豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

高峰高原ホテル(2023年7月31日)

2023年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝

 きのう朝(7月30日)のNHKラジオ「山カフェ」(?)で、ゲストの小林綾子が、山好きのお母さんの影響で小さい頃から山登りを始め、高峰高原が入門者向きにお奨めだと語っていた。
 その話をきっかけに、高峰高原ホテル(上の写真)までドライブすることにした。

 軽井沢を10時に出発して、1000メートル林道、国道18号を経由し、浅間サンラインを松井農園入口で右折して、チェリーラインとかいう曲がりくねった山道を10キロほど登って、高峰高原ホテルに到着。標高は2000メートルあるというが、気温はそれほど涼しくはない。

          

 真っ青な夏空に、いくつも逞しい入道雲が湧いている。濃い緑の山間の眼下に広がっていたのは小諸の街並みだろうか。
 何年か前に、小高い小山の頂上にある真田幸村の居城跡から見下ろした上田の町を思い出した。同じ長野県というだけで類似性があるわけではないが、どことなく風景が似ていた。山並みと夏空と真っ白な積乱雲のせいかもしれない。
 日帰り入浴に浸かってから、高峰高原ビジターセンターというところでソフトクリームを食べる。周りはトレッキングというのか、山歩きから戻ってきたハイカーが数組。年代はぼくと同世代で、がやがやと煩くしゃべっている。

     

 来た道を戻るのも能がないので、「嬬恋方面」という道路標識にしたがって、嬬恋、鬼押出し経由で帰ろうと思ったが、ホテルの人が「途中は舗装されていない道路もあり、お奨めできない」というので、来た道を戻ることにした。

     

 下りは急カーブもああまり気にならなかった。浅間サンラインから眺める浅間山はどこか無骨で、火山だなあと思わせる(上の写真)。軽井沢から眺める浅間山は裾野をゆったりとなびかせて、優雅な印象である。

 2023年8月1日 記 

この夏の軽井沢(2023年7月28日)

2023年08月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 7月28日(金)、軽井沢にやって来た。
 南軽井沢交差点を左折した所の気温表示は29℃となっていた。軽井沢にしては暑い方だが、下界の暑さに比べれば涼しいものである。
 日ざしは真夏のそれで、真っ青の夏空に純白の積乱雲がもくもくと立ち上っている。
 浅間山も群青色の山影を輝かせ、ハート形のクレーター(噴火口?)をくっきりと浮かび上がらせている。
 上と下の写真は、バイパス沿いのケーヨーD2 から眺めた浅間山。

     

 昼食は追分そば茶家で、天せいろともりそば。最近は、夫婦で天ぷら2人前を食べることがきつくなってきた。

     

 夕食後、中軽井沢図書館で借りてきた宮崎駿の「風立ちぬ」を見る。
 「風立ちぬ」といえば堀辰雄だろうが、堀とは全く関係のない戦闘機の設計者をモデルにしたストーリーで、唯一主人公の、婚約者が結核を患っていて富士見のサナトリウムに入院したりして、死期が近いということだけが堀の「風立ちぬ」を思わせる。そういえば、その女性の名前が「菜穂子」だった。
 そんな女性の臥せっている部屋で主人公が煙草を吸うシーンがあった。戦前とはいえ、そんなことが許されたのだろうか。死期の迫った結核患者自身が煙草を吸うならまだしも・・・。
 
 軽井沢らしき場所が出てきた。「草軽ホテル」となっていたが、三階建ての山小屋風のホテルに二人が滞在する。正面玄関やオープンテラスなどの外観は万平ホテルを思わせる。
 ※ただし、万平ホテルは現在改築中で、あの山小屋風の外観はどうなるのだろうか。改築現場の横の空き地で、アップルパイの販売だけをやっていた。

 菜穂子がキャンバスに向かって絵を描いている場所は追分にしては明るすぎるが、きょうの軽井沢の夏空には似つかわしい光景だった。
 大型のパラソルを飛ばす突風は、「風立ちぬ」というには強すぎはしないか。
 一昨年の秋、堀辰雄を読んでいた頃、小学館文庫だったかの表紙がなぜかアニメ風で違和感を覚えたのだが、宮崎のアニメ映画上映に便乗した出版だったのだろう。

 夜になると期待以上に気温は下がり、やはり東京とはケタ違いの涼しさで、掛布団をかけて寝ることができた。

 2023年8月1日 記

きょうの浅間山(2023年7月27日)

2023年07月27日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 東京も毎日暑いが、軽井沢も連日30℃を超える暑さが続いているようだ。
 夜になると、東京よりは多少は涼しくなるだろうが、日中の暑さを考えるとあまり行く気にもなれず、東京のエアコンの中で生活している。
 行くことができないので、気象庁HPの監視カメラ画像から今朝の浅間山の姿をアップしておく(上の写真)。

