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【tv】ぶらぶら美術博物館「高畑勲展」

2019-09-16 13:58:27 | tv

【tv】ぶらぶら美術博物館「高畑勲展」

 

 

現在開催中の展覧会を紹介する番組。今回は国立近代美術館で開催中の「高畑勲展」を取り上げていた。近々行く予定なので録画しておいた。メモ取りながら鑑賞して備忘メモとして残しておこうと思ったのだけど、雷雨によるアンテナ不良で途中までしか入ってなかった😣 

 

今回画像があまり貼れないと思われる。そもそもが絵画展というわけではないので、絵コンテとかメモ書きなどは画像自体がネット上に上がってないだろうし、例え上がっていたとしても番組で取り上げられた物と同じかどうか分からないし🤔 一応、断り書きとして入れておく😌

 

出演者が登場する前に、高畑勲(Wikipedia)についてナレーションでの紹介が入る。高畑勲は作品ごとに新しい演出やアニメ制作を生み出し、日本のアニメーションを変えた人物。例えば1999年公開の『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年公開)は、日本美術を研究して辿り着いた究極のアニメーションで、ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定されているのだそう。

 

今回の講師は主任研究員の鈴木勝雄さん。鈴木さんによると、実は今回の展覧会は高畑勲が存命のうちに立ち上がった企画で、生前の高畑勲とも打ち合わせをしていたのだそう。その段階では美術品など高畑勲が好きな物を混ぜて、創造力の中身を表現することを提案していたけれど、昨年(2018年)に亡くなってしまったため、高畑勲が日本のアニメーションに遺したものを考える回顧展にすることにしたのだそう。

 

最初の展示は年表から。遺品から大量のノートとメモが発見されたのだそう。絵コンテは書くけれど絵は上手くない。絵を描かない演出家であった。美術と文学の総合芸術としてのアニメーションを目指したとのこと。

 

アニメーションの世界に進んだきっかけは、1955年に日本で公開されたフランスのアニメーション映画『やぶにらみの暴君』に衝撃を受け、映画館に通い詰めアニメーション監督を目指したのだそう。この映画の脚本を担当したのは詩人で脚本家のジャック・プレヴェール(Wikipedia)で、挿入歌を担当した作曲家のジョゼフ・コズマ(Wikipedia)と組んだ「枯葉」というシャンソンが有名。実は高畑勲は東京大学仏文科でプレヴェール作品を研究しており、卒論の題材でもあった。実は『やぶにらみの暴君』もプレヴェールがきっかけで見に行き、アニメーションに目覚めてしまったということらしい。

 

ちなみに『やぶにらみの暴君』は『王と鳥』(Wikipedia)というタイトルで2009年に他のアニメーション作品と共に、渋谷シネマ・アンジェリカでジブリ美術館ライブラリー特集上映として上映されたらしい。現在、このタイトルでAmazonなどで購入可能。


『やぶにらみの暴君』と同時代の作品としては『白雪姫』(Wikipedia)『ピノキオ』(Wikipedia)『ダンボ』(Wikipedia)『バンビ』(Wikipedia)などがある。ディズニー作品が日本で紹介されるようになったのも1950年代であった。そして、この時期に手塚治虫(Wikipedia)は『バンビ』を何度も見ていたらしい。手塚治虫はディズニー作品に影響を受け、高畑勲はフランスのアニメーションに影響を受けたので、2人の作品はテイストが違っている。

 

Chapter.1 出発点

 

1959年 東映動画(現東映アニメーション)に入社。東映動画は映画会社の東映が東洋のディズニーを目指し設立した会社。この会社には、高畑勲や宮崎駿を育てた森康二(Wikipedia)や、ハイジのキャラクターを担当した小田部羊一(Wikipedia)など伝説のアニメーターがおり、1963年には宮崎駿(Wikipedia)が入社してくるなど、日本のアニメーションの伝統を作っていく人たちが東映動画に集結していた。この時代のアニメーション界を描いているのが、現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」で、その時代考証を担当したのが小田部羊一なのだそう。

