豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

久しぶりの豪徳寺-4 “豆豆や”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 懐かしい店屋やその跡地についてはおいおい書くとして、今回一番びっくりしたのが、雨のそぼ降る山下商店街に、何と!“豆豆や”という店を発見したこと!!!

 豪徳寺駅を背中にして山下商店街を少し北に向かった右手、みずほ銀行の隣りにある。間口一軒ちょっとの小さな店である。
 看板には“たい焼きあん処 豆豆や”と記されている。
 いつ頃から営業ているのだろうか。看板の真新しさからすると、それほど時間は経っていないような感じだ。

 豪徳寺で“豆豆”と言えば、わが“豆豆先生の研究室”だけかと思っていたら、仲間がいたとは・・・。
 以前、京都の五条坂では“豆吉本舗”を“豆豆本舗”見間違えてしまったが、今度は間違いなく“豆豆や”であった。

 2010/7/9

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの豪徳寺-3 “玉電山下駅”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 さっそく玉電山下駅に向かう。

 ちょうどいい具合に、宮の坂方向から電車がやってきた。

 青色の2両連結で、ヨーロッパの路面電車のように洒落ている。
 今日ぼくを誘った同僚は、この玉電で通勤したくてわざわざ若林だか世田谷だかに居を構えたのだという。
 昭和35年に豪徳寺から引っ越してしまったぼくにとっては、黄緑とクリーム色のツートンカラーの2両連結の“いもむし”と言われていたらしい車両が最新型である。ただし、ぼくたち近所の小学生は「いもむし」などとは呼んでいなかった。
 小田急の箱根行きロマンスカーに“オルゴール電車”というのが走っていた頃である。オルゴールとは名ばかりで、ただ騒音をまき散らしながら玉電を跨ぐガードの上を通過して行った。

 ボディーの形状とカラーは変わってしまったが、昔とまったく変わらないゆったりとしたスピードで踏切を通過して行った。 

 2010/7/9

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの豪徳寺-2 “鈴木茂三郎”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 階段を下りて、改札口を出ると、真正面にマクドナルド。
 
 もちろん昔はなかった。豪徳寺駅の真正面といえば、人形焼き屋に決まっていた。
 昨日はシャッターが下りていた。最近は営業していないらしい。何か月か前に地井武男(?)の“ちい散歩”で豪徳寺をやった時は営業していたように記憶しているのだが・・・。

 改札の真ん前、まだ駅の構内に、なぜか招き猫が鎮座している。山下商店街の繁栄を願ってだろう。
 その背後では共産党の演説中。
 ぼくの子どもの頃は、この選挙区からは、井伊弥四郎、鈴木茂三郎、本島百合子、賀屋興宣、など錚々たる顔ぶれが立候補していた。

 今は誰が出ているのか・・・。

 2010/7/9

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの豪徳寺-1 “小田急線豪徳寺駅”

2010年07月10日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 きのう、7月9日(金)、久しぶりに豪徳寺を歩いた。

 豪徳寺の近くに住んでいる大学の同僚から、「久しぶりに豪徳寺で飲みませんか」と誘われ、後輩も一人交えて、3人で飲むことになった。

 6時に豪徳寺駅改札口で待ち合わせることになったが、少し早目に行って山下商店街界隈やわが生家のあったあたりを歩くことにした。
 
 まずは、小田急線豪徳寺駅。
 改装されてから初めての下車である。
 上りホームの梅が丘寄りにあった岡歯科医院もなければ、改札を出ると正面にあった売店もない。その売店の腰のピンと立ったおばあさんももちろんいない。

 モダンな、しかし、狛江や和泉多摩川その他すべての小田急線の駅と変わり映えのしないつまらない駅になってしまった。

 * 小田急線豪徳寺駅、上りホーム。

 2010/7/9

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主婦の友社

2010年02月16日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ぼくが子ども(赤ん坊?)の頃、雑誌“主婦の友”のモデルをしていたことは以前に書いた。

 たまたま母親の日本女子大時代の同級生が“主婦の友”の編集者をしていて、その縁で母親のところに社のカメラマンを連れて遊び(?)に来て、写真を撮っては雑誌に載せてくれたのであった。
 母親のほうも、知り合いの日系アメリカ人が送ってくれたアメリカの家庭雑誌の記事を翻案して“主婦の友”に寄稿したりしていた。戦後まだ5、6年の当時は、アメリカ雑誌も入手困難だったので、そんな記事も掲載になったらしい。

