豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

與那覇 潤「帝国の残影」

2024年10月25日 | 本と雑誌
 
 與那覇 潤「帝国の残影――兵士・小津安二郎の昭和史」(NTT出版、2011年)を読んだ。
 先日、旧北国街道、海野宿にドライブした際に、街道沿いの古書店で買ったもの。「古本カフェのらっぽ」という店だったらしい。「らっぽ」とはどういう意味か、店主に聞いておけばよかった。

 さて、読んでみると、これが大変に面白かった。小津の映画をこんな風に読む(見る)こともできるのかと思い知らされながら読んだ。
 小津はあの戦争(日中戦争ないしアジア太平洋戦争)を兵士として体験しながら、あの戦争を描かなかった監督といわれてきたし、ぼくもそう思っていた。しかし著者によれば、小津は、明治期から日中、太平洋戦争の敗北にいたる(大日本)「帝国の残影」を描きつづけた映画監督だったという。最も「日本」的といわれ、戦争描写の欠落した「家族映画」といわれる小津映画の中に、東アジアに植民地を有する「帝国」だった日本の歴史が反映されており、一兵士としての小津の中国大陸における経験がいかに影響していたかを著者は析出する。
 しかも著者は、このことを小津の失敗作といわれる(シネマ旬報の順位の低かった)作品の系譜をたどる中から論証していく。すなわち、「風の中の雌雞」(1948年、キネマ旬報7位)、「宗方姉妹」(1950年、同7位)、「お茶漬けの味」(1952年、同12位)、そしてシネ旬の順位が最低だった「東京暮色」(1957年、同19位)などの諸作品である(26頁~)。

 「戸田家の兄妹」で、二男の佐分利信が、長男・長女夫婦らに冷遇されている母と妹を連れていく先が実際には(画面でも脚本でも)「天津」なのに、多くの小津映画研究者(佐藤忠男も含む)が「満州」と誤読していることの指摘と、その誤読の解釈もユニークである(32頁)。大陸に渡った佐分利の行先がどこだったのかぼくは記憶にない。日本が侵略した中国大陸のどこかに佐分利は一旗揚げに行ったので、そこが天津だろうと満州だろうと同じことくらいにしか考えていなかったのが正直なところである。
 しかし著者にとって「天津」であることはきわめて重要な意味をもつ。中国に派兵された小津は、戦場で志賀直哉「暗夜行路」(岩波文庫)を愛読しているが、「暗夜行路」で時任謙作の恋愛相手となるお栄は、大陸に渡ったものの天津で水商売に失敗し、大連で盗難にあい、最後は京城(現在のソウル)で行き詰って謙作に引き取られて帰国する。「王道楽土」の「満州」ではなく、「暗夜行路」お栄の不吉な行路の出発点となる「天津」は、戸田家の一見すると安定した家族像の裏面に小津がしのびこませた家族崩壊の予兆のメッセージだったと著者はいう(35頁~)。
 そして、「宗方姉妹」にわずかに登場する「大連」は、「暗夜行路」のお栄が流れていった先であり、ここにも著者は「帝国」の残影を見る。著者によれば、「宗方姉妹」は「晩春」に見られた小津調家族映画に対する自己批判である(47頁)。さらに、「暗夜行路」のお栄が最後に流れ着いたのが京城であり、時任謙作がお栄を迎えに京城に行った留守中に(謙作の)妻と従兄とが密通してしまうのであるが、「東京暮色」でも、夫(笠智衆)が「京城」に単身赴任中に、妻(山田五十鈴)が夫の部下(中村伸郎)と駆け落ちしてしまう。この映画でも「京城」は家族崩壊の記号としての意味をもっているのである。
 小津映画では、「戸田家の兄妹」の天津、「宗方姉妹」の大連を経て、「東京暮色」で京城に辿りつく。「そしてその時点で『晩春』のごとき『小津的』な家族は完全な自壊へと至るのである」と著者はいう(58頁)。天津、大連、京城にそんな含意があったとは、ぼくは思ってもみなかった。しかも「東京暮色」は、林芙美子(というか水木洋子)の「浮雲」に対する小津の応答でもあるという(同頁。このことは浜野保樹の見解だそうだ)。「浮雲」と「東京暮色」との関連など、「浮雲」を見た時も、「東京暮色」を見た時にもまったく思い浮かびもしなかった。「浮雲」の高峰秀子と森雅之が、「東京暮色」の山田五十鈴と中村伸郎だったとは。

 さらに「暗夜行路」を下敷きにした「風の中の雌雞」の、戦後の生活困窮時に売春をしてしまった事実を復員してきた夫に告白する妻(田中絹代)と夫(佐野周二)が抱擁しあって再生を誓うラストシーンを、病気の子どもも、戦場から帰ってきた夫も、階段から突き落とされた妻もみんな死人であり、あれは幽霊同士の抱擁であるとする黒澤清の解釈を、「暗夜行路」の結末から見て正当な解釈であると支持する(41頁)。田中は告白などしなければよかったのにとぼくは思ったが、著者によれば、「嘘」を嫌った小津にとって、この場面での「嘘」は許されなかったのだ。
 ぼくは、田中絹代の台詞まわしは、田中が「雨月物語」の幽霊になっても「田中絹代」そのままだと感じたことがあったから、「風の中の雌雞」ラストシーンの田中が実は幽霊だったという解釈は、これもなるほどと呻った。この本を読んでいると著者の深読みにしばしば呻らされることになる。
 「呻らされる」ついでに、「東京暮色」のラストシーンで、北海道に去っていく山田と中村の不倫カップルの乗った列車が出発を待つ上野駅ホームで、応援団風の学生たちが歌う明治大学校歌の騒々しさに辟易したのだが、著者は、同校校歌の「いでや東亜の一角に・・・正義の鐘を打ちて鳴らさむ・・・独立自治の旗翳し・・・遂げし維新の栄になふ 明治その名ぞ吾等が母校」という漢文調の(すなわち「中国化」された?)歌詞を引用しつつ、あのシーンは「明治」以来の「私たちは『帝国』たりうる存在なのだ」という「嘘」の崩壊を暗示しているという(206頁)。明大校歌の歌詞まで援用しながらタネ明かしをされると、ここでも「なるほど」と呻らざるを得ない。この「東京暮色」のラストシーンを佐藤忠男や川本三郎さんは小津の最高の表現のひとつに数えているという。
 日本の近代化はたんなる西欧化ではなく、朱子学化でもあったという指摘は、明治初期の法制度の近代化の過程を少し眺めただけのぼくにも了解可能であるし(明治20年代になっても「民法出でて忠孝亡ぶ」などという批判がまかり通っていた!)、まさに近代化の尖兵の一つであった明治大学(明治法律学校)の校歌は、西欧化にして漢語化を象徴しているように思う。

 小津は、次の世代の木下惠介「日本の悲劇」の試写会を退席して以来両者は不仲となり、お互いの作品を見なかったという。ぼくは木下の「カルメン故郷に帰る」を見た後の小津が「いい映画を見た後は酒がうまい」と言ったというエピソードを何かで読んだ覚えがあるのだが・・・。小津が嫌った「日本の悲劇」で母親を見捨てる冷淡な長男役を演じた田浦正巳に、妊娠した有馬稲子を見捨てて死に追いやり平手打ちを食らうという人格下劣な男の役を「東京暮色」で割り振ったのは木下への意趣返しだったのではないかと解釈する(161頁)。そこまでは、とも思うが、「東京暮色」の田浦の役は俳優としては演じたくない役柄ではあっただろう。
 小津映画に頻出する「麻雀屋」への嫌悪感(128頁ほか)、同じく「ラーメン屋」の意味(「東京暮色」の鶴田浩二と津島恵子のラーメン屋でのデート、東野英治郎と杉村春子父娘が営む来燕軒など)の解釈などにも(144~5頁)呻らされた。
 その他、「小早川家の秋」、「青春放課後」(というテレビドラマが小津の最後の作品だったという)、「彼岸花」、さらには「麦秋」「晩春」などの小津作品に見られる日本の「東西」問題(西日本問題)が、網野善彦の「日本」論などとの関係で語られる(151頁)。ぼくは「東西」問題以前に、浪花千栄子や中村雁治郎らの関西弁が耳障りで画面に集中できないのだが、関西弁に対してそんな強い拒否感をぼくが抱く深層にも、日本人の「東西」問題が潜んでいるのだろうか。

 サブタイトルにもなっている「昭和史」に対する成田龍一らの最近の視点、丸山眞男、竹内好、蓮實重彦ら旧世代の発言と、それらに対する著者の応答も、ぼくの読解能力を超える。そして何より残念なのは、著者與那覇さんの創見である「日本の中国化」という視点が理解できていないので、小津映画にみられる「中国化」についても論評できないことである。
 もっと勉強しなければならないと思う一方で、小津映画はもっと単純に見てもよいのではないか、という思いも捨てられない。本書で一番の収穫だったことは、一般に小津の失敗作といわれている「戸田家の兄妹」「風の中の雌雞」「東京暮色」「宗方姉妹」などが決して失敗作などではなく、小津の戦争体験が背景にある重要な作品と見る見方を教えられたことだろう。
 ぼくは「父ありき」から「秋刀魚の味」に至る小津の「家庭映画」の温かさも嫌いではないが、「戸田家の兄妹」「風の中の雌雞」「東京暮色」なども印象的な作品で、失敗作とは思えなかった。本書はこれらの諸作品を解読して、新たな見方をぼくに示してくれた。
 ぼくは、「帝国」と「家族」の矛盾(206頁)という側面に注意しながら「東京暮色」を見たくなった。

 2024年10月25日

 蛇足を1本。本書の冒頭に、「晩春」のなかで子役が川上の赤バットをまねてバットに塗料を塗りたくったが乾かないと言って泣きべそをかき、これを原節子がからかうシーンの意味が不明であるという指摘がある。実は当初のシナリオでは、娘を嫁がせた父親(笠智衆)が家に戻ってひとり号泣するというラストシーンだったのを、笠が号泣するという演技に猛反発したため現行のようなシーンに改変されたという。そのために生じた「オチの欠如した落丁本だった」という(9頁)。
 ぼくは、「晩春」の原と子役の会話シーンがあったことなど忘れていたが(小津映画の子役が出てくるシーンは嫌いでいつも読みとばしてしまうのだが)、「落丁」というほどでもないと思う。ラストシーンで笠が号泣しようとしまいと、子役と原の会話は「人は泣きたいけれど泣かないこともある」というメッセージを伝えている点で、ラストシーンの笠の心境を暗示していると思う。

海野宿(旧北国街道、2024年10月20日)

2024年10月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 10月20日(日)、快晴。
 青空と浅間山のすそ野の緑を眺めながら、浅間サンラインを小諸、上田方面に向かってゆったりとプロムナードする。行先も決めない気ままなドライブだったが、道路沿いに小林農園という販売所の上りを見つけ、ちょうど信号も赤だったので立ち寄ってみる。東京よりも安くて新鮮な野菜を買い込む。
 上の写真はその小林農園前からサンライン道路ごしに浅間山方向を撮ったもの。残念ながら、この日の浅間山はかなり裾野の方まで雲がかかっていて見ることができなかった。

 ついで、以前に立ち寄ったことのある「雷電の里」という道の駅に向かう。
 大昔の大関、雷電の生まれ故郷の近くだという。数年前は地元長野出身ということで、大関御嶽海のポスターが貼ってあったが、去年あたりからなくなってしまった。
 浅間サンラインの北側は浅間連山(というらしい)が連なっていて、南側には佐久平が開けていて景色がいいのだが、雷電の里の見晴台は目の前を上信自動車道が走っていて、景色はいまいち(下の写真)。

