豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ウィリアム・ワイラー監督 『大いなる西部』

2020年10月11日 | 映画
 
 ついでに、きのう10月9日の夕方、BS放送(104chだったか?)で、“大いなる西部” をやっていた。
 東部からやってきたグレゴリー・ペックと西部の牧場主の娘キャロル・ベイカーが婚約するあたりで、雨の中を夕食の買い物に出かけ、帰宅して再びテレビをつけると、すでにこの二人は破局していて、グレゴリー・ペックは聡明で健気な女牧場主と仲睦まじくなっていた。
 キャロル・ベイカーがかわいそうに思ったが、出かけている間に破局もやむを得ない事情が起こったのだろうか。彼女はファザコン気味で、意見が対立した場合には、婚約者よりも父親を選びそうな気配はあった。
 もっとかわいそうなのは、わがテレビ西部劇の英雄「ライフルマン」のチャック・コナーズである。敵対する牧場のバカ息子役で、最後は父親に撃ち殺されてしまうのだが、ぼくだったらこんな役は引き受けない。
 グレゴリー・ペックばかりがおいしいところを全部持って行ってしまっていて、牧場主の娘をめぐって恋敵を演じる牧童頭のチャールトン・ヘストンも割に合わない役である。エンド・マークの後でキャロル・ベイカーと結婚しそうな予感はしたが。

 牧場の所有権<=法>ではなく、隣り合う牧場の水の共同利用<=掟>によって紛争を解決するグレゴリー・ペックは、昨日書き込みをした山本周五郎に対する山田宗睦の解説を思わせる。この当時(1850~60年ころか)すでに、土地の権利証だったか登記証書だったかが存在していたらしい。グレゴリー・ペックが敵対する牧場主に示すシーンがあった。正確な時代考証かどうかは分からない。

 1958年の映画とは思えないくらいに、西部の広野を描く映像がきれいだった。主役はアメリカ西部の大地( “The Big Country” )ということなのだろう。ウィリアム・ワイラー監督だけあって、2時間半の映画を飽きさせない。途中で買い物に行っておきながら口幅ったいが・・・。

 2020年10月11日 改訂


篠田正浩 『少年時代』(シネフィル WOWOW)

2020年08月30日 | 映画
 
 きのう、8月29日午前中にBS放送をつけると、シネフィルWOWOW(451ch)で、篠田正浩監督『少年時代』(柏原兵三、藤子不二雄A原作)をやっていた。

 この映画はぼくの好きな映画の一つだが、ビデオもDVDも販売されておらず、街の映画館でも上映されないため、めったに見ることができない。
 夏の終わりに(今年の夏はまだ終わりそうにないが)、1945年の夏の終わりとともに終わった一つの少年時代をすがすがしい気持ちで見た。
 ぼくにとって、8月映画は『火垂るの墓』と『少年時代』である。

          

 ぼくは昭和30年代初めに、毎夏を母の実家のあった仙台で過ごしたが、地元の子どもたちに標準語(東京弁?)を馬鹿にされて、いじめられた経験がある。当時は仙台の子でも東北弁丸出しで喋っていたし、東京から来た子はスカして見えたのだろう。
 疎開した少年の比ではないだろうが、彼らの立場を少しは実感できる世代である。
 かれら仙台少年とぼくの人生は、その後二度と交差することはなかったが、おそらく『少年時代』のラストシーンで、東京に帰る風間君が乗った汽車に向かって手を振っていた武も、その後風間君と会うことは二度となかっただろう(最初の写真)。

 『少年時代』では、登場人物がみんな頭を丸刈りにしているのも、この映画の本気さを示している。
 最近のテレビや映画は、時代背景が戦争中であるにもかかわらず、時には軍人役の俳優までもが、平気で髪を伸ばしたままで出演していたりして、興ざめする。
 リアリティーがないというのではなく、その作品の製作者、出演者の真剣さが感じられないのである。
 ぼくの記憶に残るものでは、何十年も前にNHKテレビで放映された『歳月』という、戦争中の野田の造り醤油屋を舞台にしたドラマがある。主役の中井貴一は短めにカットしただけだったのに、脇役の船越栄一郎が丸刈りになっていた。ヒロインは確か島田陽子だった。
 最近では三浦春馬である。ぼくは、三浦春馬という俳優を亡くなるまでほとんど知らなかったのだが(10年以上昔に近所の三菱銀行のポスターで見かけたくらいである)、亡くなった後で、戦争を描いた作品で彼が頭を丸刈りにしているのを見て、彼の真摯さを知った。


 2020年8月30日 記



『湾生回家』(日本映画専門チャンネル)

2020年07月05日 | 映画
 
 7月5日(日)、朝7時15分から、日本映画専門チャンネル(BS放送501ch)で、「湾生回家」(2015年、台湾映画)を見た。
 ホァン・ミンチェン(黄銘正)監督、エギュゼクティブ・プロデューサー:チェン・シュエンルー 陳宣儒(日本名:田中實加)とある。

 以前読んだ「台湾を知るための60章」(明石書店)で知ったが、「湾生」という言葉があるらしい。日本統治下の台湾で生まれた日本人のことをさす。
 その「湾生」の人たち数人が登場し、「故郷」台湾を語る。

 開拓移民として花蓮などの荒れ地に入植した人の子孫、総督府の役人の子として台北高等女学校に学んだ人など、台湾での境遇は異なるが、その人たちが台湾を訪ねて、旧友と再会したり、現地にとどまった人が日本の本籍地、そこに残る先祖の墓を探す姿などが描かれてている。