 かつて、ぼくと“主婦の友”について書き込みをしようと思って、ネットで“主婦の友”を検索したところ、“主婦の友”には“駒由美子”さんという編集長がいたことが記載されているのを発見した。同社が大日本印刷だったか東販だったかに買収される前には同社の取締役にも就任している。
 さらに、「365日のお菓子・おやつ・パン」、「やさしい手作り布草履」などといった著書も同社から出版しているらしい。

 実は、ぼくの世田谷区立赤堤小学校時代の同級生に“駒由美子”さんという子がいた。

 アルバムを引っ張り出して遠足の集合写真をみると、べレー帽を斜めにかぶって、白のモヘアのカーディガンを羽織っていて、なかなかおしゃれな女の子であった。
 小学校3年か、4年生の時にどこかから転校してきたように記憶しているが、当時から同級の男子よりもはるかに大人びていた印象がある。

 主婦の友の“駒由美子”さんは、ぼくの赤堤小学校の“駒由美子”さんなのだろうか?

 主婦の友社は、かつては、カザルス・ホール(現在は日大の法科大学院)のところにあった。現在の場所も、わが大学とそれほど離れていない。
 もし赤小の“駒さん”だったとしたら、ずいぶん近くで幼なじみが活躍していたことになる。
 お互いに気がつくことなくすれ違っていたかもしれない。

 この前の2月3日の夜、お茶の水の駿河台大学法科大学院で研究会があった。
 隣りが“主婦の友”の社屋だった。問い合わせる勇気はなかったのだが、思わず写真だけ撮ってきた。
 研究会が終わって夜9時すぎに会場を出ると、雪が降り始めていた。アップした写真がぶれているのは、降り出した雪のせいではない。

 2010/2/16

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“あの日、玉電があった”

2010年01月22日 | 玉電山下・豪徳寺

 お小遣い本、もう1冊は、“あの日、玉電があった--玉電100周年記念フォトアルバム”(東急エージェンシー、2007年)。

 これも、神保町の書泉ブックマート6階の交通関係書コーナーで見かけて、思わず買ってしまった。

 この本の年表によると、玉電は、明治29年に「玉川砂利鉄道」として玉川-三宅坂間で開業したとあるから、以前ぼくが調べた結果と一致している。(このコラムの「玉電100歳」を参照)
 要するに、皇居前広場に敷くための砂利を多摩川の河原で採取して、和田濠に運ぶための貨物線だったのである。

 2010/1/22

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河田保育園、お不動さん

2010年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 その『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)から、玉電山下駅から松原へ向かう玉電の写真。

 どぶ川(北沢川と言うらしい)から判断して、向って左側の奥が河田保育園(当時は河田母子寮といった)だと思う。
 何かの映画--“私は貝になりたい”か?--でフランキー堺が雨の中を走るシーンをこの保育園で撮影していたのを見た。
 河田保育園の東の踏切を渡ってすぐのT字路を左折して20メートルくらい行ったところにわが家はあった。

 そして、写真の右奥にぼんやりと見えている木立が、ぼくたちが“お不動さん”と呼んでいた山だと思う。
 お寺があって、線路との間がお墓になっていた。お寺の境内は小さな公園で、ブランコがあった。
 階段を下った東側の参道のはずれにはお地蔵さんが立っていた。

 ちょうどこの写真の玉電が走っているあたりの反対車線(三軒茶屋方面行き)に沿った家の子が赤堤小学校の同級生で、庭から線路に忍び込んで、電車に1円玉を轢かせて遊んだりした。
 メグレ警部を見ていたら、メグレ警部も子供時代にまったく同じことをして遊んでいた。子どもの考えることなど、洋の東西を問わずあまり違わないようだ。

 * 写真は、『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)107ページから。1964年5月、中本雅博撮影とある。
 光っているのはぼくの接写が下手なため。

