まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第15回中国四十九薬師めぐり~夏の青春18きっぷで山口へ

2022年08月17日 | 中国四十九薬師

8月のお盆シーズン。私の職場は一斉休業ではなく個人ごとで調整して夏休みを取るのだが、どの日も誰かが当番として事務所に詰めることにしている。今年8月11日に戻った山の日が木曜日ということで、暦だけ見れば飛び石連休の形である。私の場合は11日休み、12日出勤、13日休み、14日出勤、15日~17日休みというシフトを取った。新型コロナの感染確認者が増える状況で、私もこの夏に実家で両親と会うのは取りやめた。まあ、絶対にお盆に会わなければだめということでもないし、また機会を見ることにする。それもあって変則的な休みとした。

まず11日。タイトルは中国四十九薬師めぐりとしている。札所めぐりは山口県に入っていて、第24番・法瀧院、第25番・月輪寺である。このうち法瀧院は山陽線の福川から徒歩圏内。月輪寺は徳山駅から1日数本ながら路線バスが出ている。当初は、この2つの札所をセットにして周南市内1日コースをイメージしていた(厳密にいえば、月輪寺があるのは山口市の徳地地区なのだが)。

その一方で、夏の青春18きっぷを使って山口県内の乗り鉄も考えていた。注目は山口線の「DLやまぐち号」と、山陰線の「○○のはなし」。先に下関~東萩まで「○○のはなし」に乗って、東萩からすぐの連絡の路線バスで津和野まで出れば津和野~新山口間の「DLやまぐち号」に間に合い、1日でこれらの列車を体験できる。それぞれ早くから「e5489」にて指定席を押さえた。

これも含めていろいろ考えていたが、13日の予定が思わぬ形で決まったので、11日の山口行きも変更することにした。そこで思いついたのが、11日、「DLやまぐち号」に新山口から乗ること。そして津和野から折り返して山陽線に戻り、福川で途中下車して法瀧院だけお参りする。月輪寺へは日を変えることにした。「○○のはなし」も日程変更である。どういう組み合わせになったかはおいおい書くことに・・。

11日、早朝の西広島駅から山陽線の列車に乗る。この日、新山口10時50分発の「DLやまぐち号」の普通車指定席券を持っていたのだが、乗車前、席の埋まり具合を確認するために試しに「みどりの券売機」を操作する。すると、列車選択の段階でグリーン席に△印が出ていた。座席検索すると1人席に1つだけ空きがあり、迷わず購入ボタンを押した。普通車指定席は乗車前に新山口でキャンセルしよう。

「やまぐち号」のグリーン席は人気で満席のことが多く、11日発の普通車指定席を買った時も×印だったと思うが、キャンセルが出たのかな。グリーン指定席のため青春18きっぷは使えず、新山口~津和野間の正規運賃を払う必要はあるが、滅多にないチャンスなので「衝動買い」した次第である。先に書いてしまうが、これまで旧型客車を再現した普通車指定席にも何回か乗り、往年の汽車旅の風情を楽しむことができたが、グリーン指定席は展望スペースつきで、往年の上等の鉄道旅行を疑似体験することができ、これならではの乗車を楽しむことができた。一度乗ってみるとよろしいでしょう・・。

山陽線の列車は7時16分、終点岩国に到着。青春18きっぷの時季、ホーム向かいですぐ接続の下関行きに乗り継ぐ客が目立つが、私は階段を上がり、1番線から7時19分発の岩徳線経由の岩国行きに乗る。岩徳線もまだ他線区と比べてマシなほうとはいえ、路線の今後の取り扱いについて自治体との協議対象となっている路線である。山陽線と比べて徳山までの所要時間は長いのだが、この列車については、先に発車した山陽線経由の下関行きが徳山で20分以上停車し、その間にこれから乗る岩徳線の列車と徳山に着いて乗り継ぐことができる。

これから乗る岩徳線はキハ40の2両編成。山口県はまだまだ国鉄型車両が主力である。元々山陽線として建設された岩徳線だが、今は鈍行列車が細々と運行されるのみで、ボックス席を占領してのんびりと進む。欽明路越え、山並みの景色もよいものである。

周防高森で列車行き違いのために6分停車。この先も駅ごとにポツポツ乗客はあるが、全体で見ればガラガラのままである。

8時49分、徳山に到着。ホーム向かいに先に到着していた下関行きに乗り継ぐ。この時季、岩国からそのまま新山口、下関方面に乗り通す客も結構いる。今度は115系の3000番台。帰りに途中下車する福川を過ぎ、周防灘を望む区間に入る。

ふと、JRの岡山支社で行われている「おか鉄フェス」というのを思い出す。この日(8月11日)はかつての急行「砂丘」の復刻イベントということで、国鉄急行色をまとったキハ47「ノスタルジー号」が岡山~智頭間を運転した。ツアーへの申し込みが必要だったが、受付開始当日には早々に満席になった。そのこともあって「○○のはなし」「DLやまぐち号」に目を向けたこともある。

また、急行「鷲羽」が115系湘南色での復刻イベント列車として運転されるが、外観だけなら、今私が乗っている3000番台を湘南色に塗ったほうが、かつての急行型車両により似せた形にならないかと思う。もっとも、こちらは転換クロスシートで、かつてのボックス席の風情とはいかない(国鉄急行ならそちらのほうが大切な要素なのだろう)。

9時34分、新山口到着。この下関行きは10時12分まで長時間停車する。「DLやまぐち号」は10時50分発車で1時間以上待ち時間となり、次の列車で来ても間に合うのだが10分しかなく、イベント列車に乗るには慌ただしい。待ち時間も仕方ないか。

新幹線乗り場に行ってみる。この日から連休という方も多いようで利用客も多く、また1階コンコースに設けられた無料PCR検査ブースには長蛇の列ができていた。第7波に入ってからというもの、私自身は大丈夫だが職場、現場でも感染確認が相次ぎ、ともすればクラスターではないか?という案件もあった。その対応で出張したこともあったが、ここまで来ると職場で「○○さんが陽性となりました」と言ってもそれほど衝撃的には取られなくなったように思う。感染報告も事務的に処理されるようになった。

感染拡大に不安を感じる一方、慣れ(達観?)も出ているという相反する心理状況である。

「DLやまぐち号」は10時25分頃入線ということで、ホームの先に行ってみる。カメラを構えた人もちらほら。そして、山口行きの列車が出た後のホームに、DD51に押されて5両の客車が入って来る。蒸気機関車の不具合によりディーゼル機関車が代役で運転する「DLやまぐち号」、この日はDD51が牽引する。私としてはこの機関車が牽引するほうが実際の懐かしさを感じるし、またレア感ということでその筋にとってこれはこれで貴重ということで密かな人気のようだ。

中国四十九薬師のカテゴリからどんどん離れるが、今回はじめて展望スペースがあるグリーン席に乗ることに・・・。

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京都18番「大聖寺」~神仏霊場巡拝の道・25(花の御所跡の隠れた古刹)

2022年08月16日 | 神仏霊場巡拝の道

相国寺から同志社大学の周りをまわって、神仏霊場京都18番の大聖寺に着く。かつて室町幕府の「花の御所」の一角だったところである。元々は岡松殿という建物で、足利義満の正室の親類である無相定円禅尼が住んでいた邸宅を没後に寺とした。以後、天皇の皇女が入ったこともある尼門跡寺院としての歴史を持つ。

大聖寺は時代の移り変わりの中で何か所か転々とするが、江戸時代前期の延宝の大火で焼失する。現在の大聖寺の場所には当時聖護院があったが、この大火で同じく焼失し、その後現在の左京区に移転した。聖護院が移った後に再建されたのが現在の大聖寺である。

それはよしとして、門をくぐり、「花の御所」と彫られた石碑があるものの、建物の扉は固く閉ざされたままである。横と向かいから同志社の建物が見下ろしている。

大聖寺は通常非公開で、かといって相国寺のように毎年時期を決めて公開しているわけでもない。直近だと2020年3月の京の冬の旅で公開されたのが最後である(ちょうど、コロナが騒ぎになり始めた時期・・)。本堂や庭園、書院が有名とのことである。こういう寺院、日々の営みや文化財の維持費用はどうやって捻出しているのかなと、いらん心配をしてしまう。日常的に公開して拝観料を取るわけでもなく、檀家があるようには思えないし・・。まあ、どなたか陰日向に支援している方がいらっしゃるのだろう。