 下の写真は、かつては台北高等女学校だった台北市立第一女子高級中学の正門。
 当時の生徒だった湾生の一人が、日本人なら誰でも入れたが、数人しかいなかった台湾人の生徒はみな成績がきわめて優秀で、「日本人にバカにされないために一生懸命勉強している」と言っていたと語っていた。
 数年前の旅行の際に、台北市立第一女子高級中学の前を通った。旧台湾総督府庁舎(現在は総統府)の真向かいに正門があって、建物や植栽は女学校当時のままのようだったが、その立地や正門の佇まいからして、いかにも伝統のある名門校という風情だった。

                    

 抗日戦争の英雄らを祀る忠烈祠の前を通り過ぎるシーンがあったり、湾生の人が「霧社事件」に言及したり、日本兵としてかり出された高砂族の義勇兵を追憶する場面もあったが、亡くなった湾生の法事で、遺族が「故郷」(高野辰之詞・岡野貞一曲)を歌うラストシーンが象徴するように、基本的に「ふるさと台湾」への郷愁のトーンが強い印象だった。
          
 割譲直後の1890年代の末に総督府役人の子として台北で生まれ、小学校就学前に内地(?)に帰国した祖父の台湾時代を知るよすがは、この映画からは得られなかった。
 父親が総督府の役人だったという湾生の女性が、総統府の建物に入ると、父がここにいたのかという感慨を覚えると語っていた。ぼくも、南洋風の樹木が茂る中庭を臨むあの建物のひんやりとした廊下を歩いた時に、同じような気持ちを覚えた。曾祖父もかつてここを歩いたのだろうか、と。

           


 台湾の役所で総督府の役人の名簿を閲覧するシーンや、「台湾戸籍」(?)を閲覧するシーンがあったので、現地へ行けばわが “ Family History” をたどることができるかもしれない。それとも、映画撮影だから特別の便宜を図ってもらったのだろうか・・・。


 定年退職して、執筆の場がなくなってしまったので、最近はこのコラムにやたらと読書ノートを書き連ねてきたが、久しぶりに映画をテーマにできた。
 「お勉強」風の書き込みは、別のブログを立ち上げた方がよいかもしれない。

 ※ 冒頭の写真は、台湾土産のボールペン(総統府の売店で買った)と、ついでに、韓国土産の古い朝鮮の婚礼を描いた印鑑入れ、それに1978年に買ったサンフランシスコ土産の缶バッジ。汚れているように見えるのは汚れではなく、カモメの跳ぶ姿がグレーで点在したもの。フィッシャーマンズ・ワーフあたりではケーブル・カーの周りをカモメが飛んでいたかも。

 2020年 7月 5日 記


豆豆先生、最後のシネマ(2020年3月31日)

2020年04月01日 | 映画
 
 とうとう教員生活最後の一日がやって来た。
 明日からは「無職」である。

 教員生活最後の日に見るにふさわしい映画というようなものもないだろうが、なにかを見たら、それが教員ないし社会人生活最後の映画になる。
 BS放送の番組案内を調べたら、午後8時から10時まで、「ディーン」をやっていた。ジェームス・ディーンの生涯(といってもわずか24年で、しかも「エデンの東」の公開直前で終わっていた)を描いた映画である。

 ジェームス・ディーンを描いたというより、ブレイク直前のジェームス・ディーンを撮っていたライフ誌の駆け出しカメラマンとディーンとの交流を描いた映画といった方が正確だろう。
 男が二人登場すると、何でも同性愛と見たがる傾向があるとジョー・メカスが批判していたが、少なくとも、ディーンの側にはこのカメラマンに対する「愛」があったように描かれているとぼくは思った。
 この映画にも登場する下の写真をはじめ、ジェームス・ディーンの有名なポートレイトは、ほとんどがこのカメラマンによるものであった。

         

 カメラマンはニューヨークの貧しい家の出身で、結婚生活にも失敗した男、ディーンはインディアナの経済的には裕福だが早くに母を失ったという意味で家庭的に恵まれない家の出身(だったらしい)。
 この二人の家庭生活を背景に、ストーリーは展開する。そして「エデンの東」がブレイクする直前に、プレミア試写会をすっぽかしたディーンがロスに逃避するところで映画は終わる。
 この逃避行にディーンはカメラマンを誘うのだが、かれは写真家としての出世を選択し、ディーンとは永遠に別れることになる。

         

 豆豆先生最後の映画としては、積極的に選択したわけではなかったが、結果的によい映画を見た。

 「エデンの東」の原作(スタインベック)のテーマは「選択」ないし「自己決定」である。
 原作のラストシーンは、(映画でのディーンの)父が死の床で発する一言、「ティムシェル」である。「ティムシェル」は古代ヘブライ語で「人は道を選ぶことができる」という意味だそうだ。
 「エデンの東」が発する読者ないし観客へのメッセージは「人は道を選ぶことができる」、そして自分で選んだ道を歩いてゆくしかない、ということである。ジェームス・ディーンも彼が選んだ道を歩き、カメラマンも彼の道を歩いて行った。
 ぼくも、紆余曲折を経ながら自分が選んだ道を歩いてきたのだろう。

