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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

軽井沢に行ってきた(2024年7月19日)

2024年07月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 7月19日(金)から22日(月)まで、軽井沢へ行ってきた。
 この夏最初の軽井沢である。
 19日午前9時すぎ、炎暑の東京を出発して、途中上里SAで休憩して、12時すぎに軽井沢に到着。冒頭の写真は軽井沢バイパス沿いの軽井沢消防署の火の見やぐらごしに眺めた浅間山。

 昼食は、到着初日の定番でいつも通り、国道18号沿いの “追分そば茶屋” へ。
 ところが入口に「臨時休業」の立て看板が立っている。前回、5月に来たときにも同じ「臨時休業」の看板が立ててあった。定休日は毎週木曜だから、わざわざ木曜ではない日に来ているのだが・・・。
 どうも様子がおかしいと思い、車から降りてガラス戸に貼ってあった貼り紙を読んでみると、何と、「令和6年2月29日をもって閉店いたしました」とあるではないか。半年近く前に閉店してしまっていたのだ。
 “追分そば茶屋” までもが閉店してしまうとは、いよいよもって「ぼくの軽井沢」は幻影の彼方に遠ざかってしまうではないか。

   
   

 貼り紙には「開業から60年」とあった。
 あの店ができたのは、60年も前だったのか。ぼくの記憶が間違いでなければ、当初は「かぎもとや」の追分店を名のっていたはずだが、いつの頃からか “追分そば茶屋” で定着した。千ヶ滝に住むぼくとしては、わざわざ混雑する中軽井沢駅前の “かぎもとや” まで出かける必要がなくなり、近くに美味しいそば店ができたので大歓迎だった。
 たいていは天せいろを食べ、5月や9月の肌寒いような日には温かい天ぷらそばを食べた。息子は山菜そばが好物だった。

 夏休み中はいつも大繁盛していて、駐車場が満杯に近いことも度々あった。南側の広い窓からは遠くに八ヶ岳連峰の蒼い山肌が夏空に映えていた。店内ではアルバイトの女性たちが忙しく立ち働いていて、壁には皇室カレンダーが貼ってあった。
 何かのテレビ番組で、現在の天皇が皇太子だったか皇孫だった頃に食べに来たことがあったと紹介されていた。ぼくが一度だけ加藤周一を見かけたのもこの店の座敷席だった。
 一昨年だったか、閉店の4時近くに食べ終わって店を出たところ、ちょうど国道側の調理場から仕事を終えた店主らしい老人が出てきて「有り難うございました」と挨拶をしてくれた。あの方が仕事を続けることがきつくなったのだろうか。 
 どこでも個人事業の継承は難しいが、馴染の店がなくなってしまうのは寂しいことである。
 
 仕方なく(失礼)、中軽井沢駅前に移動して “かぎもとや” で天ざるを食べた。荷風なら「飯す」と書くだろう。
   

 昼食後は、軽井沢駅南口の軽井沢プリンスプラザ(?いまだに正式な店名を覚えられない)に出かける。目的は買い物ではなく、ウォーキング。
 軽井沢もこの日は29℃あって、東京ほどではないがそれでも歩くとさすがに暑い。暑くなったらエアコンの効いた店に入って、涼んでからまた歩く。
 離山の向うにわずかに浅間山と石尊山の頂を眺めることができた。
   

 夜は小津安二郎の「東京物語」(コスモ、DVD)を見た。
 川本三郎の講演会を聞いたり著書を読んだりして、小津映画(のロケーション)に与えた永井荷風の影響について知ったので、そのシーンも確認した。

   

   

 祖母(東山千栄子)が孫を連れて荒川放水路の土手に散歩に出かけ、孫に向かって「あんたもお父さんみたいにお医者さんになるのかい」と話しかけるが、孫は何の返事もしない。祖母は「あんたがお医者さんになるころまで、おばあちゃんはおられるだろうか」と独り言をいう(不吉な予感)。
 この長男(山村聰)の家の孫二人は、上京してきた祖父母に悪態をついたりして、見苦しい。そんな子どもに育つような家庭(母親は三宅邦子)には描かれていないのだが。小津の映画に出てくる子どもはどれも好感が持てない。