 最近では軽井沢でエアコンを使っている家もあるが、エアコンを使うならわざわざ軽井沢まで行く必要もないだろう。
 軽井沢の俗化を嫌った西洋人たちは野尻湖に避難したというが、この夏は野尻も連日30℃超えで、結構暑いらしい。夏季合宿の生徒たちが湖で泳ぐにはいいが・・・。

    

 自然の環境、気温で、夏が一番快適なのはどこだろうと言ったら、地理にはまっている小学4年生の孫が、日本で一番夏の平均気温が低いのは、北海道の釧路、根室だと教えてくれた。
 以前釧路に行った折に、釧路では空き家を夏の間だけ避暑用の別荘として貸し出すビジネスがあると聞いた。需要があるのだろう。
 釧路は空港もあるから、東京からの交通の便も悪くない。渋滞した関越道よりは短い時間で到着できるかもしれない。
 上の写真は、同じく気象庁監視カメラから釧路、雌阿寒岳の現在。
  
 そう言えば、倍賞千恵子も、ロケで訪れて気に入った中標津に別荘を持っていると何かに書いてあった。

 2023年7月27日 記
 

きょうの浅間山(2023年5月25~26日)

2023年05月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 昨日から軽井沢に行ってきた。今年最初の軽井沢である。
 週末まで滞在する予定だったのだが、予想外に寒くて、今朝帰ってきてしまった。
 日中は日ざしもあって、多少風が冷たいなというくらいだったのだが、日が落ちると途端に寒くなって、長そでシャツにセーターだけでは寒い感じがした。家内はダウンジャケットを羽織っていた。
 上の写真は、きのう夕方の浅間山。石尊山の少し左側に夕陽が傾きかけていた(下の写真)。

   

 軽井沢駅に用事があり、ついでにショッピング・モールを眺めた。中国人と思しきカップルや家族が多かった印象。 

      
    

 夕食後は早々に布団に入ったが、掛け布団1枚では寒くて眠れず、起き出してもう1枚かけてようやく眠った。
 寝ながらラジオで地元テレビ局の音声を聞いていたのだが、中野市で起きた連続殺人事件を夜じゅう中継で伝えていた。明け方ふと目を覚ますと、午前4時半に、立てこもっていた住宅から出てきた犯人を確保したとリアルタイムで伝えていた。
 ちなみに、長野の地方局ラジオでは、ご当地力士の御嶽海の勝敗だけを伝えていたし、信濃毎日新聞も御嶽海の前日の勝敗(実は負けた)を写真入りで報じていた(視野の写真)。

   

 せっかく良い天気がつづきそうだったので出かけてきたのだが、これではと26日朝、早々に帰京することにした。
 発地市場によって野菜を買い込んで、峠を下る(下の写真は発地から眺めた浅間山)。

   

 途中の横川サービスエリアで、孫の好物、峠の力餅を買って、昼過ぎには帰宅した。
 帰宅後に家内が近所に買い物に行くと、東京の野菜の値段も落ちつき始めたのか、値段の点では発地と大して違わなかったという。新鮮さでは断然発地だが。
 下の写真は、横川SAから眺めた妙義山。

   

 妙義山といえば、妙義龍という力士もぼくの好きな相撲取りである。玉鷲と並ぶベテランのようだが、飄々として相撲を取っている様子がいい。兵庫の出身で、群馬の妙義山とは関係ない四股名のようだが。
 今場所はご贔屓の霧馬山、朝の山が好調なので、気分がよい。2020年1月に足を骨折して入院した時から相撲のテレビ中継を見るようになったのだが、その頃は前頭に上がったばかりだった明生も調子が良い。
 しかし今日の貴景勝戦は興ざめである。せっかく関脇陣が奮闘し、休場明けの照ノ富士ががんばっているのに、大関が立会い変化とは・・・。引き揚げてきた支度部屋で明生が悔しさをにじませたという。しかし明生も、相手が変化する大関であることは警戒しておくべきだった。今場所もすでに何度も変化しているのだから。

 若元春という力士も、亡母の子どものころの写真と顔つきが似ているので、他人とは思えない親しみを感じる。
 早く現在の関脇陣4人がみんな大関に昇進して、場所を盛り上げてほしい。次の横綱もこの4人の中から出てくるだろう。
 
 2023年5月26日 記

きょうの浅間山(2023年5月16日)

2023年05月16日 | 軽井沢・千ヶ滝

 気象庁監視カメラ(浅間・鬼押)から、今朝10時すぎの浅間山(上の写真)と、夕暮れ時18時すぎの(といってもずいぶん日が長くなったので、まだ明るい)浅間山(下の写真)。

   