建物の玄関前ではお勤めしようにも何だか違うような気がするなあ・・。形ばかりモゴモゴと。

朱印のことばかり気にして恐縮なのだが、先ほどの相国寺が納経所の夏休み、そして大聖寺にいたっては非公開でどこにも入れないとなるとどうしたものかと思うが、幸い奥の壁に、朱印の方はこちらへと矢印がある。何だか、京の隠れ家へのお誘いのようだ(本当の隠れ家ならそんなあらさまな案内は出さなないだろうが・・)。それに従って通用口の扉を開けて、玄関内のインターフォンを鳴らす。そちらに向かうと凛々しいお顔立ちの尼僧が出迎えてくれた。思わずハッとする。いったん朱印帳を預かって奥に下がり、無事に「釈迦如来」の墨書をいただく。おっさんは完全に恐縮してしまった・・。

大聖寺から少し離れたところに京都17番の宝鏡寺があるのだが、この日4ヶ所目を回ったところで、予定より早いが今回はおしまいとする。また相国寺にも来るし・・・。ということで、大聖寺の境内には腰かけるところがないので、すぐそこの地下鉄今出川駅のホームのベンチにて次の行き先を決めるくじとする。ちょうど同志社大学のオープンキャンパスの日で、列車が着くと多くの人が大学に向かっていく。地下出口で直通しているのもよい。

さて、最初のくじで出た6つの行き先候補は・・

・園城寺(滋賀15番)

・永源寺(滋賀8番)

・大念仏寺(大阪5番)

・帯解寺(奈良5番)

・行願寺(京都34番)

・松尾大社(京都7番)

相変わらず兵庫県が一つも出ないのだが、前にJR万葉まほろば線シリーズで時間切れでパスした帯解寺がある。さらには行願寺の文字も・・。

そしてあみだくじの結果は、5枠に入った行願寺。次もまた京都である、しかも、京都御所を挟んだ南側と、今回時間があればそのまま行ってもいいくらいの距離だ。今回訪ねた御霊神社の対である下御霊神社も隣にある。またここなら、今回朱印をいただけなかった相国寺も近いし、西国三十三所の一つなのでそちらの4巡目も同時に進む。・・・となると、次の神仏霊場めぐりは秋の相国寺の特別拝観中を狙うことになりそうだ。

そのまま地下鉄に乗り京都駅に移動。新幹線も早い便に乗れそうだが、私の持っている指定席券、一度時間指定したものを変更した履歴があり、これ以上時間を動かすことができない。ならば、自由席でよいので乗ることにしよう。ちょうど停まっていたのが12時43分発の「ひかり507号」岡山行き。とりあえず自由席で岡山まで各駅停車で進み、岡山から後続の「のぞみ」に乗ることにした。

車内では涼みながらの昼食。今回選んだのは太秦の穂久彩の「太秦のり弁当」。ロケ弁当などで定評のある店で、たかがのり弁かとも思うが知る人ぞ知る一品だそうで、シンプルながら味が深い(ような気がする)。ビールのあてにも十分。このまま岡山乗り継ぎで、まだ夕方前の時間に帰宅した・・。

神仏霊場巡拝の道もこれで154ヶ所中25ヶ所(ここに相国寺を入れると26ヶ所)と、全体のおよそ6分の1まで来た。今年4月に始めたことを思うと案外早いペースで、回った札所の数では、それより前に始めた中国四十九薬師に早くも並んでしまった。確かに、都市部で札所が固まっていて一度に何ヶ所も訪ねることができる利点はある。別に早回りをするのではないが、それぞれ楽しむこととして・・・。

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京都19番「相国寺」~神仏霊場巡拝の道・25(大本山の朱印は夏休み・・)

2022年08月15日 | 神仏霊場巡拝の道

御領神社から住宅地の中を抜けて5~6分歩くと、相国寺の北門に出る。ここから先が境内ということで関係者以外の駐車禁止との表示がある。表門に当たる総門は境内の南側にあるが、地図で見るとかなり広く感じられるが、現在の面積は約4万坪あるという。この広さは東京ドームもしくは甲子園球場3個分だそうだ(こういう時のたとえに東京ドーム、甲子園球場、そして地元広島ならマツダスタジアム○○個分・・という言い方がされるが、こういう例えに京セラドーム大阪が入らないのが悲しいのだが・・)。

相国寺といってもそれ単独ではなく、現在は10数ヶ所の塔頭寺院が含まれているという。その中を北から南に進む。

相国寺に来るのは初めてである。臨済宗相国寺派の大本山であり、観光名所として有名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の山外塔頭である。それらを傘下にするほどだから、臨済宗のボス的な存在である。観光は金閣・銀閣に任せて大本山は禅の道を追求するとか。

相国寺は室町時代に足利義満が花の御所に隣接して一大伽藍を建立したのが始まりで、開山を夢窓疎石とした。寺の名前は、義満が任じられていた左大臣(当時)が中国名で「相国」と呼ばれること、当時の明の国で五山制度を整えた大相国寺という寺院があることからつけられたとされる。相国寺はその後、義満が定めた京都五山の一つに列せられた。中国の大相国寺も今に続いているそうで、2つの寺は友好寺院の締結をしているとある。

先ほど、相国寺の面積を約4万坪としたが、10年がかりで建立された当時は何と144万坪あったという。東は寺町通、西は大宮通、南は一条通、北は御霊神社まで続き、50あまりの塔頭寺院があったという。東京ドームの数が100個にまで増えた。まさに室町幕府が全盛を迎えていた時の象徴的な寺院だったと言える。しかし、その後何度も火災に遭ったり、応仁の乱、戦国の争いに巻き込まれたりして焼失と復興を繰り返した。

現存する本堂にあたる法堂は豊臣秀頼により建立されたもので、その他の建物も江戸時代以降に再建されたものが、明治時代になると廃仏毀釈の影響を受け、多くの塔頭寺院も廃絶や統合を余儀なくされ、規模は大幅に縮小した。

現在の相国寺はといえば、毎年春と秋に特別拝観という形で法堂、方丈、開山堂を公開している。また併設する承天閣美術館にて相国寺が所有する数多くの文化財の展示を見ることができる。今は特別拝観の期間ではないが、せめて法堂にて手を合わせよう。本尊は釈迦如来である。久しぶりの寺・・とはいうものの、臨済宗は・・というか本山としての相国寺は、西国三十三所や四国八十八ヶ所のようなスタイルでお参りするのとは一線を画しているようだ。法堂の前にろうそくや線香立てがあるわけでもない。

さて、朱印である。境内の案内図によれば、この奥の庫裏に入り、「本山」のインターフォンを押して係の人を呼ぶ仕組みとあるのでそちらに向かう。しかし、扉が閉まっているのはさておき、その入り口のところで無情にもこのような貼り紙を見た。「8月21日まで 朱印 お休み致します(ご用のある方は8月22日以降にお願い致します)」・・・。

はぁ・・・私が回っている「ローカル札所」ならまだしも、京都のど真ん中にある大寺院で朱印が「休み」とは全く想定していなかった。後でわかったのだが、相国寺の朱印は春と秋の特別拝観時は随時受け付けるが、それ以外の時期は庫裏でインターフォンで寺の方を呼び出すとある。まあ、呼び出すのは別によいとして、その場合も日曜日は休みだそうだ。今回8月7日の日曜日に来たのだが、係の人が長い夏休みにでも入ったのかな。

ならば、境内にある承天閣美術館に行こうと思ったが、ここも企画展示の会期中のみ開館とある。しかも間が悪いことに、翌日8月8日から次の企画展「武家政権の軌跡‐権力者と寺」が開催とある・・。

これだと、一応法堂の外でお勤めはしたというものの、神仏霊場めぐりの札所クリアとはならない。ノーカウントとして、時期を改めることにしよう。ちなみに次の特別拝観は9月17日~12月11日という(一部は法要のため拝観休止)。

南にある総門を出ると、先ほどの瓦ぶきの建物から一転してレンガ造りの建物が目に入る。同志社大学の今出川キャンパスだ。この場所も元々は相国寺の敷地だったところ。さらに南には京都御所も見える。こういう場所にキリスト教を理念とする学校ができたのも妙なものだが、相国寺は廃仏毀釈の影響で勢力も衰えていたし、御所も天皇や公家が東京に移っていて空っぽだったことも作用したという。

