豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

建築でたどる日本近代法史・3 極東軍事裁判法廷

2023年06月16日 | あれこれ
 
 「建築でたどる日本近代法史」の第3回は、第2次大戦後、日本の戦争犯罪人を連合国側が裁いた極東軍事裁判(東京裁判)の法廷が設けられた市ヶ谷の旧自衛隊駐屯地に建つ、三島由紀夫の自決で有名になったあの建物である。
 記事は朝日新聞1990年(平成2年)1月6日夕刊(上の写真)。「今のうちです “昭和の史跡” 自衛隊市ヶ谷駐屯地」というタイトルで、「東京裁判の法廷」「三島由紀夫自決の地」という副題がついている。記事によれば、ここに防衛庁が移転することが決まって、戦争中は大本営本部が置かれ、戦後に極東軍事裁判が開かれ、三島が自決した建物が消え去る運命にあるため、見学客が絶えないとある。

 戦前までは、この場所には市ヶ谷刑務所があった(はずである)。
 ぼくの父方の祖父一家は、大正から昭和にかけてこの辺の官舎で暮らしていた。父は余丁町小学校に通い、姉(ぼくの伯母)は市ヶ谷駅近くの三輪田女学校に通っていたが、女学生だった伯母が下校の際にこの市ヶ谷刑務所わきを通ると、黄色い囚人服を着た囚人が道路を掃除していることがあったという。足を鉄鎖で縛られているものの、横を通り過ぎるのが怖かったと語っていた。
 赤塚不二夫の「レレレのおじさん」(?)を見ると、いつも伯母さんのエピソードに出てきた黄色い絣でほうきを掃いている囚人のことを思い出した。

 ネットで調べると、市ヶ谷刑務所は自衛隊よりもっと北の方向、現在の富久町児童公園のあたりにあったようだ。余丁町のすぐ南側である。市ヶ谷刑務所は1937年に小菅に移転したとのこと。
 極東裁判が開かれた(後の)自衛隊市ヶ谷駐屯地は、市ヶ谷刑務所よりはもっと南側にあり、かつては陸軍士官学校があって、その大講堂が極東軍事裁判の法廷として使われたらしい。
 ぼくが信濃町(須賀町)の出版社に勤めていた昭和40年代には、すでに自衛隊の駐屯地になっていた。広大な敷地を有するうえに、高い建物がなかったので、市ヶ谷駅から西の方角に向かって歩くと、駐屯地の小高い丘の向うに沈んでゆく夕陽がきれいだった。
 ※--という思い出は、市ヶ谷刑務所跡地ではなく、自衛隊市ヶ谷駐屯地の情景である。

 極東軍事裁判、いわゆる東京裁判は小林正樹監督の「東京裁判」を見たが、後には粟屋憲太郎氏の著書なども読んだ。パール判事が公判を頻繁にさぼったり、ウェッブ裁判長がしょっちゅうオーストラリアに帰国したりするなど、結構いい加減な一面を知って驚いた。
 日本人戦犯の中には、自らの保身のために、検事局の取調べで仲間の名前を100人以上も密告するヤカラがいたことなども、当時の検事調書がアメリカで情報公開されたために発覚するなど、今日では極東裁判の裏側についても、いろいろな史実が明らかになっている。
 ※粟屋「東京裁判への道(上・下)」、藤原・粟屋他「徹底検証 昭和天皇独白録」など。

 現在この建物がどうなっているのだろうと思って防衛省のHPを見ると、この敷地は現在は防衛省の管轄となっていて、敷地内に残されている極東軍事裁判に使われた法廷(大講堂)を見学することができると書いてある。
 この記事にも見学者が絶えないとあるが、極東裁判への関心か三島由紀夫への関心かはわからない。ぼくも、市ヶ谷の建物というと、極東裁判よりはバルコニーで演説する三島の姿のほうが思い浮かんでしまう。三島の小説は若い頃に「潮騒」と「午後の曳航」を読んだだけで、その後のものは読んでいないのでよく知らないが、この市ヶ谷の地を選んだ背景には極東裁判に対するアンチの気持ちがあったのだろうか。
 ぼくは、1970年代に、新宿駅の東口と西口を繋ぐ地下コンコースで、奥さんらしき女性(編集者かも)と編集者風の男性と3人連れで東口方向から歩いてくる三島とすれ違ったことがある。楽しそうに笑顔で連れと喋っていた。 

 2023年6月16日 記

建築でたどる日本近代法史・2 旧篠山裁判所庁舎

2023年06月15日 | あれこれ
 
「建築でたどる日本近代法史」の第2回は旧篠山裁判所、神戸地方裁判所篠山支部庁舎である。
 出典は、日本経済新聞1982年(昭和57年)12月23日付の記事で、「神戸支社・前田記者」という署名がある(上の写真)。
 見出しは「名所新景 最古の裁判所庁舎 “衣替え” 篠山歴史美術館(兵庫県)」となっている。丹波篠山(ささやま)に残る旧裁判所庁舎の物語である。

 明治24年裁判所として建築され、昭和56年6月まで使用されてきた、この建物が、場所を少し移動させ、正門の向きも変えて、この年(1982年)の4月に美術館としてリニューアルすることになったという。取り壊し論もあったようだが、町民の存続運動と、国土庁の1億円の資金援助によって存続することになったそうだ。
 記事によると、展示品の大部分は篠山藩にゆかりのある焼物や出土文物らしいが、4つの展示室のうちの一室は、かつての法廷がそのまま保存されているという。
 どんな事件があったのか、いつか判例集で「神戸地裁篠山支部」の判決を検索してみよう。
 
 明治24年の建築という記事が事実ならば、前回の旧松本裁判所は明治41年の建築だから、篠山裁判所のほうが古いことになる。
 篠山裁判所も旧松本裁判所と同じく、瓦屋根の建物で、正門も瓦葺である。
 「ローカル色豊かな美術館ではあるが、町民あげて育てようしている熱意が伝わってくる」と記者は結んでいるが、記事から40年以上が経過して、21世紀になり、令和となった現在でも建物は残っているのだろうか。健在であることを祈る。

 追記 
 ・・・と書いて心配になったので、丹波篠山市のHPを覗いてみた。丹波篠山市立歴史美術館は今も健在で、旧法廷もしっかり保存されていた。法廷の写真も載っている。
 歴史美術館のHPによると、「西南の役を鎮圧した明治10年(1877年)に、旧豊岡県支庁跡に篠山区裁判所が設置され、その後、明治23年(1891年)に府県制が公布されると同時に、区裁判所は地方裁判所となり、翌24年に 新しい木造の庁舎が完成した。
 現在、(美術館の)本館として使用されているのはこの建物で、 裁判所の木造庁舎としては最古級のものといわれており、建設当時の姿は、瓦をのせた白壁の塀で取り囲まれた敷地の南正門を入ると、左手に執行吏役場、 右手に公衆控所があり、正面に両翼を広げた長さ約40mの木造平屋建ての本館が控える堂々たる構えのものであった」とある。この法廷は、テレビ映画「裸の大将」のロケにも使われたという。
 新聞記事に添えられた写真よりもかなり立派な門構えの写真がHPには載っており、1980年代よりもさらに発展した様子がうかがえる。