 この映画とともに、ぼくの社会人生活、教員生活は終止符を打った。

 冒頭のシーンは、ぼくが中学校時代に歌った「エデンの東」の日本語訳詞の、あの「むらさきの 雲の流れに~ ♪~」にふさわしい。
 あの夕日は「エデンの東」の舞台となったカリフォルニア、サリナスで撮影したものだろうか。 

 ついでに、ジェームス・ディーン百科のような「カタログ ジミー ディーン」(芳賀書店、出版年不詳)の表紙もアップしておいた(上の写真)。


 2020年3月31日 記


“炎の人 ゴッホ”

2019年08月20日 | 映画
 軽井沢図書館で借りてきた「炎の人 ゴッホ」を見た。
 ビンセント・ミネリ監督、1956年(!)原題“Lust of Life”。

 これも、貸出し中が多い中で、残っていたDVDのなかから消去法で選んだもの。
 大した期待もなく、時間つぶしのつもりだったのだが、これが意外と良かった。122分の作品だが、一気に見てしまった。
 ゴッホはぼくが好きな画家のひとり(筆頭かも)である。

 ゴッホの生涯を、弟テオとの交流を中心に、時系列に沿ってたどったストーリー。

 ゴッホが教会牧師を父として生まれ、伝道師の試験に落とされて、炭鉱町の牧師として炭鉱夫たちに交じって貧困の生活を送るところから人生を始めたことなどは知らなかった。
 ゴーガンとの喧嘩の中で、ゴッホはミレーを高く評価していたが、言われてみれば、初期の馬鈴薯を食う農家の人たちの絵などは、ミレーである。

 画家となってからは、実際その時にゴッホが描いた絵の実物のカットが挿入される。
 郵便配達人、精神科医、入り浸った酒場のビリヤード台、自室の寝台、麦畑、跳ね橋、夜のカフェテラス、耳を切った自画像など・・・。郵便配達人などは俳優も似た人物が選ばれている。
 エンド・ロールで、延々と絵画を提供した美術館その他への謝辞が続いていた。
 
 テオの支援を受け、画家として、パリ、アルル、サン・レミなどを転々としながら絵を描きつづけるのだが、画商や評論家からは評価されず、幻覚症状にも悩まされ、友人ゴーガンを殺そうとして果たせず、結局は自分の耳を切り落とす。夜の12時頃に見ていたのだが、このシーンは怖かった。
 そして最後は拳銃自殺を図り、テオに看取られて死んでゆく。
 
 ゴッホの生涯は、なんとなく知っていたので、映画の展開も無理なくついて行けた。どこでゴッホの生涯などを知っていたのだろうと思って、はたと気づいた。
 中学生のころ、ぼくは毎月1冊ずつ配本される美術全集を買ってもらっていたのだった。しかもその本は軽井沢にもってきていた。

         

 座右宝刊行会(この名前が奇妙だったので印象に残っている)の「世界の美術」で、ゴッホは第19巻(ただし配本は第2回配本、人気があったのだろう)。1963年1月発行、発売は河出書房。ちなみに第1回配本は予想通りルノワールだった。
 この本の巻末にゴッホの年譜がついていて、昨夜みた映画より詳しい生涯を知ることができた。
 耳切り事件の後、ゴッホはアルル市民の告発によって精神病院に収容されたこと、ゴッホは自殺の時にまだ37歳だったこと、彼の自殺から何と半年後にテオも亡くなっていたことなど・・・。

 ゴッホの才能を当時ただ一人見抜いていたテオも天才である。
 何で当時ゴッホの絵が評価されなかったのか、ぼくには分からない。当時の評論家のゴッホ評を読んでみたいものである。
 ぼくは、ゴーガンやセザンヌよりゴッホのほうが100倍好きである。


 映画に戻ると、ゴッホ役を演じるのが、カーク・ダグラスである。
 ぼくが初めてカーク・ダグラスの名を知ったのは、ロック・ハドソンだったかバート・ランカスターだったかと共演した西部劇のスチール写真を「映画の友」か「スクリーン」で見たときだった。なぜか、はっきり覚えている。

 カーク・ダグラスにはゴッホは無理ではなかったか。たしかに短く刈り上げた髪と頬髯は、あのゴッホの自画像に似てはいる。しかし、酒場のシーンや、ゴーガンとの喧嘩のシーンなどは西部劇調に見えてしまった。
 ゴーガン役のアンソニー・クインがこの作品でアカデミー助演男優賞を受賞し、カーク・ダグラスはゴールデングローブ男優賞にとどまっている。アンソニー・クインがそれほど良かったとも思えなかったが・・・。

 1956年製作だから、ぼくが小学校に入学した年の映画である。今から60年以上前である。

 2019年8月19日 記

 追記(2019/8/25)
 その後調べたら、カーク・ダグラスがロック・ハドソンと共演した映画は「ガン・ファイター」(1961年)、バート・ランカスターと共演したのが「OK牧場の決闘」(1957年)だった。
 どちらも公開当時の写真だとしたら、ぼくは子ども過ぎて「スクリーン」など見たはずもない(7歳か11歳である)。バート・ランカスターとは私生活でも親しかったらしいので、何かの折の2ショットを記憶しているのだろう。
 バート・ランカスターは、ただの西部劇俳優だと思っていたが、どうしてどうしてひとかどの大人物だったようだ。
 貧しい家に育ち、バスケットの奨学金を得てニューヨーク大学に入学するが、授業がつまらなくて2年で退学し、サーカスなどで働いたのちにハリウッド俳優になったという。俳優業だけでなく、興業や映画製作も手掛け、晩年は性格俳優として「家族の肖像」にも出ていたらしい。
 いつか「家族の肖像」を見てみよう。