   
   

 さて次はどこへ行こうか。道路の行先標示では高峰高原、湯の丸高原、小諸市内などいくつか候補を見つけたが、家内が以前に行ったことがあって、雰囲気がよかったというので、海野宿(うんのしゅく)というところに行くことにした。海野宿は長野県東御市(「とうみ」と読むらしいが、どのような謂れがあるのか)というところにある。雷電の里からは10キロ足らず。
 サンラインを降りて国道18号に出て、さらに田畑や民家の散在する曲りくねった道を行くと、海野宿の駐車場が右手に見えてきた(無料だった)。
 道の反対側には、川が流れていた。千曲川だろうか。草の生えた広い河原にはススキの穂がなびいている。
 
   
   
   
 旧北国街道沿いの海野宿は、入口に神社があって、その先数百メートルにわたって道の両側に古い街並みがつづいている。※そういえば、今年の春先に彦根を旅した折に、大津市街で旧北国街道の標識が立っていた。たしかロシア皇太子受難大津事件の現場も旧北国街道沿いだった。追分の分去れで中山道から分岐した北国街道は滋賀大津にまで及んでいたのだった!
 さて海野宿の街道沿いは、宿屋や土産物屋や喫茶店がちらほらと並んでいるが、あまり観光客もいなくて、ゆっくりと歩くことができた。気温も20℃前後で、ウォーキングには程よい。
 
   
   
      

 途中のT字路に「シフォンケーキ製造・販売の店何とか」という看板が出ていたので、曲がって坂道を登ってみたが、いくら登っても行き当らないので、あきらめる。その途中で、しなの鉄道の線路を跨ぐ跨線橋を渡る。電車は通過してくれなかった。
 もとの旧北国街道に戻り、古い海野宿の街並みが切れるところまで歩く。同じ道を帰るのでは能がないので、南側の細いあぜ道を戻る。半分刈り取りの終わった田んぼがつづいている。来る時にしなの鉄道の田中駅というのを通ったが、文字通りの田んぼの中である。

   
   

 再び、旧北国街道に戻り、古い建物で古書店と喫茶店をやっている店を覗いてみる。
 土間の部屋の壁一面が本棚になっていて、店主の趣味らしい古本が並んでいる。小津安二郎関連の本を並べた一角があったので、そこから與那覇潤「帝国の残影ーー兵士・小津安二郎の昭和史」と千葉伸夫「小津安二郎と20世紀」という2冊を買った(あわせて1800円)。駐車場が無料で申し訳なかったので、地域に貢献するつもりである。與那覇さんに小津をテーマにした著書があったとは知らなかった。千葉の本は「20世紀の家族が形成され、成長、衰退、やがて消滅する」という帯の文句につられて買ってしまった。
 與那覇さんの本は面白く読んでいるが、コメントは後ほど。

   
      

 1時間半ほど歩きまわって、1時過ぎに海野宿を出発し、帰途につく。市議会議員選挙の最中らしく、選挙カーと何度もすれ違う。
 昼食は御代田まで戻って、蕎麦処「香りや」(正式な名称か不確か)で。今年の2月で閉店してしまった追分の「峠のそば茶屋」に代わって、最近時々訪れる。ここの駐車場からの浅間山も軽井沢から見る眺めとは違って鄙びていて好い(上の写真)。

 2024年10月24日 記   

軽井沢へ行ってきた(2024年10月19日~21日)

2024年10月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 10月19日(土)から今日10月21日(月)まで、軽井沢に行ってきた。3日間とも秋晴れで天候には恵まれたが、20日と21日は夜間や朝方の寒さが厳しかった。今朝(21日)午前4時ころに目が覚めてスマホを開くと、「軽井沢の現在の気温 4℃」と出ていた。日中は 11~14℃くらいになっていた。

 19日(土)は早朝から鶴ヶ島あたりで多重追突事故のため、関越道は東松山まで通行止め。
 もともと急いで出かけるつもりはなかったので通行止めが解除されるのを待っていると、11時ころにネクスコのHPに「解除は11時20分頃の見込み」という記事が載った。11時20分にもう一度HPを見ると、もう関越道の通行止めの表示は消えていたので、出発。
 上里で小休憩し、2時間ほどで軽井沢に到着。この日はツルヤに立ち寄って、数日分の食料だけを買い込んで、そのまま家へ。家じゅうの雨戸、窓を開けて風を通し、布団を干す。9月初旬に置いてきた除湿剤ケースの半分の所まで水がたまっていた。この秋はとくに雨が多かったが、1か月でこんなに湿けるのか。

 20日(日)は、浅間サンラインをドライブ。
 「秋の童話」のMDを聞きながら、浅間山のすそ野に沿ったこの道を中古のPOLOで走ったのは、もう20年近く前のことになるだろうか。ソン・ヘギョ、ソン・スンフォン、ウォンビン、そしてムン・グニョンたちもどうしているのか。最近は見かけないが・・・。韓国のスターたちは新陳代謝が激しくていつの間にか消えてしまう。残っているのは脇役ばかり。
 ドライブの先々で撮った写真はまだ転送してないので後日改めてアップするが、ひとまずこの日の夕方、浅間台公園を散歩した折の写真だけを。
 植え込みのナナカマドが真っ赤に咲きほこり、白樺は黄葉して枯葉が落ち始めていた。やや紅葉した中木は何の木か。

   
    
 
 雲にかかった浅間山の頂上がわずかに見えていた。
 浅間山を裾野までもう少し眺めるために、借宿交差点のローソンまで歩く。わが定番の(?)「ローソンと浅間山」を撮る。

   
   

 21日(月)午前中、最後の風通しをしてから戸締り、ガス、電気、水道を止めて帰路につく。
 19日は裾野まで雲に隠れ、昨日20日は山頂に雲がかかっていて、2日間とも浅間山の全容を拝むことができなかったので、浅間山を眺めるために発地市場に立ち寄る。
 期待通り、石尊山のすそ野までくっきりと浅間山の蒼い山肌が秋の空に映えていた。あのハート形の窪みもしっかりと見ることができた(冒頭の写真)。

   

 発地通りに面した「モミの木」にも寄って、上信道、関越道を東京へ。上信道はガラガラ、関越道に入ってからも流れはスムーズだった。
 上の写真は関越道上空の秋の空。あの雲はいわし雲というのだろうか。魚のうろこのように見えるが。

 2024年10月22日 記

G・シムノン「名探偵エミールの冒険 (2) 老婦人クラブ」

2024年10月18日 | 本と雑誌
 
 ジョルジュ・シムノン「名探偵エミールの冒険 (2) 老婦人クラブ」(長島良三訳、読売新聞社、1998年)を読んだ。
 「名探偵エミールの冒険」シリーズ全4巻を借りてきたのだが、最初に読んだ「エミールの小さなオフィス」(第1巻「ドーヴィルの花売り娘」所収)から期待外れの出来だったので、各巻の表題作だけ読んで図書館に返却してしまったのだが、この第2巻だけは何も読まないまま返却するか迷っていた。で、小さな時間があったので、表題作の「老婦人クラブ」だけ読んだ。
 「老婦人クラブ」という題名からしてまったく読む気が起きなかったのだが、読んでみるとぼくが読んだ「名探偵エミール」シリーズの中ではこれが一番よかった。辛うじて及第点というレベルではあるが。
 50歳以上のセレブ女性だけが入会できるパリの婦人クラブが舞台である。このクラブに女装して紛れ込んで入会した男がいるというので、会長の老婦人からエミールに調査の依頼が来る。エミールは男の素性を調べ上げるのだが、突如老婦人から調査の中止を申し渡される。さて、・・・といった話である。
 この小説が書かれた1943年頃のフランスでは、50歳以上の女性は「老婦人」“vieilles dames” だったとは! 文中には「可愛い老嬢」などという表現も出てきたが、フランスではそんな存在もいるのか。
 これで「名探偵エミール」ものはお終いにしよう。

   

 本巻の巻末エッセー「シムノンを訳す喜び」で、訳者長島氏のメグレとの出会いが語られる。大学(仏文科)1年の夏休みに、フランス語を半期学んだだけでシムノンの「メグレと若い女の死」と「メグレと殺人者たち」の2冊(もちろん原書)を丸善で買ってきて一夏かけて読破したという。ぼくの大学1年の頃のフランス語力と何という違いか。
 ぼくも大学1年生の頃はフランス・レジスタンスへの思い入れは強かったのだが、夏休みに読んでいたのは淡徳三郎「抵抗」と「続・抵抗」、アンリ・ミシェル「レジスタンスの歴史」(クセジュ文庫、もちろん日本語訳)だった。
 大学1年の後期授業ではドーデ「星」、メリメ「マテオ・ファルコネ」、さらに「星の王子」なんかを読まされ、放課後のアテネ・フランセではモージェの日常会話ばかり読んだり喋らされていた(泣)。あの頃、メグレ警部ものでもテキストに指定してくれる教師がいたら、ぼくのフランス語は違う方向に進んだのだろうか? おそらくそれでもだめだっただろう。

 長島氏は、5年かかって大学を卒業後、出版社に15年勤務した後に独立して翻訳家になったという。留年、出版社勤務、独立というキャリアは割とぼくの人生と似ている。ぼくの出版社勤務は9年間で、退職後は教師になったが。彼はメグレもの78冊のうち、30冊以上を翻訳したという。河出書房のメグレ警部(いつの頃からか警視になった)シリーズの多くは長島氏の訳だった。シリーズの企画自体も彼だったのではないか。
 彼には、「メグレ警視」(読売新聞社、1978年)という著書があり、さらに「名探偵読本2 メグレ警視」(パシフィカ、1978年)という編著もある。これらでメグレに関する基礎知識は十分に得られるが、最近ではネット上にもっと詳細な書誌目録や映画化なども含むメグレ研究のページがある。
 ※ 「名探偵読本 メグレ警視」に挟んであったジル・アンリ「シムノンとメグレ警視」(河出書房)の書評(朝日新聞(1980年か?)11月2日付、「安」名義)によると、メグレものは102編あり、河出版「メグレ」全50巻の完結によって未訳の作品は10数編に減ったとなっている。

 2024年10月18日 記

佐藤春夫「小説永井荷風伝」

2024年10月16日 | 本と雑誌
 
 佐藤春夫「小説永井荷風伝 他3篇」(岩波文庫、2009年。単行本は新潮社、1960年)を読んだ。
 佐藤春夫の書いたものを読むのは初めてである。若い頃はまったく関心がなかったが、今回は荷風への関心から読んでみることにした。

 慶応義塾予科での出会いから、市川での葬儀、雑司ケ谷での納骨までを描く。たんなる評伝ではなく、語り手であり登場人物でもある佐藤による小説というより回想録のようなもの(佐藤の頻用する言葉でいえば「あんばい」)である。
 荷風自身が記述するところ、巷間に流伝するところ、佐藤自身が見聞したことを三脚として、これに真偽定まらぬ伝説、佐藤の感情移入、思い出などを交えて書いたことが「小説」を標榜した所以のようである。中村光夫との論争で表明した「荷風=エディプスコンプレックス説」などはエピソードの一つに過ぎない印象だった(88頁~)。
 佐藤は、荷風を「自叙伝作家」とでもいうべきものであるとし、その「作品史」がそのまま「伝記」と精妙な一致をみるという。ただし、佐藤のこの評伝はなぜか「断腸亭日乗」をほとんど援用しない点で、他の評伝に比べて出色である。「日乗」から援用を始めると「日乗」の摘録になってしまうからではないか。

