4月に、世田谷文学館の石井桃子展に行きました。
素晴らしい翻訳本の数々や、かつら文庫の部屋の再現、実際に飾られていたお雛様など、
興味深い展示が盛りだくさんあった中、とても印象深く残っているのは、
展示の始めの方にあった、石井桃子さんが小さかった時の家族写真です。
石井桃子さんは、埼玉県の浦和市のご出身なので、私が住む川口市とは隣同士、
しかも、桃子さんのお母様のご実家が、浦和の三室であることを知り、
さらに親近感が増したからかもしれません。(三室には、私の妹家族が住んでいるんです)
その写真は、前庭で、写真屋さんに撮ってもらったのでしょう。
お母さんに抱っこされている桃子さんの周りには、兄姉が、並んでいます。
もちろんみんな着物です。
そして、家族の後ろには、咲き乱れているカンナの花が写っていました。
カンナ。
黄色と朱色の2種類が、私が小さかった頃の庭にも咲いていました。
それは誰かが、意図して植えたのではなく、私の記憶の中では、夏になると
勝手に自生してきているような、そんな力強さがあり、そして誰もそれを愛でるわけでも
かといって、厭うわけでもなく、ただ、庭のその場所にあるものでした。
私の家は、鋳物工場だったので、庭といっても、花壇や手入れされたお庭を
指すのではなく、敷地の、家と工場がない場所全体を庭と呼んでいました。
縁側のすぐ前には、柿や松の木、つつじなども植わっていましたが、カンナは
そこにはなくて、使わなくなった(使えなかった)錆びた鋳物がごろごろ置いてあるような
所に、「林立」していたような気がします。
カンナによって誘われた郷愁から、この本を手にとりました。
『幼ものがたり』 石井桃子 作
石井桃子さんは、70歳くらいの時に、この本を書いたというから驚きです。
小学校に上がる前のことを、こんなに細かく、しかも瑞々しく、人は思い出せる
(覚えていられる)ものなのでしょうか。
私が気になった写真のことも、「早い記憶」という中で、こんなふうに書かれていました。
夏には、さまざまな色のカンナが咲いた。家のカンナはおとなの背より
高くなり、木立のように見えた。あるとき、私たちは家じゅうで、二列に
なって、そのカンナの前にならんでいた。あの函型のカメラーいまにして
思えばーが、私たちのほうへ向けられて立てられていて、そのそばに
知らない男のひとがいた。私は母に抱かれて、列のはしにいた。
この時のことを石井さんは、とてもはっきり覚えていて‥おばあさんが写真に
写っていないのは、「影がうすくなるのがこわくて」という理由だったことを
あとになって聞かされ、どうしても縁側から降りてこなかった、すねたような、
さびしそうな祖母のようすさえ、私は母に抱かれて、感じとっていた。
と、記しています。
読み始めてすぐに気がついたのですが、幼い石井桃子さんが、当時使っていた
言葉のいくつかが、妙に懐かしいのです。
たとえば、湯殿‥お風呂場のことですね。たとえば、大戸、奥、井戸、四畳半、
髪結い、銅壺(どうこ)‥
なんでだろう、とちょっと考えたら、すぐにわかりました。
私の祖母が、ちょうど石井桃子さんと同じくらいの年だったのです。
(石井さんは1907年生まれ、祖母は、たしか午年の生まれだったと思うので
そうなると、1906年生まれということになります)
祖母は、自分が使っていた言葉をそのまま、私に向かっても喋っていたので
私にとっても懐かしい言葉になったわけです。
大戸(おおど)はどこを指していたのでしょう。木でできた閂がある門のことは
「門」と呼んでいたので。
奥は、一番奥の座敷のことで、そこは祖父母の寝起きする部屋でした。
井戸は、外にある水道のこと(昔はそこが井戸だったのでしょうか)。
四畳半は、部屋の大きさそのままですが、両親の寝起きする部屋のことでした。
髪結いは、かみゆい→かみゆいさん→かみいさん ときっと変っていき、
美容院へいくことを「かみいさんに行く」と言ってました。
銅壺(どうこ)は、何を指していたのか思い出せないので、調べてみたら、
「火鉢の中に置き、湯を沸かし燗酒をつくる民具」と載っていました。
(そういえば、おばあちゃんは、火鉢使っていました。)
うちのおばあちゃんが、石井桃子さんと1歳違いだったとは!