 2024年7月23日 記

「消えゆく草軽電鉄」(東芝レコード)

2024年06月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 「消えゆく草軽電鉄」(浜本幸之=発行、企画=河野隆次、監修=加藤いずみ、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードが手元にある。
 そのジャケットには「軽井沢叢書 草軽電鉄五拾年誌・付録」と書いてある。このレコードの発行者は「軽井沢書林・浜本幸之」となっているが、レコード自体は非売品とある。この「草軽電鉄五拾年誌」という本には、レコードの他に実際に使用されていた切符も1枚付属していた。

 レコードのA面は「高原を往く」と題され、発車、上り坂のモーター音、レールのきしみ、ノッチをあげてノックする音、平坦路、ポイント通過、ブレーキ音、停車の音が収録されているらしい。久しく聞いていないが、やたらギーギーとうるさかった記憶がある。(6分33秒)。
 B面は「さみしい山の駅」と題され、ポイント切り替え、列車の到着、機関車の通過、列車交換、ポイント切り替えの音が収録されているらしい(6分25秒)。B面もその昔聞いたはずだが、まったく記憶にない。 
 録音は営業終了間近(昭和37年か)の3月に収録されたとジャケットの解説に書いてある。こんな文章をジャケットから転記していたら、レコードを聞きたくなってきた。

 以前平安堂書店の軽井沢店(国道沿いのマツヤの隣り)で、草軽電車のDVDを売っていたが、1万円近かったので買わなかった。草軽電車の動く姿は、木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」でふんだんに見ることができる。確か500円くらいのDVDだったはずである。
 ※ このレコードについては、昨日(2024年6月23日)の書き込み以前にも書いた。2006年3月3日付の「想い出の草軽電鉄」である。このレコードのジャケットは、一般的なドーナツ盤のジャケットのような正方形ではなく、実際はやや長方形である。 

 2024年6月24日 記

浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」

2024年06月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」(軽井沢書林、昭和48年、発売=軽井沢新聞社)限定500部の105番、定価2500円。
 「消えゆく草軽電鉄」(発行=浜本幸之、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードと、草軽電車の実際に使われていた切符(硬券)が1枚付属していたが、切符は失くしてしまった。

 これは五反田の古書展の目録で見つけて購入した。
 入札日に、「当選しました」と連絡があったので、わざわざ五反田の会場まで取りに行ったら、店員が「連絡の手違いで落選でした」という。きっと抽籤に外れた購入希望者がゴリ押ししたのだろう。頭にきたので、「それなら別の店で購入するので、その差額と交通費を弁償しろ」と言ったところ、応対した店員が裏に引っこんで、しばらく待っていたら出てきて、「あなたにお売りします」という。ふざけた古本屋ではないか。40年以上昔の話だが、今でも思い出すと腹が立つ。
 こんな次第でやっと手に入れた本である。その後、「日本の古本屋」や「アマゾン」でも一切見かけない。レコードともども、相当レアの部類に入る本といえるだろう。

   

 本文53頁の簡単な本だが、和綴じ本で、全文毛筆で手書き(の印刷)のうえ、モノクロの写真も多数掲載されている(上の写真)。
 大正4年の草津軽便鉄道の軽井沢―小瀬温泉間の営業開始から、昭和35年4月の草軽電気鉄道会社の軽井沢ー上州三原間の営業廃止、昭和37年の全線(上州三原ー北軽井沢間)の営業廃止までの約50年間の草津電鉄の歴史が語られる。
 ※ ある年の夏休みに旧軽井沢に行ったら、前年の夏休みには走っていた草軽電車が忽然となくなってしまっていたのは、ぼくが小学校5年生だった昭和35年(1960年)の夏のことだったのだ。
 草軽電鉄ではトンネルを作らない方針だったため、傾斜25度の急勾配に苦労したこと、冬の雪、夏の台風や落雷の苦労、皇族用の特別列車やハンセン病患者用のベッド付き列車のこと(草津にはハンセン病の治療施設があった)、はては当時からいた銅線泥棒との対決など知らなかった話題も多い。

     

