・・・とうとう、この男が目を覚ました!!すごい・・・。
10月2日の広島新四国八十八ヶ所めぐりの2ヶ所目は観音寺。観音寺とは札所めぐりをしているとあちこちで目にする名称である。こちら呉の観音寺は「聖天観音寺」という名前で知られているそうだ。聖天(歓喜天)といえば真言宗ともつながりが深い。
クルマは急な斜面を回り込むように上る。その斜面にも家が貼り付くように建ち並んでいる。観音寺は呉市の両城というところにあるのだが、カーナビを入れても手前までしか案内しない。そんな中、私の軽自動車がやっとという細道を上る中、案内が終了した。1軒の家があり、「観音寺臨時駐車場」の文字と矢印がある。この先にあるのかなとしばらく走り、それと思われる駐車場に出たが、どうも様子が違うようだ。たまたま駐車場にいた人に尋ねると、ここは違うと言われる。おかしいなと、元の看板に戻ってまた向きを変えたり、思い切って麓の商店街まで下りてもう一度やり直したり、寺は近くにあるはずだがなかなかたどり着けない。
結局、先ほど「観音寺臨時駐車場」の札が出ていた家(実は、観音寺の寺務所だった)の斜め向かいにあったクルマ数台が停められるくらいの空地が、先ほど矢印が示していた駐車場だったようだ。それにしても、軽自動車だから何とか上がってきたが、ちょっと大きめの自家用車なら初見だと厳しいかもしれない。
ならばこちらの道かと進むと細道、階段となる。ここから石段を上がっていく。そのまま行くと景色が広がる。先般、呉の市街地を南東方向から眺めたが、今度は北西方向からの眺めである。天気も良く、風もちょうどよい感じだ。
途中、レンガ造りの祠に出会う。また寺の外塀もレンガ造りである。呉といえばかつての海軍の町。そうした歴史と何か関係があるのだろうか。
そして本堂に到着。ここは本堂の外でお参りなのかどうかと思うが、左手の境内が独特の雰囲気を醸し出しているので、いったん先にそちらに向かう。四辺に石仏が並ぶ鐘楼や水子地蔵もあるが、その横には石をくり抜いて石仏を祀っている。ただその横に焚木が積まれていたりして、一瞬、とこかの窯元にでも来たのかと思ってしまう。
本堂に引き返すと、私が来たのを見つけたか、住職が出迎えて中に通される。結構気さくな感じで話しかけられる。広島新四国で来たのかと尋ねられ、朱印を用意するのでどうぞご自由にお参りをと声を掛けられる。
本堂の正面には本尊の不動明王が祀られている。その前には役行者像がある。ここで一通りのお勤めとしたところで住職がやって来て、寺の中を案内していただく。隣の間には聖天(歓喜天)が祀られている。
その後、「ここからの眺めがいいんですよ」と奥の座敷に招じられ、お茶をごちそうになる。「どうぞ足をくずして、また、私がマスクをしているので、(マスクを)外していただいて結構です」と勧められる。
観音寺がある両城山はかつて弘法大師も修行したといわれており、古くから大師を祀る祠があった。時代が下って明治中期、呉に鎮守府が設けられた際、初代の長官に着任した中牟田倉之助が、呉の港を見下ろす地に弘法大師の祠があることを知り、この地に鎮護国家、武運長久、海上安全を願って不動明王を祀った。合わせて、市民の安泰、街の発展を願って京都の神泉苑から十一面観音と聖天(歓喜天)を勧請した。これが観音寺の始まりという。明治といえどもその頃になると廃仏毀釈ということはなく、呉の鎮守府長官が弘法大師にあやかって寺を開いたというのも珍しい。
同じように呉の港を見下ろす寺といえば、前回訪れた第46番の萬願寺を思い出すが、観音寺のほうは海軍工廠や現在の造船所、自衛隊の敷地からは少し離れている。
その観音寺、戦争中には弘法大師の祠の横に防空壕が掘られた。それが戦後になると防空壕をくり抜いて滝行の場が造られた。
住職から「広島新四国はどのくらい回っているか」と尋ねられ、札所番号順に回っていると答えると驚いた様子だった。住職の話では、札所番号順で回る人は1割ほどではないかとのこと。確かに、広島新四国の巡拝はエリアごとにモデルコースがある一方、札所番号はあちこちに飛んでいる。たまたま呉市は比較的番号順に並んでいるが、呉市の南、倉橋島には60番台でまた来ることになるし、その前にもう一度三原~東広島をたどる必要もある。そりゃ、エリア順に回るのが自然ではないかと思う。
「番号が飛んでいるのは、『いろいろな』歴史があってのことですよね?」と返すと、「そう、いろいろ」と言われる。私が念頭にあった「いろいろ」というのは広島の原爆投下で、市内にあった寺院も被爆の影響で廃寺、あるいは戦後に別の場所で再興したというのをいくつか見てきた。また、戦後の市街地開発や敷地が手狭になったなどの理由で郊外に移転した例もあった。
そこに住職が「いろいろ」と加えたのは、寺の後継者問題である。後継者がいないなどの事情で寺じたいをたたんだところもあるそうだが、さすがに広島新四国の札所を欠番にするわけにはいかない。そこである時期から、後継となる寺は宗派を問わず受け入れることになったという。それで、札所番号順だといきなり別のエリアに行くことになる事象も生じた。
そう話す住職も元々は医薬品関係やカウンセリングの仕事をされていて、一時大阪で働いていた時期もあったそうだが、数年前に寺の後を継ぐために呉に戻られたという。そして(住職曰く、カネがない貧乏寺院ながら)少しずつ寺の改装や、写経、滝行、護摩供なども気軽に参加できるよういろいろ取り組んでいるとのこと。現在は寺の案内を送るためのLINEグループも運営しているが、そのきっかけは「法要の案内などを発送する郵便代がもったいないのでは?と檀信徒の方に言われたから」だという)。
最後に、防空壕をくり抜いてできた滝に連れて行ってもらう。先ほど何かと思った洞窟がその入り口で、入ってすぐ左手に弘法大師が祀られていた祠の跡もある。そして数メートル進んだ奥に、周りをぐるりと囲まれた滝場がある。これらは鑿、槌で手掘りされてできたものだという。ここにあるのは常時水が落ちていう自然の滝ではなく、滝行の時に水を出す人工の滝だが、日差しの加減によっては結構いい写真も撮れるそうだ。
本堂前に戻ったところでお礼を言って寺を後にする。次は熊野町に近い第49番・浄空寺に向かうが、せっかく呉に来たということで、久しぶりに大和ミュージアムに立ち寄ることにする。ミュージアムの駐車場が満車だったので、道路を挟んだゆめタウンの立体駐車場に停めてから向かうことに・・・。