豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

広瀬正“マイナス・ゼロ”、根津山のタイムマシン

2007年03月02日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 昭和25年(1950年)に東京世田谷の豪徳寺(当時は世田谷区世田谷2丁目)で生まれたぼくは、小さい頃によく梅が丘駅の北口にある通称根津山に登って遊んだ。
 家からは少し離れていて、小学校の低学年で行くには遠いのだが、家の近所に東京教育大学の学生だったお兄さんが住んでいて、その人が根津山の山頂近くの家を借りて塾だかそろばん教室を開いていたので、そのお兄さんがときどき連れて行ってくれた。
 いまは羽根木公園というらしいが、当時は「根津山」で通っていた。かつては、あの根津嘉一郎家の所有だったのだろう。
 北杜夫の小説だか随筆によると、空襲で青山脳病院が焼けたため、戦時中、根津山に疎開していたことがあるという記載があった。根津家の本家も青山にあったはずだから(根津美術館)、ひょっとすると斉藤茂吉と根津家の間に何らかの交流があったのかもしれない。

 ちなみに、わが家の息子たちが通った武蔵中学、高校は根津嘉一郎が創設した学校で、かつて軽井沢にあった夏期施設は青山寮(せいざんりょう)と称していた。戦後まもなく軽井沢が俗化して、もはや生徒たちの夏期教育の場としてふさわしくないということで、赤城山中に移転してしまった。
 この軽井沢の青山寮は、武蔵のOBたちが作ったHPを見ると、現在の軽井沢プリンスホテル・スキー場の駐車場のあたりにあったらしい。
 現在の軽井沢プリンスホテルの一帯は、プリンスホテルになる前は、晴山(せいざん)ホテルというホテルがあったが、このホテルはかつては根津嘉一郎の別荘だったという(小林收『避暑地・軽井沢』櫟、平成11年刊、235頁)。「晴山」というのも、根津家の本拠地“青山”にちなんだ名前なのだろうか。

 さて、何でこんな話になったかというと、根津山である。
 実は、ぼくのこのブログの第1回は、広瀬正“タイムマシンのつくり方”というタイトルだった。広瀬氏の本によると、まさにこの根津山近く(梅が丘駅近く)のどこかに、なんと昭和18年頃にタイムマシンがあったというのだ。そして、昭和38年に一度、このマシンが現代に戻ってきたらしいのである。
 昭和30年代の豪徳寺を出発点とするぼくのブログも、幼年時代のぼくが、根津山で遊んでいるうちに、この梅が丘にあったというタイムマシンに間違って乗ってしまって、時代をさまよっていることになっているのだが、きょう大間違いを見つけてしまったのである。

 こんなことを書いたので、以前から『タイムマシンのつくり方』を何度か読み返してみたのだが、どうしても「根津山」とか「梅が丘」という活字を見つけ出せないのである。ひょっとして、ぼくがタイムマシンに乗り込んでしまったことに気づいたので、秘密を守るために活字を消去したのかとも思ってみたりもしたが、そんなことはなかった。
 きょう、大学院で指導した中国からの留学生が無事学位を取得して帰国することになったので、彼が来日以来ずっとアルバイトをしていたお台場のレストランで送別会を開いたのだが(結果的にはぼくに対する謝恩会になってしまった)、その帰り道、自宅近くの道路沿いのマンションの1階に新しく古本屋が開店していたのに気づき、ふらっと店頭の100円均一の古本棚に近づくと、いつものように今日も、広瀬正『マイナス・ゼロ』が目に飛び込んできたのである。
 パラパラとページをめくると、たちまち「梅ガ丘」の文字が飛び込んできたのである(7頁、15頁)。今回もぼくの記憶違いで、梅が丘のタイムマシンは『タイムマシンのつくり方』ではなく、『マイナス・ゼロ』に登場するのだった。集英社文庫版は持っているはずだが、どこかにしまい込んで見つからないままなので、さっそく買って帰ることにした。そして、このブログで修正しようと思っていたのだが、根津山から根津嘉一郎、そして晴山ホテルへと、話が飛び跳ねてしまったのである。
 しかし、とにもかくにも根津山の近くにタイムマシンがあったことを確認できたのは、今日の収穫であった。

