ボッケニャンドリの思ったこと

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葬式では、遺族はホストかコンパニオン

2006年06月15日 08時26分43秒 | 思ったこと
 随分前、死んでしまって会えないんだから後でゆっくり線香上げに行っても良いじゃんか、と友達と話した所、死んだ本人ではなく残った家族を慰めに行くんだと聞いて「なるほどそういうこともあるか」と思った。しかし実際はというと、葬式では遺族は泣いてる暇がないくらいてんやわんやに忙しい。宴席ともなればホストかコンパニオンよろしくお酌しないといけない。それが終ればお返しなどの手配に挨拶回り。

 葬祭場によっては故人の経歴を音楽を流したりするらしい。なんだか結婚披露宴みたいだ。やがてこんなに派手にしなくてもいいじゃないのかという人も出てくるんじゃなかろうか。今回の葬式で 「 いつまでもこんな葬式をやってちゃダメだ 」 と言った重鎮が1人居たが、変わり者扱いされていた。(^-^;その人は、昔は自分や親の兄弟は5人くらいは当たり前だけど、今では子供が1人だったり居なかったりするから同じやり方では無理だろう、と。

 葬式ってのは一体何なのか、誰のためなのか分らない。とブツブツ言っていると、ヨメは「お世話になった人に・・・」と言う。う~ん、納得行かないなぁ。もしかするとこの忙しさってのは、日常生活への復帰をし易くするためなのかな。何時までもメソメソしてたんじゃぁ困るもんね。だけど疲れ果てて別途休暇が欲しいって感じもある。何だかんだと遺族が疲れるってのは昔から変らない?
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3 コメント

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ウチの地元 (kawahara)
2006-06-15 12:43:21
ウチの地元では近所の人が設営から食事からしてくれるので遺族はその後彼らの宴会で接待しなくてはいけないというしんどさがあります。しかも「預金講」なる寄り合いに入らないと手伝いが少ないので葬式を出せないと言われていましたが、最近では変わりつつあるそうです。確かに今の方法は廃れていくでしょうね。とくに今の60前後の人あたりからを境に。70ぐらいだとまだまだ昔のやり方に固執する世代ですから。これから葬儀屋・寺のサバイバル時代ですな。都会の結婚式産業のように地すべり的衰退になるか、あるいはそうでもないのか?
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re:ウチの地元 (ボッケニャンドリ)
2006-06-15 19:15:55
 昔はそれなりに意味があったことなのかと思いますが、その意味が分らないようなものなら止めてしまった方が良さそうですね。



 ちなみに私が前に住んでたところでは若い連中が親父達のコピーかと思うくらい保守的なのが分った時はガッカリしましたよ。
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地縁的な繋がりを感じさせますね (tsubamerailstar)
2006-06-15 23:35:31
都会だと自宅で、という訳にはいかんのでしょうが、古くて何気に気に入っている私の実家は座敷と隣の部屋の襖を取っ払えば余裕で葬儀できます。「村八分」という言葉もあるくらいだから地縁的な協力体制の一端が垣間見られるのがトラディッショナルな葬儀なのでしょう。大体忙しいのは女性陣でしょうけど。(汗)

もっとも平成になってから「個人の意志や意向」が尊重されるようになりましたので、そうしたトラディッショナルな大掛かりな葬儀のあり方もだいぶ変質してきましたよね。芸能人とかでも親族のみで密葬→後日お別れの会みたいなのが目立つような。

日本人の死因の一位はガンですが、そのガン何かで本人への告知が広まってきたこととも関係があるんじゃないかと思いますが、自らの最期を如何に「演出」するかということに思いを寄せるのもいい機会かもしれませんね。

この世に生を受けるということは、死に向かって放物線を描くことでもある訳ですが、そうした生と死を個人・家族レベルで考えて見る機会は大事なことだろうなと思いました。

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