豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

NHKラジオ深夜便「風になる」(小手拉大手)

2024年01月19日 | あれこれ
 
 夕べ(1月19日の午前3時すぎ)、NHKラジオ深夜便から、懐かしい曲が流れてきた。
 数年前(といっても調べたら2016年の11月だった)に、台湾に旅行した帰りの台北、松山空港のロビーで、何かのCMの撮影をやっていた。
 空港ビルに入っている土産物売り場のおねえさん、おにいさん、それにおじさん、おばさんたち10数人が一列に並んで、何かを手に持ってフラダンスのような仕草で踊りながら行進するのである。観光客が物珍しげに眺める真ん中を、大して恥じらう風もなく2、3度撮り直しをしていた。

   

 その時に流れていた曲がなぜか強く印象に残っているのである。その曲は息子が台湾で買ってきたCDにも入っていたのだが、名前は知らなかった。今朝早朝に久しぶりにその曲がラジオから流れるのを聞いて、今度こそ名前を知りたくなった。
 曲の途中から聞いたので曲名は分からなかったが、午前4時前にそのコーナーが終わるときに「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌特集でした」とアナウンサーが言っていたので、起きてから google で「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌」を検索したが、分からなかった。そこで、「スタジオ・ジブリ 歌 台湾」で検索すると、(スポンサーを除いた)一番最初に、この曲の youtube のページが出てきた!
 梁静茹(しずかにゆでる?)という歌手が歌う「小手拉大手」という曲で、つじあやの「風になる」のカバーらしい。梁静茹というのはシンガポール出身の台湾で活躍する歌手だそうだ。
 「猫の恩返し」という映画の主題歌と紹介があった。何度も書いたけれど、ぼくは「火垂るの墓」以外のアニメにはまったく関心がない。とうぜん「猫の恩返し」という映画も知らない。しかし、この曲はいい。すごくいい。この曲を聞くと、2016年の、たった一度だけの台湾旅行のあれやこれやを思い出す。ただし歌詞の内容はまったく分からない。唯一「加油!」(チャーヨン)と言っているのだけは聞き取れるから、応援歌なのだろう。
 ※「小手拉大手」というのは、直訳すれば小さい手が大きな手を引っぱって(拉致の拉!)という意味で、「子どもに手をひかれて」くらいの意味だという。それで、あの松山空港のCM撮影のニュアンスも分かってきた。老若男女が一列になってそれぞれ手を引かれて台湾(台北)観光に繰り出す、というコンセプトだったのではないだろうか?

   

 台北から基隆(キールン)を経由して、「千と千尋の神隠し」の舞台となった九份(きゅうふん)に行くマイクロバスのツアーに参加した。基隆ちかくの海岸沿いには断崖がせまり、激しい波が打ち寄せていた(冒頭の写真)。
 みやげ物売り場の並ぶ九份の坂道は雨の中、日本人観光客でごった返していた。週末の清水寺に向かう九条坂なみだった。ほとんど屋根がないので傘をさしたまま歩かなければならず、土産物を物色する元気も出なかった(上と下の写真)。
 11月の雨の日だったにもかかわらず生暖かく、亜熱帯であることを実感した。
   
      

 「地球の歩き方」を片手に地下鉄の一日乗車券(suicaのようなカード)を買って歩きまわった台北の街並み、二人乗りのバイクの洪水、意外に小さかった白菜が飾ってあった故宮博物院、忠烈碑の前を通った時のタクシー運転手とのやりとり、中正記念堂(?)の衛兵交代式、101タワー、“ジベタリアン“ が沢山座り込んで本を読んでいた誠品書店、途中の乗り換えが不安だったが無事行き着くことができた新北市の輔仁大学、あまり美味しくなかった寧夏夜市の牡蠣オムレツの匂いまで思い浮かぶ。
 そんな光景を思い出させてくれる「風になる」というか「小手拉大手」なのである。

 2024年1月19日 記

ぼくの新春歌会始

2024年01月07日 | あれこれ
 
 ぼくだけの新春歌会始(?)。あるいは、ぼくの「一人十首」。

 数日前のNHKテレビ「漫画家イエナガ」の短歌講義を聞いたばかりのところ、今朝の早朝(1月7日午前2時半すぎ)NHKラジオ深夜便の「フォスター特集」を聞いていたら、下の第1首が浮かび、その後相ついで歌(?)が沸々と湧いてきた。
 すべて1963~4年ころの中学校時代の思い出だが、そのまま眠って朝になったら忘れてしまいそうだったので、起き出して午前4時近くまでかけて推敲して書き留めた。意外に寒くはなかった。
 そんな訳で、きょうは睡眠不足。

※音楽室の壁に飾ってあった音楽家たちの肖像画の思い出。
 フォスターの 頬杖ついて 物憂げに
 ぼくを見下ろす 音楽室で

※赤人の長歌を暗誦したぼくを「すごい!」と褒めてくれた明田川先生。
 「天地の 分かれし時ゆ ・・・」 暗誦し
 褒められし日を 今も忘れず

※教科書に牧水、茂吉、晶子らの短歌が2首づつ載っていた。
 街をゆき 子供の傍を 通る時
 思い出すのは 木下利玄

※ぼくの読書開眼は中学2年の教科書で読んだ芥川からだった。
 光村の 教科書で読む 芥川
 「魔術」の魔術か 本の虜に

※英語の先生から「君たちはどんな歌を聴いているの」と聞かれ、ジョーン・バエズを歌った。
 「ドナ・ドナ」を 英語で歌って 拍手浴び
 「悲しい歌ね」と 先生は言い

※「アイドルを探せ」のシルビー・バルタンのファンだった頃に。
 バルタンの ポスターくれた 林さん
 「私の方が 可愛いのに」と

※週番として下校確認の校内巡回をした教室で。
 放課後の 教室に一人 岡☆さん
 白いブラウス 夕日に染まり

※下校時刻が来ると校内にアニー・ローリーが流れた
 本当は 「エデンの東」が 好きだけど
 下校時刻は アニー・ローリー

※生徒会で知った「動議」という議事運営の民主主義。生徒会長は3年生の女子だった。
 言い募る ぼくを制して 委員長
 「動議ですか?」と 議事を進行

※203高地、和服の教師もいた時代だった。
 先生を 「ババア」と呼んだ 悪童の
 わが身に老いの 来るを知らでや

※ユーモアのある祖父との思い出。「夕べに風あり 秋立ちぬ」?
「夕有風 立秋」 読んでご覧と 祖父が言い
“You are foolish” と 孫をからかう

 長期記憶は五・七・五のリズムに合うのだろうか。

 2024年1月7日 記
 
 ※一部は仮名とした。本当は実名にして本人に読んでもらいたいのだが。岡☆さん、元気かな?
 ※冒頭の写真は今日の浅間山(追分)。気象庁観測カメラから。

A Happy New Year ! 2024

2024年01月01日 | あれこれ
 
 2024年、明けましておめでとうごいざいます。
 今年も、東急シルベスター・コンサート(テレビ東京)とともに明けました。
 「豆豆研究室」を開設してから18年目を迎えます。今年も変わりばえのしないこと “Mixture as Before” を書き綴っていきたいと思います。よろしかったら、眺めてやって下さい。

    