 2010/1/19

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉電と世田谷の街

2010年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺

 小さな挨拶の原稿を書いたら、1万円足らずの印税が来た。
 原稿料など期待していなかったので、前から本屋で気になっていた本を買うことにした。

 1冊目は『今よみがえる玉電の時代と世田谷の街』(武相高校鉄道研究同好会編、TAC出版、2009年)。

 ぼくが1950年、昭和25年に生れ、1960年まで育った世田谷区豪徳寺(当時は世田谷区世田谷2丁目)というか、「玉電山下」界隈の懐かしい写真が山のように出てくる。
 残念ながら、玉電の三軒茶屋~渋谷間が廃線になった1969年頃の写真が多いが、それでもぼくが物心ついた1955年から60年頃の雰囲気は漂っている。

 ぼくの玉電にまつわる謎の一つは、玉電の渋谷駅はどこにあったのかということだったが、この謎もこの本で解決した。
 今のハチ公広場の南側に「玉電ビル」というのがあって、3階が井の頭線、地下鉄銀座線の渋谷駅、2階が玉電の渋谷駅、そして1階に都電の渋谷駅があったらしい。
 ぼくの記憶でも、地面ではなく薄暗いビルの中だったように憶えている。

 道玄坂から上り坂になり、今のマークシティー、WEST入り口のあたりから、この玉電ビルに入っていたらしい。現在の写真と重ね合わせると、何とか当時の路線を思い出すことができる。
 
 それに対して、大橋のあたりはあまりに変わりすぎてしまって、まったく再現不可能である。
 大橋か池尻のあたりの沿線には、たしか中将湯(津村順天堂)の工場があったはずである。その付近を通過するときは、車内にあの漢方特有のにおいが流れ込んで、我慢できなかった記憶がある。
 気になって、津村順天堂をグーグルで調べると、確かに1940~50年代に「目黒工場」というのがあったらしいが、所在地は書いてない。ちなみに、社長の別荘が上目黒にあったという記事もある。
 中将湯の「目黒工場」が大橋あたりにあってもおかしくはない。

 さて、この本の嬉しかったことの1つは、なぜか「玉電山下」だけ特別のコーナーが設けてあって、山下の懐かしい写真がけっこう多かったこと。
 残念ながら、小さい頃の僕や知っている人物、建物(石川屋、ウワボ菓子店など)は出ていなかったが、わが家の裏山、通称「お不動さん」の木立はしっかり写っていた。

 * 写真は、武相高校鉄道研究同好会編『今よみがえる玉電の時代と世田谷の街』(TAC出版、2009年)。

 2010/1/19

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山内和弘選手、亡くなる

2009年02月08日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 大毎オリオンズの山内和弘選手が、2月2日に亡くなった(朝日新聞2月6日朝刊)。

 この記事や、今朝の“サンデー・モーニング”などによると、山内は「打撃の職人」、「内角打ちの名人」、「名コーチ、教え魔」など、彼の様々な側面が語られている。

 しかし、ぼくにとっての“山内”は、“豪徳寺”ネタのひとつである。
 昭和30年代のはじめ、ぼくは世田谷区豪徳寺(当時は世田谷区世田谷)に住んでいたのだが、わが家のすぐ近く、直線距離にしたら100メートルも離れていないところに“大毎の山内”も住んでいた。
 玉電(今でいう東急世田谷線)の玉電山下駅から松原に向かって最初の踏切を渡った、すぐ右側に「山内」の表札のかかった家があり、近所の子どもたちの間では、これが大毎の山内の家だと知られていた。

 実際に、この家の庭先に背番号8のついた縦じまのユニフォームが干してあるのを見たこともある。ご本人を見たことはないのだが。
 今では選手のユニフォームなどは球団が洗濯するらしいが、当時は選手が自分で洗っていたのだろう。
 ちなみに、その後、引っ越した練馬でも、すぐ近くに国鉄スワローズの宇佐美コーチの家があり、ここの物干しにもスワローズの選手のユニフォームが干してあるのを見たことがある。

 昭和30年代はじめの大毎オリオンズは、“ミサイル打線”と呼ばれていて(朝日にはそう書いてあるが、ぼくは“ダイナマイト打線”と記憶している)、山内の他にも、葛城、荒川博(王選手の一本足打法の生みの親)、榎本喜八など、錚々たる顔ぶれの打撃陣が揃っていた。
 その割には投手が振るわず、荒巻淳くらいしか記憶にない。だから、山内も、「世紀のトレード」などといわれて、阪神の小山正明とトレードされたのだろう。

 山内は亡くなってしまったけれど、ぼくが亡くなるまで、“豪徳寺の、大毎の山内”はぼくのなかで生きつづけるだろう。

 * 写真は、けさの“サンデー・モーニング”から、山内の背番号8をつけた姿。残念ながら、引退後の写真である。現役時代のフィルムはなぜか縦じまのユニフォームではなかった。やっぱり山内は“縦じまの8”でなければ、彼らしくない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪徳寺、石川屋健在!