“二十日鼠と人間” (453ch FOX ムービー)

2019年08月08日 | 映画
 8月6日(火)午後14:10~16:20。
 453ch FOX ムービーで、スタインベックの “二十日鼠と人間”をやっていた。

 こんな映画があることを知らなかったが、ものすごく良かった。「絶対にご覧いただきたい一品」という宣伝文句に嘘はなかった。
 1992年、米、MGM作品。

         


 ぼくは中学3年生の時に「エデンの東」を読んで以来、ベトナム戦争従軍記が新聞に掲載されるまでの間、スタインベックが好きだった。
 彼の描くカリフォルニアが好きだったと言った方が正確かもしれない。

 「二十日鼠と人間」ももちろん読んだはずである。
 大門一男訳、新潮文庫101a、昭和28年10月10日発行、昭和40年2月20日18刷、定価80円。翻訳は旧仮名遣いである。

            

 ストーリーはほとんど忘れていた。
 こんな凄い話だったとは・・・。悲惨なラストシーンだが、その記憶がまったくないというのは、スタインベックが、あのラストシーンを受け入れさせるだけの筆力をもってストーリーを展開していたからなのだろう。

 ただし、ラストシーンは、この映画の方が原作よりもよかった。

        
 レニー役はジョン・マルコヴィッチ、ジョージ役がゲイリー・シニーズという俳優らしい。
 ともに、なかなか良かった。


 2019/8/7 記


小津安二郎 “父ありき” 

2019年06月16日 | 映画
 
 小津映画のテーマは、そのほとんどが「家族」と「東京」だったと思う 。そして、家族を描いた小津映画の代表作といえば「東京物語」(1958年)をあげる人が圧倒的に多いだろうが、私は、「東京物語」をあまり買っていない。甘いと思うのである。妻(東山千栄子)を亡くし、尾道に残された夫(笠智衆)には、小学校教師を務める未婚の末娘(香川京子)がいる。戦争未亡人になった兄嫁(原節子)のように、あるいは後の「秋刀魚の味」(1962年)の杉村春子のように、香川も結婚しないまま老父の生活を支えつづけそうな気配がある。窓からのぞきこんで笠のご機嫌をうかがう近所のおかみさん(高橋豊子)もいる。年老いて妻に先立たれた笠の寂寞は感じられるが、切迫した孤老問題はエンドマークの向こう側に見えてこない。むしろ、小津が「東京物語」を構想する契機となったというアメリカ映画「明日は来たらず」(1937年、原題は“Make Way for Tomorrow”)の方がはるかに切迫しており、しかも老夫婦にとっては悲劇的である。

 では、私のお気に入りは何かといえば、私は「父ありき」(1942年)を第一に挙げたいと思う。「父ありき」の父親(笠智衆)は金沢で中学教師をしていたが、箱根、鎌倉への修学旅行の引率中に、一人の生徒が無断でボートを漕ぎだし芦ノ湖で転覆死してしまう。教師の責任の重さを感じた父は教師を辞め、縁故を頼って信州、上田の寺で世話になったのち、東京に出て、最初は工場の現場監督のような仕事に就く。教師から工場労働者への転身である。漱石の「坊っちゃん」も、松山中学の教師を辞めて街鉄の技士になったが 、かつてはそういう転職もあったのだろう。
 この父親は、母親を亡くした息子の弁当も作るような父親であるが、「これからの時代には学問がなければならない」といって、父親と一緒に生活したいという息子の希望を認めない 。息子は期待通りに勉強して上田の中学校に合格するのだが、父は、息子を寄宿舎に入れて、単身東京に働きに出ていくのである。その後も勉強に励んだ息子(佐野周二)は、やがて旧制高校から帝大を出て、教授の推薦で秋田の鉱山学校の教師になる。父子二人で温泉旅行に出かけた折に、息子は、秋田の学校を辞めて上京してお父さんと一緒に生活したいと申し出るが、父はこれも許さない。

         
       ▲ 夜行列車の網棚に載せられた父の遺骨

 それから何年か経ち、徴兵検査のために上京した息子は、数日間だけ父子水入らずの生活を過ごすが、父はあっけなく心筋梗塞で亡くなってしまう。息子は、父の金沢時代以来の友人教師の娘(水戸光子)と結婚して、父の遺骨を抱いて夜汽車で秋田に帰って行く。

 * 冒頭の写真は、金沢を去って上田に出てきた父子が登った上田城の石垣。ただし、上田城にはあのような石垣はなく、おそらく小諸城の石垣だと思う。60年以上が経っているが、数年前に小諸城を訪ねたところ、木々がかなり繁っていたが、積まれた石の形状から小諸城だと思った。

 2019/6/16 記



東急名画座ほか 断捨離の途上で(6)

2019年03月10日 | 映画

 今回は、古い映画館のチケット(半券)や次週予告のプログラムなど。

 学生時代によく通った映画館は、渋谷駅前の東急文化会館の4階(5階かも)にあった東急名画座だった。
 大学に通うため東横線の渋谷駅ホームに立つと、目の前に東急名画座の3本立ての看板が目に入ってくる。
 そのうちの2本見たい映画だった場合には見に行く(大学はサボるか早めに切り上げる)というルール(?)を自ら立てていた。