 そして昨年、2023年も例年通り、東急シルベスター・コンサートを見ながら過ぎていきました。

 「今夜は誰も眠らせない」と誰かが歌っていたにもかかわらず、1月1日(日)午前0時半頃に眠り、そして、午前5時20分ころに目が覚めた。
 今朝もNHKラジオから、「放送開始100年記念プロジェクト 100人インタビュー」が聞こえてきた。なんと、毒蝮三太夫だった。2024年は毒蝮の声とともに始まった。
 彼は民放(TBS?)の昼の番組でお馴染みだったが、実は子役出身で4、5歳だったかの頃から内幸町のNHKで、生放送に出演していたという。NHKの街頭録音の元祖、藤倉修一や、向島出身の鈴木健二らとも交流があったと言っていた。
 90歳近いはずだが、聞こえてくる声はとてもそんな年齢には思えない元気な声だった。

 次は高嶋秀武だった。
 彼のオールナイト・ニッポンも聞いた。特徴のある喋り方で、わりと面白かった記憶がある。彼も小さい頃からのラジオ少年で、NHKの公開放送などに通い詰めたという。彼はもともとはスポーツ中継専門で採用されたそうで、志村清順(?)アナの思い出話や、彼も藤倉修一の思い出を語っていた。
 高嶋は一時期テレビに出演していたのを見たことがあったが、すぐにテレビには向いていないことを見極めたのだろう、あっという間に消えてしまった。
 80歳すぎの現在も現役で喋っていると言っていたが、彼の声も80過ぎとは思えない元気な声だった。80を過ぎても「喋り」の仕事がある現役というのは羨ましい。

 今朝はこの2人の前に、笑福亭鶴光と東海林のり子も出ていたらしいが、彼らよりは毒蝮のほうが懐かしい。
 
 2024年1月1日 記

ラジオ放送開始100周年・その3

2023年12月31日 | あれこれ
 
 12月31日(日)、2023年最後の日。
 今朝も午前5時すぎに、NHKラジオの「放送開始100周年」記念番組で目が覚めた。この時間になると自然に目が覚めるようになった。

 ぞんざいなしゃべり方をする老人だったが、そのうち話の内容から、みのもんただと分かった。
 彼も、文化放送セイ・ヤングの初期の頃に聞いたことがあった。ぼくの記憶にあるのは、彼の番組の内容ではなく、深夜放送ファンの集いか何かで、セイ・ヤングや他局のパーソナリティーが集合する中で笑っている彼の写真である。「深夜放送ファン」か何かに載ったのだろう。当時は御法川(みのりかわ)英文だったか何か、本名を名のっていた。そしてセイ・ヤングの田名網ディレクターというのは、「日本史の傾向と対策」(旺文社)でお馴染みだった田名網宏先生の息子だと落合恵子が言っていた。
 みのは番組の中でいろいろ失敗があって、番組を下ろされ営業に回されたため、文化放送に自分の居場所はないと辞職したと言っていた。名古屋の水道業者の倅だと当時から聞いていたが、そこに戻ったらしい。みのの番組内の発言に抗議する人たちが四谷2丁目の文化放送に押しかけたこともあったと言っていた。あの四谷の文化放送の前で、ぼくはデビュー間もないアグネス・チャンを見かけたことがあった。
 みのは同期(だったか)の久米宏をしゃべりの天才と言っていた。そういえば、久米の「土曜ワイド・ラジオ東京」(TBS)という番組もよく聞いた。土曜の朝8時ころから夕方の4時か5時までの放送だった。「東京の街、ここはどこでしょう?」というコーナーがあって、久米が現地の風景を中継し、視聴者にそれがどこかを当てさせるという趣向だった。
 ある回では、朝の番組開始とともに久米が(おそらく上野駅から)東北線に乗って旅を始め、途中下車しながらその地を紹介するという企画もあった。最後の下車駅が青森の八戸で、海岸が(砂浜でなく)草地になっている海岸からの中継で番組が終わった。草浜の海岸線、一度行ってみたい。
 みのは喋ることが「天職」だったと言っていたが、今朝はどこか寂しそうな喋り方だった。

 2人目は浜村淳だった。彼の番組はまったく聞いたことがないので、興味もないままに聞いていたら、彼の番組に出演した忘れられないゲストとして、ソフィア・ローレン(!)とアラン・ドロンをあげていた。ビックリしたが、2人とも映画の番宣で来日した折に出演したという。
 わが憧れだったソフィア・ローレンに会ったことがあるとは羨ましい限りだが、そのソフィア・ローレンにきつねうどんを食べさせる企画だったという。
 彼女は胸元のVゾーンが深く切れこんだドレスだったので、隣りに座っていた彼の視線は思わずその胸元にいってしまい、しかも「彼女のバストは96センチです」と放送してしまったそうである。そうしたら、彼女が怖い顔になって「立ちなさい!」と言ったので浜村が直立不動になると、彼女は「上から見たほうがよく見えるでしょ!」と笑ったという。
 ソフィア・ローレン関連のグッズはあまり持っていないが、芳賀書店の写真集のほかに、ホンダの原付自転車ロードパルの広告パンフが残っていた(冒頭の写真)。
 表面には、「まず、私が乗ってみました」というソフィア・ローレンのセリフがある(本当だろうか?)。下の白いスペースに「ホンダ専門店 宮原商会 新宿区須賀町14番地」というスタンプが押してある。何と、ぼくが勤めていた出版社と同じ番地ではないか! あの頃は複数の建物に同じ番地がついていたのだ。大日本茶道学会のあたりだろうか、そんな店があったような気もするが・・・(下の写真)。
       

 3人目は中村メイコだった。
 彼女に関するぼくの記憶は、何といってもNHKラジオの夕方の番組「1丁目1番地」である。家族で夕食を食べながら聞いた。
 中村が一人で3役も4役もやっていた。ぼくが子どもだったこともあるけれど、数人でやっていると思い込んでいた。「ペスよ、尾をふれ」という番組も中村メイコだっただろうか(松島トモ子だったかも)。悲しい内容の回に、聞いていた妹が号泣したため、隣りの部屋から母親が飛び出してきて、「何で妹をいじめるの!」と濡れ衣で叱られたことがあった。
 中村は、徳川夢声を師匠のように語っていたが、ぼくは徳川をうまいとは思わなかった。昭和30年代当時、すでに時代遅れの感じがしていた。ぼくが一番うまいと思ったのは森繁久弥である。NHKの朗読番組で、どう聞いても女声が一人はいるだろう、加藤治子(だったか、加藤道子)と2人でやっているのだろうと思って聞いていたら、最後にアナウンサーのナレーションで「出演は森繁久弥でした」というので、一人芝居(?)だったと知ってびっくりしたことがある。
 中村はマイクに向かうと仕事モードになったと言っていた。
 ぼくも授業の始まりにマイクのスイッチを入れると、気持ちにもスイッチが入った。マイクのスイッチが入っていることを確認するため、フッ!とマイクに息を吹きかけていたが、ある時、授業評価の自由記載欄に「授業の最初にマイクに息をかけるな、耳障りだ!」と書き込みがあった。授業評価の意見に対してはリアクションをせよとのお達しだったので、次の授業の初めに、「マイクに息を吹きかけるなと叱られたから、今後は息を吸うことにする」と言ってマイクに向かって深呼吸をしたら、学生たちが笑った。
 中村といえば、旦那の神津善行は神津牧場と関係があったはずである。子どもの頃、叔母のクルマで軽井沢から荒船高原、神津牧場に出かけたことがあった。川端康成の「高原」にも、神津牧場から軽井沢への旅行記が載っていた。神津牧場は明治製菓か明治乳業が所有する牧場だったらしい。

 2023年12月31日 記

 ※2024年1月8日追記
 中村メイコさんは、この録音が放送されたまさに12月31日に亡くなられたそうだ。
なお、「一丁目一番地」が彼女の一人芝居というのは間違いだった。でもあの頃そういう(彼女の一人数役という)ラジオ番組があったことは間違いない。