 写真は、広瀬正『マイナス・ゼロ』』(河出書房新社、昭和46年12月10日2刷、580円)のカバー。

 2007/3/2

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杉浦茂「コロッケ五円の助」

2006年12月30日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 石川屋閉店で思い出した石川屋のコロッケ、そしてその頃はやっていた漫画“コロッケ五円の助”だが、驚いたことに、「コロッケ五円の助」についても、何十ものブログで語られているのを発見した。
 「五円の助」の「の」の字については、「の」だけでなく、「之」や「乃」や「ノ」など様々である。どれが正しいのだろうか。原作者の杉浦茂さんの傑作選集がまだ出ているらしいので、今度ジュンク堂ででも調べてこよう。

 ぼくが豪徳寺に住んでいた昭和30年頃には、石川屋のコロッケもおそらく五円だったのだろう。ちなみに、「コロッケ五円の助」は忍者だったらしい。記憶にないけれど。

 もう1つオマケに今年思い残したこと。弘田三枝子のレコード(CDに非ず!)“子供ぢゃないの”は、きっと見つかるだろうと確信していたのだが、残念ながら見つからなかった。時おりお茶の水界隈の古レコード屋の店先をのぞいただけで、きちんと探したわけではないけれど。 インターネット上のオークションに出品されていた弘田三枝子の “子供ぢゃないの 悲しき片想い” のレコードには2000円くらいの値がついていた。
 街のレコード屋の店頭で見つけたいけど・・・。
   
  2006/12/30

 ※藤子不二雄の「キテレツ大百科」に「コロ助」という子どもの忍者が出てくるが、彼は、同じ忍者だった「コロッケ五円の助」のオマージュだと何かに書いてあった。(2024年3月9日追記)

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石川屋閉店

2006年12月29日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 昔から豪徳寺に住んでいて、今でも豪徳寺に住んでいる友人から、連絡があって、今年、石川屋が閉店したと聞かされた。 
 ぼくにとっては、2006年の重大ニュースである。昭和30年代、「コロッケ五円の助」なんていう漫画まであった時代に、ぼくの土曜日の昼ごはんのおかずの定番だった、あの石川屋のコロッケがなくなってしまったとは・・・。
 数年前に墓参りの帰りに立ち寄って、コロッケを買って歩きながら食べたのだったが・・・。「3丁目の夕日」なんて映画が上映された年に、ぼくにとっての「3丁目」には欠かせない風景が1つ消えてしまった。もし店舗が残っているなら、写真を撮りにいかなければならない。
 正月に出かけてみるか。50年前、お年玉を貰って、早速出かけた商店街を思い出しながら。

 写真は、かつて豪徳寺駅から北に10分ほど歩いたところにあった紅梅キャラメルの思い出をまとめた澤里昌代司『さようなら紅梅キャラメル--6年間で消えたもうひとつの讀売巨人軍』(東洋出版、1996年)の表紙。あのキャラメルとおまけの思い出はわずか6年間だけのものだったとは・・・。