 この本も旧友の息子のS君にあげようと思っていたが、ネットで調べると、この「草軽電鉄五拾年誌」は軽井沢図書館にも所蔵されていないらしい。沓掛テラスの中軽井沢図書館なら、見たい時に見に行くことができるから寄贈してもいいという気がしてきた。軽井沢にゆかりの深い本なので、もう暫らくはぼくが閲覧可能なところに置いておきたい。
 「鉄オタ」だというS君には、代わりに「写真集・草軽電鉄の詩ーー懐かしき軽井沢の高原列車」(郷土出版社、改訂版=1995年)で勘弁してもらおう。この本は2冊持っているので。改訂版は間違いなく神田神保町の篠村書店で古本を買ったのだが、新装版が出たので軽井沢の平安堂書店で買った(上の写真)。
 ※ 「草軽電鉄の詩」のことは、2006年12月21日(旧版について)、2008年8月5日、同年9月18日(新装版について)の3回にわたって「豆豆」に書き込んである。

 2024年6月22日 記 
                   

軽井沢に行ってきた(2024年5月18〜19日)

2024年05月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 5月18日(土)も快晴、気温は昨日と同じ23℃で、気持ちがよい。

 午前中から旧軽井沢に出かける。いつも通り、水車の道沿いの神宮寺に駐車。
 昭和30年代の終わり頃に、毎年夏休みをこの寺の宿坊で過ごす友人に亡父が会いに行っていた懐かしい寺である。2、3年前に読んだ堀辰雄や川端康成「高原」にも、この寺に隣接する藤屋旅館が登場していたので、それからは、堀や川端の姿も懐かしさの中に加わった。
 本堂は新しくなったようでかつての面影はないが、境内の樹齢400年という枝垂れ桜や木立がかつてを思い出させてくれる。堀も川端もこれらの木々を眺めたのだろう。堀が友人にあてた葉書にはここの桜のことが書いてあった。駐車料金はお布施のつもりである。

   

 つるや旅館の手前の路地を入ったところにある「デリカテッセン」の向かいにある花屋さんの店先を借りて、万平ホテルのアップルパイを販売しているという記事を読んだので行って見たが、連休中だけの臨時営業だったようで、花屋さんは閉まっていた。
 上の写真は、その「デリカテッセン」。創業1980年(?)と壁面に書いてあったので、1960年代の旧軽井沢にあった「デリカテッセン」とは別の店なのだろう。現在の店名が “Delicatessen” という英語なのに対して、昔あったデリカテッセンの看板はドイツ語の “Delikatessen” で、店も本通りに面していたように思う。それにしても、まったく関係がないのか聞いてみたい気がしている。

 旧軽井沢通り(本通り)をそぞろ歩いたが、旧道もかつての賑わいはなく、「貸店舗」の掲示が貼ってある空き店舗も目立つ。物産館は建物もなくなってしまい、大城レース店の旧店舗はシートがかかって改装中だった。三笠会館はどの辺にあったのかすら分からなくなってしまった。
 正午を過ぎたので、浅野屋で昼食をとることにした。
 満席だったが、幸い一組が席を立ったので、ほどなく席につくことができた。ランチのメニューは3つのみ、サービスも若い男性1人だけで、注文、食器の片づけはセルフサービスになっていた。三笠会館は最後までブラック・スーツの年配の男性2人でサービスをしていたが、結局軽井沢から撤退してしまった。浅野屋のような形ででも持続してくれたほうがよかったのに。
 ぼくは、信州産鶏のトマト煮込み、野菜添えを注文。パンは食べ放題だが、われわれの胃ではおかわりは無理だった。ドリンクがついて2180円は、昨今の値上げの時代にあってはリーズナブルだろう。
   
   

 観光会館に立ち寄って、今年の軽井沢のカレンダーとポスターをゲット。冒頭の写真は観光会館の正面。かつては郵便局の建物だった。ここの館内は夏でもひんやりしていて涼しい。