ラジオ放送開始100周年・その2

2023年12月30日 | あれこれ
 
 12月30日(土)午前5時15分ころ。
 今朝もNHKラジオの「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」で目が覚めた。
 ラジオから聞こえてきた声は最初は小島一慶かと思ったが、吉田照美だった。吉田照美は深夜放送をやっていただろうか? ぼくには記憶がない。昼間の番組だったように思う。

 2人目は荒川強啓だった。彼はもともと山形放送のアナウンサーだったという。
 彼も午後というか夕方の番組の記憶しかない。山形放送時代に、山形弁で喋ったら、山形弁をバカにするな!と投書されたことがあったとか。その後彼は徹底的に山形弁を勉強してマスターしたと語っていた。山形弁には置賜(おきたま)弁など全部で4種類あるそうだ。
 むかし井上ひさしの「下駄の上の卵」を買ったものの、あの置賜弁で書かれた文章に辟易して十数ページで投げ出したことを思い出した。

 3人目は宇田川清江という、ぼくの知らない人だった。
 NHKの元アナウンサーで、「ラジオ深夜便」の第1期のアナウンサーだったという。
 「深夜便」の番組開始時に指示されたことは3つだけ、1つは、民放のアナウンサーと違ってNHKアナウンサーのゆっくりした喋りをすること、2つは、リクエストは募集しないこと、3つは番組でかける曲は必ず最初から最後まで掛けること、この3つだけだったという。
 リクエストは募集しなかったが、淡屋のり子の「別れのブルース」をかけたところ、視聴者から、このレコードを残して戦地に散った彼の思い出をつづった投書が来たことがあったという。番組で紹介したところ、その彼のイトコだと思うという方から返信があり、何とその彼は戦地から生還したが、結婚することなく独身のまま数年前に亡くなったと聞かされたというエピソードを紹介していた。
 50年前に吉祥寺駅の改札口で出会った武蔵野女子学院の女生徒の思い出話どころの思い出ではない。

          

 ラジオ番組で思い出したことをいくつか。
 1つ、「桂三枝の深夜営業」という深夜放送もよく聞いていた。そのうち何回かはテープに録音してある。桂三枝もラジオに出るようになった最初の頃は面白かった。
 2つ、土井まさるの「真夜中のリクエスト・コーナー」ではなく、夜の8時から10時ころの番組もよく聞いていた。ディレクターの金子さんという人が、ヨーロッパ旅行で見つけてきた当時イタリアで流行していたロス・マルチェロスの「アンジェリータ」という局を番組で紹介して、その放送がきっかけで日本でも流行した。
 ※「アンジェリータ」のレコードはいまだに見つからないのだが、このコラム用の画像ファイルの中にジャケットがあったので冒頭に載せておいた。ついでに同じ頃に人気があったジリオラ・チンクェッティのレコードジャケットもアップしておく(上の写真)。
 3つ、深夜放送がはやる以前の洋楽を紹介するラジオ番組には、「ユア・ヒットパレード」とか「S盤アワー」とか「9500万人のリクエスト」なんていうのがあった。確か「ユア・ヒットパレード」の、「あのシーンをもう一度」というコーナーでは、「鉄道員」や「第三の男」などのクライマックス・シーンの音声が流れて、それに続いてサントラ盤でテーマ音楽がかかった。「東京田辺」(製薬)の提供だった。
 「エデンの東」が1年間1位をつづけ、3年間10位以内にランクインしつづけたという伝説も「ユア・ヒットパレード」だったのではなかったか? 「9500万人の・・・」の当時は、日本の人口が9500万人だったのだろう。「S盤」というのは何の略称だったのだろう?
 4つ、深夜ではないが、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という夜10時ころから始まる30分番組や、土曜か日曜の午前中に「キューピー・バックグラウンド・ミュージック」なんて番組もあった。今でもやっているのだろうか。パーシー・フェイス、フランク・チャックスフィールド、ビリー・ボーンなどがよくかかった番組である。
 5つ、そういえばFM東京の「ジェット・ストリーム」もよく聞いた。城達也の時代である。エンディングの「ミスター・ロンリー」を聞いてからラジオを消して眠りにつく夜も少なくなかった。大沢たかお、福山雅治になってからは、城達也の頃とDJの喋りも、かかる曲もあまりにもイメージが違ってしまったので、ここ十年はほとんど聞くことがなくなってしまった。

 2023年12月30日 記

ラジオ放送開始100周年(NHK 第1)

2023年12月29日 | あれこれ
 
 12月29日(金)午前5時、村上里和さんのラジオ深夜便が終わって、ウトウトしていたら、突然ラジオから大沢悠里の声が流れてきた。
 たしかNHKラジオを聴いていたはずなのに、何でTBSが聞こえるのだろうと思って聞いていると、何と、NHKラジオの放送開始100周年記念「ラジオ放送100年 100人へのインタビュー」(題名は不確かだが、2025年が放送開始から100周年らしい)という番組で、その第1回(?)が大沢悠里だったのだ。
 ラジオ放送に興味をもったきっかけは?とか、ラジオ放送で泣いたことはあるか?とか、ラジオ放送の未来は?とか、全員が共通のインタビュー項目に答える形式のようだった。大沢悠里は子どもの頃からアナウンサー志望で、NHKの宮田輝や高橋圭三の物まねをしていたと言っていた。
 大沢は戦前の生まれだったが、昭和25年生まれのぼくにとって、子どもの頃に一番印象に残っているラジオは竹脇昌作の夕方の番組だった。日本信販の提供で “にっぽん しんぱんの クーポン ♪♪” というコマーシャル・ソングととともに、竹脇のあの独特の抑揚のない話し声がスピーカーから流れていた世田谷の玉電山下商店街の光景が浮かんでくる。“君知るや 君知るや~ オリエンタル・カレー ♪♪” というCMソングも懐かしいけど、オリエンタル・カレーは今でもあるのだろうか。

 20分ほどで大沢悠里が終わると、第2回は何とニッポン放送の亀淵昭信だった。
 亀淵はもともとディレクターとして入社したのが、後に深夜放送を担当するようになったという。一度休職してサンフランシスコの大学に留学したそうだ。それまで日本のラジオでは喋るのは「アナウンサー」だったが、彼の地では「パーソナリティー」と呼ばれていて、彼が、日本で「パーソナリティー」という呼び方を定着させたと言う。
 キャリア最大の危機は、社長になってからのライブドアによる買収への対応だったという。ぼくの記憶では、たしかニッポン放送のほうがフジテレビの親会社で、ライブドアはフジテレビの乗っ取りを画策していたと記憶する。