 午前中は、北側に雪が一筋だけ残っているのが見えたが、夕方の写真ではほとんど解けてしまったようだ。
 気象庁の監視カメラというのは、どこに設置されているのだろうか。山影からすると、峰の茶屋から鬼押出しへ向かう有料道路の途中あたりだろうか。

 2023年5月16日 記

きょうの軽井沢(2023年4月14日)

2023年04月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 何も書くことがないまま2週間が経ってしまったので、ネットで眺めたきょうの軽井沢の風景を。

 上の写真は、気象庁監視カメラ(浅間山・鬼押)で見た今朝の浅間山の風景。3月末に見たときに比べて、ずいぶん山肌の雪が解けている。春なのだ。
 山頂にたなびいているのは噴煙か、雲か・・・。

 下の写真は、長野県道路事務所の定点カメラがとらえた鳥井原東交差点の風景。のどかな春の日ざしが感じられる。

    

 その次は、軽井沢町役場のカメラ。町役場周辺の風景だろうが、左手の道路が国道18号か。右手に咲いている花はコブシかモクレンか、それともサクラだろうか。

    

 以前春休みに出かけたときには、浅間山を背景にして中部小学校(?)の校庭にサクラが咲きほこっていてきれいだった。

 2023年4月14日 記

大石慎三郎『天明3年浅間山大噴火』

2023年03月27日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 大石慎三郎『天明3年浅間山大噴火』(角川選書、1986年)を読んだ。

 浅間山は天明3年(1783年)に大噴火して、広範囲に大きな被害を及ぼし、噴煙の滞留を原因とする気候不順がもたらした凶作から田沼意次が失脚しただけでなく、世界的にも気候不順をもたらし、農作物の不作からフランス革命の一因にもなったとされる(78~9頁)。
 この大噴火で、浅間山北麓の上州(群馬県)鎌原村は火砕流に村ごと埋もれたが、著者は昭和50年代に鎌原村の発掘作業を指揮した中心人物である。本来は近世経済史の専門家だが、この発掘作業は近世(江戸)考古学の先駆けとなったという。
 鎌原村の発掘では、火砕流から逃れるために、老女を背負って鎌原観音堂の石段を登る途中で火砕流に飲み込まれた女性の遺骨が見つかり、当時の新聞でも報道されて話題になった。ぼくは、岩波書店のPR誌「波」か何かに大石氏が書いた鎌原村発掘の記事を読んだ記憶があるが、先日、江戸時代の不義密通の本を図書館で借りる際に、ふと本書が目にとまり借りてきた。
 ところがこの本を借りてきた直後の23日に、NHKのニュースで浅間山の噴火警戒警報がレベル2に引き上げられたことが報じられた。すぐに噴火するわけではなさそうだが、妙な暗合を感じた。冒頭の写真は、気象庁監視カメラ(浅間・鬼押)から、噴煙(?)をあげる浅間山(2023年3月27日12時25分)。

       

 さて本書は、天明3年の浅間山大噴火の発生から、噴火による被害、その後に近隣で発生した大暴動(一揆)、そして鎌原村の被害と発掘作業が描かれる。
 浅間山の噴火は「日本書紀」685年の記載が最初とされるが、近世に入っても慶長元年(1596年)以降数十回の噴火が記録に残っている。その中でも天明3年(1783年)の噴火は「浅間山三大噴火」の一つとされている(39~41頁)。
 この年の4月8日(旧暦)に最初の噴火があり、その後も小噴火を繰り返し噴煙がたなびき鳴動がつづいたというが、最終的には7月6、7、8日の3日間にわたって大噴火が発生した。火砕流は1つは浅間山の東北、小浅間山裏手の吾妻方面(現在の北軽井沢別荘地付近)に流れ、1つは真北の鎌原方面に流れ出し、溶岩流は鬼押出し方面(現在の鬼押出し園だろう)を埋め尽くした(48~9頁)。
 軽井沢だけでも焼失家屋52軒、潰家82軒、破損家48軒、本陣大破3軒という被害が出ており、「群馬県史」では死者1624人、流失家屋約1151戸、田畑泥入被害5055石と記されている(56~66頁)。

 生き延びた人たちも飢えに苦しみ、餓死したり、餓死した人馬の肉を食して飢えを凌いだ。一部の被災者は、徒党を組んで東は安中、倉賀野、高崎あたりまで押し寄せて食糧や衣料を奪うなどの挙に出た。西は岩村田、塩名田、小諸から上田にまで向かったが、上田藩および幕府によって阻止され、「天明騒動」といわれた一揆はようやく収まったという(93~105頁)。
 天明の飢饉の惨状は凄まじく、菅江真澄の日記にもまさに屍累々の街道筋の状態や、その死肉を食する人たちのことが記録されている(107頁~)。その一方で草津温泉には、夜空を染める噴煙が売り物になって客数も多かったとされる(114頁)。
 幕府は浅間大噴火の復旧を熊本藩に命じた。熊本藩は最終的に15万両以上の資金を拠出させられ、経済的に窮することになった(122頁~)。なぜ熊本藩かというと、熊本には同じ火山である阿蘇山があることが口実にされたのではないかと著者は推測している。