 2023年6月15日 記

建築でたどる日本近代法史・1 旧松本裁判所庁舎

2023年06月14日 | あれこれ
 
 法律雑誌の編集者時代にぼくが出した企画で、実現しなかったものの一つに、「建築でたどる日本近代法史」というのがあった。

 編集者時代の一時期、建築物に多少の興味を持った時代があった。
 きっかけは、長谷川尭の「神殿か獄舎か」(だったか「建築の現在」)に載っていた彼のエッセイの中の一文だった。
 現在の最高裁判所庁舎の設計コンペに際して主催者が提示した建築条件のなかに、新しい最高裁の建物の天辺の標高が国会議事堂と同じであることという一項目があったと書いてあったのだ。

 唖然とした。三権分立、司法権の独立に対する何という志の低さか! 近代立憲主義国における裁判所の権威は、違憲審査権によって立法府における多数派の専横を抑止して、少数派の権利を擁護することによって保たれるのではないか。それが、建物のてっぺんの高さを国会議事堂と同じ「標高」にしろとは・・・。
 憲法を守らないトランプを二度と大統領の地位につかせてはならないと、かつて彼のもとで副大統領を務めたペンス元副大統領が立候補宣言で語ったと報道されているが、彼我の差を感じないではいられない。ウォーターゲート事件発覚の際に、「アメリカは腐っても鯛だ」といった久保田きぬ子さんの言葉を思い出す。

 おそらく長谷川のこの本などをきっかけに、建築物で近代日本の法史を語ることはできないかと考えたのであった。
 おりしも1980年代は、明治以来の歴史的建築物が次々と取り壊され、建てかえられる時期にあった。新聞などでも、歴史的建築物が取り壊される事件が時おり報じられていた。企画するなら今しかないと思った。
 しかし、適任の筆者が思い当らなかった。建築史家はいるが、法律雑誌の読者にむけて、その建築物にまつわる法律史のエピソードを書いてもらえるか不安がある。
 当時だと、慶応大学の法制史、手塚豊先生の門下には適任者がおられたかもしれない。同大学の法制史研究者が執筆した論考には、登場する歴史上の人物の墓所の所在地や、墓碑銘まで紹介したものがあったように記憶する。しかし、残念ながら、私は企画の相談にのってもらえるほど親しい慶応の法制史の先生に知り合いがいなかった。
 そんなことで、結局この企画はお蔵入りになってしまった。

 今さらとは思うのだが、その当時この企画のためにスクラップしておいた新聞記事が、これまたわが断捨離の途上で出てきたので、ここにいくつか掲載しておく。

 第1回は、旧松本裁判所庁舎である。
 1981年(昭和56年)6月29日付の朝日新聞に、「市民が作った司法博物館」「永久保存される旧松本裁判所庁舎」という白井久也編集委員の署名記事がある(上の写真)。
 松本市にある長野地方裁判所松本支部庁舎は、明治41年に建設され、現存する裁判所建築としてはわが国最古のものだが、取り壊しが決まったところ市民の間から反対運動が起こり4年越しの運動の末に、「日本司法博物館」として永久保存されることが決まったという。

 旧松本裁判所庁舎が「現存するわが国最古の裁判所建築物」かどうかは、次回紹介する篠山裁判所が明治24年建築というから疑問が残るが、記事と一緒に掲載された和風、瓦葺で二階建ての写真を見ると、最近のどこも似たり寄ったりのコンクリート造りの裁判所庁舎とちがって、威厳と雰囲気が感じられる。
 「天皇の名において判決を下していた戦前の裁判官のほうが(戦後の裁判官より)責任感が強かった」と、戦前を知る人権派の弁護士が語っていたが、そういう心情を培う雰囲気が裁判所の庁舎にはあったのかもしれない。

 2023年6月14日 記

佐賀の旅(その7)佐賀城~柳町~佐賀空港へ

2023年04月27日 | あれこれ
 
 佐賀の旅第4日目(4月21日)のつづき。
 
 佐賀城を後にして、佐賀の中心地を散歩しながら、呉服元町の交差点に出る。
 ここから、通り沿いに古い歴史的な建築物が保存された柳町の街並み(「佐賀市歴史民俗館」と呼ばれている)を歩く。

   

 小径に入って最初に目についたのが、赤レンガ、2階建ての洋館。旧古賀銀行である。
 1階が「浪漫座」というレストランになっていたので、最初はレトロなレストランかと誤解して通り過ぎてしまった。下の写真は、その浪漫亭の側からみた旧古賀銀行の建物。
   

 その隣りが旧古賀家、古賀銀行の創業者の邸宅である。
 立派な門構えで、平屋の住居も立派(※実は二階建てだったらしい)、その庭も立派である。武家屋敷風の町家とある。古賀家はもともとは両替商だったというから、佐賀藩のころから長崎街道に面した佐賀の地は経済的に豊かだったのだろう。しかし、三代目の時に大正恐慌に見舞われ、休業に追い込まれたという。
   
   
   

 次も銀行で、「旧三省銀行」という看板と、「三省社」と書いてある銘板が並んでいた。「三省社」は佐賀藩士によって設立され、「銀行類似業務」を行なったと紹介がある。明治期の銀行業のことはわからないが、信用金庫か相互銀行のようなものだろうか。こちらは明治26年に廃業したという。「武士の商法」だったのか。
      
   

 その次は「旧牛島家」。佐賀城下に残る町家建築の中で最も古い建物とある。この家は商家だったらしく、板の間に座った商人が土間の来客に対応するような作りになっていた。
   
   

 最後に、さっきは素通りしてしまった「旧古賀銀行」に戻ってきた(冒頭の写真が正面玄関)。レンガ造り、二階建ての堂々たるたたずまいである。
 内部も、磨かれた木の床に、マホガニー造り(?想像で書いてます)の階段や手すり、天井からはシャンデリアが下がり、応接セット、グランドピアノなども置かれていて、優雅な雰囲気を醸している。
   
   

 吹き抜けになった二階の回廊から階下を眺めると、下の写真のようになっている。
   
 
 12時少し前だったが、この一階の一角で営業している「浪漫座」でランチをとることにした。
 ぼくはオムカレーとスープを注文。あまり食べたことのないユニークな盛り付けと、やわらかい味のカレーだった。文明開化時代のレシピだろうか。
   

 本当はこの他にも数軒の古い建築物があるのだが、道端に立つ道しるべによると、この3軒が代表的な建物らしく、旧古賀銀行で十分に堪能したので、あとは省略した。
 昼食を終えて、徒歩で佐賀駅にもどる。