なんか歴史上の人物が、家族のアルバムに載っているような、へんな気持ちです。
石井さんの成し遂げたことの偉大さを思うと同時に、おばあちゃんが子どもだった頃に
思いを馳せています。
素晴らしい翻訳本の数々や、かつら文庫の部屋の再現、実際に飾られていたお雛様など、
興味深い展示が盛りだくさんあった中、とても印象深く残っているのは、
展示の始めの方にあった、石井桃子さんが小さかった時の家族写真です。
石井桃子さんは、埼玉県の浦和市のご出身なので、私が住む川口市とは隣同士、
しかも、桃子さんのお母様のご実家が、浦和の三室であることを知り、
さらに親近感が増したからかもしれません。(三室には、私の妹家族が住んでいるんです)
その写真は、前庭で、写真屋さんに撮ってもらったのでしょう。
お母さんに抱っこされている桃子さんの周りには、兄姉が、並んでいます。
もちろんみんな着物です。
そして、家族の後ろには、咲き乱れているカンナの花が写っていました。
カンナ。
黄色と朱色の2種類が、私が小さかった頃の庭にも咲いていました。
それは誰かが、意図して植えたのではなく、私の記憶の中では、夏になると
勝手に自生してきているような、そんな力強さがあり、そして誰もそれを愛でるわけでも
かといって、厭うわけでもなく、ただ、庭のその場所にあるものでした。
私の家は、鋳物工場だったので、庭といっても、花壇や手入れされたお庭を
指すのではなく、敷地の、家と工場がない場所全体を庭と呼んでいました。
縁側のすぐ前には、柿や松の木、つつじなども植わっていましたが、カンナは
そこにはなくて、使わなくなった(使えなかった)錆びた鋳物がごろごろ置いてあるような
所に、「林立」していたような気がします。
カンナによって誘われた郷愁から、この本を手にとりました。
![](http://ec3.images-amazon.com/images/I/51DMYS5D1SL._SL500_AA300_.jpg)
石井桃子さんは、70歳くらいの時に、この本を書いたというから驚きです。
小学校に上がる前のことを、こんなに細かく、しかも瑞々しく、人は思い出せる
(覚えていられる)ものなのでしょうか。
私が気になった写真のことも、「早い記憶」という中で、こんなふうに書かれていました。
夏には、さまざまな色のカンナが咲いた。家のカンナはおとなの背より
高くなり、木立のように見えた。あるとき、私たちは家じゅうで、二列に
なって、そのカンナの前にならんでいた。あの函型のカメラーいまにして
思えばーが、私たちのほうへ向けられて立てられていて、そのそばに
知らない男のひとがいた。私は母に抱かれて、列のはしにいた。
この時のことを石井さんは、とてもはっきり覚えていて‥おばあさんが写真に
写っていないのは、「影がうすくなるのがこわくて」という理由だったことを
あとになって聞かされ、どうしても縁側から降りてこなかった、すねたような、
さびしそうな祖母のようすさえ、私は母に抱かれて、感じとっていた。
と、記しています。
読み始めてすぐに気がついたのですが、幼い石井桃子さんが、当時使っていた
言葉のいくつかが、妙に懐かしいのです。
たとえば、湯殿‥お風呂場のことですね。たとえば、大戸、奥、井戸、四畳半、
髪結い、銅壺(どうこ)‥
なんでだろう、とちょっと考えたら、すぐにわかりました。
私の祖母が、ちょうど石井桃子さんと同じくらいの年だったのです。
(石井さんは1907年生まれ、祖母は、たしか午年の生まれだったと思うので
そうなると、1906年生まれということになります)
祖母は、自分が使っていた言葉をそのまま、私に向かっても喋っていたので
私にとっても懐かしい言葉になったわけです。
大戸(おおど)はどこを指していたのでしょう。木でできた閂がある門のことは
「門」と呼んでいたので。
奥は、一番奥の座敷のことで、そこは祖父母の寝起きする部屋でした。
井戸は、外にある水道のこと(昔はそこが井戸だったのでしょうか)。
四畳半は、部屋の大きさそのままですが、両親の寝起きする部屋のことでした。
髪結いは、かみゆい→かみゆいさん→かみいさん ときっと変っていき、
美容院へいくことを「かみいさんに行く」と言ってました。
銅壺(どうこ)は、何を指していたのか思い出せないので、調べてみたら、
「火鉢の中に置き、湯を沸かし燗酒をつくる民具」と載っていました。
(そういえば、おばあちゃんは、火鉢使っていました。)
うちのおばあちゃんが、石井桃子さんと1歳違いだったとは!
なんか歴史上の人物が、家族のアルバムに載っているような、へんな気持ちです。
石井さんの成し遂げたことの偉大さを思うと同時に、おばあちゃんが子どもだった頃に
思いを馳せています。