 神宮寺を出て、鹿島の森、雲場の池、六本辻、離山を経由して(スコルピオーネの跡地は何とか温泉になっていた!)、中軽井沢駅前から国道146号に右折して、かつての西武百貨店軽井沢店の手前のスケートセンター、テニスコート跡地を曲って、セゾン美術館、立教女学院キャンプ場を通って帰宅。
 そう言えば、軽井沢新聞5月号に、千ヶ滝温泉ホテル跡地など約22ヘクタールを、西武と野村不動産が大規模開発するという記事が載っていた。2029年の完成を目ざすというが、開発の中味は未定とのこと。どうなるのか心配だが、リゾートマンションなどが建たないといいのだが・・・。
 できればスケート場を作ってほしい。赤坂サカスや、日比谷シティのスケートリンク程度でもいいのだが。それと、西武百貨店軽井沢店も昭和の姿のままに再建を願う。
 記事の見出しには「千ヶ滝温泉ホテル跡地」と書いてあり、ぼくも学生時代に千ヶ滝温泉ホテルにアイスホッケーの合宿で泊ったことはあるが、あの辺りは「軽井沢スケートセンター跡地」と言うべき場所ではないか。

 夕方から散歩に出かける。
 浅間山の夕景がきれいだったので、浅間台公園から大日向神社にむかって坂道を上る。途中で、ISAC(軽井沢インターナショナル・スクール?)の生徒らしい2人組の女の子と、1人歩きの男の子に出会う。ともに外国人のようだったが、女の子たちは「こんにちわ」と声をかけてくれ、男の子は軽く会釈をしてくれた。

   
   

 翌5月19日(日)、午前9時過ぎに東京に向けて出発。渋滞を避けるために、たいていは土曜か日曜の午前中に軽井沢を出発して帰宅することにしている。
 発地(ほっち)市場に立ち寄って野菜を眺めるが、家内の話では東京とほとんど値段は変わらないという。ブロッコリーなどは東京よりも高いという。そのせいか、土曜日の午前というのに人影は少なかった。

 風越公園の交差点を右折して、碓氷軽井沢インターに向かう途中の道沿いに(地図には「女街道」と書いてあるのと「下仁田街道」と書いてあるのがあった)、「モミの木」という洋菓子店があることを知った(下の写真)。
 軽井沢の不動産屋が出しているパンフレットに紹介が載っていて、ここのオーナーは元は東京のヴィクトリアで修業し、夏は旧軽井沢の店舗に勤務していたとあった。軽井沢のヴィクトリアは、あの、「レイホホ レイホホ レ イッ ホ~ ♪」とヨーデルを流しながら千ヶ滝を販売車がまわっていた懐かしい洋菓子店である。

     
 
 ご夫婦でやっているようで、ご主人も厨房(?)から出てきて、しばし昔話に花が咲いた。ヴィクトリアから独立した後は高崎で洋菓子店をやっておられ、最近高崎の店は息子さんに任せて、軽井沢で開店されたとのこと。
 旧軽井沢の旧道入口手前、草軽電鉄の旧軽井沢駅前にあったヴィクトリアのこと、千ヶ滝の西武百貨店にも出店していたこと(そういわれてみると確かに西武の中にもあったのを思い出した)、西武百貨店の入口近くには島津貴子さんプロデュースのPISAのコーナーがあったこと、高崎観音の川向かいの小高い丘の上にあったドライブインや、安中でヤナセがやっていたピラミッド型のドライブインなど、しばし共通の思い出話で盛り上がった。
 ヴィクトリア時代からの定番だというバナナのパイと、イチゴのタルトを買って帰る。値段もリーズナブルで、美味しかった。

 途中横川の荻野やに立ち寄って、孫の好物の力餅も買って帰ったのだった。

 2024年5月20日 記

軽井沢に行ってきた(2024年5月17日~)

2024年05月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 5月17日(金)、天気が良かったので、軽井沢までドライブに行ってきた。

 午前9時半頃に東京を出発。関越道を行く。
 途中の本庄児玉だったかで、工事渋滞しているところに、さらに追越し車線で追突事故が発生したため混雑していたが、それ以外はスムースに進み、上里での休憩を挟んで12時すぎに軽井沢に到着。
 車窓の左側にはまだ雪を頂いた富士山が見え、妙義山、恩賀高岩、浅間山も、きれいな山影が青空に映えていた。新緑の候から初夏にむかう木々の葉の緑が、まぶしく輝いている。

 軽井沢の気温は、軽井沢バイパス、南軽井沢交差点の標識の表示では23℃。
 窓を開けて走ると、爽やかな風が吹きわたっていた。町はそれほどの混雑ではない。人々は連休疲れで、あまり出歩いていない時期なのかもしれない。
 軽井沢に到着後は、ツルヤで食材を買い出ししてから山荘へ。まずはすべての窓を全開にして風を入れ、置きっぱなしの布団やタオル類を虫干しにして、昼食に出かける。
 いつも通り、「追分そば茶家」へ行ったが、「臨時休業」の看板が・・・。木曜日が定休日のはずだが、仕方ないので、中軽井沢駅前の「かぎもとや」に入り、天ざるを(下の写真)。
 「かぎもとや」は壁一面に貼ってある吉川英治その他の有名人の写真の入った色紙が名物だったが、今回は気がつかなかった。撤去したのだろうか。

 当日の軽井沢の空気感が表れているかどうか分からないが、17、18日の風景写真を何枚か。
 最初は、しなの鉄道の中軽井沢駅舎につづく沓掛テラスの図書館2階から眺めた浅間山。窓側の席はすべて占拠されていたので、いい位置から撮影できなかった。
   

 次は、翌日(18日)に図書館2階のほぼ同じ位置から撮った浅間山と、中軽井沢駅前の通り。
   
   

      

 さらに、軽井沢消防署の隣りのしまむらの駐車場から眺めた18日の浅間山を2枚。
 山頂ちかくの向って少し左側に小さな白い斑点が見えた。どうしてそこにだけ雪が残っているのか。
   
   
 いつもは、長野県国道事務所「鳥井原」の定点カメラの画像で眺めるしかない風景である。

 2024年5月19日 記 

今朝の軽井沢(2024年3月6日)

2024年03月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今朝の天気予報では、軽井沢の積雪は18センチとか言っていた。思ったほどの「大雪」ではなかったようだ。何年か前の南軽井沢交差点付近で、トラックを先頭に数十台が立ち往生した時のようなことはなかったようだ。
 冒頭の写真は、3月6日の気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」の画像だったが、煙っていて何も見えないので、3月7日午前の画像に差しかえた。古い写真は下に移しておいた。霧の向うに浅間山があるのだ。
      

 例によって、長野国道事務所のライブカメラから、長倉、鳥井原、追分の写真を。
 なお、軽井沢町役場のライブカメラはメンテナンス中とのことだった。

      

      

      

 2024年3月6日 記

今の軽井沢(2024年3月5日午後10時05分頃)

2024年03月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 テレビニュースの天気予報で、長野県に大雪警報と言っていたので、今ごろ軽井沢の雪景色はどんなになっているのだろうと思って、例の如く、長野国道事務所と軽井沢町役場と気象庁監視カメラの画像を検索してみた。

 軽井沢町役場は開くことができなかったが、長野国道事務所の定点カメラはしっかりと今の軽井沢を見せてくれた。
 下の写真は、軽井沢バイパスの鳥井原と追分の現在。長倉(南軽井沢交差点)は画像が悪かったのでスルーしたが、気温-2・9℃、路面温度-1・9℃と表示してあった。

     

     

 冒頭は気象庁監視カメラの浅間山(追分)の画像。雪の向うに浅間山があるのだろう。

 2024年3月5日 記

きょうの軽井沢(2024年3月1日)

2024年03月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょうから3月。

 夕方のテレビのニュースを見たら、軽井沢では29センチの積雪があったと言っていたので、びっくりして長野国道事務所のライブカメラと、気象庁監視カメラの浅間山(鬼押)を開いてみた。それほどの積雪の感じはしなかった。昼間が暖かったので融けたのだろうか。
 冒頭は気象庁の浅間山(鬼押)の画像。山肌が雪に覆われてはいるが、それほどの積雪には見えないけれど。

 ついで、国道事務所の、順番に、長倉、鳥井原、追分の画像である。長倉は気温4・9℃、道路温度2・9℃となっている。

     
    
     

     

 せっかく雪景色を見たかったので、少し山深い信濃町(長野県)の画像をアップしておく(下の写真)。
     

 2024年3月1日 記

午後のじゅん散歩(テレ朝)は軽井沢

2024年02月23日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 毎週金曜日は午後にも “じゅん散歩” をやっているが(テレ朝)、今日の “午後のじゅん散歩SP” は軽井沢から小諸への散歩。そういえば先週の “午後散歩” も軽井沢だったか。

 旧軽井沢の万平ホテルから例の赤い観光バスに乗って、テニスコート脇を通って、碓氷峠を見晴台に向かう。長野県側の方の神社を参拝して、見晴台から周囲の山並みを眺めて下山(上と下の写真)。
 「むかし武士たちがこの道を登ったのか」と高田純次が言っていたが、30年前に、ぼくは3歳だった次男を背負ってこの道を下った。
     

 軽井沢駅に戻り、しなの鉄道で小諸に向かう。 
 しなの鉄道の車両は、グレーと赤色のツートンカラーだったのが、いつの間にかグリーンとイエローのツートンカラーに変わり、さらに輝くブルー色のボディーカラーに変わっていた(下は軽井沢駅に停っているしなの鉄道を見下ろす写真)。
     

 車窓から浅間山を眺め、信濃追分駅を通って列車は小諸駅に(下の写真)。
     
     
 
 人通りのない小諸駅前で喫茶店に入り、北国街道沿いの蕎麦屋でしぼりそばを食べて、きょうの散歩は終了。昨年の夏に撮影したものらしく、半そでシャツでも小諸では暑そうだった。
 懐かしい風景を眺めることができた40分(?)だった。

 2024年2月23日 記

きょうの軽井沢(2024年2月12日)

2024年02月12日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ネタのない日はネットで見つけた軽井沢の画像で。

 冒頭は気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」で見た現在の浅間山。冬晴れなのか春の日ざしなのか、浅間山の山肌が輝いている。

 次は長野国道事務所の定点カメラから、最初は「長倉」。通称プリンス通りの南軽井沢交差点を西に曲がったところである。「気温2・9℃、路面温度0℃、路面乾燥」と表示されている。日は傾き始めているようだ。
     

 同じく「鳥井原東」交差点の現在の画像。道路わきに雪が積み上げてあるが、道路は乾いているように見える。
     

 次は軽井沢町役場のライブ・カメラの画像。町役場前の国道18号のように見えるが、浅間山の姿は写っていない。どういう角度で撮ったものなのか。
     

 昨日2月11日は亡くなった母の生誕100年に当たる日だった。大正13年(1924年)、神戸の須磨の生まれで、亡くなって12年が経った。

 2024年2月12日 記

きょうの浅間山(2023年11月22日)

2023年11月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 気象庁監視カメラ画像から、現在の浅間山の光景を。

 2023年11月22日12時00分(ややフライング気味か?)の浅間山。
 山頂付近はうっすらと雪化粧をしていて、太陽の光が雲に反射しているのか筋状に輝いている。
 「初雪」も「初冠雪」も「初積雪」も、その違いは分からないが、浅間山は冬景色になりつつある。

 2023年11月22日 記

きょうの浅間山(2023年11月13日)

2023年11月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 NHKテレビの天気予報によると、きょう浅間山は初冠雪を記録したとか。浅間山の映像が出てきたので慌ててシャッターを押したが、ちょっとピンぼけ(上の写真)。

 「初冠雪」という言葉の定義は分からないが、「初雪」というのではないだろう。いくら地球灼熱化の異常気象とはいえ、11月13日は初雪にしては遅すぎる。頂上の雪が根雪になったということだろうか。それにしては画像で見る雪の量は少ないようだが。
 いずれにしろ、軽井沢は寒い季節になったのだ。

 今日は東京も結構寒かった。木枯らし1号が吹いたそうである。「木枯らし1号」というは気温何度以下で、風速8メートル以上の北風が最初に吹いた日だそうだ。
 明日の東京新聞の一面には東京の木枯らし1号の風景が載っているかもしれない。

     