   
 「旧長崎街道」という表示のある細い道を抜け、駅に向かう大通りに出る。「大財通り」(おおたから)と書いてあったように思う。
 道端に何か所か、銅像が2体ずつ並んでいる。佐賀出身の著名人らしい。森永製菓の創業者と江崎グリコの創業者の像が並んでいたが、写真を誤って消去してしまった。これが一番われわれにもポピュラーな佐賀県人だったのだが。森永の創業者は唐津の出身で、伊万里の駅前にも銅像が立っていた。ぼくが子どもの頃はグリコの本社は佐賀にあったような記憶がある。グリコの懸賞を佐賀宛てに応募した記憶があるのだが。

   

 下村湖人の像を載せておく。初日に吉野ヶ里に向かう車窓からも、下村湖人記念館の案内を見た(なお、左隣りの銅像は田澤義輔)。※下村は(吉野ヶ里に近い)現在の神埼市の出身だった。
 下村の「次郎物語」は中学生の頃に児童文学全集の一巻本(リライト版)で読んだが、あまり面白くなかった。しかし、「次郎物語」には思い出がある。中学3年生の時に級友の家に遊びに行って、NHKテレビの夕方の番組で放送されていた「次郎物語」を一緒に見ていたら、友人のお母さんが泣くので(号泣に近かった)困惑したという思い出である。ぼくの記憶に間違いがなければ、1964年にNHKテレビで放映されたはずである。主演は太田博之ではなかったか(当時のこの手のドラマは大体彼が主演だった)。
 ※心配になってネットで調べると、NHKテレビ「次郎物語」は、確かに1964~5年にかけて100回余にわたって放映された連続ドラマで、主人公役は池田秀一だった。映像もあって、「一人ぽっちの次郎は歩く ゆらゆらゆらゆら陽炎のなか・・・」という主題歌も思い出した(不正確な記憶だったけど)。里子に出された主人公の少年が周囲の人たちからいじめられるのだから、友人のお母さんが泣くわけである。

   

 日ざしがきつい中を佐賀駅に戻り、初日にも入った駅ビル内のコーヒーショップで時間をつぶし、お土産の丸芳露(まるぼうろ)を同じ駅ビル内の北島で買う。子どもの頃に、佐賀の親戚がよく手土産に持ってきてくれた。ぼくの大好物だった。今でも美味しい。
 14時40分発のリムジンバスで、佐賀駅前から佐賀空港へ。

 15時30分発、ANA981便に乗り、17時30分に羽田着。気流のせいで少し揺れ、到着もやや遅れた。しかも到着ゲートからかなり遠いところに着陸し、バスで移動しなければならなかったので、18時15分の石神井公園行きリムジンに辛うじて間に合って帰宅。

 こうしてぼくの “nostalgic journey” 佐賀編(第1回)は終わった。
 今回の旅であたりはつけたので、次回は嬉野を中心にレンタカーを借りて回ってみたい。元ゼミ生で唐津出身の学生が、福岡空港から海岸線を走る列車で唐津に入るのが一番景色がいいと言っていたので、次回はそのルートで行ってみよう。
 父方の祖母の実家があった彦根も行ってみたい。六角精児の「呑み鉄、日本旅」で近江鉄道の沿線を旅しているのを見たが、風情のある町だった。

 2023年4月27日 記

佐賀旅行(その6)佐賀駅~佐賀城公園

2023年04月26日 | あれこれ
 
 4月21日(金曜日)、われわれの佐賀の旅も最終日となった。

 佐賀駅前の佐賀コンフォートホテルを午前9時にチェックアウト。駅前から佐賀市営バス佐賀城址線で佐賀城(城址公園)に向かう。

     
 
 バスを降りると、ほどなく高さ10メートル近い大きな銅像が見えてくる。佐賀藩第10代藩主、鍋島直正の銅像である。藩の財政立直し、弘道館における教育の振興、技術革新による軍事力の増強に努めた藩主と紹介がある。
 鍋島は質素倹約を旨とし、大火によって天守閣、本丸が焼失後は天守閣は再建せず、後に本丸のみ再建されたという。佐賀藩は長崎港の防備を任されていたため、早くに反射炉を建造し(教科書にも書いてあったような気がする)、アームストロング砲なる大砲を製造し(下の写真)、品川お台場に設置された大砲も佐賀藩が造ったものだという。

   

 鯱(しゃち)の飾られた門をくぐると、すぐ左手にそのアームストロング砲のレプリカが置いてある。
   
 
 玉砂利が敷かれた道を進むと、本丸の玄関がある(冒頭の写真)。
 本丸は1838年に鍋島直正が再建したが、1874年の江藤新平による佐賀の乱の際にも焼失を免れ、裁判所や小学校の校舎として利用された時期もあったという。江藤新平は明治最初期の民法草案の起草で有名だが、武士だったのだ。
 拝観料は無料だが、維持のための募金箱が置いてあったので、2人分500円を献金する。下足箱で靴を脱ぎ、玄関を上がるとすぐに広大な座敷と、並行する畳敷きの長い廊下に出る。もらった史料に図面が載っているが、それによると、大広間(外御書院というらしい)は廊下も合わせると320畳もあるという。後継ぎのお披露目などに使われ、総勢1000名以上の家臣を収容したとのこと。見たことのない奥行である。
   
   

 順路に従ってひと廻りして、玄関に戻って退出する。
 本丸の庭に沿って城の外周をまわる。周囲は佐賀大付属小学校や赤松小学校の敷地になっている。お城の周りが学校というのも教育を重視したという鍋島藩らしい。
 堀割がはりめぐらされて水を湛えている。周囲には松が植えられ、つつじが咲いている。
   

 以前テレビで見た「ブラタモリ」によると、佐賀の町は町中に水を供給できるように用水路が設計されているとのことだった。町の中にも随所に小さな疏水がめぐらされていた(下の写真)。松本清張原作の古い映画「張込み」の舞台が佐賀だった。犯人の立ち回り先の愛人(内縁の妻か?)宅に張り込んだ刑事が大木実だったが、柳がゆれる道沿いに疏水が流れていたのが印象的だった。
   

 城内には、旧制佐賀中学校だった県立佐賀西高校の敷地もある。ぼくの祖父はこの旧制佐賀中の出身だが、嬉野(当時は藤津郡)の山間の吉田からはとても通うことはできない。どこかに下宿するか寄宿舎から通ったのだろう。一応写真を撮ったが(下の写真)、昔の面影はまったくない。そもそも旧制佐賀中が現在の佐賀西高校と同じ敷地にあったのかどうかもわからない。もともとが藩校だったのだから、お城の近くではあったはずだ。祖父もこの地の空気を吸って勉強したのだろうと思うことにする。
   

   