 鎌原村の発掘作業については省略するが、鎌原村は、現在の浅間白根火山ルートの東側に広がっていたらしい。この道は何度か通ったことがあるが、「鎌原」の地名は道路標識などでも目にした記憶がない。鬼押出しばかりが有名だが、あそこの溶岩流では被災者は出なかったのだろうか。

 ぼくが実際に経験した浅間山の噴火で一番すごかったのは、昭和37年だったかの8月の昼下がりに発生した噴火である。最初に地鳴りがして、振動で窓ガラスが割れ、晴れていた空に真っ黒の噴煙が入道雲のようにゆっくりと湧きあがって天まで上ると、やがて黒雲が空一面に広がって掻き曇り、あたりは夜のように真っ暗になり、雷鳴が鳴り響いてしばらくすると雨が降り始めまたたく間に豪雨となり、小粒の火山岩と一緒に真っ黒の雨が1時間以上降り続いた。
 ぼくは、国道146号沿いの西武百貨店軽井沢店前のバス停で東京に帰る西武バスを待っていたのだが、爆発音の記憶はない。最初は何が起きたのかわからなかったが、近所の別荘の人が何人も出てきて、「家の窓ガラスが割れた」とか「浅間山が爆発したみたいだ」というので、浅間山を眺めると確かに山頂や山腹の噴火口から白い噴煙が湧いているのが見えて、浅間山が噴火したことに気づいたのだった。

 軽井沢町の防災マップを見ると、浅間山の南麓側の千ヶ滝方面にも火砕流の危険個所が何か所も赤く塗ってある。できれば次の大噴火には会わずに済ませたいものである。 

 2023年3月27日 記

きょうの浅間山(2023年1月11日)

2023年01月11日 | 軽井沢・千ヶ滝

 何気なく、「気象庁監視カメラ(浅間山・鬼押)」を開いたら、冬の日ざしに輝く浅間山の姿が載っていた。
 
 太陽の光がきれいだったので、アップする。

 この時期なのに、浅間山の山頂は雪をかぶっていないようだ。
 下界の軽井沢も暖かいのだろうか。

 2023年1月11日 記

きょうの軽井沢(2022年9月26日)

2022年09月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 昨日から1泊2日で軽井沢に行ってきた。

 2日間とも晴天に恵まれた。東京に比べると多少は秋の気配が感じられたが、“風立ちぬ” にはもう一歩のところだった。
 道路のそこかしこに栗の毬(いが)が落ちていたが、あらかた中身は持ち去られた後だった。

 今朝、起きたとき窓の外には霧がかかっていたが、9時近くになると日がさしてきた。きっと浅間山がきれいだろうと思って、絶景ポイントに出かけてみた。
 予想通り、いや期待していた以上に山肌がきれいに青空に映えていた。

   

 中腹の噴火口がしっかりとハート形をしていた。あの噴火口がハート形とは今まで知らなかった。こんなにくっきりと見えることはなかったのだろうか。
 ところで、この噴火口の少し下側にタテの黒い線が見えたが、あれは何なのだろうか。

   

 帰りがけに発地市場から眺めた浅間山もきれいだった。ここからもハート形の噴火口が確認できた。電線が邪魔だけど。
 来年にはこの近くにホテルが開業すると軽井沢新聞に書いてあったが、来年のこの辺りはどんなことになっているのだろうか。

 2022年9月26日 記

さらば、夏の光よ!--軽井沢盛衰物語

2022年09月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 この夏、旧軽井沢の本通り(旧道)を歩いたら、「軽井沢物産館」のシャッターが下りていた。定休日とも何とも掲示してなかったので、閉店してしまったのではないかと心配になった。
 6月に出かけたときには、旧軽井沢ロータリー前の竹風堂のシャッターが閉まっていて、「今期は営業いたしません」の貼り紙があった(下の写真)。

   

 ふり返ると、ぼくの記憶にある軽井沢の商店や、施設のかなりのものがなくなってしまった。とくに、ここ数年は旧軽井沢では本通り沿いの店舗の閉店が相次いでいて、シャッターが閉まったままの店舗が目立つ。栄枯盛衰は世の常と言ってしまえばそれまでだが、昭和からの古い店の閉店がつづくのは寂しいことである。
 ここでは、ぼくの記憶の中にある思い出の店や施設を回想してみたい。前にも「幻のホテル」、「幻の湖」シリーズなどを書きこんだことがあるが、一部は重複している。