 この映画館は、東宝東和提供のメロドラマ系をよく上映していたように記憶する。

            
 
 
 もう1軒が新宿駅東口の雑居ビルに入っていた名画座ミラノである。

 この映画館が入った雑居ビルの2階に、かつてはスケートリンクがあったことは以前に書き込んだ。
 子どもの頃、母に連れられてここにスケートに来たが、手袋を忘れていたため、近所のウエスタリアで、手の甲の部分がタータンチェックの手袋を買ってもらったことがあった。
 なぜかその手袋の色形を鮮明に覚えている。

 今回、この映画館と東急名画座が系列館だったことを知った。ひょっとしたら当時から知っていたのかもしれないが、忘れていた。

 名画座ミラノも、通学の途中で山手線が新宿駅に近づくと、車窓からビル壁面の看板が目に入ってしまう。
 1年間に何百本も見るというような映画ファンではなかったが、月に1、2回は通ったと思う。

                
 
 そして、池袋の文芸坐、文芸坐地下にも時おり行ったらしい。
 現在ではサンシャインに向かう道の左側にあった。“人間の条件”をオールナイトで上映したりしていた。
 
 “エデンの東”を予告する文芸坐のパンフが出てきたところを見ると、リバイバル上映された、そのまた後に2番館、3番館として、ここで上映していたのだろうか。

 早稲田近辺の映画館はほとんど行った記憶はないが、プログラムなどが残っているところを見ると、何回かは行ったのだろう。
 むしろ、何も出てこなかったが、飯田橋のギンレイ(銀嶺?)や飯田橋名画座には行った記憶がある。

        

 最後の、西荻セントラルは、懐かしい西荻窪駅北口の映画通りにあった映画館である。

 中学生の頃、三原堂の前からバスに乗って通学していたが、映画館に入ることは禁止されていたので、入ったことはない。
 バスを待っていると、商店街のスピーカーからコニー・フランシスの“可愛いベイビー”などが流れていた。

               

 なんで、西荻セントラルのパンフなどがあるのだろうか。


 2019/3/10 記 


“ローマの休日” ふたたび

2018年06月24日 | 映画

 日曜日の朝、テレビをつけると、加計学園理事長のの愉快な顔が大写しになっていた。

 チャンネンルをBSに切り替えると、ちょうど“ローマの休日”で、オードリー・ヘップバーンが、グレゴリー・ペックのアパートの部屋で、目を覚ましてシャワーを浴びているシーンだった。

         

 451チャンネル(?)、“WOWOW シネフィル”。
 懐かしいので、そのまましばらく眺めた。

         

 日曜日の朝に、さわやかな気分になった。

 以前も、日曜日の朝にBSをつけたら、偶然にも“ドライビング ミス・デイジー”をやっていたことがあった。
 日曜日の朝は名画の時間帯なのだろうか。

 2018/6/24 記

“エデンの東” 日本語の歌詞

2018年05月02日 | 映画
 
 映画“エデンの東”については以前に書いたが、今回はそのテーマソングの日本語の歌詞について。

 ジェームス・ディーンの没後10年を記念して(ジェームス・ディーンの没年は1955年だが、確かに「没後10年」を謳っていたように記憶する)、“エデンの東”がリバイバル上映されたのは、ぼくが中学3年生だった1964年(の確か夏休み)のことである。

 その時に初めてぼくは“エデンの東”を見た。
 感動して原作も読んだ。もちろん野崎孝・大橋健三郎訳の日本語版(早川書房)だが。
 ヴィクター・ヤング楽団のソノシートも買った。

 ところで、その“エデンの東”の主題歌には日本語の歌詞がついていた。
 ぼくの中学校の音楽の副教材で、いわゆる「歌本」のようなものが配布されていたのだが、その中に“エデンの東”の楽譜と歌詞が載っていた。
 中学3年の音楽の時間に器楽の試験があって、自分の好きな曲を演奏してよいということだったので、ぼくはリコーダーでこの“エデンの東”を吹いた。

 そしてその歌詞もよく口ずさんでいた。
 
 むらさきの 雲の流れに 
 思い出ずる 母の面影 ・・・♪♪

 という歌い出しだった。
 しかし、残念ながら、それ以降の歌詞はまったく記憶にない。

 Googleで「エデンの東 歌詞」で検索すると、いろいろなページが出てくる。そして、さまざまのバージョンの日本語の歌詞が出ている。
 しかし、ぼくの記憶にある歌い出しの歌詞には今のところ出会えない。

 あの音楽の副教材は、当時いくつかの中学校で採用されていたのではないだろうか。
 あの“むらさきの 雲の流れに ~”を歌った人もいるのではないかと思うのだが・・・。

 
 2018/5/2 記

 ※ 何かふさわしい写真はないかと探したが、見つからなかった。“むらさきの雲の流れ~” にこじつけて、晩夏の軽井沢(借宿付近)の夕暮れの写真アップした。あまり「むらさき」ではないのだが。
   
 
 こんな写真のほうが、空と雲の色は歌詞にふさわしいかもしれないが、都会の建物が写り込んでいて不可か。
 

メグレは二つに見える

2016年01月04日 | 映画

 今年の初DVD(DVDはじめ)は、フランスのテレビ映画のメグレ警視シリーズから“メグレは二つに見える”を。
 1999年制作とケースに書いてある。

 最近はBSのミステリー・チャンネル(? 560ch)でも放映されないし、近所のツタヤにも置いてないので、AMAZONで新古品(?)を購入してみた。

         