2008年02月08日 | 玉電山下・豪徳寺

 久しぶりに“豪徳寺”ネタ。

 一昨年の年末に、豪徳寺在住の(それこそ旧紅梅キャラメル工場だったか、同社の社長宅跡に建ったマンションに在住の)旧友から、「今年(2006年)あの石川屋が閉店したよ」という、ビックリするニュースが届いた。
 変なファスト・フード店などに建て替えられる前に写真を撮りにいかなければと思いつつ、あっという間に1年以上経ってしまった。

 ところが、である。きょうの朝といっても10時前後にテレビをつけたら“ちい散歩”というのをやっていて、きょうの街はなんと豪徳寺だった。“ちい散歩”というのは、しょうもない番組ばかりの最近のテレビの中では、ましなほうで時おり見ている。

 豪徳寺のどこを歩くのかと思ったら、いきなり豪徳寺駅の西側を南北に通る、あの懐かしくて狭い商店街である。
 
 そして、まず登場したのが“ウワボ”という雑貨屋であった。小学生だった僕が日々紅梅キャラメルを買いに行った“ウワボ”菓子店と同じ店なのかどうかは分からないが、あの辺の“上保”さんがやっている店だろう。
 つづいて、何と、次が“石川屋”なのである。ちゃんとテロップも“石川屋”と出ていた。ただし、昔ながらの肉屋ではなく、おそらくその軒先の屋台で、おばさんが焼き鳥を焼いていた。売っていたのがコロッケでなかったのは残念だが、とまれ、あの店がまだ残っているのは嬉しいかぎりである。

 慌ててカメラを取ってきて画面を写したのだが、その後は“ゆりのき通り”とか何とか、ぼくの豪徳寺とは縁もゆかりもない場面になってしまっていた。
 パンのヤナセも、トミヤ洋品店も、茂呂運送店も、代一元(だったか、ラーメン屋)も、通称“上の市場”も出てこなかったけれど、あの商店街から、ウワボと石川屋をピック・アップしただけでも勲章モノである。
 本当は、玉電山下駅の狭い路地に軒を並べる店も映してほしかったけれど。

 * 写真は、きょう(2008年2月7日の“ちい散歩”の画面から。残念ながら豪徳寺商店街のシーンは終わってしまった後の風景。小田急線沿いを経堂方面に向かうところらしい。)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『鉄腕伝説 稲尾和久』

2008年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 『鉄腕伝説 稲尾和久--西鉄ライオンズと昭和』(西日本新聞社)を買った。

 稲尾自身はともかく、サブ・タイトルにやられた。まさに、われわれを狙っているとしか思えないタイトルである。

 アマゾンで検索したところ、“(新品0、中古品2)”となっていて、片一方(最安値)は1200円、もう一方(最高値)は6000何百円だった。“新品0”ということは、もう品切れなのだろうと思って、中古品のうち、最安値のほうの“one click で買う”をクリックしてしまった。

 ところが、あとになって西日本新聞社のホームページを見たところ、何と、いまだに新刊書として販売しているのである。定価1000円である。
 アマゾンでは当然のように送料340円が加算されてしまうが、わずか64ページの軽装版の本だから送料はせいぜい240円だろう。後悔先に立たずである。

 きょう、午前中に本が届いた。中西太『西鉄ライオンズ・最強の哲学』のような内輪話があるわけではないが、昭和33年の日本シリーズ第7戦のメンバー表などが載っていて、まあ、それなりに懐かしい本ではあった。
 そのメンバーは、

       打数 安打 打点
 (8) 高倉  5  3  0
 (9) 花井  0  1  0
  9  玉造  3  0  0 
  9  大下  1  0  0
 (6) 豊田  5  4  1
 (5) 中西  4  2  4
 (7) 関口  4  1  0
 (3) 田中  3  0  0
  3  河野  1  0  0
 (4) 仰木  3  0  0
 (2) 日比野 3  1  0
 (1) 稲尾  3  0  1
 
