粕の直属の部下ではなく、軍隊的に考えて(というか、常識で考えて)「個人的犯行」に協力させることは不可思議である。渋谷分隊長が麹町分隊長(事件現場となった)を兼ねるという人事も不可解。軍法会議では9月1日付で兼任の命令が出たと甘粕が述べたが、後付けとしか思えない。甘粕と森の双方に命令を下せる上層部が関わっていると考えるのは、「陰謀論」というより「常識論」だろう。真相がどういうものだったか諸説あるが、僕には当否を判断出来ない。ただ「甘粕単独犯行説」は成り立たないと考える。(軍人が「個人的考え」で、部下と軍施設を使って「殺人」を実行するという判決は荒唐無稽である。)
(佐野眞一氏)
 ところで、震災当時の大杉は何故「自由」だったのか。大杉はドイツで開催予定の国際アナーキスト大会参加を目指し、1923年1月に上海からフランスに出航した。パリ郊外でメーデーに参加して逮捕され、大杉だとバレて日本に強制帰国させられた。(中国人を偽装していた。この旅の経過は「日本脱出記」に書かれている。)7月11日に神戸に着いたばかりで、まだ日本で本格的な運動を開始する時間がなかった。1922年に「第一次共産党」が結成され、その関係者は逮捕され獄中にあった。そのため、権力側からは「野放しになっている大物」は大杉だけと見えていたのだろう。

 当局側の発表が「大杉他二名」の殺害とあったため、社会主義弁護士の山崎今朝弥は「他二名及び大杉君のこと」を書いた。伊藤野枝の女性史的な再評価が進んで、今では大杉栄と伊藤野枝が狙われたと考えやすい。だが当時の状況では、やはり伊藤野枝は一緒にいて連行されたと考えるべきだろう。この時、「女子ども」を一緒に連行した責任者は誰なんだろうか。当時は「アナ・ボル論争」というアナーキズムとボリシヴィズム(ロシア革命を実行したレーニンらの共産主義者)の対立があった。陸軍の仮想敵国は一貫してロシア・ソ連だったから、ソ連式社会主義を厳しく批判していた大杉を抹殺したのは、軍にとって逆効果だった。大杉不在でアナ陣営は不振となって、以後共産主義が左翼の主流となった。

 甘粕は全く無実で、罪を被るだけの役目だったという考えもあるが、僕はそれはかなり無理な想定だと思う。やはり、何らかの意味で「大杉殺し」には関与していて、それは全く後悔しなかったと思われる。ただ、宗一少年殺害には確かに関与していなかったかもしれない。甘粕は上層部に責任を負わせず、一切を自分で被る役割として選ばれたのは間違いない。その意味で、その後の軍内で「触れてはいけない凄み」を持つ存在となった。しかし、若い時期の東条英機に世話になり、満州でもずっと従っている。結局「有能な部下」というべき人物だったのだと思った。
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