 さらに20分ほどで、今度は3番手で同じニッポン放送の斉藤安弘が登場した。
 彼は記憶に残るリスナーとして「たかぎ・ひとみ」さんという視聴者の名前をあげていた。ぜんそくで若くして亡くなったその子の遺品の中にアンコ―さん宛てのリクエスト葉書が残っていて、お父さんが投函したのを読んで以来、そのお父さんと亡くなるまで交流がつづいたと言っていた。
 アンコーさんは、ラジオの深夜放送の元祖は文化放送の土井まさるの「真夜中のリクエストコーナー」だと言っていた。ぼくもそう思う。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」は、1972年までは局アナでやっていたが、その後タレントを使うようになったと言っていた。
 ぼくが深夜放送を聞いていたのは、土井まさる(文化放送)、野沢那智・白石冬美(TBS)、カメ&アンコ―(+今仁哲夫)の頃で、歌手・タレントのパーソナリティーでは南こうせつ(&山田パンダ)、谷村新司(あの「天才、秀才、バカ」のころの谷村で、「昴」の谷村とは別人のような時代である)くらいまでである。
 斎藤は、ビアフラで子供たちが飢え死にしているのに、日本ではコメが余っているという新聞記事を見て、自分の番組に投書などしなくていいから、ビアフラに米を送るように外務省に投書してくれと呼びかけたところ、外務省に投書が殺到し、結局5000トンの米が贈られることになったというエピソードを紹介していた。そんなこともあったのだ。
 斎藤は、かつてどこかのラジオ会社の経営者が「ラジオはやがて消滅する媒体である」と言っていたが、決してそんなことはないと否定していた。ぼくも消滅するとしたら、ラジオよりもテレビのほうが先のような気がする。
 年末の録画番組の垂れ流しをみるにつけ、その感を強くする。ただし、ドキュメントだけはテレビがいい。年末のNHK-BSでみた、「映像の世紀 ビートルズとロックンロール」で紹介された東欧(ポーランドだったか)での「ヘイジュード」の話はまったく知らなかった。

 ぼくは大学の教師をしていたが、教師という職業は研究論文の審査によって採用されるが、仕事の主要部分は学生に対する講義である。少なくとも文系科目では、研究者は「物書き」だが、教師は「話し家」(「咄家」ではない!)である。「物書き」としての能力で採用された教師の中には、「話し家」としての才能がゼロに近いのもいる。500頁以上の教科書を一人で書きながら、授業では教壇の椅子に座ったまま90分間その教科書をただ棒読みするだけという教師もいた。
 現役教師時代のぼくは学生による授業評価の点数が髙かったが、「物書き」のほうはともかく「話し家」としては及第点以上だったと自負している。子どもの頃の毎日曜日に見ていたテレビ番組「サンデー志ん朝」という古今亭志ん朝のトーク番組や、ラジオ深夜放送のパーソナリティーたちから「喋り」を学んでいたのだと今にしてと思う。

 早朝からこんな番組を聞いていたので、二度寝して目が覚めたら9時半だった。今朝は今年最後の資源ゴミ出しの日だったので、慌てて起床してゴミを出した。
 写真は現在ぼくが聴いているラジオ。オーム社製、スーパーバリューで1980円で買った。チューニングが難しくて、NHK第1すらなかなか同調しないうえに、FENより上の周波数はほとんど入らない。まさに「壊れかけのラジオ」である。

 2023年12月29日 記

小豆島に行ってきた・1(2023年9月10日)

2023年09月14日 | あれこれ
 
 9月10日から11日の2日間、香川の小豆島に行ってきた。

 9月10日(日曜)8時48分東京駅発のぞみ63号広島行きに乗車。
 丸の内口の券売所で、乗車券は東京ー高松、新幹線は東京ー岡山という場合はどのように買うのか券売機前に立っていた案内係のお兄さん(どういう身分かは不明)に尋ねると、全部ボタンを押してやってくれた。さらに、岡山ー高松間のマリンライナーは在来線のため普通席では座れないことがあるというので、指定券も購入した。
 8時30分頃に17番ホーム(?)に登ると、すでに車両はホームに入っていて、乗車を待つ列も並び始めていた。3号車の自由席の行列に並ぶ。前から10人目くらい。10分ほど待つとドアが開いて乗車が始まる。同行の息子と並んで、日の当たらない進行方向右側に座る。座席は発車前にけっこう埋まって、2人並んで座れる座席はなくなった。
 昔、阿川弘之のエッセイに、東京駅で新幹線に乗り込むと広島県人と岡山県人は顔を見ただけで区別がつく、という趣旨のものがあった。阿川は広島県人でそう言うのだが、ぼくには区別はつかない。
 下の写真は、有楽町駅を通過する新幹線の車窓から。

     

 新幹線に乗るのは久しぶり。2020年に定年になって以降は初めてである。
 右側の座席は富士山が見えるはずだが、気がつかないうちに通過してしまったらしく、気がつくと三島駅を通過していた。どこかで「常葉大学」の看板が見え、それからしばらく行った所に「菊川」駅があった。甲子園に出てくる「常葉菊川」というのはこの辺りの高校なのだろう。
 名古屋からインバウンドの外国人が山のように乗ってくる。半袖からのぞいた太い腕に刺青がしてある屈強で不気味なのもいた。

     

 12時05分に岡山駅着。孫のために、発車したのぞみ号の後ろ姿を撮ったり(上の写真)、在来線への乗換口がすぐに見つからなかったりで、12時13分ぎりぎりでマリンライナー29号高松行きに乗ることができた。
 マリンライナーの自由席は座れなくはなかったが、2人並んでは座れなかったかもしれない。指定席は一番先頭の1号車だったが、座席は2階建て車両の下の階だった。途中駅に停車すると、ホームが目の高さにあった。
     

 岡山側の水島を出て、しまなみ街道(?)の鉄橋を渡ると(上の写真)、四国香川の坂出に到着。それから程なく13時05分に終点高松駅に到着。下の写真はわれわれが乗ってきたマリンライナー。

     

 その昔雑誌の編集者をやっている頃に、高松に出張したことがあったが、高松のホテルがどこもいっぱいだったので、仕方なく玉島(玉野だったかも?)の旅館に投宿して、翌日宇野から宇高連絡船で高松入りしたことがあった。
 大学時代の同級生で三井造船(確か?)の社員だったのが玉島にいたので、呼び出して寂れたバーで飲んだ。12時近くに宿に戻ると玄関が閉まっていたので、呼び鈴を押すと寝間着姿の女将が出てきて「寝られやしない!」と怒鳴られた。日本旅館というのはそういうものだったのか。
 現在の高松駅にはもはや宇高連絡船の到着桟橋はないが、広い改札口に向かうと、なぜか宇高連絡船で高松に到着した40年以上前のその時の記憶がよみがえってきた。どこかに面影が残っているのだろうか。

     

 上の写真は高松駅ビル。
 小豆島に向かう高速艇の出発まで30分あるので、高松駅前のうどん屋でうどんを食べることにする。駅を出たすぐの道を渡ったところに「うどん」の看板が見えたので、そこに入る。10人以上は並んでいたが、流れ作業であっという間に注文、配膳(?お盆のうえに乗っける作業)、支払いが終わるシステム。
 ぶっかけやまかけうどん、冷やし、小を注文、刻みネギと天かすは無料。美味しそうだったのでかぼちゃの天ぷらをプラスする。あわせて500円ちょっとだったか。
 香川でうどんを食べて外れということはない。その昔フェリーの船内で食べた200円(今は何円か知らないが)のうどんでさえ美味しかった。
     

 13時40分高松港発の高速艇で小豆島に向かう。
     

 若い頃はJR岡山駅からバスで岡山港に行き、そこからフェリーで小豆島に行っていたが、岡山港が改修されて小豆島行きの乗り場が不便になってからは、飛行機かマリンライナーで高松経由で行くようになった。
 高速艇は45分の所要時間で、14時15分に小豆島の土庄港(とのしょう)に到着。
 高速艇の車窓(?)から、懐かしい「かどやごま油」の工場と看板が見えた(下の写真)。土庄港のランドマークである。そして今日の宿になるオーキドホテルも見えていた。このホテルの建物も土庄港のランドマーク的存在だが、宿泊するのは今回が初めてである(冒頭の写真)。

     
     