 となっている。懐かし名前ばかりである。成績を見ると、やっぱりあのチームは稲尾と豊田と中西でもっていたのだと改めて思う。

 いずれにしても、今後アマゾンで本を買うときは、たとえ「新品0」となっていても、注文前にちゃんと版元在庫の有無を確認してからにしないと損をする。
 みなさんも、ご用心を。

  2008/1/19

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“鉄腕投手 稲尾物語”

2007年11月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 この11月9日(金)から11日(月)まで、別府で開かれた学会に出張してきたのだが、学会終了の翌朝、せっかくなので別府駅前からタクシーに乗り、別府ロープウェーで鶴見岳に登ってから、地獄巡りをしてきたことは前に書いたとおり。
 
 3時間ほどで別府駅に戻り、タクシーの運転手から、「別府駅の南側の路地を歩くと、別府の雰囲気を感じることができる」とアドバイスされたので、北浜バス停の少し手前、竹瓦温泉の通りまで歩いた。

 その途中の、とある雑居ビルの入り口に、《鉄腕投手 稲尾物語》という古い映画の看板がかかっていて、昔ながらのポスターも貼ってあった。
 稲尾和久のそんな映画があったとは、まったく知らなかった。空港に向かうバスの出発まで30分くらいしかなかったが、30分でも観たいところだったが、あいにく11月16日から3日間だけの上映ということで、観ることはできなかった。

 そうして、東京に戻った2、3日後の13日に、通勤途中の駅の新聞売りの広告で、稲尾さんの死を知った。偶然である。考えてみれば、稲尾はまさにご当地、別府緑丘高校の出身である。地元には根強いファンがいるものだと思った。
 どうでもいいことだが、僕は何十年か前に、この別府緑丘高校(現在は芸術緑丘高校というらしい)の確か隣りにある大分県立芸術短期大学の教員人事で不採用になってしまったことがある。もし採用されていたら、ずいぶん違った人生になっていただろう。

 亡くなった後の新聞記事によると、この映画館は別府ブルーバード劇場というそうで、稲尾投手の同窓生が経営しているという。そして、このたびの上映は、別府市民球場に“稲尾記念館”が開設されたのを記念して企画されたものだという(西日本新聞11月17日付[大分・日田版])。別府に行けばいつでも観られるしいうわけではないらしい。惜しいことをした。

 僕の記憶のなかの稲尾投手は、絵はがき大のブロマイドである。西鉄に入団して間もない頃、ボタ山を背景にして、あのやわらかいフォームで投球している稲尾投手のブロマイドである。紅梅キャラメルか、仁丹野球ガムかなにかの景品だったと思う。
 
 インターネットで検索してみると、10月末に終了してしまったヤフー・オークションの中に、不二家野球キャラメルの景品の稲尾投手のブロマイドが4880円で落札されていた。サイズが不明なので、僕の記憶のなかのブロマイドなのかどうかは分からない。背景も汚い木製の塀のようなもので、ボタ山ではないが、多分この写真だったように思う。もし違っていたとしても、4880円ならほしかった。

* 写真は、ヤフーオークションに出ていた稲尾投手のブロマイド(野球カードかも・・・)