 マイナーな作品で、題名を聞いた記憶も、見た記憶もまったくない。
 選んだ理由は、単に値段が安かったから。980円だった。
 期待もしていなかったが、中身は悪くなかった。いかにもメグレものらしいストーリーだった。
 パリとその郊外が舞台になっているのもいい。

 ただし、邦題は疑問。
 「メグレは二つに見える」では、メグレが二重人格者か、二面性を持った人間である、というニュアンスだが、実際は、メグレが被害者の二重性を見抜くという話である。
 せめて“メグレには二つが見える”、もっと内容に即していえば“メグレと二重生活者”とでも名付けたいところだが、ネタ割れしそうなので、こんな邦題になったのだろう。

 被害者の二面性が解決のカギになる話は、エド・マクベイン「87分署シリーズ」の“被害者の顔”が同趣向だった。
 どちらが先の作品かわからないが、マクベインのほうの被害者は5重性くらい持った女性だったと記憶する。

 おまけに、“メグレには二つに見える”の途中で登場する1930年代(?)のシトロエンをアップしておく。

         
 

 2016/1/4 記

“ドクトル・ジバゴ” オマー・シャリフ追悼

2015年10月03日 | 映画

 旧聞ながら・・・。

 夏の軽井沢では、テレビなしの生活を送っているため、時折、映像が懐かしくなって、DVDを見ることがある。
 ある夏は、ミスター・ビーン(豆豆先生!)をせっせと見たし、ある夏は小津安二郎をせっせと見た。

 この夏は原稿を抱えていたので、あまりDVDは持参しなかったが、夏前にオマー・シャリフの死亡の報に接したので、デビッド・リーン監督“ドクトル・ジバゴ”を持って行って、見た。

 勉強の後で、風呂が沸くまでの時間に見たので、8月19日夜に60分、20日夜にDisk1の最後まで、そして21日夜にDisk2の最後まで見た。

 
 この映画を最初に見たのは1970年代だと思うが、30年以上たって久しぶりに見ると、覚えているシーンはごく僅かで、はじめて見るに近かった。

 とくに、オマー・シャリフが凍てついた窓越しにララを見送ったところで、エンディングかと思っていたが、なんとその後に、ジバゴがモスクワかどこかの街角で路面電車の窓からララと思しき女性を見つけるシーンや、ジバゴの兄が、ジバゴの忘れ形見と思われる娘を呼びつけるシーンまであった。
 まったく記憶になかった。ぼくにとっては不要のシーンだった。

 2、3年前に近所のホームセンターで、キーラ・ナイトレイがララを演じる“ドクトル・ジバゴ”(2003年、イギリス)を500円で買って、見た。
 デビッド・リーンのものと誤解して買ったのだが、悪くはなかった。こちらの方が原作に忠実そうだった。
 ぼくはパステルナークの原作(ぼくの学生時代には原子林二郎訳のペーパーバックだけだったが、今では何種類か翻訳があるらしい)を読んでいないので、本当はどちらがより原作に忠実かどうかわからないのだが、デビッド・リーンのほうがいかにも「作ってる」感じがした。

 ただし、飽きさせないという点ではデビッド・リーンがいい。
 ロッド・スタイガーが演じる悪徳弁護士コマロフスキーなどはなかなかいい。


 Disk2についているメイキング・ビデオも面白い。YouTubeにも“ドクトル・ジバゴ”の舞台裏をオマー・シャリフらが語っているのを見つけた。これも面白い。

 製作者のカルロ・ポンティは女房のソフィア・ローレンにララ役をやらせたかったのだが、デビッド・リーンは、「ララは映画の冒頭では絶対に“処女”に見えなければならない、お前の女房が処女に見えるか」と言って断ったという。
 笑ってしまった。どう考えても、ジュリー・クリスティーだろう。
 でも確かに“ひまわり”のようなシーンは時折見られた。

 最後に、オマー・シャリフという役者を、ぼくは死亡記事を見るまで、ロシア人と思っていたが、なんと彼はエジプト人だった。
 しかも、エジプトで俳優をやっているときにデビッド・リーンに見い出されて、この映画に抜擢されたという。
 “ドクトル・ジバゴ”で色がつきすぎて、その後はいい役に恵まれなかったが、この1作だけでも十分だろう。
 少なくともぼくには、オマー・シャリフはあの窓越しにララを見送るジバゴが永遠である。


 2015/10/3 記

アパートの鍵貸します

2014年12月30日 | 映画

 一昨日だったかの夜、BSで高倉健主演の“あなたへ”をやっていた。
 高倉健の追悼なのだろうが、残念ながら映画の出来はよくなかった。

 富山刑務所の刑務官が、亡くなった妻の遺骨を故郷の平戸に散骨に行くまでの物語。
 高倉健にひとり旅をさせればよいものを、ビートたけしが出てきたり、草薙剛が出てきたり、佐藤浩一が出てきたり、・・・と煩わしい限りである。
 いくら興行収益を考えなくてはならないとしても、このドラマの脇役なら他にいくらでもいただろう。途中はまるで“寅さん”シリーズを見ている錯覚すら覚えた。