 以前は、どのホテルでもフロントは24時間あいていたが、今回はフロントの営業は24時までと書いてあった。数十年前の玉島の日本旅館と同じである。ホテルマン(パーソン)の働き方改革も進んでいるのだろう。当然の趨勢である。

     

 最後に、翌日11日にマイクロバスの車窓から偶然見かけた小豆島大観音の姿を。突然現れたので、小豆島にこんな巨像があったのかと驚いた。 

 2023年9月14日 記

小豆島に行ってきた・2(2023年9月10~11日)

2023年09月13日 | あれこれ
 9月10日、11日の2日間、香川県の小豆島に行ってきた。
 小豆島は家内の生れたところだが、縁戚の葬儀に出席のための旅行である。  

 2日目の9月11日(月)は午前中に告別式を終え、火葬も済ませて、午後3時すぎには早や帰途に就く。寒霞渓への観光道路沿いにある火葬場へ向かう送迎バスの窓から、小豆島大観音なる巨像が見えた。下の写真。
 3歳の孫は、いま大仏にはまっていて、地球の歩き方「世界の巨像」が愛読書なのだが、さぞ見たかっただろうと思う。

 

 午後3時(15時45分)土庄港(とのしょう)発のフェリーに乗って高松へ。下の写真の真ん中が高松へ向かうフェリー。向うの方が高松行きの高速艇(45分で高松に着く)、手前は豊島経由宇野行きのフェリーだった(と思う)。

      

 高松港までのフェリーの所要時間はジャスト1時間。高速艇より15分時間がかかるが、時間に余裕があるならフェリーのほうがはるかに旅情がある。下の写真はフェリーの甲板から眺めた高松方面の遠景。

     

 16時45分すぎに高松港に到着。
 高松空港行きの高速バスは、飛行機の発着に連動しているので、われわれが乗る飛行機に間に合わせるバスは17時45分まで来ない。
 1時間を待合所で過ごすのも退屈である。

     

 ぼくはすでに2回か3回行ったことがあるが、同道の息子は行ったことがないと言うので、駅前から徒歩3分くらい、道を挟んだ東側にある旧玉藻城跡の玉藻(たまも)公園を散歩することにする。上の写真は入口に立つ石碑。
 喪服や荷物はバスターミナルの手荷物預かり所に預ける。6時(18時)で閉まるけれど大丈夫ですかと確認されたが、玉藻公園を歩くだけなので大丈夫です、と答える。

     

 公園内に入って、まず天守閣跡に登る。
 天守閣は消失していて、石垣だけが残っている。石段や頂上の周囲には鉄パイプの手すりが施されていて興ざめと思ったが、いざ登ってみると石段は段差が不ぞろい、天辺は(高所恐怖症気味のぼくには)目がくらむ高さで、手すりがなかったらめまいで落下してしまったかもしれない。
 上の写真は天守閣跡から眺めた高松港方面。左遠方に琴電の駅舎と車両が見える。ランドマークの高松クレメントホテルも見えている。

 天守閣跡の石段を下って、今度は瀬戸内海に面した櫓(名前は忘れてしまった)に向かう。
 玉藻城は「水城」というらしく、海からも船で出入りすることができる構造になっている。昔「ブラタモリ」でやっていた。
 下の写真は右側が天守閣の石垣。

     

     

 案内板を見ると、櫓の向うには小豆島が見えるらしいが、残念ながら、木々が邪魔をして小豆島は見えなかった。フェリーに乗っている間は曇っていたのだが、この頃には日がさして、夕日を浴びた櫓の白壁がきれいに輝いていた。冒頭の写真も玉藻城の櫓。
 下の写真の櫓の後方に小豆島はあるらしい。

     

 約40分の見学でバス停に戻り、荷物を受け取って、17時45分発の高松空港行きリムジンバスの乗りこむ。途中のバス停で満席になり、数人は補助席に座る。
 進行右手、西日に讃岐富士のシルエットが映えていた。「赤富士」風である。ただしあの山が本当に「讃岐富士」なのかどうかは不明。わが家のなかで勝手にそう見えるので、そう呼んでいるだけである。

     

 19時40分発ANA540便に搭乗、ほぼ定刻の21時ちょっと過ぎに羽田着。折よく石神井公園行きリムジンバスに乗ることができ(このバスも満席だった)、23時すぎに無事帰宅した。

 2023年9月13日 記

建物でたどる日本近代法史・10 旧丸の内ビルヂング

2023年07月02日 | あれこれ
 
 「建物でたどる日本近代法史」の第10回は「旧丸の内ビルヂング」。三菱地所の所有のようだ。
 通称「丸ビル」の、あの建物である。
 出典の記事は朝日新聞1983年2月16日付。「丸ビル還暦」の見出しで、日本最初の本格的オフィスビルである丸ビルが、この月(1983年2月)で開館から60年を迎え、老朽化が目立っており、階段はすり減り、傷んだ外壁のタイル張り替えだけで14億円かかったリしたけれど、まだ健在であると紹介している。
 後に建てかえられることになるが、まだこの当時は建てかえの話題は上っていない。

 旧丸ビルは権威があって、入居の審査はきわめて厳格。入居希望者(社)があっても審査基準に満たない応募者(社)の場合には、たとえ空き室のままになっても入居を認めなかったという話だった。
 現に編集者時代の私が原稿の受取りで、旧丸ビルの5階だったかに事務所を構えていた「兼子・岩松法律事務所」を訪ねた折にも、同じフロアに空き室があった。
 私が訪問した頃には、もうすでに兼子一弁護士は亡くなっており、高弟の弁護士さんが主宰していたが、ドアのすりガラスに書かれた表札(?)は「兼子・岩松法律事務所」のままだった。
 ぼくが学生時代に使った民訴法の教科書は、兼子一『新修民事訴訟法体系(増補版)』(酒井書店、1971年)だったが、その表紙扉には、兼子先生の死亡記事が貼ってあった。1973年4月6日付(新聞名は不詳)で、「渋谷区大山の自宅で死去、66歳、喪主は長男仁氏」とある。
 長男の仁さんが東大法学部に進学したのを機に、東大教授を辞職して弁護士になったというエピソードがあった。

   

 ぼくが授業を受けた民訴法の先生はいわゆる旧訴訟物派で、兼子先生の教科書を指定したが、ほとんど使わなかった。三ケ月説批判の舌鋒の鋭さが印象に残っている。裁判官による職権主義的な訴訟運営に対する批判が中心だったように記憶するが、自信のない印象批評であるが。
 ちなみに刑事訴訟法の教科書は平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣)だったが、ぼくは同じ当事者主義、弾劾的訴訟観でも、井上正治さんの論理展開のほうに説得力を感じた。井上正治『全訂刑事訴訟法原論』(朝倉書店、1952年)によれば、井上さんは九州大学時代に、集中講義で九大に来た兼子先生の民事訴訟法を受講し、その影響から当事者主義的な刑事訴訟法を志向したという(上の写真)。
 平野さんは政策論が前面に出過ぎた印象だったのに対して、井上さんは民訴の理論(旧訴訟物論)から演繹した刑訴法理論の構築を目ざしていると思った。

 今はもうなくなってしまった、あの天井が高く、ひんやりとしていて、ややうす暗いレトロな雰囲気のビルの階段を兼子先生も上ったのだろうか。たしか、エレベーターも、グレタ・ガルボかマレーネ・デートリッヒでも降りて来そうなレトロな箱だったように記憶する。
 新しく建てかえられた新丸ビルには一度だけ行ったことがあるが、アーケード街には昔の面影はまったく感じられなかった。