  2007/11/18

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉電100歳

2007年03月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 3月6日の朝日新聞夕刊に“玉電100歳”という記事が載っていた。あの玉電がこの3月6日で創業100年を迎えたそうだ。
 前にも書いたように、ぼくは昭和25年に世田谷の豪徳寺で生まれた。小田急線なら豪徳寺だが、本当に生まれた家は豪徳寺駅よりも玉電の“玉電山下”駅に若干近い。山下から松原に向かって最初の踏み切りのすぐ近くの進行方向右側である。線路から畑をはさんで2軒目だったので、電車が通るたびにガタゴトという振動が伝わってきた。
 玉電の線路わきに生える野蒜を摘んできて、上級生が玉子でとじて韓国料理の“チヂミ”のようなものを食べさせてくれたこともある。畑から線路に忍び込んで、1円玉(時には奮発して5円玉)を電車に轢かせてペンダントのようなものを作って遊んだこともあった(鉄道往来危険罪?)。
 朝日新聞にも掲載されている「いもむし電車」と呼ばれていたらしい(ぼくはそんな風に呼んだ覚えはまったくないのだが・・)黄緑とクリーム色のツートン・カラー(かつての日産の“フィガロ”を想像してくれればよい)、流線型の2両編成の電車がデビューしたころである。高台の小田急線の線路には、“オルゴール電車”という、「オルゴール」とは名ばかりで、雑音をまき散らすだけの箱根行きの特急も走っていた。
 かつて編集者時代に、駒澤大学を取材したことがあった。東急田園都市線の新駅設置をめぐって、駒澤大学と東急だったか、許認可権をもっていた運輸省か東京都だったかの間で裁判があったころのことだ。必要があって調べたところでは、玉電は、もともと多摩川の川岸で採取した砂利を皇居前広場(当時は宮城前広場だろうが)に敷きつめるための運搬用に敷設されたものだと何かに書いてあった。いまの二子多摩川から渋谷を経由して、後の都電の並木橋方向に右折して、天現橋や古川橋などを経由して、和田濠まで延びていたという。渋谷で山手線をどうやって渡ったのか?山手線[省線?]など、まだなかったのかもしれない。
 朝日の記事にはこれとは違った由来が記されている。どちらが正しいのか、ぼくには分からない。
 それはともかくとして、ぼくの小学生時代の玉電の思い出としては、“赤電”というのがあった。あまり上品とはいいかねる、くすんだ赤い色(エンジ色に近い)に塗られた電車で、上町か松蔭神社あたりで人身事故を起こした直後を目撃したことがある。線路わきにムシロをかけらた被害者の遺体があって、そのムシロに血がにじんでいた。恐かったので思わず目をそむけた。“スタンド・バイ・ミー”の世界である。オルゴール電車はしばらく続いた後になくなったが、赤電はほどなく廃止になった。
 恐い話ばかりではなく、三軒茶屋の駅で、かわいい女の子を見そめた思い出もある。正月に三軒茶屋の親戚を訪ねた帰り道のことである。三軒茶屋駅の山下に向かって右側に、駅に面して比較的大きな本屋さんがあった。お年玉で何か本を買おうと立ち寄ったのだと思うが、立ち読みしていると、少し年長の女の子が近寄ってきて、ぼくのそばで本を読み始めた。何かの拍子に彼女の吐息がぼくにかかった。白いハーフコートを着た賢そうな女の子だった。それだけのことなのだが、50年近くたった今でも、その子の甘酸っぱい吐息の記憶が残っている。
 ぼくにとって、春の香りは、近所を散歩しているときに道ぞいの家の庭先から漂ってくる沈丁花の香りではなく、50年前の三軒茶屋駅の本屋の彼女の吐息なのである。

(写真は、朝日新聞2007年3月6日付“街 メガロポリス”欄の記事より)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広瀬正“マイナス・ゼロ”集英社文庫版

2007年03月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 豪徳寺ネタのついでに、梅が丘の近く(根津山)にあったタイム・マシンのことをもう1つ。
 
 先日、古本屋の店先で広瀬正“マイナス・ゼロ”を100円均一で買ったら、ほどなくして、以前からもっていた集英社文庫版の“マイナス・ゼロ”が見つかった。こんなものである。
 この文庫本は、正式には“広瀬正・小説全集・1 マイナス・ゼロ”と表紙に書いてある。奥付は、昭和57年2月25日 第1刷となっていて、1982.4.17(土)了というぼくの書き込みがあった。
 
 2007/3/13

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出のCMソング 第3弾

2007年03月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 明星即席ラーメン

 雨が降ってる 日曜日
 坊や 泥んこ どうしたの
 向こうの角で ころんだの
 どうして そんなに急いだの?
 明星即席ラーメン
 パパと一緒に食べたいの ♪

 なんてCMソングが流れていた時期があった。雨の日曜日の朝にちなんで・・・。


 (写真は、僕たちの世代を早々と“懐メロ”世代に仕立てた雑誌のひとつである“ビックリハウス”1975年7号(パルコ出版)。「テレビ世代Ⅰ世」というサブタイトルがついている。

  2007/3/11

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする