10日ほど前に山梨の別荘に行った。5月以来だ。7月くらいに行きたかったけど連日のように36℃だ37℃という天気予報にビビッて行かなかった。でも色々とこれ以上行かないのもアレなので行ってきた。主な目的は栗と草刈り。家の周りし普段なら股下くらいの高さなのに顔くらいの高さになっていた。ちなみに長野の友人も同県内に空き家があって、役所から「処分や有効利用のお手伝いしますよ」な封書が届いて慌てて猛暑の中草刈りをしたそうだ。
その日も35℃くらいと暑かった。さすがにその気温、しかも炎天下で野良仕事は無理ってことでテキトーにやっておしまい。といって前の晩に泊まって早朝にすることもナシ。栗拾いは木陰なのでまぁ何とか出来た、といっても大半はヨメが拾った。去年は猛暑と雨不足でイガから出てきた実は薄っぺらいのばっかしというかつてない不作だった。今年は不十分とはいえ実は生った。
木に生ってる栗は落とさない
雑草を見て今までと違うのがもう1つ。ヤブガラシという初耳草が蔓延っていたのだ。それは隣の耕作放棄地も同様。この草を見たのは初めて。あちこちで見たのも勿論初めて。ヤブガラシは耕作放棄地の最後の方に現れるラスボス的な草なのかな。その草は蔓なんだけど、それがキーウイの棚全体に覆いかぶさっていたのだ。その他にも3種類くらいの蔓。
昼に咲いてるからヒルガオ?
キーウイの大きな葉が少ししか見えない
不思議なことにヤブガラシの根本はキーウイ棚の中、日が当たらないところから生えていたのだ。日陰で生まれ、その後キーウイに覆い被さって日照不足で枯らす、何とも恐ろしい生態で宿主を殺す寄生虫のようだ。まぁでも根本が分かりやすくて助かった。ただその根はゴボウのような太くて長いのが地面と平行にあった。さすがに今から芽が出ることはないだろうってことで今回は放置。キーウイの葉が落ちた頃に被さったヤブガラシと根っこを抜く予定。
分かりやすいヤブガラシの根本
山梨の別荘に行く足代で栗を買えばお釣りが出る。畑や家周りの草取りにしたって誰かに頼めばこれまた足代でお釣りが出る。佐久と山梨の往復に5時間。作業時間よりも長い。流行り言葉のコスパだのタイパ的には最悪。コロナ騒ぎで何度も出てきた言葉、不要不急の行動だ。でも人生の大半というか全部がそれに当たるような気がする今日この頃。
自分が出来ない事は人に頼んだり、大変な事は人力ではなく機械でやるとはいえ、ここのところ急速に世の中が全て何か任せになりつつあるように感じる。わざわざ作らないで買った方が良いよは前からあった。最近、もしくは近い将来、××はロボットで全部やって貰えばいいじゃん。ブログ? キーワードを幾つか選んでAIに入力すれば良い文章になるよ。誤字脱字も無いし。
だけどさ、それじゃぁ何もやることない。例え歴史どころか人々の記憶に残ることすら出来なくても自分の手でやりたい。でも一部のエリート達は『庶民はベーシックインカムで暮らしてれば良いよ、後はエリートとAIやロボットが全部やるから』と考えてるみたいだ、という陰謀論がある。もしそうだとしたら次の段階ではそんな人間は生かしておく意味はないと考えるかな。そうなるとエリート達だけ生き残る、でも遺伝子の多様性が無くなって思ってるより早く人類は全滅。そしてこんなおかしな文章はAIには書けないだろうな。
その日も35℃くらいと暑かった。さすがにその気温、しかも炎天下で野良仕事は無理ってことでテキトーにやっておしまい。といって前の晩に泊まって早朝にすることもナシ。栗拾いは木陰なのでまぁ何とか出来た、といっても大半はヨメが拾った。去年は猛暑と雨不足でイガから出てきた実は薄っぺらいのばっかしというかつてない不作だった。今年は不十分とはいえ実は生った。
雑草を見て今までと違うのがもう1つ。ヤブガラシという初耳草が蔓延っていたのだ。それは隣の耕作放棄地も同様。この草を見たのは初めて。あちこちで見たのも勿論初めて。ヤブガラシは耕作放棄地の最後の方に現れるラスボス的な草なのかな。その草は蔓なんだけど、それがキーウイの棚全体に覆いかぶさっていたのだ。その他にも3種類くらいの蔓。
不思議なことにヤブガラシの根本はキーウイ棚の中、日が当たらないところから生えていたのだ。日陰で生まれ、その後キーウイに覆い被さって日照不足で枯らす、何とも恐ろしい生態で宿主を殺す寄生虫のようだ。まぁでも根本が分かりやすくて助かった。ただその根はゴボウのような太くて長いのが地面と平行にあった。さすがに今から芽が出ることはないだろうってことで今回は放置。キーウイの葉が落ちた頃に被さったヤブガラシと根っこを抜く予定。
山梨の別荘に行く足代で栗を買えばお釣りが出る。畑や家周りの草取りにしたって誰かに頼めばこれまた足代でお釣りが出る。佐久と山梨の往復に5時間。作業時間よりも長い。流行り言葉のコスパだのタイパ的には最悪。コロナ騒ぎで何度も出てきた言葉、不要不急の行動だ。でも人生の大半というか全部がそれに当たるような気がする今日この頃。
自分が出来ない事は人に頼んだり、大変な事は人力ではなく機械でやるとはいえ、ここのところ急速に世の中が全て何か任せになりつつあるように感じる。わざわざ作らないで買った方が良いよは前からあった。最近、もしくは近い将来、××はロボットで全部やって貰えばいいじゃん。ブログ? キーワードを幾つか選んでAIに入力すれば良い文章になるよ。誤字脱字も無いし。
だけどさ、それじゃぁ何もやることない。例え歴史どころか人々の記憶に残ることすら出来なくても自分の手でやりたい。でも一部のエリート達は『庶民はベーシックインカムで暮らしてれば良いよ、後はエリートとAIやロボットが全部やるから』と考えてるみたいだ、という陰謀論がある。もしそうだとしたら次の段階ではそんな人間は生かしておく意味はないと考えるかな。そうなるとエリート達だけ生き残る、でも遺伝子の多様性が無くなって思ってるより早く人類は全滅。そしてこんなおかしな文章はAIには書けないだろうな。