 2023年7月2日 記

建築でたどる日本近代法史・9 東京証券取引所

2023年07月01日 | あれこれ
 「建築でたどる日本近代法史」第9回は、旧東京証券取引所。
 「思想犯の獄舎」の次が資本主義の本丸(?)「証券取引所」というのも並びが悪いのだが・・・。

 証券取引所というのが、いったい何をする場所なのか、実はよく知らない。NHKの定時ニュースの最後に「今日の為替と株の値動き」というコーナーがあるから、株の売買はしているようだが、為替との関係は知らない。いずれにしろ、ニュースのたびにやっているところをみると、視聴者の関心が強いのだろう。
 毎年年の初めに、東京証券取引所で振り袖姿の女性を交えて年頭の儀式(大発会だったか)をやっているのが放送され、福岡だったかの証券取引所が取引数激減のために閉鎖されることになったとか、東京証券取引所のシステムがダウンしたために一日中株の取引ができなかったなどというニュースを耳にしたこともある。最近のマイナンバーカードの不具合で取りざたされている富士通の関連会社が、東証のシステムダウンにも関係していた会社だったと(図書館で立ち読みした)先週の週刊誌に出ていた。

 昨今の電子取引の導入によって、証券取引所という場所がどうなり、中で何が行なわれるようになったのかも知らない。オンラインで取引ができるなら、証券取引所という「場所」は必要なくなるのではないのか。 
 いずれにせよ、かつては証券取引所という制度があり、その作業場として証券取引所という建物があったことは歴史上の事実として記憶されることだろう。
 この記事はまさに「株式取引に新風ーー機械化待つ東京証券取引所」という見出しで、「機械化前夜」の東京証券取引所を紹介している。証券マンたちが雑踏して、騒がしく指の動きで売買を行なっていたあの「場立ち」(というらしい)の姿を、「取引所まではジェット機で来て、あとはわらじ履き」と茶化している(日本経済新聞1981年5月5日)。
 そして建物が改築されるのに伴って、売買も機械化されることを紹介している。

 ※証券取引所制度の紹介は、志村治美「証券取引所見学の実行法--株券の流れを追って」法学セミナー1976年5月号を参照。

 2023年7月1日 記 

建築でたどる日本近代法史・8 旧中野刑務所

2023年06月24日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第8回は、旧中野刑務所。
 出典は朝日新聞1983年2月23日付の記事。「消える “思想犯の獄舎” --73年の歴史、中野刑務所」と見出しがうってある(上の写真)。

 記事によれば、この建物は明治43年(1910年)に着工し(?)、大正4年(1915年)に完成したようだ。戦後は米軍に接収されたが昭和32年に返還され、中野刑務所として新たに発足したという。昭和50年(1975年)に法務省が廃止を決定し、敷地12万平方メートルの一部は都と中野区に払い下げられた。800人いた受刑者は昭和57年までに他の刑務所に移され、職員も配転されたという。
 建物については、「レンガ造りの十字型獄舎」としか書いてないが、「名建築の名が高」く、取り壊しを知った建築家たちが調査に訪れているという。「十字舎房」と書いたものもある。
 記事に付された写真を見ると、中央に監視塔があって、その周りに数棟の獄舎が放射線状に延びる姿は、典型的なベンサムのパノプティコン(全監視)方式の監獄建築である。

 記事は、中野刑務所の来歴を簡単にしか書いてないが、中野刑務所はもともとは豊多摩監獄として発足し、その後豊多摩刑務所と名称を変更した。
 「思想犯の獄舎」として知られたのは、治安維持法によって左翼から自由主義者までが片っ端に投獄された戦前の豊多摩刑務所時代である。戦後の中野刑務所になってからは、建前上は「思想」を理由に罰せられることはなくなったので、学生運動の活動家が収容されたくらいである。
 記事によれば、沼袋駅から200mの距離とあるから、「中野」刑務所というより、「豊多摩」刑務所のほうが地理的にも相応しいかもしれない。ぼくは豊多摩刑務所というのは、水道通りの豊多摩高校のあたりにあったのかと思っていた。

 「思想犯の獄舎」と見出しをつけながら、この記事は、中野刑務所に収容されていた思想犯の名前をまったく書いていない。ネットで調べてみると、中野区立中央図書館のHPに、「収監の作家・文化人--中野刑務所 1910-1983」と題して、中野(=豊多摩)刑務所の主な収容者の紹介があった。
 それによれば、河上肇(昭和8年1月~6月)、三木清(同5年7月~11月、同20年6月~9月)、小林多喜二(同5年8月~6年1月。死亡は同8年)、壷井繁治(同5年8月~6年4月、同7年6月~9年5月)、中野重治(同5年5月~12月、同7年5月~9年5月)、亀井勝一郎(同3年4月~5年春)らが豊多摩刑務所に収容されていた。埴谷雄高の名前もあった。まさに「思想犯の獄舎」である。
 豊多摩刑務所に収容された思想犯の中で、一番有名なのは三木清だろう。彼は治安維持法違反で検挙、投獄され、1945年8月の敗戦によって占領軍(GHQ)が思想犯の解放を命じたにもかかわらず、人々が気づかなかったために釈放されることなく、同年の9月26日に豊多摩刑務所で獄死した。悲劇的な話である。高校生の頃、三木の『人生論ノート』を読んだが、ぼくの人生には影響を与えなかった。
 中野刑務所の跡地は、現在では平和の森公園になっているとのことである。

 「獄舎」といえば、長谷川尭の『神殿か獄舎か』が、ぼくの建築物への関心の始まりだったが、この本は断捨離してしまって、手元にない。「獄舎」の何が語られていたのだろう。
 一時期はまっていた山田風太郎の『地の果ての獄』という明治伝奇ものは、網走監獄が舞台だった。網走監獄の囚人たちが、屯田兵と一緒に北海道開拓に従事した物語だった(と思う)。
  
 2023年6月24日 記

建築でたどる日本近代法史・7 旧枢密院庁舎

2023年06月23日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第7回は、旧枢密院庁舎。戦後は、1970年代まで皇宮警察本部として使われていたらしい。
 出典は、読売新聞1979年(昭和54年)11月27日付。

 枢密院は、明治21年(1888年)の勅令によって、天皇の諮問機関として創設された。議長(初代議長は伊藤博文)、副議長、顧問官から構成される合議体であるが、大日本帝国憲法(明治憲法)の草案を最初に審議したのが枢密院であった。その明治憲法によって「天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」る権限を与えられた(56条)。
 枢密院では、普通選挙法、不戦条約、ロンドン軍縮条約、2・26事件の戒厳令宣告など、まさに近代法史上の重要案件が審議された。その権限は強力で、台湾銀行救済の勅令を枢密院が否決したため若槻内閣が総辞職に追い込まれるというようなこともあった(同記事による)。
 枢密院は、この記事によれば「陰謀の府」と呼ばれていた。

 ポツダム宣言受諾による敗戦後の新憲法制定に伴い、新憲法施行前日の1947年5月2日に枢密院は廃止となった。新憲法の原案もここで審査したというエピソードを、当時枢密院書記官として勤務した高辻正己最高裁判事(当時)が語っているが、彼がいう「新憲法の原案」とは何か。
 マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた幣原内閣が設置した憲法問題調査委員会で、主宰者の松本烝治が中心となって作成した政府原案があまりに保守的だったため、マッカーサーは自ら指示していわゆる「マッカーサー草案」を1週間で起草させ、日本政府に提示した。
 古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)によれば、マッカーサー草案に基づいて松本委員会が行なった修正作業は首相官邸内の放送室で行われたという(174頁)。できあがった政府の「草案要綱」は1946年4月17日に枢密院に諮詢され、審査委員会で11回の審査が行われた後、6月3日に枢密院本会議で可決された。反対は美濃部達吉のみであったという(261頁)。
 これが高辻のいう「新憲法の原案」だろう。占領軍の指示によって廃止が決まっていた枢密院において、最後に新憲法が「審査」されたというのも、明治憲法上の規定に従ったまでとはいえ、皮肉なことである。しかも圧倒的多数で可決されたとは・・・。 

