今年はどの花も、早く咲き始めるので、宝戒寺の白萩もそろそろかなと観に行った。さすがに、まだ、桜でいえば”開花宣言”といった程度であったが、咲き始めの、ういういしい白萩を観ることができ、うれしかった。
宝戒寺は、白が好きで、萩は白、彼岸花も白いのが多い。これも、早いのはつぼみを膨らませていた。
ビャクシンの大木も、塩豆のような白い実をいっぱいにつけていた。食べてみたが、おいしくなかった(汗)。
白ではないが、薄紅色の芙蓉も咲いていた。これが酔芙蓉であるならば、朝は白だったはずだ。でも普通の芙蓉のようだった。いくらお寺でも、少しは色気があった方がいい。右下の三つ鱗の家紋は北条家のものだ。ここは北条得宗家があった場所なのだ。新田義貞の鎌倉攻めで、最後の執権、北条高時が滅ぼされた。のちに、足利尊氏が北条家の霊を弔うために、この地にこの寺を建立したのだ。
本堂に入り、お参りする。うちの川崎の菩提寺も天台宗なので、父母の冥福を祈る。ふと、右を向くと、高倉健さんの”残暑お見舞い”と書かれた御供物が目に入る。しばしば、健さんの御供物をみかけるので、不思議に思い、調べたことがある。彼自身のエッセイ集”あなたに誉められたくて”をみつけ、それで当寺との深い繋がりを知った。
北条高時の一番の家来、苅田式部大夫篤時(北条篤時)は、このお寺の近くの東勝寺跡地で自害するが、子供を、岡山から北九州へと逃す。その子孫の方が筑前で両替商、小松屋を営み、成功された。江戸時代末期、筑前から、大阪、奈良、伊勢神宮、善光寺へ、そして日光に回り、江戸を経て、再度善光寺という大旅行をして、”東路日記”という紀行文を残した小松屋の主婦、小田宅子さんも子孫のひとりである。健さんも子孫なのである。
久しぶりに、近くの東勝寺跡地の”腹切りやぐら”にお参りに行ってきた。霊所浄域につき参拝以外立ち入り禁止とある。スズメバチみたいのがぶんぶん飛んでいて、ちょっと怖かったが、お参りをしてきた。
ここに健さんのご先祖が眠っている。健さんもここに必ず寄ってゆくのだろう。
鎌倉の歴史はいつも暗い。帰りに寄った、大巧寺の紫式部が、すかっり色づいてきた。そういえば源氏物語も色っぽいな(汗)。
宝戒寺は、白が好きで、萩は白、彼岸花も白いのが多い。これも、早いのはつぼみを膨らませていた。
ビャクシンの大木も、塩豆のような白い実をいっぱいにつけていた。食べてみたが、おいしくなかった(汗)。
白ではないが、薄紅色の芙蓉も咲いていた。これが酔芙蓉であるならば、朝は白だったはずだ。でも普通の芙蓉のようだった。いくらお寺でも、少しは色気があった方がいい。右下の三つ鱗の家紋は北条家のものだ。ここは北条得宗家があった場所なのだ。新田義貞の鎌倉攻めで、最後の執権、北条高時が滅ぼされた。のちに、足利尊氏が北条家の霊を弔うために、この地にこの寺を建立したのだ。
本堂に入り、お参りする。うちの川崎の菩提寺も天台宗なので、父母の冥福を祈る。ふと、右を向くと、高倉健さんの”残暑お見舞い”と書かれた御供物が目に入る。しばしば、健さんの御供物をみかけるので、不思議に思い、調べたことがある。彼自身のエッセイ集”あなたに誉められたくて”をみつけ、それで当寺との深い繋がりを知った。
北条高時の一番の家来、苅田式部大夫篤時(北条篤時)は、このお寺の近くの東勝寺跡地で自害するが、子供を、岡山から北九州へと逃す。その子孫の方が筑前で両替商、小松屋を営み、成功された。江戸時代末期、筑前から、大阪、奈良、伊勢神宮、善光寺へ、そして日光に回り、江戸を経て、再度善光寺という大旅行をして、”東路日記”という紀行文を残した小松屋の主婦、小田宅子さんも子孫のひとりである。健さんも子孫なのである。
久しぶりに、近くの東勝寺跡地の”腹切りやぐら”にお参りに行ってきた。霊所浄域につき参拝以外立ち入り禁止とある。スズメバチみたいのがぶんぶん飛んでいて、ちょっと怖かったが、お参りをしてきた。
ここに健さんのご先祖が眠っている。健さんもここに必ず寄ってゆくのだろう。
鎌倉の歴史はいつも暗い。帰りに寄った、大巧寺の紫式部が、すかっり色づいてきた。そういえば源氏物語も色っぽいな(汗)。