 お濠を渡って佐嘉神社(上の写真)、松原神社に参拝してから、呉服元町に向かう。次は歴史的建造物が並ぶ柳町界隈を散策する。 

 2023年4月26日 記

佐賀旅行(その5)鹿島~祐徳神社~佐賀市

2023年04月25日 | あれこれ
 
 佐賀の旅3日目(4月20日)のつづき。

 わが嬉野市吉田に別れを告げて、13時16分上皿屋発の祐徳バスで鹿島に向かう。
 出発時間は吉田焼窯元会館の受付嬢が教えてくれたので、時間まで窯元会館で過ごさせてもらった。
 吉田の目抜き通りのバス停を出発すると、バスの車窓からは山間の緑の中に、時おり吉田の集落が現われては去って行った。30分くらい乗っただろうか、次第に街の風景になり、JR長崎線の肥前鹿島駅前バスターミナルに到着。
 ここで同じ祐徳バスの祐徳神社行きに乗り換えて、祐徳稲荷神社に向かう。15分くらいだったかで到着。

   

 参道の手前のバス駐車場で下車。運転手さんが、この道をまっすぐ進むと7、8分で参道です、と教えてくれた。
 バス停に近い参道沿いの土産物店はほとんどシャッターが下りている。平日のせいか、コロナの影響だろうか。
 この日も、日ざしが暑いくらいに感じられる晴天だった。今回の佐賀の旅は本当に天候に恵まれた。
 山門をくぐると、ほどなく右手の小高い山の中腹に、旅のガイド本で見慣れた神社の赤く塗られた本殿が見える。ぼくは左足首に古傷を抱えているので、家内だけが上ってくる。

     

 またしても、「仁和寺の法師」である。「仁和寺の法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、物憂く覚えて、ある時思い立ちて徒歩(かち)より詣でけり。かくてもあられけるよと・・・」法師は、他の人たちはなぜ山を登って行ったのだろうと訝しく思いつつも登らずに帰っきた、「すべてのことに先達はあらまほしきものなり」というのは(うろ覚え)、「徒然草」だったか。
 しかし、下から眺めるだけでも、周囲の木々の緑がきれいで、初夏の空気を堪能した。
 帰り道の参道右手の駐車場の向うには、彩り鮮やかなつつじが咲きほこっていた。

   

 帰りは、いったんJR肥前鹿島駅に戻って長崎本線の佐賀行きに乗り換えるか、ここで1時間以上待って(鹿島経由で)直接佐賀駅バスターミナルまで行く14時08分発の祐徳バスにするか迷ったが、直通のバスを選んだ。
 バスは、ほぼ長崎本線と並行して走るので、車窓の風景はどちらも同じ。田園地帯のなかを走るが、その向こうには有明湾があるのだろう。途中で、長崎本線江北駅の踏切を渡った。
   
   

 所要時間はバスは1時間30分以上かかったので、電車に乗り換えたほうがが早かったかも。料金はバスは1000円(鉄道は不詳)。1時間ほど走ったあたりから料金は1000円のままだった。政策運賃なのだろう。
 4時前にようやく佐賀駅に到着。さすが県庁所在地で、にぎやかな町並みである。
   

 きょうのホテルは朝食のみなので、食べ物、飲み物を買い込んでからチェックイン。予約しておいたのは駅前のコンフォートホテル佐賀、2人利用で1万円を切る宿泊代だったが、きれいな部屋で、無料サービスの朝食も美味しかった。
   
   

 明日は、いよいよ佐賀の旅の最終日。佐賀市内を廻って、夕方には佐賀空港から東京に戻る予定。

 2023年4月25日 記

佐賀旅行(その4)嬉野温泉~吉田~鹿島

2023年04月24日 | あれこれ
 
 佐賀の旅第3日目(4月20日木曜)は、嬉野温泉を出発して、わが父祖の出身地である旧藤津郡吉田村を訪ねる。これが今回の佐賀旅行の主目的である。

 朝5時半、暑さで寝苦しくて目が覚めたので、起きてしまう。この日の嬉野は日中に29・8℃だったかまで気温が上がった!
 ひと風呂浴びてから、朝の温泉街を散歩する。

   

 最初は、旅のガイド本に必ず登場する「シーボルトの湯」に向かう。レトロ風の建物の外浴場。近くには足湯もあった。
 シーボルトがどんな人物だったか忘れてしまったが、長崎に来たオランダ人の医者か何かで、隣りの佐賀の嬉野で温泉の効能でも発見したのだろう(と勝手に想像する)。道路案内には「大村まで30㎞」と表示してあったから、長崎はすぐ近くだろう。
 これもレトロな雰囲気のある建物だったが、やや映画のオープンセットのようにも見える。朝6時というのに、駐車場に数台の車が止まっていて、浴室からは話し声、笑い声が道路にまで聞こえていた。地元の人たちの交流の場なのだろうか。

   
   

 豊玉姫神社、瑞光寺を廻って大正屋に戻る。
 豊玉姫神社は、美肌の湯として知られる嬉野温泉を象徴する美肌の美女が祭られているとか。
 瑞光寺の歴史を読むと、元の領主だった嬉野氏が、何年だったかに鍋島氏に滅ぼされるなどという悲惨な歴史もあったようだ。
 それでも「嬉野」の地名が残ったのは鍋島氏の温情か、嬉野氏が再興したのか。いずれにしても、古い地名は文化遺産で、今回われわれも旧地名、旧番地が残っていたので、戸籍を頼りに父祖の住んでいた場所にたどり着くことができた。
 宿に戻って、東京に送る宅急便の荷造りを済ませてから朝食。
 9時にチェックアウトして、嬉野温泉バスセンターの向かいにある温泉タクシーで嬉野市役所へ。
   

 市役所の戸籍係窓口でマイナンバーカードを提示して、持参した曾曽祖父が筆頭者(前戸主)になっている戸籍より古い戸籍が存在するかどうかを確認してもらう。マイナンバーカードを使うのは今回が初めての経験。
 弘化元年生まれのぼくの曽祖父より以前の戸籍は存在しないという。
 亡父の相続の際に取り寄せた除籍簿を持参したのだが、その戸籍は、曽祖父が戸主となっているが、「前戸主」として、生年の記載がなくすでに亡くなっている曽曽祖父の氏名が冒頭に記載されている。その妻(文化14年生れ。私の曽曽祖母にあたる)はまだ存命で、戸主である曽祖父の「母」として表示されている。さらに、曽祖父の妻、長男、二男、長女、三男、孫・・・と続く。まさに「戸」籍である。
 曽祖父の本籍は藤津郡吉田村xx番地だが、ぼくの祖父は二男で、結婚後の大正に入ってから分家して吉田村の別の地番に転籍している。
 行政地図を出してきて調べてくれると、現在の嬉野市嬉野町吉田に祖父の転籍先と同じ番地があるという。詳しくは吉田にある出張所で問い合わせてほしいというので、さっきの温泉タクシーを呼んで、吉田出張所に行ってもらう。

     