 その枢密院の建物は、当初は帝国議会議事堂に隣接して建てられたが、新議事堂建設に伴い大正10年(1921年)に皇居三の丸地区の現在地に移転し、枢密院廃止後は法務省や総理府が使用し、昭和27年(1952年)からは皇宮警察本部として使用され、昭和44年には全面移転したという。
 「近世復興様式」の大正時代を代表する建築物で、鉄筋コンクリート造りモルタル塗、窓はステンドグラスで飾られた、2階建て全24室の総面積は1500平方メートル、総工費は46万円だったという。
 室内にはシャンデリア、マントルピースをそなえるなど贅を凝らした建物だったが、吹き抜けの室内は夏は暑く、冬は寒く、高辻氏は木炭火鉢を持ち込んで作業したという。
 しかし、1979年当時は建設から58年を経て、老朽化が激しく、窓枠は腐り雨漏りもするなどしたため、取り壊して隣接地に移転することが決まったという。最近のサステイナブル社会、しかも近代建築遺産を尊重する時代風潮だったら、改修、保存の道が選択されたのではないだろうか。

 2023年6月23日 記

建築でたどる日本近代法史・6 旧司法省本館

2023年06月20日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」第6回は旧司法省(法務省)本館である。

 出典は朝日新聞1983年7月16日付、同1986年1月12日付、同1989年12月27日付の3本(上の写真)。
 1983年の記事は「法務省本館、保存へ 赤レンガ官庁生き残り、建てた当時の姿に復元して」という見出しで、明治時代にできた赤レンガ造り官庁の唯一の生き残りである旧法務省本館が建設当時の姿に復元して保存しようという調査結果が建設省の委員会で決まったことを報じている。

 86年の記事によれば、旧法務省本館は明治19年に創設された臨時建設局(井上馨総裁)のもとで「中央官衙(かんが)集中計画」に基づき、旧大名屋敷に分散していた官庁を現在の霞が関に集中させることとし、まず国会、大審院、司法省を建設することになった。しかし条約改正の失敗で井上は失脚し、財政難から計画はとん挫し、司法省と大審院だけが完成したという(司法省は明治28年の完成)。大審院(後の最高裁)は昭和49年に取り壊されたため、旧司法省の建物だけが残ったという。
 この旧司法省本館は、関東大震災は免れたが、昭和20年の東京大空襲で外壁を残して焼失し、戦後になって、3階部分や屋根上の尖塔を撤去し2階建てとして再建された(86年の記事)。
 建築当初の建物はナポレオン3世時代のネオ・バロック風の権威主義的な雰囲気ときらびやかな屋根とアーチが特徴だった。国産レンガ建築の第1号であり、濃尾地震の被害を参考にした耐震建築の草分けでもあったという(89年の記事)。

 法務省、検察庁合同庁舎が、旧東京地裁、高裁跡地に新設されるのを契機に、歴史的建築物として、旧司法省本館が明治当時の姿に復元して保存されることになった(89年の記事)。当初の建築費用は当時の金で99万円だったが、このたびの復元費用は数十億円とも(83年の記事)、50億円超とも(86年の記事)、30億円ともいわれている(89年の記事)。
 完成後は法務総合研究所と法務図書館として使用されるとのことである(86年の記事)。

 法務省の、あの赤レンガはファサードだけが残っていたと思っていたが、これらの記事によると、東京大空襲で外壁だけが残っていたのを、戦後初期に二階建てにリフォームしたうえで、1980年代の計画によって明治28年当初の姿に復元されたということだったようだ。
 旧大審院(最高裁)も赤レンガの雰囲気のある建物だったが、今はない。ぼくの記憶に残っている赤レンガの裁判所といえば、松川事件の門田判決が下された仙台高等裁判所の赤レンガの建物の記憶がわずかに残っている。片平丁小学校や東北大学に近い、大橋に向かう路面電車の通り(広瀬通り?)に面して建っていたと思う。祖母や母は昭和30年代になっても「控訴院」と呼んでいた。

 法務省本館は、個人的には嫌な思い出しかない。かつては司法試験論文式の合格発表がこの建物の中庭で行われていた。ぼくはこの試験に3回落ちた。独学だったので、どういう答案を書けばよいのか最後まで分からなかった。7月17、18、19日という試験日も苦手だった。5月の母の日に行なわれる短答式は毎年爽快な気分で臨めたが、7月のこの時期は梅雨が明けていてもいなくても蒸し暑くて、バイオリズムは最悪だった。試験会場の早稲田大学15号館(?)にはエアコンもなく、毎年蒸しかえるような暑さの中で答案を書いた。結局、ぼくには司法試験は縁のない世界だと自覚して、3年で諦めて大学院に転進した。

 もう一つは、編集者時代のいやな思い出である。
 毎年公表される「犯罪白書」を、慶応大学の宮沢浩一先生の紹介で、法務省本館にあった矯正局に受け取りに行ったのだが、ある年応対に出てきた人物が「超」のつく感じの悪い男だった。ぼくが編集者時代に出会った中で最悪の人間だった。
 佐藤藤佐氏や竹内寿平氏など歴代の検事総長にお会いする機会もあったが、おそるおそる出かけたのだが、こちらが恐縮するくらい腰が低く、穏やかな方たちだった。
 そう言えば、法務省特別顧問室に小野清一郎氏を訪ねたこともあった。あれも本館だったろうか。刑法改正が問題になっていた頃で、彼は、平野・平場編「刑法改正の研究」が見つからないので探してくれと、初めてお会いしたばかりのぼくに仰るので、部屋の中をご一緒に探したことがあった。すぐに、大きな机の上にあるのをぼくが見つけた。かなりのご高齢だったはずだが、矍鑠とした好々爺という印象だった。

 2023年6月20日 記

建築でたどる日本近代法史・5 旧陸軍大学校舎 

2023年06月18日 | あれこれ
 
 今回は、日本「近代法史」にぴったりという訳ではないが、個人的に懐かしい港区青山の青山1丁目交差点の近くにあった陸軍大学の建物。
 2・26事件の際には、陸大の中にも決起を促す学生がいたというから、2・26事件における「戒厳令」発令という意味では、「日本近代法史」とまったく関係がないとは言えなくもない。

 出典は朝日新聞1983年2月23日付の記事(上の写真)。
 「昭和史の舞台降りる “旧軍の象徴” 陸軍大学」という見出しで、かつての陸軍大学の建物が、取り壊されることを報じている。
 記事によれば、陸軍大学は明治16年に開校し、昭和9年に現在の(1983年当時の)建物が建てられたという。敗戦によって日本陸軍は解散させられ、陸軍大学も廃校となったが、この建物は昭和29年(1954年)からは港区立青山中学校の校舎として使われてきたという。
 三階建てだが、高さは戦後に建てられた校舎の四階に相当するとある。天井の高さが3メートル近くあったのだろう。どこかの建設会社か不動産屋のテレビCMで、「人を育てるには、天井を高くしろ!」というのがあったが、戦前の日本では(少なくとも陸大の校舎に関しては)そういう気風があったのだろう。そういえば、大隈会館(旧大隈重信邸)のホールの天井も高かった。