 平戸の坂道の途中にある古びた写真館のショーウィンドウの中に、亡き妻の少女時代の写真が飾ってあって、高倉がガラスをこつんと叩いて別れを告げて、それでエンドマークかと思ったら、まだ続くのである。
 映画は終わるべきところでさっと終わらなければならない。小津安二郎の言う「砂を噛まされた思い」である。

 こんな映画が2014年に見た最後の映画では後味が悪いと思って、チャンネルを回したら、BS452チャンネルかどこかで、“アパートの鍵貸します”をやっていた。

            

 
 ビリー・ワイルダー監督の1960年の作品である。モノクロだった。

 実は、同監督の“お熱いのがお好き”を以前に見たが、好きになれなかった。題名からして、“アパートの鍵貸します”も同工異曲だろうと思って、きょうまで見ないでいたのだが、期待もしないで見たら、これが良かった。

 ストーリーは何ということはないニュー・ヨークを舞台にした、サラリーマン(ジャック・レモン)が主人公のラブコメディーである。相手役のエレベーター・ガール(!)がシャーリー・マクレーンというのもいい。もちろんマリリン・モンローに演じられる役どころではない。
 美人でもない彼女が、最後には可愛らしく見えてくる。

 場面はほとんどアパートの一室と高層ビルのオフィスだけ。たいしたドラマも起きることなく、気のきいたセリフと、彼、彼女らの演技だけでストーリーは進んでいく。
 ジャック・レモンの恋敵は、あの“パパ大好き”のお父さん、フレッド・マクマレイではないか。

 同年のアカデミー賞を4部門(監督賞、作品賞など)で獲得した作品だと後で知った。それだけのことはある。
 早速アマゾンでDVDを注文した。アマゾンは正月(3が日)でも届くのだろうか。

 人が何と言おうと、ぼくはこういう映画が好きである。1年の最後に、偶然いい映画を見た。

 2014/12/30 記

* 最初の写真はブルーレイ版の、後者はDVD版のジャケット。いずれもamazonのページから借用しました。


映画 “小さいおうち”

2014年02月20日 | 映画

 久しぶりに近所の映画館(最近では「シネコン」というらしい。“ニューシネマ・パラダイス”の「映画館」とは似ても似つかない雑居ビルの一室である)で、山田洋次監督の“小さいおうち”を見てきた。
 60歳以上の老人割引で1000円。観客の9割以上が、ぼくと同じ老人割引の恩恵を受けた者だった。まるで老人会の映画観賞会のような雰囲気。
 自分も周りのくすんだ空気になじんでいるのだろうと思うと、気持ちが落ち込む。

 映画自体は、まずまずの作品。

 小津安二郎へのオマージュが随所に見られた。

 冒頭の<松竹映画>というキャプションは当然として、火葬場の煙突から煙が上るシーンは、“小早川家の秋”だろう。
 主人公の女中が奉公する家(「小さいおうち」)のテーブルの上、画面の真ん中には真っ赤な琺瑯のやかんが置いてあった。これは“彼岸花”か何か、初期のカラー作品で小津が好んだ小道具である。
 同じく「小さいおうち」の垣根の脇には、昭和の東京ならどこにでもあった木製のゴミ箱が置いてある。これも様々な小津映画に出てきたものである。

 取り込んだ洗濯物にアイロンをかけるシーンも、“風の中の雌鶏”から“秋刀魚の味”まで、小津の定番である。
 できることなら、小津映画のカーテンショットの定番である物干し竿に下がった洗濯物が揺れるシーンがあればなお良かった。(あったかも・・・?)

 そもそも「女中」が主人公ということ自体、小津映画を思わせる。

 小津は「女中」を主人公にした映画は作らなかったはずだが、小津の映画にはしばしば「女中」さんが登場した。
 戦前、敗戦直後までは住み込みの女中さんが登場し(“戸田家の兄妹”や“お茶漬けの味”など)、戦後しばらくになると通いのお手伝いさんになる(“晩春”や“秋刀魚の味”)。
 “秋刀魚の味”では、男やもめの笠智衆の家には通いのお手伝いさんがいるらしいが、妻帯者の中村伸郎の家にはお手伝いさんはいなさそうだった。
 戦後日本の実社会で、女中さんとかお手伝いさんといった存在が消滅したことを反映している。

 ぼくは、“父ありき”や“戸田家の兄妹”に出ていた女中役の文谷千代子が好きだった。
 黒木華も悪くはなかったが、昭和の「女中」役としては、やはり同時代を生きた文谷千代子たちの方ができがよい。
 女中の言葉(女中言葉?)も文谷たち(ということは脚本を書いた小津たち)のほうがそれらしかった。

 黒木華はベルリン映画祭で「主演」女優賞を受賞したというが、“小さいおうち”の脚本は「小さいおうち」の女主人である松たか子の不倫が主題になっていて、女中さんの日常生活はそれほど描かれていない。
 その松たか子の不倫なのだが、どうして彼女が夫の部下の吉岡秀隆に一目惚れをし、恋をしてしまうのかが、まったく説得的に描かれていなかった。軟弱な現代風言葉づかいで喋り、時おり髪を掻きあげる吉岡のどこに魅力を感じたというのだろう。

 そのため、松と吉岡との密会に心を痛める女中にも感情を移入できなかった。

 狂言回し役の妻夫木聡も必要だったのか。バイク事故で足を骨折したりして、だから何なのだ!と言いたくなった。倍賞千恵子のナレーションで足りたのではないか。
 倍賞のメイクが若すぎるのも気になった。北林谷栄くらいにしないと、かつてお仕えした「坊ちゃん」だったはずの米倉斉加年のあの老け方とバランスがとれない。

