熱海梅園から来宮神社への道、これまで二度ほど通っているが、気付かなかった。ちょうどJR東海道線を跨ぐところに、脇道があって、そこを降りていくと、大きな石碑が目に入ってくる。丹那トンネル殉職者慰霊碑だ。
丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に始まり、難工事のため、予定より大幅に遅れ、16年後の1934年(昭和9年)に完成した。事故による犠牲者は67名(うち熱海口31名、函南口36名)にのぼったとのこと。
殉職者慰霊碑

真ん中の銅版に67名全員の殉職者のお名前が刻まれている。

1921(大正10)年4月1日の大崩壊事故は、坑口から300mというから、まさに熱海梅園の真下で起こっていたのだった。梅園の供養梅をもう一度。

慰霊碑の下はトンネルの入り口。

トンネルの上に、何やら数字が。帰って調べたら、工期を皇紀であらわしたようだ。

この慰霊碑を見下ろすように、小さな神社がある。丹那神社で、犠牲者の英霊を祭神として祀っているとのこと。
お参りして、そこを離れ、また大通りに出て、来宮神社に向かう。途中、見晴しの良い場所となり、新幹線の通る新丹那トンネルが見渡せた。丹那トンネル工事の経験を生かし、崩壊事故はなくなったが、それでも、熱海口10名、函南口11名の犠牲者が出たという。ぼくらは、戦時はもちろんのこと、平和な時代でもこういう犠牲者の皆様のおかげで現在があることを忘れてはならない。

そして、ようやく来宮神社に到着。樹齢2000年の大楠に、ぼくは、ただただひれ伏すばかりだった。





丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に始まり、難工事のため、予定より大幅に遅れ、16年後の1934年(昭和9年)に完成した。事故による犠牲者は67名(うち熱海口31名、函南口36名)にのぼったとのこと。
殉職者慰霊碑

真ん中の銅版に67名全員の殉職者のお名前が刻まれている。


1921(大正10)年4月1日の大崩壊事故は、坑口から300mというから、まさに熱海梅園の真下で起こっていたのだった。梅園の供養梅をもう一度。

慰霊碑の下はトンネルの入り口。

トンネルの上に、何やら数字が。帰って調べたら、工期を皇紀であらわしたようだ。

この慰霊碑を見下ろすように、小さな神社がある。丹那神社で、犠牲者の英霊を祭神として祀っているとのこと。
お参りして、そこを離れ、また大通りに出て、来宮神社に向かう。途中、見晴しの良い場所となり、新幹線の通る新丹那トンネルが見渡せた。丹那トンネル工事の経験を生かし、崩壊事故はなくなったが、それでも、熱海口10名、函南口11名の犠牲者が出たという。ぼくらは、戦時はもちろんのこと、平和な時代でもこういう犠牲者の皆様のおかげで現在があることを忘れてはならない。

そして、ようやく来宮神社に到着。樹齢2000年の大楠に、ぼくは、ただただひれ伏すばかりだった。