 嬉野の街中を外れて、山のなかを進むこと約15分で、吉田公民館兼コミュニティーセンター兼市役所出張所の建物に到着。隣りは吉田小学校、そのまた隣りは吉田中学校である。
 戸籍担当の方と、公民館の館長さんが、遠来だが突然の訪問客であるにもかかわらず、親切に応対してくれた。 
 旧吉田村xx番地は、ここからさらに数分山の中に入ったところにあった。
 まっすぐに伸びる通りが二筋あって、一方の筋は焼物の窯元が並んでおり、もう一方の筋は馬場通り(旧本通り)といわれ、かつては代官屋敷があってお侍たちが歩いていた通りだという。こちらの筋にxx番地はあったが、ぼくの先祖は武士階級ではなかったと聞いている。むしろ陶器関係の仕事だったのではないだろうか。
 ※嬉野市のHPを見ると、この馬場通りにはかつては(昭和戦後期でも)商店が20軒以上並んでいたほか、郵便局、映画館、パチンコ店、芝居小屋まであったという。
 吉田焼はかつては「有田焼」として出荷していたが、最近では地域おこしの一環として「吉田焼」として出荷するようになったという。近くに肥前吉田焼窯元組合の展示販売所があったので(下の写真)、記念にぐい飲みを買った。先祖を思いながら日本酒でも飲むことにしよう。

   

 定年退職して時間ができたら、NHKの「ファミリー・ヒストリー」のように、先祖の生活を偲ぶべく父祖の地である佐賀を訪ねようと思っていたのだが、コロナ禍のため頓挫してしまったのが、3年が経ってようやく自粛も解禁され、そしてとうとう祖父母が生活していたと思われる場所に立つことができた。
 この番地には現在も家が建っていて、ぼくの知らない名字の表札がかかっていた。思い起こしてみると、そんな名字の親戚がいたことを父母が話していたような気もしてきたが、呼び鈴を押す勇気はなかった。突然来られては相手も困るだろう。
 
     

 この空間を、今は亡き祖父母たちも100年近く前に歩いたりしていたのだ、と思うだけでも十分に感慨深いものがある。100年という時間は遠い昔のようでもあるが、ぼくは一気に近づいた気持ちがした。仏壇に収められた位牌だけでは感じられなかった感慨である。 
 下の写真は本通りの道沿いに立っていた石碑。
 明治期に、吉田高等小学校に製茶専修科を設置し、生徒たちにお茶の栽培から製茶、販売実習までを指導し、嬉野茶の担い手を育てた同校の校長の顕彰碑だそうだ。

     

 昭和25年生まれのぼくは、若い頃は昭和20年に終わった太平洋戦争さえ遠い昔のことだと思っていたが、今では100年以上前の明治時代すら、それほど遠い昔のこととは思わなくなっている。
 祖父の旧戸籍地番の前に立って、かつて侍たちが闊歩していたという細い通りを遠近法で写真に収めてから、窯元会館に立ち寄り、県道303号に出て、上皿屋バス停から鹿島行きの祐徳バスに乗って、鹿島バスセンター経由で祐徳神社に向かう。 
   
 2023年4月24日 記

佐賀旅行(その3)有田~武雄~嬉野温泉へ

2023年04月23日 | あれこれ
 
 佐賀旅行の第2日目(4月19日)のつづき。

 有田駅を14時29分に出発。JR佐世保線江北行きに乗って武雄温泉に向かう。
 14時49分に武雄温泉駅に到着(下の写真はわれわれが乗ってきた車両)。向う側のホームには西九州新幹線の「かもめ」がとまっている。
   
   

 武雄では1時間以上時間があるので、観光案内所に立ち寄って、目ぼしい観光地への所要時間を確認する。武雄温泉の楼門と新館までが約15分、武雄の大楠までが約15分ということだったので、この2か所を巡ることにする。

 大きな街道(国道34号、旧長崎街道)沿いに、道幅も人の流れもゆったりとした歩道を歩く。白いヘルメットをかぶった中学生たちが自転車で追い越してゆく。東京と違って歩道の幅が広いので、自転車が邪魔にならない。佐賀の旅の間は、毎日1万5000歩から2万歩近く歩いたが、道が歩きやすかったのだろう、あまり疲れを感じなかった。
 10分ほどで街道を右にそれて、温泉街に入る。時間帯のせいかも知れないが、人影もなく、どの旅館、ホテルもひっそりとしていて寂しい。
 旅のガイド本などで有名な武雄温泉の楼門に至る(冒頭の写真)。これをくぐった先が武雄温泉新館。竜宮城のような建物だが、これも辰野金吾の設計とある。
 説明を見ると、辰野は唐津の出身だそうだ。それで、昨日見た旧唐津銀行も辰野の設計で、辰野の銅像も立っていたわけだ。ただし、ぼくとしては武雄温泉の建物よりは旧唐津銀行のほうが辰野らしさを感じた。
   

 記念撮影だけ済ませて、来た時とは違う道を通って旧長崎街道に戻る。
 交差点を直進して南に進むと、右手には県立武雄高校の校庭と校舎が見える。
 学校の看板によると、武雄高校は中高一貫校になったらしい。九大x名、京大x名、東大x名・・・という進学実績まで書いてあった。武雄の町にも受験の波は押し寄せているのか。そう言えば、佐賀でも唐津でも伊万里でも駅前に受験塾が並んでいた。

 緩やかな坂道を5~600m登って、武雄高校の敷地が終わるあたりに、「武雄の大楠」の表示板が立っていた。道路に面した所ではなく、さらに神社か何かの林の中を数百メートル歩かなくてはいけないらしい。
 時間の都合もあり、しかも近辺には結構背の高い楠木が立っているので、「武雄の大楠」は見たことにして通り過ぎる。
 後で旅ガイドを見たら、「武雄の大楠」は樹齢3000年で!日本第7位の巨木と書いてあった。それなら無理してでも見ておけばよかったか・・・。「仁和寺の法師」になってしまったようだ。
      
   
 
 公民館か図書館の裏手のようなところを通ると、ここにも「塚原の大楠」という表示があった。残念ながら、こちらの大楠も裏道からさらに50メートルほど階段を登らなくてはならないようなのでスルー。
 佐賀県は大楠が有名らしい。
   
 
 しばらく歩いて、来るときに通った旧長崎街道に戻る。歩きはじめてから約1時間ちょっとで、もとの武雄温泉駅に戻ってきた。
 ここの駅前バスターミナルから、16時07発のJRバス嬉野本線彼杵行きに乗って、嬉野温泉バスセンターに向かう予定だが、まだ時間があるので駅の中や周辺をぶらぶらして時間をつぶす。
 バス停の前には噴水があって、温泉が出ているらしく、湯気が立っている。客待ちのタクシーが2台、ずっと止っていて、われわれを含めて数人がバスを待っているだけ。新幹線の駅前にしては寂しい風景である。
     