 ラストの15分はもっと短くてよかったのではないか。
 板倉正治の描いた赤い屋根の「小さいおうち」の絵が倍賞の遺品の中から出てくるくらいで十分で、板倉の戦後のエピソードなど必要なかった。
 そう言えば、倍賞の亡くなった部屋の壁には「小さいおうち」の絵(?)が掛けてあったが、あれは一体何だったのか。

 
 最近の日本映画の中では悪くはなかったけれど、「小津の時代は遠くに行ってしまったな」との思いを深くさせる映画であった。

 なんでこんなに“小さいおうち”を小津と比べてしまうのか、自分でも分からなかったが、ふと気づいた。
 小津の映画にも、時おり「不貞」が垣間見られたのだ。“風の中の雌鶏”の田中絹代や、“東京暮色”の山田五十鈴など。
 小津は、兵隊時代も、慰安婦のいるようなところには決して近づかなかったと、浜野保樹「小津安二郎」に書いてあったが、それほど潔癖だった小津だけに、なにゆえ「不貞」にこだわりを持っていたのか興味がわくところである。
 ひょっとしたら「小さいおうち」の華さんのような事情があったのだろうか。

 ただし、松たか子に田中絹代や山田五十鈴の抜きさしならぬ演技はなかった。松たか子には「ヤマザキ春のパン祭り」の笑顔の方が似合っている。

 2014/2/20 記

“男はつらいよ 望郷篇”、“柴又慕情”、“葛飾立志編”

2012年07月05日 | 映画

 うえの写真は、“望郷篇”のラストシーン。
 「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら身体に悪いじゃないか」という寅さんの台詞が登場する場面である。

 『男はつらいよ寅さんDVDマガジン』鑑賞のつづき。

 観た順番は忘れてしまったけれど、公開年の順で行くと、まずは“男はつらいよ望郷篇”(1970年、第5作)。

        

 マドンナは長山藍子。役名は「節子」で、これが小津安二郎“東京物語”の原節子だと島田裕巳『映画は父を殺すためにある』(ちくま文庫)はいうが、そうとは思えない。
 あえて小津映画で言えば、“彼岸花”の有馬稲子だろうか。
 いずれにしろ、長山藍子は好きな女優だった。この映画の頃よりもう少し歳がいってからのほうが良かったけれど。

        

 舞台は浦安で、節子の前に井川比佐志が現れ、そして長山藍子が愁いをおびた表情になったときには、山本周五郎の「青べか物語」のような展開にでもなるのかと思ったが、そのようなことにはならなかった。
 “寅さん”なら当然の展開か。
 
 惚れた節子に振られ、結局は堅気になれず再び旅に出た寅さんは、旅先で舎弟の登に再会する。
 「額に汗して、油まみれになって働かなくちゃいけない」と言って、舎弟の登を田舎に追い返した寅さんだったが、結局二人とも元通りのままである。
 「ちっとも変ってないじゃないか」と詰る登に、寅さんは「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら身体に悪いじゃないか」と答える。

 このセリフはいい。今までの“寅さん”シリーズの中で一番いい。
 1970年には寅さんなんかにまったく興味のなかったぼくも、いつのまにか、そして徐々に変わったのだろう。だからこうして1か月たらずの間に10本近くも“寅さん”シリーズを観たのだ。
  
 島田裕巳は、「変わらない」寅さん、通過儀礼に失敗し続け、成長しない寅さんの映画がなぜ日本人にこれほど人気があるのかを考える(203頁)。
 そして、江藤淳の≪寅さん=坊ちゃん説≫なるものを紹介している。
 ぼくには寅さんと坊ちゃんは、山の手と下町という点だけでも決定的に違うような気がするのだが。


 次は“柴又慕情”(1972年、第9作)。

        

 マドンナは、吉永小百合で、舞台は金沢、ぼくの母方の祖父の故郷である。
 祖父は曽祖父の仕事の関係で、台湾の台北市で生まれたが、本籍は石川県金沢市穴水町にあった。
 金沢の東馬場小学校、満州の大連、撫順、遼陽小学校と転々とし、金沢に戻って長町小学校を卒業している。
 裕福とはいえない家庭で育ったため、加賀百万石、金持ち商人の保守的、封建的な町である金沢には複雑な思いを抱いていたと聞かされた。

        

 一昨年の秋、金沢での学会の帰りに、長町小学校にもほど近い武家屋敷街を歩いたが、その街並みは今でも住む人たちの経済的な豊かさを感じさせた。
 その武家屋敷街を歩く吉永小百合は、1972年当時は、まだ“キューポラのある町”の吉永小百合である(左端)。

        


 最後が、“葛飾立志編”(1975年、第16作)。

         

 マドンナは樫山文枝だが、寅さんの「落とし胤」(?と間違われた)山形から来た田舎娘の役で、わが桜田淳子が出てくる。
 まだ15、6歳だろうか。初々しい姿である。

        

 いつの間にか、そして徐々に映画の好みも変わったので、今このようにして“寅さん”シリーズをせっせと観ている。
 ただし、スクリーンの中で(当然ながら昔のまま)変わらずにほほ笑んでいる大原麗子や桜田淳子や吉永小百合や長山藍子をみて懐かしむというのはどういう心境なのだろうか。

 2012/7/2 記