 ※今朝の東京新聞一面には「東京に木枯らし1号」のことは載っていなかった。地域版(山手版)も含め、1面から最終面までしっかり見たが、木枯らしの木の字も出ていなかった。残念。
 最近の東京新聞ではこんなことは記事に値しないのだろうか。前の週までは東京も夏日を記録していたのが一転して木枯らしが吹いたのだから、ニュースだと思うけど。
 数日前のNHKラジオ深夜便3時台の「風」をテーマにした歌特集では「木枯らし紋次郎」のテーマソング(曲名は忘れたが上条恒彦が歌っていた)が流れていたが。
 もう一つ、昼のNHKテレビ列島ニュース、長野局発で、今朝の軽井沢の最低気温がマイナス4・4℃だったと報じていた。
 そのニュースの背景に現在の浅間山が映っていた(上の写真)。スマホをカメラに切り替えようと焦っているうちに、画面は山頂から石尊山の方に移動してしまった。
 画面からは、浅間山の頂上は雪をかぶっていないように見えた。昨日の「初冠雪」がもう溶けてしまったのなら、「初冠雪」というのは頂上に降った雪が根雪になったことではないらしい。(2023年11月14日追記)

 2023年11月13日 記

きょうの浅間山(2023年9月29~30日)

2023年10月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月29日(金)、天気がよいので、軽井沢にドライブに出かけた。
 関越道は、週末でしかも月末ということもあってトラックがいつもの平日より多かったものの、それでもほぼ順調だったのだが、最後の上信道、高岩山トンネルが工事中のため、トンネルの手前から大渋滞が始まり、トンネルを抜けるのに30分以上かかってしまった。それでも車窓からは、清涼な空気感が漂う妙義連山など秋の山並みを眺めることができたので、それほど苦にはならなかった。

 昼すぎに軽井沢に到着。窓を開けて秋の外気を入れてから、追分そば茶家に昼食に。いつも通り、天せいろともりそばを注文して、二人でシェア。
 窓の外を見ると、信濃追分駅から国道に向かう脇道を、番号のついたゼッケンに、リュックサックを背負った小学生が三々五々歩いてくる。店のおばさんによると、この日は(西部?)小学校の遠足で、八風山に登ったという。八風山というのはどの程度の山なのか知らないが、低学年の子には結構きつい遠足ではなかったか。バテ気味の子も見かけたが、みんな元気そうだった。

   
   

 その後プリンス・ショッピング・モールに出かけて、孫たちの誕生祝いを物色する。
 冒頭の写真は、ショッピング・モールの人造池から眺めた浅間山、と言いたいところだが、浅間山は離山の後ろにわずかにすそ野がのぞいているだけ。ショッピング・モールや旧軽井沢からは浅間山はほとんど見ることができない。
 昭和20年代に起きた浅間山麓を米軍の訓練基地化する計画に対する地元民の反対運動でも、旧軽井沢の人たちはほとんど参加しなかった。旧軽井沢、新軽井沢の人たちにとって、姿が見えない浅間山は関心の対象ではなかったのかもしれない。
 29日は天気がよく、青空に映える浅間山はあのハート形の噴火口もくっきりと見せていたが、写真を撮らなかったら、翌日は朝から曇天で、浅間山の姿を見ることはできなかった。残念なことをした。

 下の写真は9月30日の佐久農協販売所前の踏切を通過するしなの鉄道。晴れていたら、線路の向こうに浅間山が見えるはずなのだが・・・。

   

 発地市場、ツルヤ、佐久農協をめぐって、野菜を大量に買い込んだ。東京に比べると驚くほど安いらしい。
 天気がよければもう1泊しようと思っていたのだが、曇天のうえ、翌日曜日(10月1日)も雨という予報だったので、30日に帰ることにした。
 今朝(10月1日)、NHKラジオの道路情報を聴いていたら、上信道の碓氷軽井沢インターと八風山トンネルの間は雨のため50キロに速度制限されていると言っていた。

 2023年10月1日 記

この夏の軽井沢(2023年7月29日)

2023年09月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
  
 7月29日(土)も夏晴れ。前日より、日中でも多少凌ぎやすい体感。

 午前中に、時間つぶしのDVDを借りるために沓掛テラス(旧中軽井沢駅舎)の中軽井沢図書館に出かける。
 上の写真は、中軽井沢図書館2階から眺めた浅間山(7月29日)。
 下の写真は、中軽井沢駅前(沓掛テラス)から眺めた浅間山。
     