  2006/12/29

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三丁目の夕日--豪徳寺の場合は

2006年09月02日 | 玉電山下・豪徳寺
 今年の父の日に上の息子が「お父さんの時代の話だから・・」と「ALWAYS 三丁目の夕日」のDVDをプレゼントしてくれた。せっかくの息子には申し訳ないのだが、やっぱり違うのである。少なくとも、ぼくの世田谷、豪徳寺での昭和33年はあんなものではなかった。おそらく、同じ昭和33年、同じ東京といっても、上野駅近くの東京と世田谷、詐欺まがいの求人広告をうつ町工場とサラリーマンの家庭とでは、異なった経験があったのだろう。
 できることなら、東京中から昭和の風景の残っている場所を探し出して、オールロケでとって欲しかった。しかしセットで作られた背景は、サンシャインの「なんじゃタウン」に迷い込んだみたいだし、これでもかとばかりに使われている小道具類も「“昭和の懐かしグッズ”をかき集めてきました」みたいな感じなのである。たぶんああいう手法で昭和33年を描くことはもはや無理だったのだと思う。
 挿入された音楽もがっかりである。昭和33年で、夕日といったら、美空ひばり「花笠道中」や三橋美智也の「夕焼け空がまっかっか・・」(なんて曲名だったか?)は絶対に欠かせないはず。NHKラジオの尋ね人の時間だけでなく、民放で夕暮れ時にやっていた竹脇昌作のDJの独特の節回しも、昭和33年の豪徳寺、玉電山下のごちゃごちゃした商店街の思い出とともに聞こえてくる。日本信販提供だったが、「ニッポンシンパン」の「クーポン」って何だろう?と聞くたびに不思議だった。「アメリカン・グラフィティ」の昭和33年、東京版を期待したぼくには、BGMの点でも不満が残った。
 ただ1つ、リアリティがあったのは、吉岡秀隆が面倒をみるハメになったいわくありげな少年である。たしかに、昭和33年の豪徳寺にも、一体あの人たちはどういう関係なんだろう、どこから来て、何をしているのだろうという、わけあり気な家族がいた。そして、いつの間にか、「風の又三郎」か「時をかける少女」のように消えていってしまった。「三丁目~」でも、あの少年の出自など示さないでいてくれたほうがよかったのに、と思う。
 「三丁目~」は、やはり、西岸良平で読んだほうがいいだろう。ちなみに、ぼくが住んでいたのは、残念ながら、豪徳寺2丁目(ただし当時は「世田谷2ノ ~番地」と表記した)である。

 * 写真は、「ALWAYS 三丁目の夕日」DVDのカバー(山崎貴監督、小学館、2006年)。

(2006年 9月 2日)

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世田谷の野球選手

2006年02月20日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. 山内和弘

 子どものころ、わが家の近所に下宿していた。玉電山下から松原方面に向かって最初の踏み切り(川田保育園の北側)を左折したあたり。
 大毎オリオンズの縦縞のユニフォームが物干しに干してあったように記憶する。 

 2. 内藤博文

 ぼくが通っていた赤堤小学校の少し手前に彼の表札のかかった家があった。千葉茂が近鉄の監督になったときに、加倉井、十時らと一緒に近鉄に移籍してしまった。
 別所、大友が衰えはじめ、藤田が出てくる時期である。安原、義原、木戸、国松、小松、馬場なんて投手たちがいた。

 3. ラドラ

 友達と玉電沿いをテクテク歩いて駒沢球場に出かけた。外野席に入ると、目の前に背番号44をつけて東映フライヤーズのセンターを守るラドラがいた。
 土橋、毒島、西園寺、山本(八)の時代。子どもの外野の入場料は50円だった。

 4. ミケンズ、ボトラ

 その東映を相手にパ・リーグの万年最下位争いをしていた近鉄パールズにはなんと外国人バッテリー、ミケンズ投手、ボトラ捕手がいた。南海にサディナなんて投手もいたけど、「ベースボールマガジン」に載ったサディナの奥さんの写真を見て“セクシーだな”なんて思った記憶があるから、時代はちょっとあとだろう。 

 5. 村田?(国鉄)

 はじめて後楽園球場に巨人戦を見に行ったとき、巨人相手に勝利投手になった新人が村田だった。
 当時の国鉄スワローズには金田、谷田、飯田、箱田、町田などなど“田”のつく選手がやたら多かった。 

 * 写真は、はじめてのユニフォーム姿(1958年、世田谷区豪徳寺のわが家の庭で)

 2006年02月20日

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豪徳寺商店街

2006年02月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. 石川屋

 肉屋さんだが、買ったのはもっぱらコロッケ。勉強机の引き出しのようなところから衣のついたコロッケを取り出して揚げていた。“今日もコロッケ、明日もコロッケ”ではないが、土曜日の昼ごはんはいつも石川屋のコロッケ。ソースをつけたコロッケ2、3個で食パンを半斤は食べた。
「コロッケ5円の助」という漫画があったくらいだから、たぶん1個5円だったのではないだろうか。