 

高畑勲は宮崎駿より年上だけれど、とても仲が良かったそうで、パクさん宮さんと呼び合っていたのだそう。何故パクさんなのかというと、高畑勲は朝が苦手でいつも遅刻ギリギリに出社してきて、パンをパクパク食べていたのでパクさんというあだ名になったのだそう。どうやら本人は気に入っていたようで、絵コンテにPACと書き込みしているらしい😃

 

20代に書いた企画書には「ぼくらのかぐや姫」と書かれている。実は内田吐夢(Wikipedia)監督で「竹取物語」(Wikipedia)のアニメ映画化の話があったのだそう。この企画書自体は提出されなかったけれど、大切に保管されていたのだそう。この企画書には"絵巻物をよく研究して、その描法を生かすこと。特にトレス線(輪郭線)を活用するなど~"と書かれていて、絵巻物を研究して作画に生かせないかと考えていたらしく、それが晩年の『かぐや姫の物語』につながっていたということで、出演者がビックリしていた。

 

この頃からテレビの時代を迎える。1963年に「鉄腕アトム」(Wikipedia)が放送開始。これを受けて東宝動画が「狼少年ケン」(Wikipedia)を製作。高畑勲初演出作品となった。当時28歳くらい。「第72話「誇りたかきゴリラ」絵コンテ」には文字で書き込みがされている。絵は別人。演出家としてカメラワークなどを考えている。「狼少年ケン」は短編なので毎回実験ができて勉強になったと語っていたのだそう。

 

 

30歳の頃、高畑勲に大きな転機が訪れる。社運を賭けた劇場公開作品の監督に大抜擢される。初監督作品。1968年公開の『太陽の王子 ホルスの大冒険』(Wikipedia) ホルスが村人たちと団結し、村を襲う悪魔を倒すまでを描く。謎の美少女ヒルダ役は市原悦子。作曲家間宮芳生(Wikipedia)。大人の鑑賞にも耐える作品に仕上げたが、興行は子供枠だったためかヒットはしなかった。アニメは子供のものという時代?

 

しかし、当時はなかった画期的な演出を行っている。①村人の衣食住を丁寧に描く ②キャラクターの設定を行う 背景をしっかり描き込んだうえで冒険を描くことでリアリティーが生まれる。「宮崎駿によるイメージボード」が展示されている。"ジブリっぽい感じがある"とメモがあり、おそらく出演者たちから出た言葉だと思うけれど、どんな画像だったのか全く覚えていない😅 自然を美しく描写、労働観、村落共同体を描いたことが画期的であった。

 

製作工程でも画期的な試みを行う。スタッフの作品参加を考える。スタッフの民主化とメモが残っている。トップダウン式ではなく、全員参加。全員が提案書を出す。まとまらないのでは?と出演者からの質問。それをまとめるのが演出家の力。「宮崎駿の提案イメージ」が膨大な量で一同ビックリ😲 実際に採用された"岩男のモーグ"や"氷のマンモス"のスケッチもある。圧倒的。矢作氏からは1人だけ頑張ると民主化ではないのでは?との声も。そのくらい圧倒的。天才なんだろうなとは思う。周りと足並みをそろえるということを一切考えないところも天才なんでしょうきっと。上手く言えないけど😅 足並みをそろえることは時には必要だし、時には足かせになる。どちらが良いかは難しい問題。

 

高畑勲としては、この宮崎駿の独走を大きな力ととらえ、宮崎駿のために場面設計という新職種を作った。宮崎駿の提案書には"シータ(ヒルダ)は、ホルス(パズーという名はどうでしょう)"とか"飛ぶ力をもつ宝石"などと書かれている。ヒルダをシータと呼んでおり、さらにホルスもパズーという名前にしてはどうかと提案。宝石は飛行石ってことで、既に1986年公開『天空の城ラピュタ』(Wikipedia)の構想があった? 矢作氏は強過ぎて皆とやるの向いていないかもとつぶやいていた。決して批判しているわけではないけれど、自分も同じようなことを感じた。上手く言えないけれど😌