 佐藤は、少年時代から文学者としての荷風に心酔し、慶応予科では学生として謦咳に接し、その後も「荷風読本」の編者に推挙されるほどの信任を得ながら、やがては子弟の縁を切られるという数奇な関係を閲している。評伝を書くにふさわしい著者である。 
 佐藤の見立てでは、荷風は、一方では都会の育ちのよい律儀で礼儀正しい純粋な性情の人間であり、もう一方では、その良家、厳父の桎梏からの解放を願った反社会的人間でもある。また、一方で天性の詩人にして、もう一方で「異常な色情の人である」(12頁)という。
 荷風にまつわるエピソードの取捨や評伝全体からも、上のような荷風の二面性が浮かび上がってくる。佐藤の筆からは、荷風に対する強い憎しみも感じないかわりに、強い哀惜の念も感じられない。そういう意味では公平な評伝という印象を得た。

 以下エピソード風に印象に残ったことをいくつか記しておく。 
「花火」における幸徳秋水の大逆事件を契機に戯作者になったという荷風の言葉を額面通りに受け取るべきではない、自ら流布した伝説であるという説を卓見という(68頁)。
 芥川が偏奇館の文学は「西遊日誌抄」にとどめを刺すとして、(昭和初年には)荷風を無視したこと、文士は閑居してゴシップを好む者たちであり、芥川門下と同様「日乗」にも度々出てくるように荷風もゴシップ好きだったという(96頁)。
 荷風が社会や政治に関心が深かったことを示すエピソードとして、何かの折に「近衛文麿はだんだん悪相になって行くね」と語ったという。近衛の顔の変化など、きちんと新聞でも読んでいないと分からなかっただろう。先日NHKテレビ「映像の世紀」で、近衛がヒットラーに扮した写真を見たが、「悪相」というより呆れ果てた。

 現地を見ないかぎり執筆できないという荷風の実地踏査主義の結果として、荷風は(売春に関する)一種の風俗史家ということができると佐藤はいう(124頁)。また、「大久保だより」や「日和下駄」などは「東京歳時記」というべき作品であり、荷風の東京風土研究であるという(併載の「永井荷風」273頁)。
 荷風が戦後に一時期寄寓した小西茂也が深川あたりの米問屋の裕福な息子で、最初は荷風の崇拝者だったが、自宅の空部屋を提供して同居するうちに幻滅し、荷風が死んだら全て暴露すると宣言しつつ(佐藤も出席した「三田文学」の座談会でそう宣言した)、荷風より先に亡くなってしまった(173頁)。小西の暴露は何かで読んだような気がする(小西の家屋の室内で七輪で古原稿を燃やしたという話が出ていた)。ぜひとも暴露話を読みたかった。
 荷風の偽書事件などをめぐる平井程一らとの一件について佐藤は、紀田順一郎「日記の虚実」とは違って、平井らを悪者として描いている。平井ら二人は一時期佐藤のもとにも出入りしていたという。筆先は荷風との関係を取りなすよう佐藤に依頼したことがあったというKにも及ぶ(132頁)。Kは久保田万太郎らしい。

 佐藤が荷風に縁を切られたのは、「荷風読本」(三笠書房、昭和11年)の印税をめぐってであるという批判に対して、佐藤は「日乗」にある三笠書房との紛糾の内容は採録する作品をめぐっての対立であり印税の問題ではないと反論し(144頁)、佐藤が戦時中の言動を理由に荷風から排斥されたのは昭和16年のことであると訂正する。
 半藤「荷風さんの昭和」でも引用していたが、本書でも、佐藤が荷風を「規格外の愛国者」であると評したことが荷風の不興を買った原因だったとして、「日乗」の同年5月16日付の記事を援用している(146頁)。荷風は「日乗」で佐藤を「田舎者」と書いているが、「田舎者」は荷風最大の蔑称である。佐藤は戦後になっても、荷風は国土を愛し、国語の純化をこころざした「愛国者」であったと信ずると書く(1960年)。ただし、佐藤は、荷風の不興を買った戦時中の言動のうち、壮士然として皇道文学を吹聴したことなどについては黙している。
 なお、併録された「永井荷風」によると、米仏から帰朝した荷風は一部ジャーナリズムから「非国民」呼ばわりされたというが、ここでも佐藤は、荷風を「故国に文明を切望する無二の愛国者であった。・・・ただその愛国の観念は軍人と同一でなかっただけである」と書いている(259頁~)。佐藤はどこまでも荷風を「愛国者」にしたいようである。戦時中に「非国民」呼ばわりされた荷風(併載の「最近の永井荷風」219頁)を佐藤は「汚名」と考え、何とかその汚名を雪ぎたいと思っているようだが、荷風本人は「非国民」呼ばわりなどむしろ名誉とさえ思っていたのであり、「愛国者」などと呼ばれることこそ不本意、不愉快なことだっただろう。

 荷風の文化勲章受章、芸術院会員就任を正宗白鳥が皮肉ったらしいが、佐藤も受賞は不当ではないが不自然だったと書く(165頁)。久保田万太郎の推挙によると何かに書いてあったが、佐藤もKの推挙であると書いている(194頁)。芸術院会員も文化勲章も兎角の噂がたえない賞だから、荷風に限らず誰が受賞しても異論は起こるだろう。正宗も佐藤も久保田も(!)文化勲章を受章したらしい。
 荷風の不遇の死を、佐藤は「宿望たる陋巷の窮死を自然死の利用による自殺」の遂行であったと見る(188頁)。その葬儀をKが取り仕切っていることを同道した瀬沼(茂樹?)は不快に思うが、佐藤は誰かがやらなければならいのだからよいではないか、と取りなしている(192頁~)。その席で、弟威三郎が荷風に仇敵視された理由に思い至っていないことを知り、気の毒に思うと書いている(196頁)。

 巻末に荷風に関する佐藤の小論3篇が併録されている。「永井荷風ーーその境涯と芸術」は荷風生前に書かれた評伝だが、「あめりか物語」から「濹東綺譚」に至る初期作品の中から当時の荷風の真情が現われた個所が引用されていて、読まずに済ますことができた。ちょうど川本編「荷風語録」によって戦後に発表された作品を読まずに済ますことができたのと同様である。
 それにしてもなぜここまで荷風に引きずられるのか、我ながら不思議である。川本さんに始まって、吉野、半藤、紀田、秋庭、平野、佐藤と芋ずる式である。
 もうそろそろ、平野謙「昭和文学私論」で興味をもった高見順、尾崎一雄あたりに乗り換えていいだろう。
 
 2024年10月15日 記

平野謙「昭和文学私論」補遺

2024年10月12日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年=1977年)の補遺。

 10月11日(金)夜、ようやく全巻を読み終えた。面白かった。
 永井荷風「断腸亭日乗」から昭和の日本経済史を顧みる吉野俊彦「断腸亭の経済学」もよかったが、平野の本書はそれよりさらに深く昭和の文壇という側面から昭和史全体を概観することができた。荷風の日記からは昭和史のごく限られた一面しか顧みることができないのに対して、本書からは、政府、軍部による言論弾圧という昭和史の重要な一面を回顧することができる。
 本書で、ぼくが読んでみたくなった本は以下のようなものである(順不同)。
 「あの日この日(上・下)」尾崎一雄(平野481頁)
 「故旧忘れ得べき」髙見順( 〃 288頁)
 「昭和文学盛衰史」高見順( 〃 )
 「十年」里見弴( 〃 437頁、昭和10年~20年の回顧だが、平野は戦後20年の意味を考える)
 「悲しみの代価」横光利一( 〃 12頁)
 「土と兵隊」火野葦平( 〃 346頁)
 「麦死なず」石坂洋次郎( 〃 306頁、石坂が元プロレタリア派だったとは!)
 「晩年/道化の華」太宰治( 〃260頁)
 「鮎・母の日・妻/贅肉」丹羽文雄( 〃 251頁)
 「再建、盲目」島木健作(〃231頁)、「囚はれた大地」平田昭六(〃238頁)なども。

 平野によれば、昭和の文学はプロレタリア文学 vs 新興芸術派(ないし新感覚派文学派)で始まり、小林多喜二の拷問死、ナップ解散以降のプロレタリア文学派は、転向文学派、戦争(国策)文学派、私小説派に分かれたが、尾崎は私小説派の代表のようである。プロレタリア文学こそ日本最初の「近代文学」だったと平野はいう。
 尾崎「あの日この日」は、文学史の峰々の頂に輝く文学者ではなく、その裾野で朽ち果てた人びとへの鎮魂歌であり、このような作品が可能だったのは、尾崎自身が志賀直哉という頂に生涯憧れつつ、危うく裾野で朽ち果てかかった一人だったからであるという(484頁ほか)。
 ぼくはなぜか数十年前に尾崎の「単線の駅」という小品集(随筆だったか?)を読んだ。井伏鱒二の「荻窪風土記」と前後して読んで、両方ともその淡々とした記述が気に入った記憶がある。ただし、豆豆先生2019年7月26日付によると、「単線の駅」はその頃断捨離してしまったようだ。そんな老境に達するまでの尾崎の前半生もぜひ知りたくなった。
 
 上に列挙した本は平野の紹介が面白そうだったので読んでみたくなったのだが、平野の紹介、評価にもかかわらず、北原武夫、林房雄などは今さらもういいだろうと思う。
 平野が旧制高校で本多秋五と同級生だったこと、出版社の校正係などをしながら生活していたこと、召集された高見順の代わりに作品集を編集したこと、プロレタリア派から転向後は大政翼賛会の情報局嘱託として日本文学報国会創設にかかわったこと、同会文化部長に岸田国士が就任したのは軍人・官僚に文学統制をさせないために、河上徹太郎が一縷の望みをかけて岸田を防波堤にしようとしたこと(416頁。岸田の部下にはぼくが大学でフランス語を習った小場瀬卓三さんの名前もあった424頁)、中里介山はただ一人入会を拒否したこと(429頁、どんな理由だったのか?)、戦後平野が埴谷雄高と再会したのは本郷の白十字だったこと(466頁。ぼくの先生は東大時代に白十字のウェイトレスに恋したことがあったと聞いた)、などなど平野の回顧談も含めて、これまで文学史上の人物として名前と代表作しか知らなかった作家の生身の姿を知ることができた。

 この本の中の文章で、ぼくの心に響いたのは次のような中村光夫の一文だった。昭和17年に「文学界」が主催した「近代の超克」座談会のために中村が提出した討論用資料の中の文章である。
 「いはば当時(開国時?)の西欧はあたかも19世紀後半に実用化された科学文明によって我国を威嚇し眩惑した。当時の西洋文明の移入とは極言すればその根本において機械の輸入とこれを運転する技術の修得にすぎなかった」。「出来合ひの知識をあまりむやみに詰め込まれれば、僕等の頭脳はそれだけ自分で物を考へる能力を喪はざるを得ない」と中村は書いている(447~8頁)。
 前半部分は今は措くとして、後半部分にぼくは強く共感した。これはそのままわが国の法律学にも当てはまるのではないか。20世紀後半、21世紀の法律家すべてがそうだとは言わないにしても、その人自身の頭で何を考えているのか理解できない場合がある。
 「下手の考え休むに似たり」ともいうが、やはり「学びて思わざれば則ち罔し」で、最後は自分の頭で考えるしかない。