 2.ヤナセ

 といってもベンツを売っているわけではない。パン屋さんである。朝早くに通りかかると店先で、バケツに入れた小麦粉(?)をこねてパンを作っているのを見かけた。
 近所になぜかいつも小金を持っている友だちがいて、コッペパンとジャムを買ってぼくたちにも振るまってくれたりした。

 3. ウワボ

 “上保”と書くことを後になって知った。くだんの“紅梅キャラメル”をせっせと買ったお菓子屋さんである。お目当てのカードだけ残して、キャラメルのほうはウワボの裏のどぶ川にかかった橋の上から投げ捨ててしまった。
 ガムか何かを店の屋根の上で天日干しして作っていた。なんでも自家製の時代だったのだ。

 4. 上の市場

 と呼ばれている市場が、豪徳寺駅前から宮の坂方面に少し登ったところにあった。うす暗くて、下は土間だった。一番奥に本屋さんがあって、「少年」とか「少年ブック」「冒険王」などを買うときはここで買っていた。
 自転車で配達に来る貸し本屋もあって、「野球少年」はそこで借りた。1か月遅れだと少し割安だった。「野球少年」といいながら、時々お相撲さんの写真なども載っていた。「褐色の弾丸 房錦」という貸本漫画が妙に印象に残っている。「褐色」の意味が分からなかったので。

 5. ** 洋品店

 玉電山下駅から豪徳寺駅に向かう狭い路地に面して、間口半間ほどの小さな洋品店があった。野球帽はここで買った。赤堤小学校の生徒目当てなのだろうか、はじめから“A”のイニシャルが入った野球帽もあった。
 商店街の福引で、この店のハンカチが当たったことがある。実は今でもそのハンカチをもっている。当時は手を洗ったり、拭いたりなんかしなかったらしく、けっこうきれいなままである。

 2006年02月19日

* 写真は、「週刊読売」1975年10月18日号。特別企画は「20代の諸君! オレ達にも すでにして回想(なつめろ)があるのだ!」となっている。ぼくたち団塊の世代は、いつの時代にもマスコミや商売のターゲットとされており、すでに25歳のときに、そう遠くもない過去をすでに回想させられているのである。
 このコラムのなかで書いていることも、ひょっとしたら原体験ではなく、これらの活字などによって一度呼び覚まされた記憶なのかもしれない。(2006年9月2日追記)

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タイムマシンのつくり方

2006年02月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. タイム マシンのつくり方 (広瀬正)

 ぼくが生まれ育った小田急線豪徳寺駅と梅が丘駅のまん中あたりにタイムマシンがあったことをこの本で知った。ひょっとすると、ぼくは根津山で遊んでいるうちいつの間にかこれに乗り込んでしまったのかもしれない。

 2. 失踪当時の服装は (ヒラリー・ウォー)

 ぼくが生まれた1950年3月20日が描かれている(恐らく)唯一の小説。他にもこの日付が出てくる小説はあるのだろうか。ぼくは出会ったことがない。

 3. ティファニーで朝食を (トルーマン・カポーティー)

 小説ではないけれど、ジョージ・ペパードはぼくのオシャレの先生だった。大人になったら、タイプライターで原稿を書く小説家になりたいと思った。キーボードでこんなものを書くのも“夢”のうちだろうか。

 4. さようなら“紅梅キャラメル”

 紅梅キャラメルもわが家の近く、豪徳寺駅から北上して赤堤通りを横切ってしばらく行った左手にあった。せっせと野球カードを集めては景品と交換に行った。布製のキャッチャー・ミットを貰ったこともある。

 5. ぼくの日本自動車史 (徳大寺有恒)

 忘れかけていたわが家のモータリゼーションの歴史を甦らせてくれた本。ダットサン1000とかコロナでなく、わが家で選ばれた“スバル1000”がどんなクルマだったのか、知ることができた。ぼくが乗ってるカローラはけなされるけど、徳大寺センセイはどうも憎めない。

 * 写真は、広瀬正「タイムマシンのつくり方」(河出書房、1973年)の表紙。この本に出てくる小田急線梅が丘駅近くにあったタイムマシンにぼくは乗り込んでしまったことになっている。

 2006年02月18日

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