 ぼくは1974年に信濃町にあった出版社に入社し、編集者になった。仕事帰りに仕事仲間たちと、青山1丁目のホンダ本社の裏通りに面したマンション1階にあった “ウォーキン” というスナックに呑みに行った。オーナーが信濃町で喫茶店をやっていた頃からの知り合いで、開店時から通った。キープしたボトルのナンバーは79(泣く?)だった。
 時には須賀町から外苑東通りを連れ立って歩いて行くこともあった。
 左門町バス停前から、信濃町教会、博文堂書店を左手に、右手には東電病院、慶応病院を見ながら、信濃町駅前を通り、明治記念館、権田原、東宮御所を左手に眺めながら外苑の緑を歩くと、青山1丁目交差点の手前、右手奥に青山中学校があった。レトロな建物が印象的だったが、当時はそれがかつての陸軍大学の校舎だったとは知らなかった。
 ぼくが同社を退職したのが1983年だったから、ちょうどぼくが退職して信濃町とは縁がなくなってしまった頃に、陸軍大学の校舎だった建物も取り壊されたことになる。
 昭和40年代には、そのようにしてまだ戦前の建物が利用されていたのだ。

 平成になってからも(コロナ前までは)、青山1丁目にある(かつて在職していたのとは別の)出版社に年に2回定期的に出かけたが、新しい青山中学校の校舎を見た記憶はない。あの辺をぶらぶら信濃町駅まで歩こうという余裕も体力もなくなり、仕事が終われば青山1丁目駅から大江戸線に乗ってさっさと帰宅するようになってしまった。
 “ウォーキン” も閉店してしまったと数年前に聞いた。

 ・・・と、今回はやっぱり「日本近代法史」というよりは、「ぼくの気ままな nostalgic journey 」になってしまった。

 2023年6月18日 記

建築でたどる日本近代法史・4 区裁判所余話

2023年06月17日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の連載(?)第1回の旧松本区裁判所、第2回の篠山区裁判所ではどんな事件が裁かれたのか、第一法規の<D1-Law>で検索したところ3件の判例が見つかった。

 1つ目は、松本区裁判所昭和4年12月12日判決(法律新聞3062号5頁)である。「鶏姦に基く金銭の遣り取りと公序良俗」という見出しの通り、鶏姦(男色行為)をめぐる特異な事件である。
 A男とB男はともに妻のある身でありながら鶏姦関係にあり、行為のたびにA男(判決では鶏姦者と表記)はB男(被鶏姦者)に対して金員を支払っており、その総額は350円余になった。しかしB男は健康を害したためA男に対して関係の解消を求めたところ、A男は関係を解消するならこれまでに支払った350円余の金員を返還せよと要求し、B男は仕方なく350円余をx月x日までにA男に返済する旨の消費寄託契約を結び、B男の妻がこれを保証した。その後、A男は右消費寄託にかかる債権をXに譲渡し、XがB夫婦に対してその支払いを請求したというのが本件の経過である。
 ※「消費寄託」というのは、AがBに物(金銭でもよい)を預け、Bはその預かった物を使ってもよいが、期限が来たら同量・同品質の物(350円預かったなら350円)を返還しなければならないという契約である(民法666条)。
 判決は、「AB共に妻ある身でありながら、秘かにこの様な男性間の性情行為をすることは、社会の善良の風俗に反すること甚しい。故に、こういう原因のために既に遣った金の取り返しを請求することができないのは勿論、醜関係を絶つことを条件として、新たに金の支払いを約束することも亦善良の風俗に違反する事柄を目的とする無効の法律行為である。社会の道徳に背く行為を法律は保護すべきではない」。したがって「本件契約は無効であるから、AはBらに対してこの契約を盾にとって金を支払えと迫ることもできないし、この権利を譲受けたと称するXの請求も赦されない」として、Xの請求を棄却した。
 事案が微妙なので配慮が必要だが、法学部の民法の授業でも「公序良俗違反の法律行為(契約)の効力」の事例として使えそうな事件である。
 なお、この判決には不思議な注記がある。判決自体に書いてあるのか、法律新聞編集部で付けたものかは判別できないが、「この事件には弁護士もついておらず、当事者は無学なので、判決文は平がな、口語体にした」というのである。上の引用では少し簡略にしたが、もともと読みやすい判決である。なかなか気の利いた配慮ではないか。
 裁判官は「千種達夫」とある。有名な裁判官で著書もあるが、法律書のほかにも満州の家族慣行調査の報告書もある。
 母校早稲田大学のHPによれば、千種は明治34年生まれで、同大法学部を卒業後、助手を経て昭和4年5月に長野地裁松本支部判事となり(松本区裁判事だろう)、「三宅正太郎らと口語体判決文を書き始め、国語愛護同盟の法律部メンバーとして法律文の平易化を模索」したとある。
 上記判決はまさにその実践だったのだろう。松本区裁に着任して7か月目の判決である。戦後は国語審議会委員も務め「公用文法律用語部会」に属したとあるから、法律用語の平易化に熱心な人だったようだが、このことをぼくは知らなかった。 

 2つ目は、松本区裁判所大正13年6月10日判決(法律新聞2296号21頁)である。この事件は、手形金の請求と(手形振出の)原因である保証契約に基づく保証金の請求とは請求原因を異にするから、訴えの変更が必要である旨を判示した。

 3つ目だが、第2回の篠山区裁判所時代の判例は、第一法規の<D1=Law>には1例も掲載されておらず、神戸地方裁判所篠山支部になってからの判例が1件だけ掲載されていた。神戸地裁篠山支部昭和48年2月7日判決(判例タイムズ302号281頁)である。
 合名会社の代表社員の職務執行停止等の仮処分は、民事訴訟法760条の「仮の地位を定める仮処分」として許される旨を判示した。篠山地区のどこかの合名会社で、不適切な行為を行なった代表社員を解任するために、他の社員がその前提としてひとまず職務を停止させようとしたのだろう。
 この判決を下した裁判官が「稲垣喬」となっている。稲垣喬さんといえば、医事法の世界では名前を知られた学究肌の裁判官で、著書や論文もある。私も何本か読んだことがあるが、文章が堅くて難解だった印象がある。篠山支部にいたこともあったのだろうか。神戸地裁と併任だったのかも。
 篠山区裁判所時代の判例を見つけることができなかったので、代わりに、丹波篠山市立歴史美術館のHPに掲載された同美術館内に保存されている篠山区裁判所の法廷の写真を(上の写真)。
 戦前の裁判所の法廷では、裁判官と検察官は被告人および弁護人より一段高い席に座って、被告人を見下ろしていたと聞いたが、篠山区裁判所では裁判官だけが一段高い席に座って、検察と被告は対等な平座に座っていたようだ。

 あれこれと資料を彷徨していると、今なら「建築でたどる日本近代法史」を自分で執筆できるのではないかと思えてきた。
 旅行をして旅先を散歩していると、時おり裁判所の建物を見かけることがある。先日の佐賀旅行の折にも佐賀地裁唐津支部を見かけた。残念ながら唐津支部はコンクリートの二階建ての平凡な建物だったが、支部裁判所の中には昭和の面影を残すものもあるのではないだろうか。とくに廃庁となってしまった支部の中には建物が残っているのもあるのではないだろうか。
 由緒ある歴史的建築物の由来をたどりながら、雰囲気のある地裁支部(区裁判所)の建物と、その裁判所で下された印象的な判決を紹介するというパターンだけでも数回分は書けるような気がする。

 2023年6月17日 記