 

Chapter.2 日常生活のよろこび

 

1971年 宮崎駿、小田部羊一らと東映動画を退社。子供の心を解放するようなアニメーションシリーズづくりを目指す。子供の心は大人の中にもある。

 

 

1972年公開 『パンダコパンダ』(監督 高畑勲 原案・脚本・場面設定 宮崎駿) 一人で留守番しているミミ子ちゃんの家に、動物園から脱走したパンダの親子が現れ、3人で一緒に暮らす話。ミミ子ちゃんが父親パンダにお父さんになってとお願いしパパンダという名前がつくなどぶっ飛んだ内容。パパンダのデザインがトトロっぽい。1972年に日中国交正常化(Wikipedia)により、パンダ来日大フィーバーが起きた。その時事ネタを取り入れた作品。

 

この作品でも画期的な演出を行う。日常生活のドラマを描くこと。ドラマは非日常。今作は設定は非日常だが描かれるのは日常。当時は、子供の集中力が続かないと考えて、場面転換の早いアクションものが多かった。しかし、今作は子供たちが最後まで集中して見ていた。これは行けると確信! リアリティーがあるから主人公に共感し惹き込まれたのだった。

 

 

1973年ズイヨー映像に入社。1974年「アルプスの少女ハイジ」(Wikipedia)放送開始。場面設定・画面構成を宮崎駿が担当。1974年1月~12月まで年間52本放送。当時はスポ根モノ全盛期。裏では「宇宙戦艦ヤマト」(Wikipedia)が放送。アクションものが人気。1974年という時代背景。1970年の大阪万博(Wikipedia)で高度成長はピークを迎える。1971年にはドルショック(Wikipedia)があり「巨人の星」(Wikipedia)の放送が終了。1973年にはオイルショック(Wikipedia)があり「あしたのジョー」(Wikipedia)の放送が終わる。その間に、「ポーの一族」(Wikipedia)「ベルサイユのばら」(Wikipedia)など少女マンガが流行。モーレツからビューティフルへと言われ価値観が変わった。

 

「アルプスの少女ハイジ」はビューティフル。自然讃歌。公害がすごくて自然を大切にするムーブメントが起きる。時代の空気を感じてのハイジだった。スイス=永世中立国という考えも多きい。生活・平和・自然が描かれる。加えて丁寧な描写。チーズ、干し草のベッドなど記憶に甦って来る。丁寧なディテール、空間の配置を設定する。

 

画期的な試みレイアウトシステム。レイアウトとは絵コンテでは描ききれない背景や場面設定などアニメの設計図を一枚のイラストにすること。シーンごとに作る。いろんな人が作画してもクオリティーが変わらないようにするために必要。レイアウトシステムはテレビアニメ業界のスタンダードとなり、仕事の仕方を変えた。1回の放送で300枚作られた。宮崎駿1人で描いていた。1日50枚。超人的な作業。1日50枚のレイアウトを描いていたというのは本当にスゴイ😲 働き方改革で一番に改革が必要だと思われるけど、これはスゴイと言わざるを得ない。

 

「美術監督 井岡雅宏による背景画」が紹介される。スイスにロケハンしたそうで、洋画的なタッチで描き過ぎないのがいいとのこと。山田五郎氏がオーストリア留学中、現地で「アルプスの少女ハイジ」が放送されており、オーストリアの学生たちは自国の作品だと思っていたのだそう。舞台となったマイエンフェルトはオーストリア国境に近く、同じような地域からの出身者にも違和感がなかったため。日本のアニメだと言うと、違うと論争になったのだそう😅 

 

 「アルプスの少女ハイジ ジオラマ」


「アルプスの少女ハイジ ジオラマ」を見ると、それぞれが思っていた位置関係がそのままだと感じる人が多い。それはリアルに見えるカット割りや作画をしていたからで、このジオラマが作れたのもそこがちゃんとしていたから。高畑勲、宮崎駿、小田部羊一のロケハン写真の中には「モデルとなった山小屋」があったけれど、そのまんま! 