その同志社大学ではちょうどオープンキャンパスが行われており、地下鉄の今出川駅を含めて多くの高校生や保護者らしい人が出入りしていた。

さてこの後だが、ちょうど同志社大学の向かいに神仏霊場京都18番の大聖寺がある。地下鉄に乗る前にここだけ立ち寄り、そして次回の行き先を決めることにしよう・・・。

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京都20番「御霊神社(上御霊神社)」~神仏霊場巡拝の道・24(応仁の乱はここで開戦)

2022年08月14日 | 神仏霊場巡拝の道

上賀茂神社、下鴨神社と回り、次に訪ねるのは京都20番・御霊神社である。地元では「上御霊さん」と呼ばれているそうだ。こう書くとまた「上があるなら下御霊神社もあるのだろう」と思うのだが果たしてそうで、下御霊神社は西国三十三所第19番の行願寺革堂の隣にある。

こちらの御霊神社、西側の鳥居からくぐったところの楼門が工事中で、その横手から境内に入る。

古くから、政治で失脚したり戦乱で敗北した人の霊が祟って、その相手や世の中に災いをもたらすと考えられていた。これに対して、官位や称号を与えることで霊を鎮め、神として祀ることでその霊が人々を護ってくれるという考え方が平安時代頃から広まり、御霊信仰という形になった。その鎮魂の儀式が御霊会である。大宰府に流された菅原道真が亡くなった後に都でさまざまな災厄が起こり、道真の霊をなぐさめて人々の鎮護を願い、やがて学問の神様である天満宮が建てられたのもその一つである。

平安時代の初期、桓武天皇の時代に疫病が流行し、洪水も相次いだ。これは早良親王の祟りだとして、この地に祀ったのが御霊神社の始まりとされる。早良親王とは桓武天皇の弟で、皇太弟に立てられていた。しかし長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺された際、早良親王もこれに関わったとされて皇太弟の座を廃され、配流された。その途中、無実を訴えていた親王は絶食して亡くなった。疫病や災害はこの御霊のしわざだと考えられた。

そこで鎮魂の儀式が行われ、早良親王には「崇道天皇」という号がおくられた(もっとも、実際に皇位を継いだわけではないため、歴代天皇には数えられていない)。またその後の時代の御霊会では、早良親王のほかに伊予親王、井上内親王、藤原仲成、橘逸勢、吉備真備といったところが追加されるようになった(吉備真備とは意外だが、彼にも何かあったのだろうか)。

境内を回ると、「応仁の乱勃発の地」という紹介文や石碑がある。「御霊合戦旧跡」と刻まれているが、これを書いたのは応仁の乱の東軍の総大将だった細川勝元の子孫にあたる細川護熙元首相とある。こんなところで名前を見るとは思わなかった。

応仁の乱は足利将軍家の後継問題に端を発したとされるが、主に畠山氏や斯波氏といった有力な一族の内紛、そして東軍の細川勝元、西軍の山名宗全の勢力争いも絡んでいる。畠山氏の争いでは畠山政長が東軍、畠山義就が西軍につき、東軍の政長が御霊神社の境内に陣を構えた。当時は境内が広く周囲に堀や川があり、細川勝元の邸宅も近くにあるのが理由だという。

この御霊合戦は西軍の義就が勝利したが、その後細川、山名両氏が諸国から軍勢を集め、11年におよび戦いが京都、そして地方で繰り広げられた。結局、どちらが勝ったのかあいまいなまま終息したのだが、この後から群雄割拠の戦国の世に突入することになる。

御霊神社が今のような形になったのは江戸時代の中頃という。改めて本殿にて手を合わせる。お天気がよい分、とにかく暑い。朱印をいただいた後、本殿前のスペースで少し休む。次は御霊神社の南にある相国寺で、時間はまだあるのだがこの大寺で最後にして地下鉄に乗ることにしようか・・・。

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京都21番「賀茂御祖神社(下鴨神社)」~神仏霊場巡拝の道・23(糺の森から水みくじへ)

2022年08月13日 | 神仏霊場巡拝の道

上賀茂神社に次いで、下鴨神社に参拝する。出町柳駅前のバス停から、下鴨神社の参道である。糺の森を目指す。確かに、先ほど通過した下鴨神社前のバス停で降りれば本殿まではすぐだが、糺の森も下鴨神社の参道であり、雰囲気もよいのでどうせなら歩いて行こうと思った。その入口は改修工事中だが、改めて鳥居をくぐり、参道を歩く。

先ほどの賀茂別雷神社(上賀茂神社)の紹介とも重なるところがあるが、下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。賀茂別雷命の母親である玉依姫と、玉依姫の父親である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祭神とする(じゃあ、賀茂別雷命の父親っていったい・・?)。創建については諸説あるが、崇神天皇の時に神社の瑞垣の修復が行われたという記録があり、それ以前から祀られていたと推測されている。こちらはこちらで、我こそ京都でもっとも古い神社と主張しているようにもうかがえる。その後、平安遷都以降は上賀茂神社と同様に朝廷の信仰を受け、神社として長年高い地位にあった。

糺の森は古くからのこの地域の植物がそのまま残る原生林である。かつてはもっと広大な面積があったが、応仁の乱などの戦乱や、明治時代に寺社領が没収されたために現在の面積まで縮小したという。

現在歩いている歩道に並行してもう1本道がある。こちらの道は下鴨神社の馬場であり、例年5月3日、葵祭の前儀式の一つとして流鏑馬神事が行われる。私も学生の頃に一度見物したのを覚えている。コロナ禍のために一昨年、昨年は中止されたが、今年2022年は観客席を減らして行われたそうだ。

南の鳥居に出る。

楼門をくぐり境内に入る。まず正面にあるには舞殿。楼門とともに多くの提灯がぶら下げられている。

その先の中門をくぐる。その奥に東西2つの本殿が並ぶ。参拝者から見て左手(西)が賀茂建角身命、右手(東)が玉依姫を祀っている。下鴨神社も上賀茂神社と同じく21年に一度、式年遷宮が行われるが、こちらも屋根の葺き替えなどの修復となっている。伊勢神宮とは異なり、上賀茂神社ともども社殿の多くが国宝、重要文化財に指定されているために、すべてを新しく建て替えることができないのだという。

本殿の前には言社という7つの祠があり、それぞれの干支の神が祀られてる。私が生まれた丑年は大物主神とある。十二支で祠が7つというのはなぜかと思うが、子年と午年だけが単独で、残り5つに2つずつ干支がついている。その組み合わせは「丑・亥」、「寅・戌」、「卯・酉」、「辰・申」、「巳・未」で、並びとしては一応対になっているから、何かしら根拠があってのことだろう。

上賀茂神社と同じように橋殿、細殿があり、その奥の御手洗社(井上社)では「水みくじ」というのがある。どちらも水に縁がある神社である。参拝したならここでくじを引くところなのだろうが、そもそも寺社でのおみくじを引くことはないので見るだけである(そのくせ、札所めぐりの行き先はくじ引きとあみだくじで決めるのだが・・)。

他にもさまざまな摂社があり、一通り回ったところで朱印をいただく。ちなみに初穂料は500円と「格式高い神社価格」である(ここまで、北野天満宮、橿原神宮、大阪天満宮で遭遇)。ここだけは、上賀茂神社と異なっていた。

下鴨神社を後にして、次は御霊神社に向かう。下鴨神社の西の道幅の狭い住宅街を抜けて、賀茂川に出る。架かっているのは出雲路橋。出雲に向かう街道でも通っていたのかなと思うが、その昔、出雲地方から賀茂川の右岸に移り住んだ出雲氏というのがいて、その名が取られたそうだ(まあ、この道をずっと西に進めばいずれは出雲にたどり着くのだが・・)。

御霊神社はこの先の住宅街の中にある。それにしても「神仏霊場巡拝の道」と言いつつも、ここまで通してどちらかと言えば神社が続いているように思う・・・。

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京都22番「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」~神仏霊場巡拝の道・22(上賀茂、下鴨、どっちが上?)