 2024年10月12日 記

 ※ きょうで「豆豆研究室」のトータル訪問数が100万人を突破した。1,000,429 UU とある。いまだに「UU」というのが何のことは分かっていないのだが、延べで100万人以上の人が「豆豆研究室」を訪れてくださったと理解している。若い頃に雑誌編集者として紙媒体の出版に携わったものとしては100万人というのは信じがたい数字である。なお、トータル閲覧数は 2,250,645 PV となっている。
 最近は研究らしいことは何もしていないので、「研究室」という看板は下ろそうかと思っている。しかし、次は何という名前がよいか、どうやったらブログ名を変更できるのかも分からないので、しばらくはこのまま羊頭狗肉でいくしかない。

映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」

2024年10月10日 | 映画
 
 昨日10月9日の午後、13時~15時まで、映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」(2016年、アメリカ)をNHK-BS で見た。偶然やっていたので見たのだが、なかなか良かった。

 トランボは、第2次世界大戦後の米ソ冷戦下にアメリカでマッカシーによる赤狩りの嵐が吹き荒れていた頃、「アカ」と烙印を押されてハリウッドを追放された脚本家、作家である。
 ぼくは、トランボの名前を「ジョニーは戦場に行った」という映画と書籍で知った。
 戦争で四肢を失った帰還兵の物語で、ぼくはてっきり第2次世界大戦が舞台だと思っていたが、映画上映を機に出版された原作(角川文庫、1971年、下の写真)の後書によると、原書の出版は1939年で、第1次世界大戦が舞台だった。第2次世界大戦へのアメリカの参戦とともに禁書とされ、1945年の戦勝で一時出版が許されたが、マッカーシーの赤狩りで再び禁書とされたという。トランボは「戦時中は禁書となり、戦後出版できる」ということは私にとって喜びではないと述べている(286~7頁)。
 なお、角川文庫ではトランボの名前を「ドルトン」と表記していて、ぼくも「ドルトン」になじんでいるが最近は「ダルトン」と呼ぶらしい。

       

 さて、映画「トランボ」は、そのマッカーシーの赤狩り旋風がハリウッドを覆っていた頃のハリウッドの映画産業界を舞台に展開する。
 リベラル派と目された監督、脚本家、俳優らが次々と議会に召喚され、「お前は共産党員だったか否か」と踏み絵を強要される。党員だったと答えれば、「他に誰が党員だったか」と追及される。同僚の中にはハリウッドで仕事を失うことを恐れて仲間を売ってしまう裏切り者もでるが、トランボは議会での証言を最後まで拒否したため議会侮辱罪で数か月間刑務所に収監される。刑務所では「アカ」の白人インテリとして嫌われ、重労働を課され、牢名主のような黒人受刑者からの嫌がらせを受ける。出所後も隣の住人からプールに汚物を投げ込まれたりする。
 トランボは、売れっ子の脚本家だったので経済的には裕福だったようで、郊外のプールつき住宅に妻(ダイアン・レイン)と3人の子どもと住んでいて、その裕福な生活ぶりが印象的だった。「アカ」といってもアメリカの「アカ」は日本と大分雰囲気が違う。

 ハリウッド映画産業界には「アカ」のブラックリストが出回っていて、そこに名前のある者はハリウッドでは仕事ができなかった。出所後のトランボもハリウッドでは脚本書きの仕事にありつくことができず、三流の映画会社と契約して、様々な仮名で大衆映画の脚本を書いては生活費を稼いでいた。やがて、彼の才能を見込んだハリウッドの製作者が、ハリウッド映画のために匿名で脚本を書くことを依頼してくる。
 この時に書いたのが「ローマの休日」の脚本だった。手元にある “Classics Movies Collection” DVD版の「ローマの休日」を見ると、原作「イアン・マクラレン・ハンター、ダルトン・トランボ」、脚本がハンターと「ジョン・ダイトン」(実在の人物なのか?)、 制作と監督がウィリアム・ワイラーで、1953年公開とある。「ローマの休日」はぼくの大好きな映画の一つで、トランボの脚本であることは知っていたが、彼がハリウッドで復権するまでは匿名(ハンター名義)とされていた。
 昨日見た映画では、トランボが最初に提案した原題は「王女と無骨者」!だったというが、制作者の一言で却下され、「ローマの休日」“Roman Holiday” に変更されたという。「王女と無骨者」では歴史に残らなかったかもしれない。「ローマの休日」はアカデミー賞の脚本賞だか原案賞だかを受賞したが、トロフィーにはハンターの名前が刻印されている。トランボは受賞自体は喜んだが、トロフィーにはまったく執着しなかった。

 その後も、トランボはロバート・リッチという仮名で発表した「黒い牡牛」(1956年公開)でもアカデミー賞(原案賞)をとっている。映画では、トランボがタイプライターに向かって書いているのが「脚本」なのか「原案」なのかは分からなかった。ちなみにトランボ死亡時の死亡記事では彼の肩書は「映画台本作家」となっている(後掲)。「台本」と「脚本」もどこが違うのか?
 その頃(1950年代末)までは、なおハリウッドでは「アカ」の「ブラックリスト」が存在するとされていて、そのリストに載っている人間はハリウッドの大手映画会社からは締め出されていたのだが、当時まだ若手だが人気俳優だったカーク・ダグラスがトランボを訪ねてきて、彼が制作、主演する「スパルタカス」の脚本の執筆を依頼する。そして彼は、完成したフィルムのクレジットに脚本としてトランボの実名を明記した(1960年公開)。
 ハリウッドに隠然たる影響力を持った元女優(ヘレン・ミレンが嫌味な老女の役を演じていたが、モデルは誰か?)から横やりが入るが、ダグラスは西部魂(?)ではねのける。
 さらに、オットー・プレミンジャー監督がトランボを訪れて、「栄光への脱出」の脚本を依頼する。これも実名での公開だった(1961年公開)。映画を鑑賞した J・F・ケネディが激賞したのは「スパルタカス」だったか「栄光への脱出」だったか。もうこの頃には、赤狩りの勢いは衰えていて、本当に「ブラックリスト」などが存在しているのかも怪しくなっていたらしい。
 赤狩りの「ブラックリスト」で、ぼくは今読んでいる平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社)のプロレタリア文学弾圧(小林多喜二拷問死)時代の日本の文壇状況を思い出した。太平洋戦争勃発時に情報局嘱託の地位にあった平野は、情報局課長の机上にそのような「ブラックリスト」が置かれているのを目撃したと証言している(369頁)。密告などに基いてある右翼作家が、特定の作家、評論家を陥れるために作成したという。 

 こうしてハリウッド映画界に実名で復帰を果たしたところで、映画「トランボ」は終わるが、映画には出てこなかったが、その後も自作の「ジョニーは戦場に行った」(1973年)などの脚本を書いた。
 この映画は、マッカ―シーによる議会での赤狩りや、それに同調したハリウッドの映画産業界を相手に戦う反マッカーシズムの闘士としてのトランボだけでなく、友人同士の友情と裏切りや、「仕事の邪魔をするな!」と愛娘を怒鳴って彼女の16歳の誕生日パーティに顔も出さないで、バスタブに浸かってタイプを打っているなど家庭内でのトランボの姿も描かれる。家族を大事にすると公言していたトランボにしてこの態度である(後には改心したようだが・・・)。
 今日の狂信的なトランプ支持者にまで至る戦後アメリカの暗黒面を強く印象づける映画だった。
 
 なお、「ジョニーは・・・」(角川文庫)に挟んであった死亡記事によると(紙名不詳1976年9月16日付)、トランボは1976年9月10日に70歳で亡くなった。映画のエンド・ロール(?)の中にも出ていた。

 2024年10月10日 記
 ※ 快晴だった60年前の1964年10月10日(土)の東京と違って、今日の東京は朝から時おりわずかに薄日が射すだけのどんよりとした曇り空である。10月10日は特異日(統計上晴れの日が有意に多い日)と言われていたが、今年は外れたようだ。

平野謙「昭和文学私論」

2024年10月06日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年、1977年)を読んでいる。

 川本三郎さんの講演会をきっかけに永井荷風に関する本を何冊か読んだが、どうしても荷風という人物がぼくの中で納まりが悪い。
 先日別件で物置の中を漁っていたら、断捨離を免れて残っていた平野謙のこの本が目にとまった。ほとんど読んだ形跡はなかった。とくに荷風も登場する昭和初期の部分はまったく読んでいなかった。荷風の部分だけを読もうと思ったが、せっかくなので冒頭の横光利一から始まる第1章「昭和初年代の潮流」までを読んだ。
 旧制中学時代から文学青年で、文学雑誌を何種類も定期購読していた著者自身の読書遍歴を披歴しながら、昭和の各時代を象徴する作家や作品、関係事件を回顧する。

 昭和初期の時代について、平野は、円本ブームという社会現象よりも「文壇」が「文学者集団」から「文学サロン」に変質していったことを特徴として指摘する。
 当時の「文学サロン」は知らないが、昨今の「文学サロン」というものの雰囲気は、筒井康隆「文学部唯野教授」、映画「騙し絵の牙」などを読んだり見たりしたぼくにも了解できる。数日前にどこかのテレビ番組で北方謙三を特集していたが、その中で直木賞発表会か何かのパーティーの場面があった。選考委員の浅田次郎の隣りの席に元委員の北方がふんぞり返って座っていると、大沢在昌が近寄ってきて「委員でもないのに何を偉そうな顔して座ってんだ」と因縁をつけて笑っていた。次の場面では川上未映子と嬉しそうに立ち話をしていた。あれが「文学(?)サロン」なのだろう。
 あんな「文学サロン」が昭和初期にもう成立していたのだろうか。あれでは、荷風が「文士」や「文壇」を忌み嫌う気持ちがよく分かる。

 無駄話はさておいて、平野の荷風論である。
 荷風は、谷崎潤一郎のデビュー作「刺青」を三田文学の文芸評で激賞したという。この雑誌を買った谷崎は、両手をぶるぶる震わせながら神保町の電車通り(!)を歩きながら読んだという。明治43、4年のことである。谷崎はこれで確実に文壇に出られると思ったという(72頁)。 
 谷崎には、荷風と自分を比較した随筆があるそうだ(「雪後庵夜話」所収)。荷風にならって自分も結婚してはならないと一時は決意した谷崎だったが、それを実行できなかった理由を分析した内容である。その理由として谷崎は、荷風のような独身、孤立主義を貫くためには豊かな資産が必要だが、自分には養うべき両親や幼い弟妹があり、荷風のような「放縦な性生活」を営むには制約が多かったこと、自分はフェミニストで恋愛に関してはファナティックだが、荷風は常に女性をみおろし、玩具物視するきらいがあること、などを挙げているという(74、5頁)。
 谷崎の小説は何も読んでいないので判断できないが、荷風については納得できる。

 荷風の女性関係について、平野は秋庭太郎「考証永井荷風」に依拠して論ずる。大震災から昭和改元までの数年間に発表された荷風の随筆考証(という文人趣味)を「昔の美人が皺の目立った顔に白粉を塗っているような感じ」で、鴎外の行った考証に遠く及ばないと評した正宗白鳥の言葉に激怒し、また、山形ホテルのボーイを怒鳴りつけ、タイガーに3時間居座り女を虐待した云々という「文藝春秋」掲載のゴシップに怒って、「濹東綺譚」のなかで文藝春秋に一矢報いたりしたが、昭和5年頃の荷風はもはや過去の人であったと平野は書く(77、8頁)。かつて荷風に激賞されて文壇デビューした谷崎と荷風の地位は昭和6、7年頃には逆転していて、谷崎が書いた荷風「つゆのあとさき」(昭和6年)を褒める書評を、平野は「過褒」であるという(78頁)。