 定刻にバスが到着し、数人を乗せて出発。一組のアジア系の男女が途中の御船山楽園というバス停で下車していった。旅ガイドによれば、ここもおすすめスポットになっていた。
 嬉野温泉駅を通過。ここも新幹線が通っているのだが、温泉街からはけっこう離れている。駅前に大きな医療センターがあって、ちょうど日勤を終えたと思しき若い看護婦さんが10人ばかり一列になって寮かどこかへ向かって行進していった。
   
 
 嬉野温泉駅前からいくつもバス停を通過するが、なかなか温泉街にならないので心配になったが、5つ、6つ先が嬉野温泉バスセンターで、ほぼ時間通り、16時47分に到着した。

     
 きょうの宿は大正屋。
 バスセンターの斜め向かいにあり、すぐに見つけることができた(上の写真)。バスセンターに近いので選んだホテルである。
 老舗旅館らしい風情が漂う。軽井沢の万平ホテルを思わせるクラシックなホテルだった。
     

 嬉野での様子はまた改めて。

 2023年4月23日 記
 

佐賀旅行(その2)唐津~伊万里・有田

2023年04月23日 | あれこれ
 
 佐賀旅行第2日目(4月19日水曜日)は、唐津を出発して、伊万里、有田、武雄温泉を経て、嬉野温泉を目ざす。

 まずは宿泊した唐津シーサイドホテルの全景。清潔で居心地のよい室内だった。
   

 部屋は唐津湾に臨み、窓からは遠くまで砂浜が続く風景が見える。その浜辺で2羽のカラスが羽を休めていた。「唐津のカラス」である。
   

 夕べの夕食は写真を撮るのを忘れてしまった。朝食に付いていた佐賀牛が、分量は少しだけれど美味しかった。
   

 唐津駅から伊万里に向かうJR筑肥線が12時08分までないので、チェックアウト時間の11時までホテルの周辺を散歩してまわる。
 虹の松原は、昨日唐津城からも眺め、ホテルの部屋からも眺めたが、今朝はその中の小径を散策する。中に入ってしまえば、どこまでも続くただの松林である。
   

 11時すぎ、ホテル前のバス停から路線バスに乗って駅に向かう。冒頭の写真は車窓から眺めた唐津城。これも今日で見納めである。昨日は疲れて立ち寄らなかった唐津神社の前を通る。一礼。
 唐津駅に到着。出発まで30分以上あったので、駅前を歩く。
 駅前のメインストリートを突き当たりまで行くと、右手に石垣があって、左手には唐津市役所がある。新しい建物である(下の写真)。
   
 
 途中に、古くはなさそうだがクラシックな様式の建物がある。佐賀銀行唐津支店だった。10年近く前にイギリスのシェフィールドを旅行した際には、銀行と市役所がいずれもクラシックで雰囲気のある建物だったのを思い出した。
   

 駅前には唐津曳山の大きな像が建っていて、通り沿いの歩道には小さな曳子の像が飾ってあった。唐津の名物「唐津くんち」の関連なのだろう。
   
   

 12時近くなったので、ホームに入る。改札が無人だったのでPASUMOをかざして入ったのだが、ホームに向かう階段に「伊万里方面はカードでの入場はできません」という掲示があるではないか! ホームに運転士と駅員らしき人物がいたので尋ねると、もう一度外に出て切符を購入してくれと言う。
 しかも切符の自販機もカードは使えない。伊万里、有田でも同様だった。交通系のカードが使えないのは困ったものである。久しぶりに小銭がジャラジャラとポケットにたまってゆく。
   
 
 12時08分唐津駅発、JR筑肥線で山間を走ること約1時間、12時57分に伊万里駅に到着。
   
   
 
 残念ながら、伊万里駅前には伊万里焼にかかわるものは何もなかった。焼物はもっと山深いところにあるのだろう。有田へ向かう電車まで30分しかないので、駅周辺を歩いて時間をつぶす。
 有田へ向かう松浦鉄道(西九州線)伊万里駅は、唐津から乗ってきたJR筑肥線の伊万里駅とは大通りを挟んだ反対側にある。道路をまたぐ横断橋から伊万里の町を眺める。
 
 駅前に大きな書店が見えた。元出版社員としては、旅先で駅前に本屋がある町に出会うと嬉しくなる。小淵沢、青森などの駅前書店が印象に残っている。
 
 14時29分、伊万里発の電車で有田に向かう。所要時間は約20分で有田駅着。
   
 
 有田駅前にも、有田焼に関わる建物などはない。寂しい街並みである。ぶらぶら歩くと、川に架かった橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)が有田焼でできていた。有田駅前で出会った唯一の有田焼。

   
 
 もっと向うの山の方角に有田焼会館だったかの看板が見えたが、次の電車が30分後に発車だったのでスルー。橋のたもとのコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、駅に戻ってベンチで食べる。小津安二郎「東京物語」の笠智衆と東山千栄子夫婦である。
 14時29分伊万里発JR佐世保線で武雄温泉駅に向かう。
   

 武雄温泉から、この日の目的地、嬉野温泉までのことはまた改めて。

 2023年4月23日 記

佐賀の旅(その1)吉野ヶ里~唐津へ

2023年04月22日 | あれこれ
 
 4月18日(火)から21日(金)まで、九州、佐賀を旅行してきた。

 佐賀は父方の出身地なのだが、佐賀県にはこれまで一度も足を踏み入れたことがない。
 定年退職したら、まっ先に佐賀を旅行して父祖の生まれ育った地を旅したいと思っていたのだが、定年を迎えた2020年3月はコロナ禍による自粛ブームの真最中で(今になって見れば大したことはなかったのだが)、旅行どころではなかった。

 それから3年が経って、ようやくコロナも終息した様子なので、思い立って出かけてきた。
 2月はじめに、ANAの全国どこでも往復航空券14,000円キャンペーンというのを2日間限定でやっているというメールが届いたので、ひとまず羽田ー佐賀の往復航空券を確保した。
 行先は、曽祖父、祖父の本籍である嬉野だけは決まっていたが、あとはどこが良いのか知識もない。るるぶの「佐賀の旅」を買ってきて研究し、3泊4日の旅程を作ってみた。 

 第1日目の4月18日は、ANA981便、羽田発9時25分で、11時20分に佐賀空港到着。
 佐賀空港からは予約してあった乗り合いタクシーで吉野ヶ里遺跡公園へむかう。1人2500円だが約25キロあるので割安か。

   

 吉野ヶ里遺跡公園は70歳以上は入場無料。申し訳ない。
 前日が雨だったので、新緑がひときわまぶしい。
 有名な見晴台(監視台)に登って全貌を見渡してから、園内の3分の1ほどを歩く。有力者たちが住んでいた一角は木の杭でしっかりと囲まれていて、庶民たちはその外側で生活していたそうだ。北の端には素焼きの甕棺が埋められた立派な陵墓がいくつも並んでいる。
 思っていた以上に広い面積で、ここに住んでいた古代人たちの権力がかなりのものだったことが窺える。佐賀空港から吉野ヶ里までの道の両脇は広大な平野が広がっていて、権力の背景になった佐賀平野の稲の生産量もなかなかのものだったと想像される。

   

 タクシーの運転手さんから、全部を歩いたら3時間はかかるから、北端から周遊バスに乗って西門で降りて、神埼駅に向かったほうが良いとアドバイスされていたので、その通りに従う。
 公園西門を出て、田んぼ道を15分ほど歩いて、長崎本線神埼駅に。13時30分に駅に到着すると、何と13時31分発の列車が到着。これに乗って、ひとまず佐賀駅に向かう。

   

 佐賀駅のなかのコーヒーショップでサンドイッチを食べ、唐津線に乗り換えて唐津駅で下車。
 観光案内所の人が、駅から旧唐津市街から唐津城を経て虹の松原のホテルまで歩いても行けるというので、歩きはじめる。
 駅前から10分ほど歩くと旧市街に出る。観光案内によると旧唐津銀行の建物が一番の見ものとある。たしかに赤レンガの近代日本らしい雰囲気のある建物だった(冒頭の写真)。それものそのはずで、設計は辰野金吾だった。正門わきに彼の銅像が建っていた。もう一人の腰かけた人物は不明(忘れてしまった)。
   

 かつては大名屋敷が並んでいたのだろうか、豪邸らしき建物が散見される街並みを10分ほど歩くと、旧高取邸に至る。高取邸はそのような豪商の建物の一つだった。
   

 観光案内所の人のおすすめに従って、唐津湾の海沿いの細い小径を唐津城に向かって歩く。右手は早稲田佐賀中学校の敷地。大隈重信は唐津の出身だったのだろうか。
 海からの潮風に吹かれながら歩くと、城山のふもとにたどり着く。
 唐津城は天守閣が再建されているが、歩いて登るのはきついいのでエレベーターに乗る。申し訳ないことに大人200円のところが、ここも70歳以上は無料。「老人は社会に貢献した故に尊敬しなければならない」とかいう国民の祝日法が定めた「敬老の日」の趣旨を、まだ若かった恩師が批判していたことを思い出す。 
       

 天守閣周辺は庭園になっていて、これから向かう虹の松原方面が一望できる。あそこまで歩くのかと思うと、少し気が重くなる。

   

 再びエレベーターで下山して、街道沿いの道幅が広くて歩きやすい舗道をホテルに向かう。川にかかったまいづる橋を渡って、振り返るとかなたに唐津城がそびえていた。

   

 途中で道に迷ったが、歩いていた地元の中学校の女生徒に教えてもらって、夕方6時前に、何とかきょうの宿泊先である唐津シーサイドホテルにたどり着いた。
 眼下の浜辺が何海なのか、何湾なのかさえ調べていないが、寄せる波の音がけっこう力づよい。波濤というのか。
 ※後で地図を見ると唐津湾とあった。

 2023年4月22日 記

閲覧数 200万回突破!

2023年02月14日 | あれこれ

 このブログの編集画面の「トータルアクセス数」を見ると、昨日 2月13日(月)で、「トータル閲覧数」が2,000,077 PVとなり、「トータル訪問数」が827,521 UUとなった。
 「PV」や「UU」の意味は分からないのだが、延べで82・7万回誰かがこのブログを訪れてくれて、延べで200万回どこかのページを閲覧してくれたということではないか。
 2006年2月18日に「タイムマシンの作り方」(広瀬正)でこのブログを始めてから、この2月でちょうど16年、よくぞ続いたものである。
 そして、こんな多数の人に読んでもらえたことに驚く。紙媒体では考えられないことである。スタインベックの「創作日記」や、ボブ・グリーンの日記でもない限り。

 ぼくは、中学3年生だった1965年に日記を書き始めた。最初の頃は、旺文社から出ていた「学生日記」というのに書いた(写真)。
 この日記はいかにも旺文社のものらしく、365日の各日付けごとに数行の豆知識や名言などがついていたり、巻末にもいくつか記事が載っている。
 この記事のなかにその年の各種スポーツの記録が載っていたおかげで、ぼくは1964年の東京オリンピックの十種競技で敗退した台湾の楊伝広選手が、オリンピックには敗れたが、それでも1964年現在の世界記録保持者だったことを知ることができたりもした。

 その後1980年ころまでは大学ノートで書きつづけたが、それ以後は小さなポケットサイズのスケジュール帳にその日の予定や出来事を簡単に記すだけになってしまった。
 そして、2006年以降は、この「豆豆先生の研究室」にあれこれを書き残すようになった。
 最近一番閲覧数が多いページは「軽井沢スケートセンターが廃業していた」と「軽井沢グリーンホテル」(からの閲覧)ではないかと思う。モームの「木の葉のそよぎ」も善戦している。

 つぎは300万アクセスを目ざしたいところだが、単純計算ではあと8年かかることになる。はたして到達できるだろうか。

 2023年2月14日 記

“アポロ・チョコ” 2020年限定版

2022年12月17日 | あれこれ
 
 年末が近づいたので、わが家の食糧貯蔵庫(というほどでもないが)を整理していたところ、中から筒状の容器に入った “アポロ・チョコレート” が出てきた。筒には例の東京オリンピックのマスコット・キャラクター(氏名不詳)のイラストが入っていて、キャップには “2020 Limited Design”(2020年限定デザイン)と銘うってある。
 残念なことに賞味期限が2022年11月になっていた。一昨年、孫のために買ったのだが、喉につっかえる危険があるというので、しばらく置いてあるうちに期限切れになってしまったのだろう。期限切れ1ヶ月くらいなら大丈夫だろうから、中味はぼくが一人で全部食べてしまった。
 問題は入れ物である。2020年限定版というのがどれくらい発売されたのかは知らないが、現在まで保存している人はどのくらいいるのだろうか。ひょっとしたら希少性があるのではないか。とかく曰くつきの2020年東京オリンピックの限定版でもあるし・・・。

 「サクマ式ドロップス(復刻版)」が、同社の廃業を機に買い占められ、高い価格で転売されているというニュースがあったので、ちょっと気になった。もちろん売るつもりはないし、取っておく気もないけれど。
 ついでに、そばにおいてあったニベアのスキン・クリームの缶も入れておいた。マツモトキヨシに買いに行ったところ、通常の缶と並んで1つだけクリスマス・バージョンのようなイラストのがあった。メンソレはついでのついでまで。

     

 その “サクマ式ドロップス” の話題を、今朝(12月17日、土曜日)の日本テレビの情報番組でも取り上げていた。コロナ禍による中小企業の倒産、廃業にまつわる話題の1つとして、佐久間製菓が来年早々に廃業し、“サクマ式ドロップス” も今日で出荷停止になるといっていた。
 ただし画面に映っていたのは、通常の缶で、ぼくが持っている「火垂るの墓」イラスト入りバージョンではなかった。