2022年08月12日 | 神仏霊場巡拝の道

8月7日、この日の京都も暑くなりそうだ。マンスリーマンションに手を付けた感じのホテルリブマックス京都駅前をチェックアウトして、JR京都駅のコインロッカーに荷物を預けて地下道へ。地下街の店はまだ開いていないが、ここから地下鉄烏丸線に乗車する。さすがに地下鉄ホームや車両内(ちなみに近鉄からの乗り入れ車両)は冷房が効いていて過ごしやすい。

今回、あみだくじで出た目的地は下鴨神社だが、その周りのどこの札所を押さえようかといろいろ考えていた。その結果、まずは京都22番の上賀茂神社まで行き、そこから南下して下鴨神社、そして賀茂川を渡って徒歩でも行けそうな御霊神社、相国寺とたどることにした。下鴨神社の北と西を押さえる作戦である。この日は広島に戻る都合で13時台に京都を出る新幹線に乗ることにしており、回れるのはこの4ヶ所くらいかと思われる。

上賀茂神社へは京都駅からバスも出ているが、市街地を通ることを考えると地下鉄で行ったほうが時間短縮となる。いくつかの駅を通過して、北大路で下車する、ここから地下道でつながっている北大路バスターミナルに向かう。各方面へのバスがある中で、京都産業大学方面への系統に乗り込む。学生らしい乗客も多い中、バスは賀茂川沿いを走る。

御園橋を渡り、上賀茂神社の鳥居が見える。ここに来るのも何年かぶりだが、正面に新しいロータリーができており、大鳥居が建てられている。今渡って来た御薗橋も最近拡張されており、それに合わせて道路から神社の存在がよく見えるようにということで新たにロータリーも改修し、大鳥居を設けたそうだ。

改めて一の鳥居をくぐる。鳥居の横には正式名称である「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」の石標もある。ちなみに山城国の一の宮である・・(現在のところ、全国の一の宮を回ろうという構想は私の中にはない)。

上賀茂神社の祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)で、各地の加茂神社(賀茂神社、鴨神社)で祀られている。かつてこの地を支配していた賀茂氏の氏神でもある。「風土記」などの記述では、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘の玉依姫が賀茂川で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきて、それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ、玉依姫は懐妊して男の子が生まれたとある。この生まれた男の子が賀茂別雷命だという。

なお、賀茂建角身命と玉依姫は下鴨神社の祭神として祀られている。こちらの正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」である。賀茂の神様の母親、祖父の神社ということで「御祖」というのならよくわかる。ただ、正式名称だと区別がつきにくかったり、わかりにくかったりということがあったのだろう、いつしか、上賀茂神社、下鴨神社という通称が一般的になった。私も、神仏霊場めぐりで初めて正式名称を知った。

上賀茂、下鴨と並ぶと、どちらから先に参拝すべきか、下鴨が母親を祀っているなら下鴨が先かなと迷うところだが、ものの本によると特にどちらから先に参拝しなければならないとか、片方だけなら片参りになってしまうとか、伊勢神宮のような決まりごとはないそうだ。また、この上下というのも、立場や格式の上下ではなく単に地図で見て上下にあるからついたそうである。だからそこは気にせず、今回は時間の都合上、先に京都駅から遠いほうに行って、そこから戻るコースとしたために上賀茂神社からの参拝とした。

上賀茂神社の由緒としては、賀茂別雷命がこの地の北にある神山(こうやま)に降臨したのが始まりとされ、天武天皇の時に社殿が築かれたとある。そのため、京都でもっとも古い神社としての歴史を持ち、平安遷都の後は山城国の一の宮として高い地位にあった。先ほど、上賀茂、下鴨の上下は格式の上下ではないという説を紹介したが、こうして見ると上賀茂のほうが上ではないかな・・と思ってしまう。京都三大祭の葵祭の行列ルートは京都御所を出て下鴨神社を経由して上賀茂神社に向かう。道順もあるだろうが、やはり神山に手を合わせるとなると、上賀茂のほうがメインイベントとなるだろう。

二の鳥居の前に神馬舎がある。神山号という神馬が奉仕しているそうだが、「神山号は暑さに弱いため夏休みにさせて頂いております」との貼り紙。「次の『出社』は9月11日以降の日曜祝祭日の予定」とある。そりゃ、この暑さは馬もたまったものではないだろうが、「出社」って・・・一瞬、サラリーマンかよと思った。ああでもそうか、神社に出てくるなら「出社」やね。

二の鳥居をくぐるとまず正面に見えるのは細殿。平安時代の様式を今に残している。古くから天皇、斎王などが参拝する際に、ここに入り装束を整える時の建物である。現在は神前挙式の場として神社側もPRしているところだ。

この前に一対の立砂がある。賀茂別雷命が降臨した神山をかたどっており、神を招く憑代である。盛り塩や、鬼門にまく清めの砂の起源ともいわれている。

境内には小川が流れている。「ならの小川」と呼ばれ、、かつて御饌を盛るための葉で使われた楢の木が茂っていたという。百人一首の98番「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」(従二位家隆)の舞台とされている。暑さの中でホッとする眺めである。この時はいなかったが、ならの小川に足をつけたり、子どもが川に入って涼むのが今も上賀茂神社の夏の風物詩だという。

その小川にかかる橋も由緒あるもので、重要文化財に指定されている。

朱塗りの楼門をくぐり、奥には国宝の本殿、権殿である。現在の建物は江戸時代末期に建て替えられたものという。7月9日~9月30日の間、「京の夏の旅」として、昇殿しての特別参拝、神官によるガイドが行われるとあったが、受付開始までまだ早いのと、この先があるので見送りとする。中門のところでお参りとする。

ちなみに、上賀茂神社では平安時代以降、21年に一度式年遷宮を行うとしており、最近では2015年。次は2036年とある。伊勢神宮のように社殿をまるごと取り壊して新たに建て替えるのではなく、屋根の葺き替えや塗り直しの作業を行うもので、いわば定期的なメンテナンスのようなものかな。とはいえ、式年遷宮として古来から続くきちんとした儀式は執り行われる。そうした時などに一時的に祭神が移されるのが権殿である。

境内の一角に、片山御子神社というのがある。摂社・末社の中で第1摂社とされ、片岡社とも呼ばれている。玉依姫を祀っており、縁結び、子授け、安産の神として古くから信仰を集め、紫式部も参拝したと日記に記載している。その紫式部らしい十二単をまとった女官をあしらった絵馬がびっしりと奉納されている。それをめくってどんなお願いが書かれているのかを見る・・のは野暮なのでやめておこう。

境内を一回りしたところで朱印をいただく。墨書はもちろん「賀茂別雷神社」である。また、「山城国一之宮」の達筆も入る。

さて、次は下鴨神社に向かう。市バスで下鴨神社前を経由する系統があるが、賀茂川沿いにまっすぐ走るのではなく、周辺の住宅地や左京区総合庁舎などをぐるり経由する。30分ほどで下鴨神社前も通るが、せっかくなので糺の森も通ってみようと、最寄り駅である出町柳駅前まで乗車する。

次は賀茂川と高野川が合流して鴨川となるスポットから出発・・・。

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神仏霊場巡拝の道~西九条で一献、京都駅前で前泊

2022年08月11日 | 神仏霊場巡拝の道

8月6日、京セラドーム大阪から京都に移動する前に西九条に立ち寄る。いくつか訪ねたことがある店もあるのだが、今回は座って楽しめるということで、「白熊商店西九条店」を選択。チェーン居酒屋に分類されるが、肉を中心とした大衆メニューが豊富である。こういうところの1杯目はやはりホッピー。

豚タン、豚レバの盛り合わせや、牛レバも注文。牛の生レバが食べられなくなって久しいが、こちらは湯引きしたもの。

肉豆富を注文。以前はそのまま大鍋から器に盛りつけたと思うが、店員がコンロを用意する。そして、豆富と煮卵は大鍋で煮られたものだが、肉が生のまま入った鍋が出てきた。要は卓上のコンロにて自分で最後の調理である。肉に火が通ったら食べ頃ということで、熱々をいただく。

他にも串焼きなどを楽しみ、店を後にする。大阪環状線~新快速を乗り継いで夜の京都駅へ。20時半を回ったが駅周辺も多くの人で賑わっている。目の前には京都タワー。翌日は地下鉄烏丸線で移動して、帰りは新幹線に乗るために京都駅前宿泊とした。

選んだのはリブマックスBUDGET京都駅前。5500円で和洋室プランというのを見つけていた。

エレベーターで客室階に上がり、扉を開けると玄関である。ここで靴を脱ぐとある。

客室にはツインベッド。そして畳マットの小上がりのスペースがあり、座椅子に座ってくつろぐことができる。さらにはミニキッチン、いたく古いタイプのIHコンロ(使えるのかな?)もある。また、玄関横のクローゼットかと思ったスペースには洗濯機もある。クローゼットはクローゼットで別にある。

ユニットバスの湯を沸かすのにも湯沸かしボタンを押す必要があるが、これも何年前からのものだろうか。どうやら、元々マンスリーマンションか何かだったのに手を入れてホテルにしたかのようだ。京都で何日か滞在して、こういう宿をベースキャンプにして神仏霊場めぐりをするのもいいかな・・。もっとも、予約サイトのクチコミはそれほど高くないようだ。手を入れてはいるものの、やはり設備の古さが気になるところだろう。

この日はゆっくり休み、明日は早めに動くことにしよう・・・。

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神仏霊場巡拝の道~前哨戦は青春18乗り継ぎ、野球観戦・・

2022年08月10日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、8月の京都編である。前回、石上神宮でのあみだくじアプリで選ばれたのは、京都21番の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)である。くじを引き当てた時は、賀茂御祖神社・・そんな神社があったかいなというところだったが、調べてみると何のことはなく、下鴨神社の正式名称である。下鴨神社ならこれまでにも参拝したことがあるし、京阪の出町柳駅から徒歩で行けるのでアクセスもよい。

後は下鴨神社とどこをセットにして回るかだが、下鴨神社に行くのなら、京都22番・賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ つまりは上賀茂神社)もセットで行くべきだろう。地図を見る限りでは、鴨川の西にある京都17番・宝鏡寺、18番・御霊神社、19番・相国寺あたりを押さえておくのがよさそうだ(毎度毎度だが、「押さえる」という表現はいかがなものかとも思うが、こうしたゲーム感覚を取り入れるのが私の札所めぐりのスタイルなのでご容赦を)。

今回の行程だが、8月6日は先に観戦記を書いたとおり、京セラドーム大阪でのバファローズ戦観戦とのリンクである。6日のチケットを入手したから、そのまま京都まで行ってしまおうというものだ。6日の観戦後に京都に移動して宿泊、そして翌7日を札所めぐりに充てるのだが、所用のため7日の夕方には広島に戻っておく必要があるため、京都から昼過ぎの新幹線に乗ることにしている。実質午前中限定だが、上に書いたエリアくらいは回れそうだ。

さて、大阪までだが少しでも旅費を安くあげるために青春18きっぷを投入する。8月のこの後も一応5回分使う見込みはあるので元は十分回収できる。ただ、自宅から青春18きっぷのみで移動した場合、京セラドーム大阪に着くのが試合開始の直前となり、さすがに慌ただしい。ということで、一部は新幹線を使うことにした。その筋では「ワープ」と呼ばれる手段だ。

広島6時49分発の「こだま836号」に乗車する。新大阪まで日本旅行の「バリ得こだま」を使えばそのまま行けるのだが、今回は三原まで乗車する。乗車券1340円、自由席特急券990円の合計2330円で、青春18きっぷの1回分の値段とそれほど変わらない。広島~三原は距離がそこそこある割に、特例で特急料金が安く設定されているので効果的だ。もっとも、出発早々に新幹線に乗るので「ワープ」とはちょっと違うかな・・。

三原で在来線ホームに出て、7時38分発の相生行きに乗り換える。これで青春18きっぷの時期に混雑する岡山~姫路間も一気に抜ける。3時間弱鈍行列車に乗り続けるというのも今ではなかなかないことだが、転換クロスシートに腰かけて、車内でもぼんやりしながら進む。大改修が完了した福山城が真横の福山を過ぎ、岡山に近づくにつれて車内は満員となった。ただその一方、岡山から先は空席も出るようになり、想像していたこの区間の混雑もそれほどでもなかった。時間帯にもよるのかな。ただ、同じ車両に乗り合わせた客の中で、通路を挟んで横、斜め前の客は三原から通しで乗っており、他の車両も含めるとこの列車に狙いを定めた客はそれなりにいそうだ。

10時23分、相生着。すぐに接続の姫路行きに乗り換える。これで姫路まで行って新快速に乗り継ぐのが定番だが、このまま姫路に着いても新快速は発車したばかりだ。ホームのえきそばでも食べながら待ってもよいが、今回は姫路に行く前、手前の網干で下車した。

車両運用の都合で、その次の新快速草津行きは網干が始発(10時45分発)である。同じように下車した人もそれなりにいる。紙の時刻表なら列車の並びで容易に推測できるが、スマホの乗り換え検索ではなかなか見つけにくいだろう。混雑する新快速も、さすがに網干からなら着席は保証されるといっていい。また、私が乗った最後尾の車両はトイレがあるのだが、姫路までの間、トイレにやって来る客が後を絶たない。私の前のシートに座っていた年配のご夫婦の奥さんがいちいちその様子を観察して旦那さんに話しかけているが(あの人は(時間が)長かった、とか)、いちいちお節介なことだ・・。

それはさておき、広島から三原、相生、網干と乗り換えて大阪には11時58分着。広島から5時間かかっての到着である。6日のドームの試合開始は14時で、ここから移動すれば試合開始の約1時間半前の到着。試合開始前のあれこれも余裕を持って楽しめそうだ。それを見越しての一部新幹線利用だったが、これが13時試合開始なら新幹線利用区間ももう少し長くなったことだろう。

この後観戦したバファローズ対ファイターズの試合は3対1でバファローズの勝利。吉田正の先制2ランを含む3打点、投げては先日支配下登録となった東がプロ初勝利を挙げた。これで自身今季の京セラドーム大阪観戦初勝利となり、よい時に来たものである。詳しくは前の記事にて・・。

試合後は京都に移動する。今回は京都駅前のホテルを取っているが、今から移動して京都で一献というよりも、大阪で飲んでから行くことにしよう。大正駅近辺もいいのだが、ふと思い立って、阪神なんば線で西九条に向かう。前の大阪勤務時代に通勤で阪神なんば線を使っており、JRとの乗り換え駅である西九条は「関所」の一つだった。別にキタやミナミのような繁華街があるわけでもなく、土曜日の夜にわざわざ出向くほどでもないが、平日の仕事帰りにちょっと飲むには適したエリアだと思う。せっかくなのでちょっと立ち寄ろうか・・。

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第14回中国四十九薬師めぐり~第22番「大願寺」(急遽久しぶりの宮島へ)

2022年08月09日 | 中国四十九薬師

7月31日、天気も良くなってきたので改めて自宅最寄りの高須電停から広電宮島線に乗車する。このまま宮島口まで30分ほどかかるが、空調も効いているしのんびり各駅に揺られる。

宮島へのフェリー乗り場や広電宮島口近辺は数年がかりでのリニューアルが行われており、7月2日に広電宮島口が軌道を移設してフェリー乗り場に隣接した新しい駅となった。前の記事で、宮島に渡るなら広電で宮島口にアクセスして・・と書いたのは、新しくなった駅に降り立つためである。この軌道の移設により、駅付近の踏切をなくして周辺の渋滞を緩和する効果も見込まれるという。

広電に乗って来たのなら、宮島に渡るには系列の松大汽船に乗るところだろうが、JRの宮島連絡船のほうに自然と足が向く。ちょうどJRのほうが早く出航するタイミングだったこともあるが、厳島神社の大鳥居に近いルートを通ることで、以前からこちらを利用している。今年この宮島航路に、アクアネットという、平和公園~宮島という世界遺産を結ぶ航路を運航している会社が新たに参入した。ニュースで目にしただけだが、平和公園とセットで行くならお得かもしれないが、単純な往復となると運賃も割高だし、あまりメリットがなさそうだ。

宮島桟橋に上陸。宮島を訪ねるのは2021年の元日以来である。その時といえば、会社の事情で大阪への帰省を取りやめ、広島の自宅にて年越し。元日、せっかくなので初詣だとして厳島神社に行こうと宮島に渡った。当時はまだ新型コロナウイルス感染に対する世間の目も厳しかったように思う。そのためか、フェリー、神社、参道の商店街も正月にしては空いていた。

あれから1年半あまり、コロナの感染者数は全国的に最多を更新する日が続いているが、宮島に来る人は以前の活気を取り戻しつつあるように見える。まずは海岸沿いを歩いて厳島神社を目指す。

1年半あまりぶりの宮島行きだが、全国的に有名な観光地、そもそも広島の地元の人たちはどのくらいの頻度で訪ねるものだろうか。前回の広島勤務時代には8年間(20歳代の多く)広島にいたのだが、宮島に渡ったのは自分の感覚では年に1回、多くて2回くらいだっただろうか。一方、現在の職場で転勤にて広島に来たという人によれば「そういえば行ったことないなあ・・」という方もいた。まあ、あまり観光とか歴史に興味がないというタイプなので、人によりけりというところだろう。

そんなことを思ううち、現在改修中の大鳥居を間近に見る。今年中には工事がほぼ完了して、足場の撤去にも入れる見込みだという。テレビのロケ番組などでも「鳥居が見えへんがな」というツッコミに「今しか見ることのできない貴重な景色」と紹介されることがあるが、工事終了の目途が立ち、この景色もあと半年ほどである。この足場、鉄骨が取り除かれるとまた鮮やかな姿を見せるのだろう。先ほどのフェリー乗り場や広電宮島口駅のリニューアルもそのお膳立ての一つのようで、鳥居の修復が完了するとまた新たな話題になりそうだ。

今回宮島に来たのは中国四十九薬師めぐりの大願寺が目的だが、寺は厳島神社の社殿を抜けたところにある。自ずと厳島神社への参拝ということになる。今回はちょうど潮が少しずつ満ちてくるタイミングで、透き通った海面に浮かびつつある社殿の姿である。

回廊に入ったところに「お清め」としてアルコール消毒液が置かれているのも世相を表している。こうした現代の「お清め」があるかと思うと、その先には幣が置かれて自分の身の汚れを祓う。体、心を改めて清める。

この後は回廊をめぐり、さまざまな角度からの造りを楽しむ。舞台からの海の眺めはいつ見てもよろしい。

この後もぶらぶらと回廊をたどる。

一方通行の回廊を出たところにあるのが大願寺である。山門はあるが周りに塀があるわけでもなく、そのまま地続きで境内に入る。前回訪ねた2021年の元日、この大願寺から広島新四国八十八ヶ所めぐりを始めた。こちらの札所めぐりは1年半が経過してようやく半分近くまでたどり着いたが・・。

大願寺が開かれたのは平安時代、弘法大師空海によるとも伝えられるが、鎌倉時代の初めに了海によって開かれたとされるのが一般的なようだ。いずれにしても宮島(弥山)、厳島神社との関係が深い寺院である。本尊は日本三弁天の一つとされる弁才天だが、元々厳島神社に祀られていたものが明治の神仏分離で移されたものである。他にも薬師如来、阿弥陀如来、如意輪観音、釈迦如来など、かつて厳島神社の諸堂に祀られていたものが神仏分離で集結した形になっている。

確か本堂の前には立派な枝を広げた松の木があったと思うが、今回来てみるとバッサリと、切り株だけになっている。この松は、明治時代、伊藤博文が植えた九本松だったが、暴風や松くい虫の被害で2020年4月に4本の枝を伐採したが、結局すべてが枯死したため、残りの5本の枝も2021年4月に伐採されたという。こうした樹木の維持も大変なようだ。

薬師めぐりでやって来たが、ここは大願寺に祀られる弁才天をはじめとした諸仏に対してのお勤めで、それぞれの真言を唱える。

不動明王や、平和を願う観音像にも手を合わせる。

大願寺から少し弥山寄りに上ったところにある大聖院も厳島神社との関係が深く、現在もさまざまな仏が出迎えるスポットなのだが(中国観音霊場の札所の一つ)、広島新四国八十八ヶ所めぐりの大詰めのところで登場するので、今回は割愛し、厳島神社の裏手から商店街を通ってそのままフェリー乗り場に戻ることにする。

商店街にも人通りが戻っているようで、もみじ饅頭、揚げもみじ、焼き牡蠣、あなご飯などさまざまな一品の店が並ぶ。この日の札所めぐりは終わりで、どこかの店でビールでも飲みつつあなご飯でもと思うが、どの店にするか目移りする。

結局、商店街のフェリー乗り場側に近い「梅山」にて、持ち帰りのあなご飯弁当を注文。気候がよければ海を眺めながらあなご飯をつつくのも乙なものだろうが、この炎天下である。このまま持ち帰って、家で涼みながらゆっくりいただくことにしよう。

・・・このままJR宮島連絡船と広電宮島線を乗り継いで帰宅。

こちらのあなご飯、身もなかなかふっくらとして食べ応えがあり、ご飯にも出汁がよくしみ込んでいる。昼間、気温はぐんぐん上がったこともあり、部屋で冷房を利かしつつビールとともにいただく。そしてその後は久しぶりに自宅での昼寝。休日も何だかばたばた動き回っていて、こうした過ごし方も久しぶりによき一時になったことである・・・。

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第14回中国四十九薬師めぐり~第23番「渓月院」(天気悪いので先に山口県へ・・)

2022年08月08日 | 中国四十九薬師

話はさかのぼって7月31日のこと。野球観戦や鉄道の旅などを織り交ぜて現在関西、中国、九州で5種類の札所めぐりを同時進行させているが、今回は中国四十九薬師めぐり。現在、第21番の不動院まで進んでいて、次の宮島の第22番・大願寺で広島県が終わりとなる。

宮島なら近くでその日思い立ってもすぐに行けるところだが、7月の機会をうかがううちに月末となった。一方で、光市にある第23番・渓月院から山口県にも入っていきたい気持ちもある。そこで変則的だが、後の予定もあるので7月31日、クルマで先に渓月院に行ってしまうことにした。宮島については後回しだが、天気のよさそうな頃を狙うことにする。しかし、7月31日はどうも天気が不安定なようだ。

朝7時半、西広島バイパスから国道2号線を走る。ようやく、中国四十九薬師めぐりも自宅から西に向けて出発ことになった。途中宮島口も通る。それなら、ここでクルマを置いて宮島行きのフェリーに乗ればよいのだろうが、今回、宮島口に行くなら広電で行くことと決めている。それはまた後に触れることに・・。

大竹市から岩国市と走る中、時折強い雨に遭遇する。何もこうして雨の日にわざわざ出なくても・・と思う。遠方なら新幹線のチケットを買っているとか、宿を手配しているとかでその日に出ることになるが・・。

欽明路トンネルを抜け、岩徳線の周防高森駅近くから県道に入る。光市、柳井市方面に抜ける道である。以前にもこの道を通った覚えがあり、今の軽自動車を買って初めてのドライブということで2号線沿いの「いろり山賊」や、光の伊藤公資料館を訪ねた。

やがて渓月院への看板も出て、細道に入る。この坂道の奥が寺のようで上っていく。その奥に駐車場、寺の楼門が現れた。寺の規模にしてはそれなりの広さの駐車場があるが、この先は登山ルートにもなっており、ひょっとしたら登山の人たちがクルマを停めるのかもしれない。ちょうど宅配便の2トン車がやって来て寺への配達があり、運転手からあいさつの声を掛けられる。

渓月院は室町時代中期、大庵須益禅師が開いたとされる。その後一時荒廃したが、再興以来、数十人の雲水が修行する禅寺として栄えた。戦国時代には大内、毛利氏の保護を受け、毛利元就が合戦の時に陣を構えたこともあったそうだ。残念ながら明治のはじめに焼失し、今の建物はその後の再建である。

本堂前の庭も掃き清められ、鯉も泳いでいる。雲が出ているせいかそれほど暑さを感じない。中国四十九薬師のホームページには「深山幽谷」と紹介されていたが、いかにも山中の禅寺の趣である。

本堂に上がれるのかなと扉に手を掛けると鍵がかかっている。というわけで本堂の外でお勤めとする。朱印だが、先ほど宅配便が来た時に寺の人が出て応対していたから留守というわけではないだろう。隣接する庫裏のインファーフォンを鳴らすと出てこられ、わざわざ本堂の扉を開けていただく。「朝雨が降ってましたので・・」とのこと。

綴じ込み式の朱印の紙をいただき、どうぞお参りと言われる。寺の方も庫裡に戻り、本堂に一人腰を下ろす。

これで寺を後にする。中国四十九薬師めぐりはこの先第24番・法瀧院、第25番・月輪寺薬師堂と周南市の寺院が続くが、ここはいったん引き返す。31日はちょっとした用事もあるため、近くの熊毛インターから山陽道で広島に戻る。

時刻は昼前、少しずつ空も明るくなってきた。これなら、用事が済んだ後でも宮島に行ってもいいのではないかという気になった。順番は逆になったが、いったん帰宅した後、第22番・大願寺にも向かうことに・・・。、

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観戦記・バファローズ対ファイターズ(8月6日・Bs夏の陣第2戦で東投手がプロ初勝利!)

2022年08月07日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

8月6日は広島に原爆が投下された日。広島では平和祈念式典が開かれ、多くの人たちが原爆慰霊碑や原爆ドーム前などで祈りを捧げる一日となった。

・・・そんな中だが、私の姿は遠く離れた京セラドーム大阪にあった。8月6日~7日の2日間を利用して関西へ。神仏霊場巡拝の道めぐりの続きである。そこに大阪でのバファローズ対ファイターズの野球観戦をくっつける。6日に観戦しようと思ったのは数日前にふと思い立ったことだが、チケット売買のサイトで一塁側前方の列の席を確保する。

広島からの道中については神仏霊場めぐりの記事にするとして、京セラドームに現れる。2ヶ月あまりぶりの大阪での観戦である。

8月のバファローズ主催試合は「Bs夏の陣」として行われる。この「夏の陣」、当初は「大阪(大坂)夏の陣」という名前で行われ、甲冑や合戦をイメージしたユニフォームやらイベントもあったのだが、夏の陣の史実通りに大坂方が敗れることが多かった。そのためかいつしか戦国色はなくなったが、毎年個性的なデザイン、カラーのユニフォームが見られる。2022年は上下ともカーキーブラウンを使用したもので、これはシンプルでよいのではないかと思う。

入手した座席は選手の動きがよく見えるところ。ただ、外野、特にレフト方向への打球はちょっと見づらいかな。

バファローズの先発は東。神戸弘陵から2017年の育成ドラフトで入団。今季5年目だが、7月28日にようやく支配下登録を勝ち取った。するとその直後の30日、コロナ陽性で離脱した山岡の代わりで先発に大抜擢。5回を投げ切ることはできなかったがなかなかの好投を見せた。

各チームとも程度の差はあるがコロナ陽性が相次いでいて主力選手が離脱する事態となっているが、その一方で出場の機会がめぐってきた若手選手というのもいる。ここで結果を出したことでその後レギュラーを勝ち取る選手もこれから出ることだろう。

その東、1番に入った清宮を速球で空振り三振に打ち取るが、続く杉谷がヒット、4番の古川裕に四球で二死一・二塁となる。

ここで5番・今川がレフトへのいい当たりを放ち1点先制。なおも二・三塁と続くがアルカンタラを三振に打ち取り、初回のピンチを1点でしのぐ。

一方のファイターズ先発は田中。大分の柳ヶ浦高校出身で、東と同じ2017年ドラフト入団だが、こちらは本指名である。しかし故障の影響もあり戦力外通告~育成再契約となり、今年7月初めに支配下登録となった。田中はプロ初先発の試合で勝ち投手となっている。

その田中に対して、一死から福田がヒットで出塁。中川は凡退したが、迎えるは吉田正。フルスイングを見せつつも、最後はレフトへ合わせる形での打球。これが伸びてフェンスを越える。2対1、先制直後の見事な逆転である。これにはスタンドも沸き、来場プレゼントのハリセンも打ち鳴らされる。

続くは杉本だが、ここで田中が死球。憮然とした表情で杉本は一塁へ。さらに宗のヒット、若月の四球で満塁となるが、この試合前に特大ホームラン賞の表彰を受けたマッカーシーが凡退。もう1点でも2点でも欲しかったところだが・・、

初回は失点した東だが、2回表は簡単に三者凡退に打ち取る。これで気持ちも落ち着いてきたかな。

3回裏、一死から打席は杉本。ただここで田中がもう1回当ててしまう。これで杉本がマウンドに近づきかけたことで両チームベンチから選手が飛び出し、一触即発のムードとなった。後で知るところでは、7月にこの両者が対戦した時も死球だったそうで・・。

ただこのムードも、ファイターズから新庄BIGBOSSが出てくるとあっという間に選手が引いて行った。BIGBOSSが直接杉本に謝罪したそうで、杉本もあっさり受け入れたとのこと。主審からは警告試合が宣告されたが、一塁に到達した後は清宮の声かけで笑顔すら見られた。こういうのもBIGBOSSのエピソードの一つに加えられるのだろう。

田中は次の宗を打ち取ったところで降板。BIGBOSSの試合後のコメントは「次はないかな」。次は古川侑が登板したが、その時の田中の態度が一部のファイターズファンから非難の対象になったそうで・・いや何とも、気の毒なことだ。

4回表、私はトイレと買い物で席を立っていたのだが、二死一塁から郡がレフトフェンスへのヒット。これを中川が上手く処理して、その後の中継も上手くいった。走者のアルカンタラがホームでタッチアウト。BIGBOSSから物言いがついたようだが、軍配どおりアウトとなったようでスタンドからの拍手が聞こえてきた。

その後も東、古川侑~メネズに対してそれぞれランナーを出すも得点につながらない。

5回を投げてプロ初勝利の権利を得た東は6回も登板。先頭の古川裕を打ち取ったところで比嘉に交代。球数も100球行っていないし、5回限りではなく、プラスアルファを投げさせたのかな。大きな拍手を受けての降板である。後を受けた比嘉も無難に後続を打ち取る。

6回裏のファイターズのマウンドには吉田。ナマで観るのは初めてである。6回は三者凡退に抑えたが、7回に二死から福田、中川のヒットで一・三塁となる。実はこの7回のヒットの場面、何とも間の悪いことに会社携帯に電話が入り・・・コンコースで通話している間に吉田の追加点となるタイムリーの場面を見ることができなかった。そのことも合わせて、電話の相手にはちょっとキレたような対応をしてしまったかな・・(いや、休日の電話にはそのくらいの対応をしたほうがよいのかな・・)。

バファローズは7回近藤、8回阿部とつなぐ。

そして9回に登板したのは本田。平野がコロナで出場できない中、ワゲスパックがストッパーの代役を務めていたが前々日、前日と2連投だったこともありこの日はお休み。そこで本田である。少しずつ、プレッシャーのレベルが上がる場面で投げさせるという中嶋監督の言葉通りの起用である。

しかし本田は先頭の今川に死球。確かこの試合は警告試合では?と思ったが、別に杉本への死球に対する報復ということでもなく試合はそのまま続行。続くアルカンタラにもヒットが出て無死一・二塁。その後、郡にも死球を与えた本田は一死満塁のピンチを招く。いや、1イニングで2死球って・・本当に何らかの措置をしなくても大丈夫だったのか。

ここで新庄BIGBOSSが送り込んだのは近藤。この日はスタメンを外れていたが、この場面が来ることを見越した起用である。下手すれば逆転もあり得るなと緊張しながら見守ったが、最後は見逃し三振に打ち取る。

そして打順は清宮へ。依然としてピンチだが、最後は本田の高めの速球を清宮が空振りして試合終了。3対1、「Bs夏の陣」の2試合目もバファローズが勝利。5回と3分の1を投げた東にプロ初勝利をもたらした。

試合後には球場が暗転して、お立ち台にはスポットライト、そして火柱もあがる。そこに登場したのは3打点の吉田正、プロ初勝利をあげた東である。吉田正が「東に勝ちをつけられるように」と援護の思いを口にして、東は「野球を教えてくれた両親にありがとう」と、ウイニングボールを手にして感謝の言葉を発した。

そういえば、この日セーブをあげた本田も東と同じ2017年ドラフト(本田は本指名)での入団だが、故障、手術のため戦力外となり、育成再契約を経験している。若い投手どうしの活躍がそれぞれよい刺激になっている。