 「濹東綺譚」についても、平野は荷風の錯誤を指摘する。すなわち、荷風はこの小説の作者を「大江匡」として、作中人物の作家種田某が「失踪」という小説を執筆するために玉の井を探索すると設定しておきながら、荷風自身がしゃしゃり出て、自分が小説で苦心するのは背景となる場所の選定であるとか、実はそれが書いてみたいためにこの一編(「濹東綺譚」)の筆を執ったなどと書いていることを指摘する。
 平野は、これらを私小説的手法のゆきすぎによる手法上の破綻と断罪する(83頁)。60歳近い老人が海千山千の私娼に言い寄られ、彼女の真情を弄ぶに忍びないのでそっと身を引くというストーリーを「いまどき阿呆らしい話」とまでいい、この小説が一般読者に受けたのは、日中戦争勃発前の悪気流にたいする作者と読者の狎れあいによるものだったと解釈する(84頁)。
 ぼくは大江匡が荷風本人であり、「濹東綺譚」には「失踪」の作者種田某と大江匡と荷風自身という三人の「作者」が登場することに何の違和感も感じなかった。といより大江匡に存在感がなさ過ぎて、作者荷風(時々大江匡)と荷風の筆に翻弄される種田某の二人しか印象に残らなかった。それより、ぼくには「濹東綺譚」最終章の大江匡(荷風)の「身の引き方」は、ただの男というか小説家の狡さにしか感じられなかった。

 幸徳秋水の大逆事件に対する荷風の(「花火」に書かれた)真情についても、平野は疑問視する。大岡昇平は「花火」を、事件にかこつけて自己の無為を正当化したものであり、その後治安維持法の犠牲者には何の同情も示さなかった荷風は花柳界の他に自己の表現対象を見い出せなかったのだと批判したそうだ。平野は、その後の荷風を私娼とそのヒモに月給を与えて「実演」に興ずるような性的デカダンスに陥っていったと評する(~87頁)。
 荷風が当時の政府や軍部に協力、迎合しなかったことは間違いないが、さらに治安維持法の被害者に対する同情を示すことまで要求できるだろうか。ぼくは、その筋のお達しによりすべての「男は糞色服にゲートル」姿になったと、国民服のカーキ色のことを「クソ;色服!」と言い放って(「断腸亭日乗」昭和18年3月10日。半藤一利「荷風さんの昭和」172頁)、政府や軍部だけでなく国民服にゲートルなど巻いた一般国民をも冷ややかに見る荷風の眼差しも忘れられない。

 平野謙のこの本は、ぼくが生れ育った昭和の時代をふりかえる一書として、敗戦の昭和20年に至る残りの第2章以下も読むことにした。断捨離しないでおいてよかった。

 2024年10月6日 記

G・シムノン「名探偵エミールの冒険」

2024年10月04日 | 本と雑誌
 
 ジョルジュ・シムノン「名探偵エミールの冒険1 ドーヴィルの花売り娘」(読売新聞社、1998年、長島良三訳)を図書館で借りてきて読んだ。
 シムノンは久しぶり、メグレ警部ものではないシムノンはさらに久しぶりである。
 「名探偵エミールの冒険」シリーズは全4巻で、すべて長島良三訳。原書は1943年の刊行で14作品を収めた1冊本だったようだ(G・Simenon,“ Les Dossiers de l'Agence O ”,GALLIMARD,1943)。

 第1巻には、「エミールの小さなオフィス」「掘立て小屋の首吊り人」「入り江の三艘の船」「ドーヴィルの花売り娘」の4つの短編が入っている。かつてメグレ警部の部下の刑事だったトランスが(名目上は)所長を務める私立探偵事務所の実質的経営者にして名探偵のエミールが主人公。
 メグレものの気だるいパリの街並みや気候の描写を期待して第1話「エミールの小さなオフィス」から読み始めたが、期待はずれだった。犯罪は宝石強盗で、犯人はまるで怪盗ルパンのような名人芸、対するエミールはまるで名探偵ホームズのような名推理と大活躍、といった話なのである。
 「ドーヴィルの花売り娘」は表題になっているくらいだから一番良いのかと思ったが、これもタネ明かしにがっかりした。
 
     

 せっかく図書館で全巻借りてきたのだから、せめて各巻1話だけは読んでから返却することにした。各巻から1つ選ぶなら、表題になっている作品がいいだろう。
 第3巻は「丸裸の男」を選んだ。警察による売春バーの一斉摘発でホームレスのような姿の男が警察署に拘引されて来た。そして丸裸かで身体検査を受ける。この男、実はパリでも有名な弁護士だったのだが、たまたま署内で見かけたトランスに助けを求める。なぜ彼はそんなのところで捕まることになったのか、といった導入から話は始まる。
 「巨匠シムノンの知られざる野心作」と表紙の帯(その一部分が切りとって扉に貼りつけてあった)の惹句は言うのだが、残念ながらぼくにはそうは思えなかった。
 
 第4巻は「O探偵事務所の恐喝」。表題作であり、第4巻そしてシリーズ全体の最終作である(全1巻の原書でも14作の最後に収録されていた)。O探偵事務所を訪ねてきた依頼者とエミールとの相談内容が外部に漏れてしまい、これをネタに事務所が恐喝される。事務所の信用が失墜しかねない事態に陥ってしまうのだが、この危機を救ってくれた事務所の秘書嬢とエミールが結ばれる(らしい)という結末でシリーズは終わる。表紙の帯には「濃厚に漂うパリのムードと繊細巧緻な人間描写」とあるが、そうだったかな・・・?
 第4巻巻末の訳者解説によると、シムノンは第2次大戦のパリ解放後にアメリカに移住し(なぜか?)、英語で読んだダシール・ハメットの私立探偵ものに影響を受けて、このシリーズを書いたという。カリフォルニアの乾いた風土と、パリのどんよりと雲った空気は違うだろう、どうせなら舞台もカリフォルニアにしてしまえばよかったものを、と思う。

 最後に第2巻「老婦人クラブ」が残った。この巻は題名からして読む気になれないのだが、読んだほうがいいだろうかと読む前の段階からすでに悩ましい。読まないことになるかな・・・。

 40年以上昔に、白いアート紙のカバーがかかった集英社版「シムノン選集」全4巻(だったか)を古本屋で見つけて買ったことがあった。この時もメグレものの雰囲気を期待したのだったが、第1巻「雪は汚れていた」を読んだが、メグレ警部のようには面白くなかったので(内容はまったく覚えていない)、それ以降の巻は読むのをやめ、結局4冊まとめて古本屋に売ったか捨ててしまった。
 シムノンは生涯で2、300冊の小説を書いたというから(第4巻の訳者解説によれば、メグレもの84編、その他の中編200冊、短編は1000編以上も書いたという!)、中には凡作、駄作も多かっただろう。
 ぼくはメグレもの以外のシムノンは好きになれなさそうだ。

 2024年10月4日 記

横浜を歩いてきた(2024年10月2日)

2024年10月03日 | 東京を歩く
 
 2024年10月2日(水)、午前11時すぎ、みなとみらい線元町・中華街駅に到着。
 家内の姪の娘さんと待ち合わせて、一緒に横浜を散歩する。本当は秋めいてきた街路樹を眺めながら横浜の日本大通り、馬車道あたりを歩く予定だったのだが、前日(10月1日)の涼しさとは一転して、朝から30℃近い暑さとなってしまった。しかし半年前から予定していたので、仕方ない。雨よりはずっとましである(と負け惜しみ)。

 ランチまで時間があるので、山下公園をぶらぶら歩く(下の写真)。日影がなくて暑い。
 本当は開港記念館、横浜税関庁舎(展示室)、神奈川県庁舎(展望台)あたりまで歩く予定だったが、暑いので中止。
 山下公園を出て、ホテル・ニューグランド脇を通って朝陽門から中華街に入り、そのまま11時半の営業開始とほぼ同時に重慶飯店本館に直行する。横浜中華街は頻繁に行くところではないので不案内なのだが、親の代から横浜に住んでいる友人のおすすめで、昔からいつも食事は「重慶飯店」か「四五六」(すごろ)で食べる(荷風なら飯す)ことにしている。美味しくて値段も手ごろである。
   

 13時前にランチを終えて、中華街を歩く。平日にもかかわらずそこそこの人出だったが、休日のようなごった返すほどの人混みではなかった。自粛が徹底したのか、以前のような客引きや甘栗の押売りはいなくなっていた。
 中華街を抜け、高速道の下を左折して、元町商店街を歩き、適当な交差点を右折して山手方面へ向かう。途中で道に迷ってかなり遠回りしたが、ようやくフェリス女学院前に出た。元町公園、外国人墓地を経由して、港の見える丘公園に至る。暑さでへたった。なんども「昨日だったら涼しくてよかったのに」と愚痴が出る。外国人墓地の前では大規模なマンション(?)の建設中。こうして山手の歴史的景観も少しずつ失われていく。

   

 しばし横浜港の風景を眺めるが、ここも日影がほとんどない(上の写真)。早々に退散することにして、フランス領事館跡を通り、ダラダラ坂を下り、元町・中華街駅に至り、元町通りのコメダ珈琲店に憩ふ(荷風のまね)。ようやく足を休ませることができる。
 エアコンが効いていて涼しいのも助かる。珈琲ゼリーにソフトクリームが乗ったやつを注文、何という名前だったか・・・。分量が多くて一人では食べきれなかった。
 午後4時すぎ、少し早いがラッシュで混雑する前の電車で帰りたいので、元町駅に戻る。幸い始発電車に座ることができ、帰宅の途に就く。向かい側の座席にはフェリスらしき女生徒が数人並んで座っていて、賢そうな顔をした子が文庫本を読んでいた(荷風は何で女学生を忌み嫌ったのだろう)。60年前のぼくもバスや電車の中ではいつも本を読んでいたが、こんな風に見えただろうか。
 家に戻ると、万歩計は1万5000歩をこえていた。足が疲れた。

 2024年10月3日 記
 

秋庭太郎「永井荷風伝」、半藤一利「荷風さんの昭和」

2024年09月30日 | 本と雑誌
 
 秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂書店、1976年)、半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫、2012年、単行本は1994年)を読んだ。
 秋庭の本は、荷風伝の第一人者による評伝で、かなり詳細に荷風の人生を辿っている。荷風とは絶縁した弟威三郎側からの情報提供があったと思われる記述も散見される。生前の荷風は威三郎と和解することはなかったが、威三郎は荷風の葬儀委員長を務め、墓を永井家の墓所内に建立して弔ったことなどが紹介されている。秋庭は日大の図書館長を務めた人物で、威三郎は日大農学部の教授だったというから、日大で接点があったのかもしれない。

 ぼくが本書でいちばん興味をもったのは、荷風の死後に起った佐藤春夫と中村光夫の論争の紹介であった。佐藤春夫は荷風の慶応義塾教授時代の教え子(第1期生)で、偏奇館への出入り自由が許されるほど荷風の寵愛を受けていたという。ところが日中戦争に従軍作家として同行するなどその戦争協力の言動が荷風の怒りを買って破門された。
 その佐藤が「小説永井荷風伝」を発表したところ、中村がこれを痛罵したのである。出版社の商魂にのって「小説」などと冠したことが怪しからん、評伝なら「評伝」で行くべきだ、そもそも「小説」と銘うつだけの創作性がないという趣旨だったらしい。
 これに対して、佐藤は、「荷風=エディプス・コンプレックス説」を打ち出したところが佐藤の創見であり、それが「小説」と銘うった由来であるなどと応酬した。中村は、荷風は母の危篤臨終に際しても会いに行くことなく、他方で毎年元旦には亡父の墓参りをしている、そのような荷風の生涯をエディプス・コンプレックスで説明するのは危険であると反論した。これに対して佐藤は、エディプス・コンプレックスは当人が意識しているわけではない、彼の作品に母親のことが書かれていないからといってコンプレックスがなかった証拠にはならないなどと反論している(554頁~)。
 アメリカ、フランス留学中から始まり、最晩年の玉の井通いまで変わらなかった荷風の女性関係(買春)、常人の想像を絶する色欲を思うと、エディプス・コンプレックス説もぼくには了解できない仮説ではない。むしろ荷風に好意的な仮説ではないか。佐藤の荷風伝も読んでみたくなった。

 荷風をめぐっては、もう一つ、平野謙と江藤淳との論争があったことも紹介されている。こちらは、荷風の死にざまを出発点とした論争だったらしい。
 荷風は昭和34年4月30日の未明に吐血し、背広姿のまま万年床にうつ伏せで倒れているのを、朝になってから通いのお手伝いさんに発見され、駆けつけた医師が胃潰瘍の吐血による窒息死と診断した。検死直後の写真がアサヒグラフ誌に掲載されたという(545頁)。秋庭の本書には、亡くなった際に荷風が来ていた背広が衣紋掛けに吊るされた写真が載っているが、上着の襟や前身頃のあたりに(おそらく吐血をふき取った)跡が残って白くなっているのが分かる(510頁と511頁の間)。
 川端康成が「うつぶせの亡骸の写真」に定着された死と表現した(らしい)荷風の死に方に平野かショックを受けたと書いた。これに対して江藤は、「あの醜悪な屍骸に詠嘆するとは何たることか・・・私にはそれは一個の屍骸にすぎない」といい、さらに荷風を「芸術家」としてではなく「一個の年金生活者(ランティエとルビが振ってある)、ないしは個人主義者として規定しようとした」評論を書いた(553頁~)。荷風の死に際しては、死亡それ自体ではなく、その死に方も話題になった様子である。荷風は亡くなる2か月前に浅草で発病したが、その後亡くなるまで一度も医師の診察を受けていない。秋庭はこれを「覚悟の死」ではなかったかと推測する(544頁)。ぼくもそう思う。
 
 なお、余談ながら、戦後になって、荷風の「四畳半襖の下張」が流通して荷風も警察の取調べを受けたことが報じられた(朝日新聞昭和23年5月7日付)。これが神保町すずらん通りの露天商によって売り買いされていたという(509頁)。
 すずらん通りには、三省堂書店からはじまって東京堂書店、東方書店、内山書店などの書店が並び、出口近くには喫茶店サボウルがあった。社会科学系の紀要類のバックナンバーがそろっていた東邦書房という古本屋もあった。バブル前の1980年代にはまだ映画館も1軒残っていたが、その後地上げにあって解体されてしまった。あのすずらん通りに、戦後は露店の本屋が並んでいたのだ。ぼくは野坂昭如編集の「話の特集」(だったか「面白半分」)に掲載された「四畳半襖の・・・」を入手したが、面白くなかった。友人に貸したら返ってこなかったが、あまり惜しいとも思わなかった。

 もう1冊の本、半藤一利「荷風さんの昭和」は、前に読んだ「荷風さんの戦後」より以前に出版された本だが、「荷風さんの戦後」と同様に、荷風に対して距離を置いた位置から、冷やかな眼で観察している。
 荷風は「処女を犯したことなく、道ならぬ恋をしたこともない」旨を「日乗」で自慢(言い訳?)しているが(昭和3年12月31日付)、本間雅晴の妻(白鳩銀子、別名田村智子)と関係を持っており、この言葉には嘘があると半藤は指摘する(88頁)。ただし彼女は多情奔放な女性だったらしいから、荷風は彼女を「素人」とは考えなかったのかもしれない。
 そう言えば、荷風は「日乗」の中で、半藤の義父である松岡譲が夏目鏡子から聞き書きした「漱石の思い出」が漱石の精神病などにまで言及したことを厳しく批判していた。半藤と荷風とはそんな因縁もあったのだ。
 ただし半藤は、荷風の「日乗」の中に見られる社会批判(とくに政府や軍部軍人批判)の鋭さ、世界情勢を見きわめる慧眼ぶりを随所で指摘する。そして、荷風は新聞雑誌を一切読まなかったという「日乗」の記述に疑問を呈している。ぼくも「摘録」を読んだだけだが、荷風はけっこう新聞や雑誌に目を通していたのではないかと推測した。当時の新聞は大本営発表の垂れ流しだったから、「改造」や「世界文化」「日本評論」「セルパン」などの雑誌を読んでいないと、友人からの伝聞や世間の噂話だけではなかなかあそこまでの観察、記述は難しかったのではないかと思う。

 この本にも荷風の最期に関する記述がある。
 半藤は、荷風死去の報を受けて真っ先に荷風宅を訪れた1人だったという。当時半藤は創刊間もない週刊文春の記者で、検視がすんだ直後に駆けつけた彼は、納棺の一部始終をまじかで目撃した。そして週刊文春の昭和34年5月18日号に記事を書いている。その記事では、警察が準備した棺桶が小さかったため長身の荷風の遺体が収まらず、葬儀屋の手で「荷風の脚は折れんばかりにまげられた」という観察が記されている(11頁)。
 先日川本三郎さんの講演会を聞きに行った時も、フロアからの質問者が「荷風はカツ丼のどんぶりに頭を突っ込んで死んでいたというのは本当か」と質問し、川本さんがそんなことはないと回答していた。秋庭の本によると荷風は死の前日まで八幡駅前の大黒屋で菊正宗1本とカツ丼を食べた(飯す)というから、その辺りからカツ丼伝説が生まれたのだろう。その講演会の帰り道で、一緒に聞きに行った旧友が、「棺桶に収まらなかったので、荷風の脚を折ったという話だ」と言っていたが、カツ丼伝説よりは真実に近い話だった。友人も半藤の本を読んでいたのかもしれない。

 この本でぼくがもっとも興味をもったのは、荷風と佐藤春夫の関係を語った個所だった。半藤は雑誌記者としては荷風と交流はなかったようだが(荷風の嫌悪する菊池寛、文藝春秋の記者だったから当然か)、佐藤とは親しく接する機会があり、荷風との関係を直接聞いている。
 荷風から破門された佐藤本人が破門の理由を語った個所がある(234~6頁)。軍人嫌いの荷風は戦争協力を一切拒否して「戯作者」として暮らしたが、慶応義塾教授時代の教え子だった佐藤が従軍作家になったり、右翼壮士風の姿で皇道文学を吹聴することなどを苦々しく思い、「日乗」にも苦言を記している。
 佐藤が戦後に発表した「小説永井荷風伝」によると、2人の関係破綻が決定的になったのは、戦時中の時事新報で、佐藤が荷風を評して「祖国の風土を愛し国語の純化を努むる荷風の如きは蓋し規格外の愛国者か」と書いたことにあったらしい。荷風がもっとも嫌う「愛国者」などと評されたことに腹を立てたのであると佐藤は回顧している(235頁)。時局に無関心を装いながら、開戦当初から日中戦における日本軍の敗北を予見するなど、荷風の戦局の見立てはきわめて正確である(236頁)。
 ぼくが読んだ「摘録・断腸亭日乗(上下)」では、荷風は「愛国者」とか「非国民」といった言葉を一切用いていないかったと思う。奴隷の言葉としても「文学によって国に報いる」式のことも一切書いていない。誰かが引用した宅孝二の回想の中に、自分や荷風や菅原夫妻の集まりを「非国民」の集まりと書いているのを見たくらいである。佐藤の主観では、軍部に睨まれている恩師の風よけになってやろうくらいのつもりだったかもしれないが、「愛国者」呼ばわりしたのでは荷風の逆鱗に触れるのもやむを得ないだろう。

 佐藤は半藤に向かって、荷風は親しかった誰に対しても「愛のはてに憎悪しかみない」寂しい人でしたと評したという(同頁)。弟威三郎、従弟生杵屋五叟らの親族から始まって、平井程一、小西茂也、菅原明朗夫妻、そして佐藤春夫に至るまで、一時は親しかったり世話になったりした周囲の人々と最後には確執を生ずることになったあれこれのエピソードが思い浮かぶ。
 詩人としての才能を荷風に認められたかつての愛弟子によるうえの言葉は、ぼくの腑に落ちる評言であった。佐藤は荷風を「偏狂人」と書いているが(同頁)、戦争協力は論外としても、ややこしい師匠に応接しなければならなかった弟子の側にも言い分はあっただろう。

 2024年9月30日 記

永井荷風「断腸亭日乗(一)」

2024年09月29日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「断腸亭日乗(一)大正6ー14年」(岩波文庫、2024年)を図書館で借りてきたが、同時に借りた吉野俊彦「断腸亭の経済学」(NHK出版)を読み始めたら面白くて、「日乗(一)」のほうは読まないうちに返却期限が来てしまった。
 この7月以来、これまでに川本三郎さんの「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)その他を読み、吉野「断腸亭日乗の経済学」を読んで、「観察者=見る人」荷風の様々な側面が見えてきた。

 磯田光一編「摘録・断腸亭日乗(上・下)」では省略された個所に何が書いてあるのか気にはなるが、今後毎月1冊づつ刊行されるらしい岩波文庫版の「日乗」の第2巻以下を全文を通読する気力はない。
 第1巻については、巻末の中島国彦「総解説」だけを読んで、ひとまず返却することにした。 
 第2巻以降は昭和に入るが、昭和の日記は、玉の井や銀座、浅草通いや、家計簿的な記述の部分は読みとばして、世相というか社会批判(軍人官僚警官嫌い、菊池寛田舎漢嫌い)に目を向けて荷風の昭和史を眺めることにしよう。
 それと、日付けの上に付された ○ 印、● 印に、今回の文庫版の校注者たちがどのような注釈をつけるのかも興味がある。吉野によれば、その日に性交渉があった場合が ● 印らしいが。

 形式面では、今回の岩波文庫版は、例の岩波文庫現代表記化の方針に従って随分誌面がすっきりした印象になった。しかし他方では、あの難しい旧字体の漢字に埋まって黒々とした荷風の日記の雰囲気は薄れてしまった。
 10年ほど前にサマセット・モーム「アシェンデン」の新訳(新潮文庫)を買った時には、その誌面がすかすしていたのに驚いた。その後いよいよ小さい文字を読むのが困難になったのに、今回の「日乗」は、そのすっきりしすぎた誌面が荷風らしくないと不満に思う。年寄りは天邪鬼である。
 せっかく行間を広くとった版面(はんずら=振り仮名)になったのだから、どうせならもっとルビをたくさん振ってほしかったが、ルビはほとんどない。荷風の文中に出てくる「購う」に「あがなう」と振り仮名を振った本も、「かう」と振った本もあるから、振り仮名を振るという作業は案外難しいのかもしれない。
 反漢字主義者の山本有三が編集した小学国語教科書で漢字を習いはじめ、中学校の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川龍之介「魔術」で日本の小説に目覚め、しかし中学生になってもルビと注釈が(巻末には読書指導も)ついた偕成社版「少年少女文学全集」で漱石、鴎外などを読んでいた晩生の少年は、老年になっても漢字に苦労している。 

       
 読めない漢字をまたぞろCASIO電子辞書「漢字源」の手書き入力で調べながら読むのは煩わしい。せめて旺文社文庫版の「ふらんす物語」(上の写真)くらいにルビを振ってもらうと助かるのだが。岩波文庫の読者は、あの程度の漢字ならルビなしで読むことができるのだろうか。

 2024年9月28日 記

吉野俊彦「『断腸亭』の経済学」

2024年09月27日 | 本と雑誌
 
 吉野俊彦「『断腸亭』の経済学ーー荷風文学の収支決算」(NHK出版、1999年)を読んだ。
 図書館で借りてきて読み始めたのだが、内容が面白かったので古本屋で探して買ってしまった。送料込みで609円だった。定年退職後は本は増やさない方針なのだが、この本は手元に置いておきたいという思いを抑えられなかった。

 著者は日銀所属のエコノミストだが、鴎外研究などをものした著述家でもあった。しかも著者は、晩年に荷風が暮らした市川の生まれ育ちで、昭和20年代に自宅近くの八幡駅前で何度か荷風を見かけたことがあったという。さらに荷風の疎開先である岡山で勤務した経験から、同地での疎開生活の記述にも地理勘がある。
 そして、「断腸亭日乗」に見られる印税、預貯金、株式・不動産売買などの収支、日用品の価格、交通費から買春、身請けなど女性に要した出費などの詳細な記述の中に荷風の経済観念の鋭さを読み取り、昭和経済の変動をうかがう昭和経済史の第一級の資料として「断腸亭」を読み解いたのが本書である。
 大正・昭和初期、準戦時期、戦時期、戦後期の時系列で書かれているが、各時代の冒頭にその時代の経済情勢の簡潔な記述があり、高校日本史の復習にもなった(131頁金融恐慌、202頁井上デフレなど)。戦後の金融緊急措置例の経過では、戦前の預金が戦後の預金封鎖で紙切れ同然になってしまったといっていた亡父や、終戦後に大学の1か月分の非常勤手当で吉祥寺駅北口から10分、東京女子大近くの売地が買えたのに(買わなかった)という亡母の嘆きを思い出した(386頁)。

 表紙の帯に書かれた「抱いた、書いた、儲けた。」という惹句が、荷風の女性関係、文筆活動、経済生活というまさに本書の内容を要約している。
 <抱いた>について。 
 荷風の女性関係は、基本的に売買春である。著者は、その頻度や費用を「日乗」から丹念に広いあげる。昭和4年5月4日以降の「日乗」の日付欄には「●」や「○」の印がついていることがある(190頁)。岩波版第2期全集の後記にもこの印について詳細な言及があるが、その意味については説明がないという。著者は、これは荷風がその日に性交渉があったことを示す印だろうと推測する。
 荷風が関係を持った女性の氏名と関係をもった期間は荷風自身が「日乗」に列挙しているが(本書520頁以下に一覧あり)、著者は、「日乗」から「○」「●」印をすべて洗い出して、昭和4年(荷風50歳)41回(/年間)から、昭和19年(65歳)28回までを一覧表にしている(192頁)。最後にこの印がついたのは昭和32年3月18日(荷風78歳)の日記の「○」印だった(449頁)。
 そして荷風が一時期妾とした山路さん子や関根うたを身請けした際の代金がともに1000円だったことも日記に記されている(194頁)。荷風が通った玉の井(戦後は小岩や海神にも出没したらしい)などの私娼の料金は、戦時中は一晩30円だったのが(214頁)、終戦後はショート100円、泊まり400円に上昇したとある(373頁)。いずれにしても、印税だけで数億円を稼ぐ年もあった荷風にとっては痛くも痒くもない出費だっただろう。

 <書いた>について。
 荷風が書いたことについては、これまでの荷風関連書でも十分に論じられているが、著者独自の考察として、荷風の出版物の定価や部数が詳しく記録されている点がある(後の<儲けた>と重複する)。例えば大正末期から昭和初期にかけての改造社版および春陽堂版円本の対比(141、152頁)、岩波文庫に収録された荷風作品の増刷部数の一覧表などがついている(270頁)。
 「日乗」に見られる荷風の斜に構えた世相批判の指摘も随所にある。関東大震災を、それ以前の(第一次大戦)戦後の浮かれた世相に対する「天罰」であると書き(108頁)、自分の春陽堂版全集が売れるのは「世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠」などと書いている(116頁)。戦時中に軍部が戦地の兵士の慰問用として「腕くらべ」の増刷を要求してきたことを荷風は「何等の滑稽ぞ」と記している(296頁)。

 <儲けた>について。 
 経済面では荷風は相当裕福な一生を送ったが、荷風を「ランティエ」とする見方に著者は異論を述べる。ランティエとは年金や預貯金の利息などで仕事もせずに生活できるフランスの富裕層を意味するが、荷風は確かに親から相続した不動産や預貯金、株式などを豊富に持っていた。しかし、荷風の経済基盤は相続した株や不動産の売却益などの不労所得よりも、荷風自身の文筆活動による印税収入によるほうがはるかに大きかったと著者は見る。当初は借地だった「偏奇館」敷地の買取りの経緯などでも、銀行を相手にした荷風の経済感覚の鋭さが指摘される(343頁)。
 とくに昭和初期に起った円本ブームの頃(昭和2年)の日記には、荷風の所得税額は「2万6千円以上」と書いてある(157頁)。この「所得」とは実際の収入から経費を差し引いた金額であり、当時の税務実務では文筆家は収入の50%を経費として控除することが認められていたから、実際の収入は倍の5万円以上あったはずで、その額は現在の貨幣価値に換算すると数億円に上ったという。荷風は相続した余丁町の不動産売却や株への投資などでも儲けているが、その経済基盤はけっして「ランティエ」のようなものではなかった(401頁)。
 ただし、晩年の荷風は文化勲章による年金と、芸術院会員としての俸給が支給されることを楽しみにしており、昭和27年12月16日の文化勲章年金証書受領の記事から、亡くなる1か月前の昭和34年4月2日の「年金45万円受取」まで毎年年金受領の記事があるから(477頁~)、晩年の荷風は「ランティエ」といっても差し支えないだろう。

 そして、本書最終章「荷風とケインズ」では、著者は、恩師中山伊知郎のエッセイを引用する。中山は、経済学者にとどまらず企業家、投資家でもあり巨万の財産を有したケインズと、(当時の作家の中では富裕層とみられた)荷風との共通点を指摘する。それは二人の蓄財の目的である。
 中山によれば、2人の蓄財に共通していた目的は、「いやな仕事をしないための自由」「一切の世間的な付合いを絶って勝手に生活できる自由」の確保であった。そのためには金なしで生きる生活もありうるが、2人はこの自由を得るために金銭的に備えた点で共通するというのである(517頁)。
 著者も中山の説に共感し、荷風が(残高2000万円以上ある)預金通帳を常に持ち歩いていて紛失したり(新聞記事になった)、亡くなった際の枕元にも通帳入りのバッグが置いてあったことを揶揄する意見があったが、これらのエピソードは 荷風の精神的自由を象徴するものであったとして本書を結んでいる。
 
 最後に今回も、miscellaneous な話題をいくつか。
 まず驚いたのは、戦前の荷風が長年住んだ麻布の「偏奇館」に「ペンキ館」とルビが振ってあったことである(15頁)。どこかに荷風自身が、ペンキ塗りの建物なので「ペンキ館」と呼んだことが紹介してあった。「へんき館」だとばかり思っていた。
 つぎに、売春防止法以前の売買春に関して、誰も解説してくれないので分からなかったことを知ることができた。
 売買春が行われる場所である「待合」「料亭」そして「芸者家」(芸者置屋?)を「三業」といい(「自宅」「別宅」の場合もある)、待合は場所を提供するが賄い施設はもたず、食事はすし屋などから出前を取るが、料亭は自前の賄い施設をもっているという違いがあること、芸者を呼ぶ場合には芸者家ではなく検番を経由しなければならないことが説明してあった(85頁)。
 それらの場所にやってくる女性のうち、芸を売るのが芸妓(体を売る場合もある)、体を売るのが娼妓だが、その他にカフェ女給、素人もいた(81頁)。娼妓は、公認されているが性病検査などの義務がある公娼と、非公認の私娼に分かれる。実際には私娼も黙認されていたが、時おり抜打ちの取締り(臨検)があった。「ひかげの花」はそのような私娼がモデルである(229頁)。
 著者の説明で、荷風「濹東綺譚」や「日乗」の背景はかなり理解できた。

 荷風の慧眼ぶりを示す例として、中央公論社版全集刊行の経緯がある。岩波と中公がともに全集刊行の申し込みをして競い合ったが、結局中公での刊行が昭和15年11月に決まり、中公は5万円の手付けを支払っている。驚くのはその契約書で、中公側は刊行開始時期を「昭和20年12月1日以降」と明記しているのである(274頁~)。まるで4年後の昭和20年8月の終戦を見越したような日程である。
 しかも、実際に終戦になった翌日の8月16日に、荷風は中央公論社長の嶋中雄作宛てに手紙を出しており(367頁)、さっそく嶋中は熱海に疎開中の荷風を訪ねている。おそらく全集についての話合いであろう。その後、中公の内紛(林達夫氏が退社した!)、社長の急死などもあったが(428頁)、中公版全集は完結した。
 戦後の荷風は寡作で、見るべき作品もないが、著者はその理由として、心身(色欲)の衰えのほか、「荷風全集」の刊行に集中したことを指摘している。「日乗」の記述も、昭和24年のドッジラインによるインフレの終息以降は経済生活の記述は姿を消し、経済史的資料としての価値は消滅したとする(472頁)。

 戦後になって市川に荷風を訪ねてきたかつての愛妾関根うたへの荷風の対応はきわめて冷淡である(500頁)。これも荷風の「いやな世間と付き合わない自由」の行使なのだろうか。映画「放浪記」のラストに、戦後に売れっ子作家になった林芙美子のもとに金を無心に来る親戚や慈善団体を林が追い返す場面があったが、あのような事情でもあったのだろうか。

 2024年9月27日 記

「小津安二郎は生きている」(NHK・ETV特集)

2024年09月22日 | テレビ&ポップス
 
 夕べ(9月21日、土曜)夜の11時ころからNHK、Eテレ(2ch)で、「生誕120年、没後60年ーー小津安二郎は生きている」という番組をやっていた。チャンネルをカチャカチャしていて気がついて、途中から見た。
 小津の没後60年は2023年だから、去年放送された番組の再放送なのだろうか。12月12日が誕生日にして亡くなった日だから、2024年に入ってからの放映かもしれない。

 平山周吉という大胆なペンネームの作家が、小津と山中貞雄の交流、小津映画にみられる小津の山中に対するオマージュというか追憶を指摘していた。
 「麦秋」の麦は小津の戦友たちの象徴で、この映画が戦死していった戦友たちの追憶であることは、小津が戦地で火野葦平「麦と兵隊」を読んでいたことも含めて誰かが指摘していたのを以前に読んだ。ひょっとすると、平山の指摘だったかもしれない。「麦と兵隊」のことは二本柳寛(ということは小津自身)が画面の中でも語っている。

 平山の創見と思われたのは、「晩春」における「壺」の解釈である。
 父親(笠智衆)と嫁ぐ直前の娘(原節子)が二人で京都旅行をする。そもそも京都を舞台にしたこと、そして龍安寺の石庭を前にして笠が三島雅夫(旧友だったか? その妻が坪内美子だったはず)と語るシーンも山中への追憶だという。駆け出しの頃に山中は龍安寺(xx院、聞き漏らした)で暮らしていた時期があったという。
 父娘が床を並べたその部屋の背景に置かれた壺が数秒間映されるシーンがある。この壺が山中貞雄「丹下左膳 百万両の壺」の壺だと平山は解釈する。デジタルリマスター版(?)の鮮明な画像だったが、この場面の原の寝顔がなまめかしすぎて、これまで安いDVDの粗い画像で見てきた「晩春」のイメージが崩れてしまった。笠の鼾の音もあんなに大きかったとは! 壺は女性器の象徴で、あの場面は近親愛を描いているという誰かの解釈を以前に読んだことがある。その時は、「そこまでの解釈は・・・」と思ったのだが、昨夜の原の表情を見ると、そのような解釈も可能かと思えた。

 「東京物語」のラストシーンで、尾道の笠の家の庭先に咲いていた赤い鶏頭の花が画面前面に置かれていたのも山中への追憶だと言っていたように思うが、その理由は忘れてしまった。※後で調べると、生前の山中が小津の家を訪問した際に、庭先に咲いていた鶏頭を褒めたことの記憶だった。しかも山中の命日は9月17日だというから、昨夜の再放送は山中の追悼番組だったのかもしれない。
 原節子が映画デビューしたのは、山中監督の「河内山宗俊」という映画だったというのも知らなかった。15歳だったという。ヴィム・ベンダース監督が、小津は原を愛していたと語っていたが、小津が原と結婚しなかったのも、原を見い出した山中との友情を優先したからだろうか。

 2024年9月22日 記

紀田順一郎「日記の虚実」

2024年09月16日 | 本と雑誌
 
 紀田順一郎「日記の虚実」(ちくま文庫、1995年。元は新潮社、1988年)を読んだ。
 川本三郎「ミステリと東京」の紀田の紹介欄でこの本の存在を知って、さっそく図書館で借りてきた。永井荷風「断腸亭日乗」が取り上げられているのではないかと期待したのだが、期待通り載っていた。しかもかなり荷風に対して辛口の評価である。荷風「日乗」を客観的に読むうえでも役立ちそうである。

 紀田によれば、本書が刊行された1988年頃、わが出版界で「日記ブーム」が起きたという。一般に作家の日記は文学評論の対象として作品論が展開されてきたが、紀田は、日記は「日記論」ないし「日記研究」の視点から検討する必要があるとして、本書を書いたという(263頁~、296頁)。
 作者はなぜ日記を書いたのか(動機)、日記に何を書いたのか(内容)、その日記は記録なのか、創作なのか、内容の真偽はどのように確定するかなど、「日記」は「日記」という形態の特殊性から解読する必要がある。紀田は、日記を書く動機として、わが国の学校での日記教育(大宅壮一「青春日記」など)、海外生活の経験(荷風「日乗」など)、人生の展開、転機など(徳富蘆花、竹久夢二の日記など)があるという。
 最初は荷風「日乗」の章だけを読むつもりだったが、面白かったのでついついほぼ全部を読んでしまった。

 その日記が公開を予定して書かれたのか、公開を予定ていなかったかも重要である。
 樋口一葉は公開を予定していなかったが、一葉の没後に妹が添削を加えて発表したことが明らかになっている。
 紀田は「一葉処女説」論争に最大の関心を寄せる(そんな論争があったとは!)。一葉は小説の師匠である半井桃水と観想家久佐賀義孝という二人の男と交渉があった。半井との間には性的な関係はなかったとするのが通説のようだが、久佐賀との関係は日記からは明らかでない。紀田は、経済的に苦境にあった一葉が久佐賀から60円(現在の金額で180万円くらい)の借金をした以降の8か月間に及ぶ日記が欠けていることに注目する。この間は一葉が日記を書かなかったのではなく、久佐賀との間の微妙な内容が書いてあったので妹が抹消したのではないかと推測する(46頁)。
 この論争には、塩田良平、吉田精一など、ぼくが高校大学受験の頃の国語参考書や辞典の著者、監修者として名前を知った人たちが登場する。荷風も、一葉は桃水の妾だったという説を和田芳恵に吹聴した人物として登場する(56頁)。

 紀田の「後書き」は、本書で取り上げた日記の中で永井荷風「断腸亭日乗」をもっとも愛着を抱いてきたと書く(296頁)。しかし本文中の記述は「断腸亭」の「虚実」に集中する。
 荷風は佐藤春夫の門弟だった平井程一を気に入って懇意にしていた時期があった。最初の荷風全集が岩波書店ではなく中央公論社から刊行されることになったのも、平井と中公嘱託社員猪場毅の貢献があったからだという(101頁)。
 しかし、平井が荷風の偽書を作ったことをきっかけに両者の関係は断絶する。荷風は「日乗」の中で平井を批判しただけでなく、平井をモデルにした「来訪者」という小説まで執筆して、平井と思しき人物を「淫蕩」「強慾冷酷」な人間などと扱き下ろしているという(106頁~)。
 戦後になって、紀田は平井やその愛人(?)と面談する機会があったが、到底荷風が描いたような人間には思えなかったという(戦後の平井は荷風を「色の聖」と評したという)。荷風がそこまで平井を憎んだ理由は、平井の偽書の中に「四畳半襖の下張」が含まれており、これが官憲の目に入って自分が追及されることを恐れたためではないかと推測する(115頁~)。荷風「日乗」はこのことにまったく触れていないが、まさに書かないことによる「日記」の「虚」を示す一例である。紀田は偏奇館焼失によって「日乗」は終わっていると評する(117頁)。

 徳富蘆花の日記は、家族制度の下で自分を抑圧した父親の臨終に際して、葬儀に出席しない決意をした時から書き始められている(70頁~)。人生の転機である。日記には、父親や兄蘇峰に対する蘆花の憎しみ、同志社時代の一歳年下の女性(新島襄の姪)や同居人琴に対する思いなどがつづられている(63頁)。蘆花の妻は夫の女性関係を憎み、お互いに相手の日記を盗み読むかと思えば(79頁)、夫婦間の交合を書き残すなど(85頁)、微妙な愛憎関係が記されている。
 40年以上前に蘆花公園で、蘆花の生存時のままに保存された居室を見たが、刺繍の施された色褪せた洋式寝台のベッドカバーが印象的だった。あれがこの日記に記された愛憎劇の現場だったのだろうか。
 岸田劉生の日記は、従来からも指摘されていることのようだが、遺伝的な精神疾患や、身体的な異常への劉生の恐れが底流に読み取れるという(136頁~)。それが麗子像の変遷にも反映されているという。
 竹久夢二の日記は、博文館から立派な日記帳をもらったので書き始めたということだが、内容は、荒畑寒村を介して幸徳秋水の大逆事件に関与した嫌疑をかけられ、警察から常に監視されつづけたことによる不安が底流にあったという(156頁~)。夢二の描く絵や商業的な成功とは裏腹に、日記に記された彼の内面はかなり不安定だったらしい。大逆事件という冤罪の捏造は幸徳秋水らの生命だけでなく、荷風や夢二にまで影響していたのだ。

 野上彌生子の日記には、中勘助に対する終生変わることのなかった思い(182頁)、自分の留守中に岩波茂雄が訪ねてきたというだけで嫉妬する嫉妬深い夫豊一郎に対する不満(息子素一よりもフランス語会話力がなかったなどと夫を詰る記述もある。187頁)、志賀直哉、芥川龍之介、武者小路実篤、与謝野晶子、平塚雷鳥、宮本百合子らに対する強い反感、否定感情などが書かれている(193頁)。辛気臭そうで読む気にもならなかった野上彌生子の日記だが、意外に人間臭い内容もあるようだ。しかし読みたいとは思わない。
 古川ロッパは、ぼくはその名前を目にしたことがあるだけで、どんな人物かどんな演劇だったのかはまったく知らなかった(声帯模写の始祖だったらしい)。日記よりも、ロッパが自由民権論者から国権主義者に転向した加藤弘之の孫であり、浜尾四郎の弟であるという素性にびっくりした(242頁)。加藤は嫡子一人だけを自ら養育し他の子たちはすべて養子に出したという。養子に出されたロッパは早稲田を中退し小林一三に見出されてデビューするが、座付作者にすぎなかった菊田一夫がやがて脚光を浴びるようになると、彼に対する軽蔑と嫉妬をあらわにする(255頁)。「所詮は百姓」などと侮蔑的な言葉を浴びせる(257頁)。
 日中戦争、太平洋戦争中の日記の代表として伊藤整の日記が取り上げられているが、この時期の作家の日記はとくに「虚実」が怪しいので、読みとばした。引用された中では高見順の日記がもっとも率直な印象を受けたが・・・。
 ぼくが読んだ戦争中の日記では山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫、1973年)が一番印象深い。引っ張り出してみると、「日記は自分との対話だ」というが、年齢相応の青臭さや噴飯物の観察や意見もある、とくに自分でも閉口するのは「妙に小説がかった書き方をした部分である」と書いている(529頁「あとがき」)。そして小学校の同級生34人中14人が戦死したという現実の前にはこの日記の空しさを感じると書き、「人は変わらない。そしておそらく人間のひき起こすことも」と結んでいる(531頁)。

 本人が日記の公開を予定していたか否かに拘わらず、今日公開されている日記を読むわれわれの側に、他人の日記を「盗み見る」楽しみがあるのは間違いないだろう(香山リカの解説は「スリルや興奮」という)。本書で紹介された、樋口一葉の支援男性との関係、徳富蘆花の蘇峰に対する憎しみ、永井荷風と平井程一の絶縁をめぐる虚実、岸田劉生、竹久夢二らの内心の悩み、野上彌生子、古川ロッパのライバルに対する敵愾心など、いずれも他人の日記を合法的に「覗き見」る面白さがなかったと言ったら嘘になるだろう。
 紀田は、日本人の日記の特徴として天候に関する記述が多いことと、俳諧的であることを指摘する(289頁~)。内容の真偽、虚実はともかく、荷風の「日乗」の気候描写がその日の荷風の心象までを表わしており、その漢文調の流麗で簡潔なな文章は漢詩の訓み下し文を読んでいるような印象だったことが想起される(ただしぼくの知っている漢詩は教科書に載っていた李白、杜甫、孟浩然などごくわずかだが)。

 ぼく自身は、1964年(中学3年生)から3年間は旺文社の「学生日記」で、その後の約10年間は大学ノートに日記を書きつづけた。1974年に編集者になってからは出版団体が毎年発行する小型の「Books」という日程表に日々の予定や出来事をメモに取り、教員になってからは所属大学が発行する日程表に日々の予定や行動をメモしてきた。
 ぼくが日記を書き始めた動機は、旺文社の学習雑誌の広告を見たからだと思うが、その後の大学ノート時代は、思春期・青年期の自分を老後になってからもう一人の自分がふり返る楽しみ、ノスタルジックな回顧趣味のためだった(紀田も、日記には後から自省したり回顧する意味があるという。282頁ほか)。
 日記を書いてきた唯一の実益は、大学を定年退職する際に学内紀要に「業績目録」というものを掲載してもらう際の資料として大いに役立ったことである。大した「業績」もなかったが、教員時代の「自分史」を作るつもりで30年弱の日記(日程帳)を全頁読み返して、「業績」といえるかどうか分からないが、教師(その前の編集者)としての活動を洗いざらい列挙した。
 この「豆豆先生」は2006年から書き始めたが、2020年の定年退職後はこの「豆豆先生」だけが唯一の「日記」になってしまった。いやいや、「お薬手帳」と「血圧手帳」もあったか。

 2024年9月16日 記

 ※ 参考文献欄(300頁)の「秋葉太郎」は「秋庭太郎」の誤り。