 

小田部羊一によるキャラクター設定。ハイジの最初のイメージ図はみつあみ。ハイジに関して本の挿絵くらいしか資料がないため、何か参考になるものはないか聞かれた高畑勲は「ハイジがおじいさんを真っ直ぐ見つめる顔を描いてください」と答えたのだそう。答えになってない💦と出演者。そこで意志の強い女の子を描きハイジの作画が完成した。世界に認められる日本アニメの礎。

 

Chapter.3 日本文化への眼差し

 

日本人が日本のアニメーションを作るとはどういうことかを考え、1980年から日本に特化した作品を作る。1984年自身がプロデューサーを務めた宮崎駿監督・脚本作品『風の谷のナウシカ』(Wikipedia)の大ヒットを受け、徳間書店の出資を得て1985年にスタジオジブリを設立する。

 

1988年監督・脚本を担当した『火垂るの墓』(Wikipedia)公開。同時上映は『となりのトトロ』(Wikipedia)だった。今考えるとスゴイ2本立て。観客は気持ちの整理がつかないのではないかと出演者。山田五郎氏としては『となりのトトロ』⇨『火垂るの墓』の順番だろうとのこと。今作について原作者 野坂昭如(Wikipedia)の案内で神戸や三宮をロケハンしたのだそう。

 

「美術監督 山本二三による背景画」が紹介されていて、メモに"ラピュタ"と残してあるのだけど、その背景画がラピュタっぽかったのか、山本二三(Wikipedia)が『天空の城ラピュタ』(Wikipedia)を担当したという説明だったのか分からなくなってしまった😅 高畑勲は山本二三に「よく見てください日本の瓦は一枚一枚違います」と言ったそうで、そのレベルが求められており、それに応えるスタッフの力がスゴイという話だった。

 

 

色彩設計の保田道世(Wikipedia)についても紹介。色彩設計というのは簡単に言うと色を決めること。『火垂るの墓』では戦争中の日本人を描くため1から絵の具を作ったのだそう。混ぜて作るとばらつきが出てしまうため、あらかじめ色を決めて大量に作っておくのだそう。たしかに毎回混ぜていたら同じ色にはならないものね。なるほど興味深い🤔 色彩設計はアニメーションにとって重要な仕事で、色のベースで作品の世界が変わってしまうのだそう。

 

1991年公開 監督・脚本を務めた『おもひでぽろぽろ』(Wikipedia)は、1960年代に小学生だった少女の日常を、27歳のOLになった主人公が山形の農村で自分探し中に回想する話。1966年の10歳の私と、1982年の27歳の私をどう描き分けるかが課題。記憶の中の風景は白くぼやかして描き、現代の山形の風景はリアルさにこだわりクリアな画質で描く。今回はこの2つの時代を分けて展示することで見比べて欲しいとのこと。

 

出演者からは現代パートの密度の濃さが指摘されており、東北出身の美術監督 男鹿和雄のこだわりに触れていた。男鹿和雄(Wikipedia)は『となりのトトロ』や『もののけ姫』(Wikipedia)も担当しており、鬼と呼ばれているのだそう😱 湿気を帯びた日本の風景が素晴らしいとのこと。

 

と、残念ながらここでアンテナ不良で録画が終了しちゃってた😣💦 

 

高畑勲展と言いつつ宮崎駿要素の多い内容だった気もするけれど、高畑勲自身はアニメーションを描かないので、展示作品となると例えば宮崎駿が描いたものということになるし、高畑勲を語るうえで欠かせない人だということなのでしょう😌

 

うかうかしてたら10月6日まで! 近々行って来る!!

 

ぶらぶら美術博物館:毎週火曜日 21:00~22:00 @BS日テレ

BS日テレ - 「ぶらぶら美術・博物館」番組サイト


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