     

 昨日(12月16日)は、テレビのBS放送で(チャンネルは忘れた)“ワイルド・ギース ” という古い映画をやっていた(1978年)。
 「ワイルド・ギース」(野生のガチョウ)というのは傭兵のような存在らしい。内容は大したものではなかったが、リチャード・バートン、ロジャー・ムーア、それに “シベールの日曜日” のハーディー・クリューガーが出演していて、懐かしかった。
 画面をスマホで写したのだが、残念ながらハーディー・クリューガーはうまく撮れなかったので、家にある「シベールの日曜日」のスチールで代用しておく。たしか彼の死亡記事を読んだように思うが、ハリウッドで俳優をやっていたとは知らなかった。

     
     

 同じく昨日のテレビ朝日「じゅん散歩」では、高田純次が下高井戸を歩いていた。右上に「世田谷区赤堤」と表示されていたが、京王線の南側の町名は「赤堤」だっただろうか。
 高田純次が京王線の踏切を渡るシーンがあったが、この下高井戸の踏切を背景に、夕暮れ時の商店街に「アニー・ローリー」が流れるYou Tube がある。「岬めぐり」のカバーとともにぼくが好きなYou Cube で聞く懐メロの一つである。

 2022年12月17日 記

サクマ式ドロップス

2022年11月17日 | あれこれ
 
 “サクマ式ドロップス” のサクマ製菓が廃業することになったという記事が数日前のニューズで流れていた。
 
 驚いたことに、このニュースが流れるや、サクマのドロップが買い占められて、高値で転売されているというニュースが流れた。
 ネットで “サクマ式ドロップス” を調べると、なんと1万6900円などというとんでもない値段がついている。
 まさかこんな値段で買う人もいないとは思うが、妙な社会になったものである。

   

 幸いにぼくは、2015年の8月に、軽井沢から草津、白根、万座をドライブした折に、偶然草津の道の駅で(上の写真)、この缶を見つけて買った。
 中身のサクマのドロップよりも、ぼくの(ジブリでただ一つだけの)お気に入りの “火垂るの墓” のイラストの入った缶に魅せられて買ったのだった。
 写真の日付けを見ると、偶然にも8月15日、終戦記念日だったようだ。
 そしてこの年、これまたぼくが好きだった原作者の野坂昭如さんが亡くなったのだった。

 2022年11月17日 記

ビクターのマスコット “His Master's Voice !”

2022年10月22日 | あれこれ
 
 先日、高校、大学時代の旧友が蒐集した雑貨(?)コレクションを見てきたので、ぼくの「お宝」(と言うほどでもないが)を・・・。

 ここで紹介するのは、あのレコード会社、音響メーカーのビクターのキャラクター・グッズである。
 ビクターの思い出は、昭和30年代にわが家にあった “電蓄” (電気蓄音機)にさかのぼる。まだぼくが小学生だった昭和30年代の初め頃、わが家には “電蓄” があった。まだあまり普及しておらず、ぼくの周辺では通っていた幼稚園の講堂でしか見かけたことがなかった。
 その “電蓄” がビクター製で、レコードプレーヤーのピアノブラック色の天蓋を開けると、その内側に、アサガオ形のスピーカーに耳を傾けるあの犬の金色のマークがついていた。
 でも当時の思い出としては、この犬のマーク よりも、ラジオのチューナーに付いていた同調を知らせる500円玉ほどの丸いメーター(正式には何というのだろう?)が印象的だった。電源を入れると、水色の地に黄緑色のマーカー(?)が点灯して、つまみを回すと円グラフのように広がったり狭まったりするのである。そしてチューニングがぴったり同調すると黄緑色が100%、円全体が黄緑色になるのだった。この背後から光で照らされた人工的な黄緑色が好きだった。

 そのせいもあってか、大きくなってからも、ぼくはビクターがご贔屓だった。大学時代に買ったオーディオも、その後はじめて買ったビデオ・カメラもビクター製だった。
 そして、とくに集めたわけではないが、ビクター関連グッズがいくつか残っている。
 冒頭は、陶器のビクター。小さくて白い方はどこで入手したのか記憶にない。金色のほうも記憶はないのだが、台座に “Victor Millennium Gold Nipper” と書いてあるから、西暦2000年を記念したビクターのプレゼントに応募してゲットしたのだろう。
 そういえば、この犬はニッパー(Nipper)という名前だった。名前の由来はスピーカーかプレイヤーを製作するご主人様の工具のニッパーから名づけられたというエピソードを聞いた。そのご主人様の声がスピーカーから聞こえてくるのに、不思議そうに耳を澄ませて聞いているのだった。
 
       
       

 上のテレフォン・カードも何かの景品だろうと思う。未使用のままである。下のネクタイ・ピンは買ったものか懸賞で当ったものか、記憶はない。タイピンはお気に入りで使い込んだため、ずい分汚れが目立っている。
 実はぼくは20歳の誕生日に母親からジョン・F・ケネディの横顔が刻まれた銀の丸型のネクタイ・ピンをプレゼントされた。吉祥寺の春木屋で買ってもらったのだが、中学校のクラス会につけていったところ、国立音大生だった同級生から「思い出に欲しい」とせがまれて、あげてしまった。お返しにと言って、彼女はバッグから手鏡を出してぼくにくれた。そして店の紙ナプキンに彼女の電話番号を書いて渡された。
 電話をかける勇気もなく、ぼくは連絡をしなかった。その後彼女とは二度と会っていない。手鏡からは、彼女がつけていた香水の香りがしばらくのあいだ匂っていたが、やがてその香りも消えてしまった。彼女も72歳になっているはずだが、覚えているだろうか。そしてケネディの横顔が彫られたタイピンはまだ彼女の手元にあるのだろうか。ぼくは彼女からもらった手鏡を失くしてしまった。
 ※ と書いたが、先日物置を物色していたら、なんと段ボール箱の中から出てきた。捨ててはなかったのだ(下の写真。2024年10月3日追記)。   
   
    
 最後は、便箋と封筒のレター・セット。これも買った物かどうか・・・。封筒は何枚入っていたのか、最後の1枚になってしまったので、便箋2枚とともに使わないでしまってある。
   

 むかし取っていた月刊雑誌の『少年』に「ガラクタくん」(「がらくた君」かも)という漫画が連載されていた。主人公のがらくた君が自分の持っているガラクタの中から毎月1品を取り上げて、その品物にまつわる思い出を回想するという内容だった。
 どうもぼくたちの世代は、少年時代から懐古趣味を植えつけられているようだ。

 2022年10月22日 記

     
   

 ※ その後、ビクターの商標である「ニッパー」の由来が書いてあるビクターの(何かの製品に入っていた)栞を見つけたので、添付しておく(上の写真。2024年10月7日)。