 夜になってから、図書館で借りてきた新海誠の「君の名は。 Your Name ・・・」を見た。
 「時をかける少女」と「転校生」を合わせて3で割ったようなストーリー。
 観客1900万人を動員したとパッケージに書いてあったが、ぼくはダメだった。ストーリーの展開が分かりにくく、時空の移動についてくことができなかった。唾液のシーンも気持ちが悪い。

 せめてもの慰めだったのは、ぼくが予備校時代とサラリーマン時代を過ごした四谷界隈が出てきたことである。残念ながら、時代は予備校生だった1968~9年、サラリーマンだった1974~83年の四谷ではないが、迎賓館前の若葉町公園らしき公園、文化放送(旧社屋)の近くにあった石段、上智大学沿いの土手らしき風景も出てきた。
 ※(9月28日追記)数日前のテレビで、訪日外国人観光客が好きな東京の風景の一つとして、四谷須賀神社の石段が出てきた。この石段の上の方に立って、坂下とその遠方の住宅街を背景に自撮りする外国人カップルがいた。なかなか目が高い!と言いたいところだが、おそらくアニメ「君の名は」で知ったのだろう。あそこは東京のモンマルトルである。
 この石段こそ、まさに、文化放送近くの石段である。ぼくの会社は須賀町にあったが、あの界隈は「四谷怪談」の舞台だったらしく、お岩さんを祀る於岩稲荷というのと須賀神社があって、この題目を演ずる歌舞伎役者や落語家が奉納したお札(?)が並んでいた。
 須賀神社のあの階段も、たまに昼飯に遠征した際に上り下りした。ぼくたちが昼飯を食べに行った「来夢来人」(ライムライト!)というスナックは、確かあの坂下の近くにあったはずである。

 「君の名は」では、四谷のマンション屋上からの眺めを細密画で描いた画面があったが、1968年の夏に、駿台予備校四谷校舎の屋上のベンチに寝そべって、高層ビルが地平線を切り苛んでいる新宿や都心方面の風景をぼんやり眺めていたころの気持ちがよみがえってきた。
 あの頃は、高層ビルといっても、浜松町の貿易センタービル(だったか?)と、新宿の京王プラザホテル、四谷のホテルニューオータニくらいしかなかった(はずである)。
 あの頃から55年も経ってしまった。

 7月30日(日)。この日も朝から暑い。

 2023年7月30日 記(9月28日追記)

この夏の軽井沢・余滴(2023年8月22日)

2023年09月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 旧聞ながら、8月22日の朝のテレビで、上皇ご夫妻が4年ぶりに軽井沢を訪問されたニュースが流れた。
 29日まで滞在の予定と報じられていた。

 満蒙開拓団の帰村地である大日向村(おびなた)を訪問される様子が映っていたので、あわててカメラをオンにしてテレビの画面を撮ろうとしたが、シャッターを押したときには、すでに別画面に切り替わってしまっていた。

 何年か前の晩夏の夕方、浅間台公園方面に散歩に出かけたところ、途中のT字路に制服の警官が二人立っていて、この先の通行は遠慮してほしいと言われたことがあった。 
 夜のニュースで、この日の午後、上皇ご夫妻が浅間山の裾野の丘陵地帯に広がる大日向村を訪問されたことを知った。そのための交通規制だったのだろう。
 それ以前にも、大日向村のレタス畑の近くを散歩していたら、遠くに人だかりがあって、中にはテレビカメラを肩に担いだ人もいた。その時もなんのロケだろうと思っていたら、やはり上皇ご夫妻が訪問されたことを夜のニュースで知った。

 あれから4年以上経ったのだった。
 終わってみれば、あっという間のコロナ禍だったようにも思うが、コロナのために入学式が中止になった孫が、今では小学校4年生である。

     

 大日向開拓記念館を訪問された時の映像は、左肩には2008年、画面中のキャプションには2003年とあって、どちらが正しいのかわからないが、今年ではないようだ。
 あそこには昭和天皇巡幸(行啓、行幸の違いは何だったか?)記念の歌碑もあるから、旧軽井沢のテニスコートだけではなく、大日向村にも深い思い入れがおありなのだろう。

 2023年9月3日 記