☆千ヶ滝(中区)編
 <西武百貨店軽井沢店> 思い出がありすぎて、何から書いたものか。芝生席で飲んだクリーム・ソーダや、スパゲッティ・ナポリタン、そこで開催された古本市で買ったモーム全集の『クリスマスの休暇』(新潮社)など・・・。
 <軽井沢スケートセンター> 毎夏、渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というポップスのコンサートが開催され、ショーが終わると花火が打ち上げられた。世界スピードスケート選手権大会も開催された。屋外リンクの南西側、表彰旗掲揚台の脇に優勝したソ連の選手の雄姿をかたどった銅像があったはずである。
 午前中の勉強が終わってから、スケートセンターのボート池に面したベンチに座って、スピーカーから流れてくるハワイアンを聴きながら、物思いにふけっていた。もちろんスケートもやった。インドアリンクに入ったときの、あの冷気と氷の臭いも懐かしい。テニスコートでテニスをやったこともあった。日陰がなくて暑いコートだった。
 <こけもも山荘> そのテニスコートの国道を挟んだ向かい側(東側)には、「こけもも山荘」という小さなホテル(ペンション?)があった。慶応自動車部の親戚が合宿でここに来たことがあった。部員のらしい改造されたスバル360が庭にとめてあった。後部座席は外されていて、ストーブの煙突のような太い排気パイプ(?)が突き出していた。
 <東京医科大学軽井沢診療所> 西武百貨店軽井沢店から国道146号を少し上った国道に沿った左側にあった。一度何かで診察を受けたのか、待合室の記憶がある。夏の間ここの診察に駆り出されていた若い研修医たち(?)ももう80歳代だろう。隣りが交番か駐在所だったような気もするが、自信はない。
 <貸馬屋> もう少し上ると右手に貸馬屋があった。藤田肉店のあたりだろうか。左手には西武バスの営業所をかねた駐車場があった。この横丁は昭和30年代からすでに寂れていて、当時から西部劇に出てくるゴースト・タウンの雰囲気があった。
 この奥のほうにNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮があったはずである。
 <千ヶ滝郵便局> さらに上ると、道路の右手というか国道が左に曲がる突き当りに、三角屋根の郵便局があった。
 <観翠楼> さらに上った(手前だったか?)左手に日本旅館の「観翠楼」があった。西武・国土計画系の経営で、冬のスケートバス旅行で泊まったことがあった。中学2、3年の頃である。
 <軽井沢グリーン・ホテル> 国道をもっと上ると、左手に「軽井沢グリーン・ホテル」があった。堀辰雄の小説にも出てくるホテルである。ここの2階のレストランでデートしたことがあった。手前には打ちっぱなしのゴルフ練習場があり、道を隔てた向かい側には展望台があった。昭和30年代までは裏手にスケートリンクもあったらしい。
 下の写真は、堀辰雄の追分にある旧宅の庭。先日行ってみたが、この庭の木々の葉の間から遠くに八ヶ岳を眺めることができた。堀はこの庭に座って、富士見のサナトリウムに思いをはせていたのだろうか。

   

☆千ヶ滝西区
 <西武百貨店軽井沢店、西区支店?> 千ヶ滝西区の(旧)NEC保養所の向かいには、西武百貨店軽井沢店の支店があった。コンビニほどにも物はなかった。西区分譲地の販売促進のために作ったのだろうが、それでも、お菓子やかゆみ止め(ムヒ)くらいは置いてあった。東京医大の診療所も付設されていた。西武の従業員の宿舎もここにあった。
 千ヶ滝西区には、かつては<企業の保養所>がたくさんあった。
 日本銀行、日本航空、日興証券、資生堂、朝日放送などなど。防衛庁共済組合の保養所もあった。保養所にやってくる女子従業員のことを、東海林さだおが「寮家の子女」などと揶揄した漫画を描いていたが、社会保険制度の改革で保養所の多くは撤退してしまった。一昨年にはNECの立派な保養所も解体され、跡地には東急の施設が建っている。
 現在西区に残っている保養所の中で目ぼしいのは、東京ガス、フジテレビ、富士通くらいか・・・。いやいや、ものすごいのを忘れていた。ビル・ゲイツの別荘といわれる広大な施設(もう「別荘」などといった範疇ではない)が、2、3年の歳月をかけて作られた。地上からその姿を見ることはできず、全容はGoogle map の航空写真で窺うしかない。

☆星野地区
 千ヶ滝と星野地区の境界は分からないが、千ヶ滝中区から星野に向かって歩いて行くと、「星野xxx番」というハウスナンバー表示の表札を掲げた別荘が並ぶ一角がある。祖父の友人だった先生の別荘も星野の山の上にあった。
 <星野温泉> かつての星野温泉と現在の星野リゾートの関係もぼくには分からないが、「星野温泉」という標石は今でも国道に面したところに立っている。星野温泉の本館が建っていた右手には<星野診療所>があり、<ちびきや>という雑貨屋があった。星野のテニスコートでもテニスをやった。「ちびきや」の店番をしていた娘さんや、テニスコートに面した別荘の女の子のことは今回は省略。
 <合格地蔵> 星野というか、塩壺温泉というか、あの辺りに弘田龍太郎の歌碑があり、その近くの別荘地の一角に「受験地蔵」だか「合格観音」だかがあった(今もあるかもしれない)。高校3年の時に叔父に連れられてお参りに行ったが、ご利益はなかったようで志望大学には落ちた。しかし、結果的に入学した大学で、後に大学教師への道を開いてくれることになる恩師に出会うことができた。ということは「ご利益」はあったのかもしれない。

   

☆ホテル編
 <千ヶ滝プリンス・ホテル> ここには、今年の夏、生まれて初めて入ることができた(上の写真は千ヶ滝プリンス近くの夏景色)。その時の係の説明では、ここは旧朝香宮別邸で、ぼくが生まれた昭和25年の建築ということだった。西武(国土)が買収して「千ヶ滝プリンスホテル」となり、一時は一般客が宿泊したこともあったらしいが、その後は皇太子(現上皇)ご一家専用のホテルになり、一般人は泊まれないどころか、立ち入ることもできなくなった。その後ホテル営業自体が廃業してしまった。
 <晴山ホテル> 「晴山(せいざん)ホテル」は、現在のプリンス・ショッピングモールか軽井沢プリンス・ホテル東館のあたりにあった。「晴山ホテル」は、もとは根津嘉一郎の別荘だったから、東武系だろう。根津が創設した武蔵中学・高校の<青山(せいざん)寮>という夏季寮も、戦後しばらくはあの辺にあったらしい。軽井沢が俗化したとして、群馬の赤城に移転してしまった。
 <浅間モーターロッジ> 国道18号の最高地点、1003メートル(だったか)の南側にあった。当初は高級ホテルとして開業したが、経営不振で文部省共済組合に売られ、その後廃墟になって放置されていたが、今は解体されたようだ。 
 <軽井沢ホテル>、<藤屋旅館> 旧軽井沢の本通りと聖パウロ教会の間に「軽井沢ホテル」、神宮寺の境内に面して「藤屋旅館」という旅館のあったことが、堀辰雄の小説(川端康成『高原』だったかも)に出てくる。ぼくの記憶にはないが、昭和30~40年代まで存在したらしい。戦前の夏の夜の本通りには、別荘の外国人に雇われたアマが徘徊していたと、これは川端の『高原』(61頁ほか)に書いてあった。
 ※「藤屋」「観翠楼」「グリーン・ホテル」は、すべて川端の「軽井沢だより」という短編に出ていた(『高原』中公文庫160~1頁)。「グリーン・ホテル」は堀の「ルウベンスの偽画」にも出てくる(『菜穂子』岩波文庫13頁)

   

☆旧軽井沢本通り編
 旧軽井沢の本通り(と堀辰雄は呼んでいた。ぼくも「旧軽銀座」とは言いたくない)に軒を連ねていた、小松ストア、明治屋(わが家では今でも子供用に使っている “オズの魔法使い“ のイラストが描かれたガラスコップは、このどちらかで買ったピーナッツバターの瓶である)、明治牛乳販売所(諏訪神社の花火をこの店の芝生席から眺めた。この店の裏手にはパターゴルフ場があった)、デリカテッセン(ドイツ語の看板がかかっていて、祖父から訳してごらんと言われたことがあった)、三笠書房(アメリカの犯罪実話雑誌なるものにこの本屋の店頭で初めて出会った)、三芳屋書店(テニスコートへの通りにあった。中軽井沢駅前にもあった)、紀ノ国屋(この跡地が沢村ベーカリーだろうか)、鈴屋ベル・コモンズ、三笠会館(この夏通りかかったら建物の壁面もなくなっていたような・・・)、喫茶店の水野(テラス席に座る中村真一郎を見かけたことがあった)、洋菓子のヴィクトリア(千ヶ滝まで出張販売車がやって来た)、などなど。
 2、3年前には、亡くなった母がお気に入りだった大城レース店(わが家にはやたらとレース物がある)、そしてこの夏は軽井沢物産館のシャッターが閉っていた(下の写真)。かつては看板に英語表記の店名が書いてあった。閉店してしまったのだろうか。だとしたら残念なことである。といって、ここ数年は何も買ったことはなかった。神津牧場のコーヒー牛乳さえ・・・。
 物産館の建物は軽井沢の建築遺産になっているらしい(上の写真)。

   

 かつては物産館で(だけ?)売っていた木彫りの鳥の形をした砂糖壺を、友人の結婚祝いの手ごろな定番としてプレゼントしていた時期があった。もちろんわが家の砂糖壺もこれである(下の赤い鳥)。
 ある時、わが家のこの砂糖壺を見て、その友人の娘さんが「わぁ、これと同じの、うちにもある!」と歓声を上げた。
 「ぼくがプレゼントしたのです。君のお父さんお母さんが気に入って、大事に使っていてくれて有り難う」と、心の声で返事をした。
     
 ついでに、もう一つの鳥型の砂糖壺。こちらは焦げ茶色で、赤いのより少し大振り。
    

 そして、旧軽井沢本通りからは外れるけれど、<紀ノ国屋>や<竹風堂旧軽井沢店>など・・・。   

☆軽便鉄道・国鉄編
 <草軽電鉄> 旧軽井沢では何といっても、草軽電鉄がなくなってしまった。残っていれば、貴重な観光資源になったと思うが、旧軽井沢駅舎やすぐ隣りのロータリーを横切る踏切など、撮り鉄が押し寄せてかえって迷惑かも。下の写真は、旧道入口のロータリー脇、かつて草軽電鉄の旧軽井沢駅があったあたりに建つ「旧軽井沢駅」の駅標(もちろんレプリカ)。
   

 旧北軽井沢駅跡に、あのカブト虫型車両が保存されており、走る姿は木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」(松竹、1951年)でふんだんに見ることができる。
   

 <信越本線> そういえば、国鉄の信越線もなくなってしまった。あさま号やそよかぜ号だけでなく、横川駅、熊ノ平駅、さらには中軽井沢駅駅舎もなくなってしまった。中軽井沢駅前の観光案内所はなくなってしまい、沓掛時次郎饅頭を売っていた土産物店も閉まったままである。
 下の写真は、現在の中軽井沢駅の駅標。
 

 <西武バス西区線> これもあげておこうか。現在は軽井沢病院行きの、黄緑色のコミュニティ・バスが運行している。

 さらば、夏の光よ!
 変わらないのは、浅間山だけである。

 ※ 冒頭の写真は、浅間サンライン沿いの浅間高原牧場・小諸ファームの夏空。右手の緑の向うに浅間山の天辺がわずかに覗いていた(2022年8月7日)。

 2022年9月4日 記

鬼押出し、白糸の滝、碓氷峠見晴台(2022年8月30日)

2022年09月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月30日(火)曇り。
 朝8時30分に千ヶ滝を出発して、国道146号を北上して鬼押出しに向かう。
 旧グリーン・ホテル、万山望あたりから霧が立ち込めてくる。有料道路のあたりも霧で、残念ながら浅間山を眺めることはできなかった。
 途中の絶景ポイントにあった道の駅も閉鎖されて何年になるのだろうか、だいぶ寂れていた。

 9時過ぎに鬼押出し園に到着したが、駐車場には先客が1台とまっているだけだった。
 霧雨は時おり小雨に変わり、溶岩たちも霧に煙っているので、しばらく車中で待機する。先客も全員車中にとどまっている。そのうち、もう1台がやって来たが、やはり車から出てこない。
 9時半すぎ、すこし霧が収まってきたので、意を決して見物に出かけることにした。

   

 幸い傘をさす必要もなく、頂上の寛永寺別院に到達した。残念ながら嬬恋側の山並みもほとんど見えなかったが、雨が降らなかっただけでも良しとせねばなるまい。

 ついで、白糸の滝に向かう。
 後続車はゼロ、対向車もほとんどいなかったので、のんびりと山道を下ったが、白糸の滝に到着すると、駐車場というか道端の駐車スペースはほぼ満車状態。
 滝への登り口より旧軽井沢側に寄ったほうに空きスペースを見つけたので、そこにとめた。
 人物の映っていない滝の写真は撮り忘れた。池の淵はいつもながらの人だかりで、撮れなかったといった方が正確かもしれない。

 次は、碓氷峠の見晴台に向かう。
 小瀬温泉から三笠通りを下って旧軽井沢の別荘地帯を抜けて、左折して水車の道(と堀辰雄は呼んでいた。聖パウロ教会前の小道)に入り、神宮寺の横を通って、ショー牧師記念碑のあたりで旧中山道に出る。山道を登ること約10分で見晴台の駐車場に到着。
 この頃には日も射し始めてきたのだが、見下ろした妙義や霧積の方角は雲海の中。軽井沢方面はかろうじて離山が見えていたが、ここでも浅間山は見ることができなかった(冒頭の写真も見晴台からの風景)。

   

 森村誠一の『人間の証明』と言っても、西條八十の霧積の詩と言っても、若い人にはまったく伝わらない。
 ぼくたちの結婚式では、エンディングのBGMに、 “Mama ! Do you remember ・・・♪ ” というジョー・山中が歌った『人間の証明』のサントラ盤を流したのだった。

   

 再び山道を下り、旧軽井沢の沢村ベーカリーで昼食。ここは以前には紀ノ国屋があった場所だろうか。駐車場の木立に面影が残っているが・・・。
 本当は浅野屋がごひいきなのだが、コロナの折から、テラス席もあって開放感があるこちらの店にした。

 2022年9月1日 記

浅間サンライン(2022年8月29日)

2022年09月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月29日(月)、この日も天気がよかったので、浅間サンラインを道の駅<雷電の里>までドライブしてきた。
 <雷電の里>は、行政区画でいうと小諸市の隣りの東御市(とうみ)にあり、軽井沢からは20キロくらいの距離である。
 浅間サンラインは、秋の風景が似合う街道だが、この日は「秋」というには少し早かった。それでも車窓から眺める澄んだ空と掃いたような雲には秋の気配が漂っていた。

   

 <雷電の里>は、数年前に来たときは、大関昇進前の御嶽海のポスターが貼ってあったが、今回は(余りの不調のためか)御嶽海のポスターはなかった(と思う)。
 道の駅の少し上田方面寄りに「雷電の生家跡」の看板が立っていた。雷電は本当にこのあたりで生まれたのだった。御嶽海は、百何十年ぶりの、同じ長野出身の大関だが、この辺の出身ではなかったはずである。

   

 浅間山は、軽井沢側から眺める、あの裾野をゆったりと伸ばした姿がいちばんで、小諸側から眺める浅間山は不恰好で好きになれない。
 今回<雷電の里>の駐車場に設置された案内標で見ると(上の写真)、あの不格好な山々は浅間山自体ではなく「浅間山連峰」の山々だったらしい。右端に小さく見える山(だけ)が浅間山と表記されていた。
 ちなみに、浅間山の隣りに「前掛山」の表示があった。軽井沢側から見て浅間山の左隣りの山は「前掛山」でよかったらしい。最近見た地図にこの名前が載っていなかったので少し不安だったのだが。
 浅間山、前掛山、石尊山が、個人的には「浅間三山」である。

 そこそこ暑かったので、ブルーベリー+バニラのソフトクリームと、シャインマスカットのソフトを食べた。
 JAFの会員証を提示すると1個につき50円おまけしてくれた。

 2022年9月1日 記

昭和天皇行幸記念碑(軽井沢町大日向)

2022年09月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月28日(日)、暑くもなく寒くもない、日が照るでもなく雨が降るでもない、散歩には程よい天気だったので、軽井沢町大日向(おびなた)にある昭和天皇行幸記念碑まで、散歩してきた。二度目の訪問である。
 昭和天皇は借宿(の現在は国道18号の交差点)から歩いたらしいが、我われはもう少し近くから、それでも2キロ近く歩いた。
 何年か前に、上皇ご夫妻がこの近くの畑を訪問されたのを偶然にお見かけしたことがあった。その畑の少し先にある。

   

 原武史『昭和天皇』(岩波新書)にも載っていた御製の歌碑が建っている。
 草書(?)のため、全部は判読できなかったが、
 浅間おろし つよき麓にかへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか
 と詠んだらしい。最後の字余りの「か」は何を意味するのだろうか。「何と堂々とした姿か」「何と立派な行いであることか」などの「か」と同じ意味か。

   

 大日向村への行幸は昭和28年だっただろうか。満蒙開拓団の帰村地である大日向村は、まだ開墾の途上だったと思うが、「田人」というからには、原生林はすでに伐採されて畑になっていたのかも知れない。
 途中の道沿いのレタス畑では高齢のご夫婦が農作業にいそしんでいた。

   

 この光景がいつまでも続くことを願うばかりである。

 2022年9月1日 記

きょうの軽井沢(2022年8月27日)

2022年08月27日 | 軽井沢・千ヶ滝

 現在の浅間山。中軽井沢、沓掛テラスの図書館2階からの眺め。
 天気は良いけれど、頂上から裾野にかけて、雲に隠れています。
 地上の空気は澄んでいて、秋を感じます。

 昨日はラジオで、門あさみの “シーズン” がかかり、NHKラジオ深夜便では午前2時台にレターメンの “涙の口づけ” “ミスター・ロンリー” 、その他の懐かしい曲がかかっていました。

 2022年8発27日 記


きょうの軽井沢(2022年8月3日)

2022年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょうの軽井沢。
 沓掛テラス内の軽井沢図書館から眺めたきょうの浅間山。

 ここ数日は軽井沢も日中は30℃を超える暑さが続いている。
 38℃とかいう東京を思えば、この程度とは思うが。

 下の写真は7月31日の中軽井沢駅前の風景。

   

 つぎは旧千ヶ滝プリンスホテルの入り口ゲート。

   

 旧千ヶ滝プリンスホテルで何があったかは、主催者側の希望によって書かないでおく。

 2022年8月3日 記