この試合があった6日はバファローズ戦観戦、そして翌7日は京都での神仏霊場巡拝の道である。まずは大阪でいい試合を観ることができたことに感謝。その前後の動きについてはまたおいおい書き記すことに・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~復路は「白いかもめ」にて・・

2022年08月05日 | 九州西国霊場

札所めぐりを終えて、昼食をということで崇福寺から路面電車に乗り、新地中華街で下車する。長崎訪問の締めで中華だが、長崎の中華といえばちゃんぽん、皿うどん・・・のイメージ。

中華街に入る。当たり前だが、道の両側には中華料理の店がずらり並ぶ。どの店がよいのかという予備知識もなく来たのだが、どこに入ってもよさそうだし、店の前に行列ができているわけでもない。

・・・しかしながら、通りをぐるりと回ったものの結局どの店にも入らなかった。優柔不断といわれればそれまでだが、建ち並ぶ店いずれもそれなりの格式で、一人でふらりと入ってちゃんぽん一杯だけ食べて終わり・・という感じに見えなかった。ちゃんぽんと皿うどんの両方いくとか、一品物をいくつか頼んで締めでちゃんぽんにするとか・・・。それなら、近くに餃子の王将でもあればそちらに入ったほうが気楽というものだろう。

では昼食はどうしたか。中華街のすぐ外に「長崎港」という店があった。そういえば、8年前に長崎で年越し~軍艦島上陸クルーズの時、この店で一献やったのを覚えている。時間帯ではランチ営業だが、海鮮丼、刺身料理などさまざまある。よし、こちらにしよう。

クルーズ後ということで生ビールをグッとやり、刺身定食をいただく。店としては海鮮丼が売りのようだが、個人的には海鮮物は別皿で出たほうがよい。酒のアテになるし、ご飯のおかずにもなる。

店の外に出ると雨が落ちて来た。長崎は今日も雨だった・・ではないが、今回の長崎訪問はこれでいいかなと思う。それこそ出島、オランダ坂、孔子廟、大浦天主堂、グラバー園、眼鏡橋、平和公園・・と見どころを挙げればキリがないが、雨も降って来たし、予定の特急までの時間も中途半端なので、予定を切り上げて長崎駅に戻ることにする。

九州西国霊場めぐり、伊王島、ビッグNスタジアム、そして高島、軍艦島・・・これはこれで変則的というか、長崎の別の一面を見ることができたと満足である。

当初は、長崎16時46分発の「かもめ32号」を予約していたのだが、駅まで戻り、土産物を買うともう列車に乗ってしまおうと思う。予定より2時間半前倒しとなる14時19分発の「かもめ24号」に乗車する。

この列車は「白いかもめ」885系。往路が「黒いつばめ」787系だったから、ちょうど往復で2種類の車両を乗り比べることになる。現在の「かもめ」で長崎に来る、長崎を出るのは私にとってはこれが最後で、次に長崎に来る時には西九州新幹線「かもめ」で隣の一段高いホームに降り立つことになるだろう・・。

乗車率もそれほどなく発車。長崎新幹線の高架橋とも離れ、長崎トンネルに入る。それまでの長与回りに次いで1972年に電化開業した市布回りの区間。それも新幹線開業により特急列車は走らなくなる。それは致し方ないこととして、さらに驚いたのは、この市布回りも含めて将来的には長崎線の長崎~肥前浜の区間を非電化にする予定だという。現在も長崎線、大村線の普通・快速列車はハイブリッド車両のYC1が中心で使用されており、特急も走らなくなるとなれば架線その他も不要として取り外し、運行コストを下げるのだという。

架線を取っ払って非電化にするのなら、その設備を電化を熱望するローカル線の区間に移し替えることはできないか・・・素人考えだが。

諫早を出て、有明海に差し掛かる。前日とは打って変わってどんよりした空の下である。2ヶ月後には、肥前鹿島~諫早間はローカル列車がトコトコ走るだけの区間となる。その風情を楽しむのもまたありかと思う。途中の多良で、「黒いつばめ」と行き違う。

9月から江北に改称される肥前山口を過ぎ、複線区間となってスピードを上げる。そのまま佐賀、鳥栖と停まっていく。

博多に到着。そのまま、16時34分発の「こだま860号」に乗車。まだ夕食に早いこともあったが、あ、鳥栖の焼麦を買うのを忘れたな・・・。

さて、九州西国霊場めぐりのコマは長崎まで進み、次は佐世保、唐津と続く。行くとすれば西九州新幹線の武雄温泉~長崎間が開業してからだが、おそらくルートとすれば新幹線で一度長崎まで行った後、大村線で佐世保に行くことになる。佐世保から唐津へは佐世保線~唐津線で行ってもいいし、松浦鉄道でぐるりと回るのも面白そうだ。また、長崎の鉄道を楽しんでみたい・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~第25番「清水寺」(長崎の個性的な寺へ)

2022年08月04日 | 九州西国霊場

軍艦島への上陸はならなかったが、クルーズ船で島の周囲をめぐって時の流れを感じた後で港に戻る。ここから、今回の九州西国霊場めぐりでもう1ヶ所訪ねることにする。

第25番の清水寺。九州西国霊場めぐりでも複数の「清水寺」に遭遇したが、こちらは「きよみずでら」である。ちなみに、山号は「長崎山」だが、こちらは「ながさきやま」ではなく「ちょうきさん」と読むそうだ。山号寺号、いろんな組み合わせがあって落語「平林」のようである。

五島町から路面電車に乗り、出島や新地中華街といった電停を経て、そのまま終点の崇福寺に到着。せっかくなので後で崇福寺にもお参りするとして、まずは清水寺を目指す。電停からほど近いところにあるようだ。

そこに現れたのは大きな鳥居と「八坂神社」、「ぎおん参り」の文字。これだけ見ると京都のイメージである。さらにその奥に「清水観音菩薩」の看板も見える。八坂、祇園、清水・・・この辺り、京都の歴史が移入された一角なのかな。

この道順で来ると、八坂神社と清水寺が神仏習合の並びのように見えて、まずは鳥居をくぐって八坂神社に参詣する。八坂神社が創建されたのは江戸時代の初期、京都の祇園社の御分霊を祀ったことからとされる。その後、京都と同じように祇園祭が行われ、疫病退散を願う場になっている。この日も拝殿の前に茅の輪くぐりがあり、ほおずきも並ぶ。今ならちょうど新型コロナウイルス退散祈願である。

八坂神社に隣接して清水寺がある。境内の裏手から入った形だが、途中に明確な仕切りがあるわけではない。やはりこの二つの社寺は元々一体のもので、明治の神仏分離で別々になったのではないかと思う。

清水寺が開かれたのは同じく江戸時代の始め。京都の清水寺の僧侶・慶順が全国を回るうち、長崎にたどり着いて創建したとされる。その時携えていたのが京都の清水寺の本尊の10分の1サイズの千手観音像。当初は簡素なお堂だったが、後に長崎奉行の手により、京都の清水寺を模した本堂が建てられた。

現在の本堂は、2005~2010年にかけて江戸末期当時の姿に復元された建物である。本堂に上がってのお勤めとする。現在は隣の八坂神社ともども安産祈願、初宮参りのスポットとのことで、赤ちゃんを連れた家族連れの姿も見える。

清水寺といえば、「全国清水寺ネットワーク」というのがある。ここ清水寺も、「長崎の清水さん」と呼ばれているそうだが、1909年までは京都の清水寺の末寺だったそうだ。それ以降、どのような事情があったのか、東京にある霊雲寺の末寺に入り、現在は真言宗霊雲寺派の寺院だという。ここでいきなり「○○派」というのを持ち出されてもな・・。

 

本堂の前には石が敷かれたスペースがあり、目の前には近隣の町並みを見下ろす。造りは違うが、ここも一応「清水の舞台」となるのだろうか。ここから見る山門は、前日訪ねた観音寺と同じく石造りである。中国文化の影響ということで、そういえば先ほど上がった本堂もどこか中国の建築様式の面影を残しているようだ。

朱印をいただき、今度はその石造りの山門から階段を下る。

せっかくなので、近くにある崇福寺も訪ねる。電停の名前にもなっているからこちらのほうが有名スポットと言える。こちらを訪ねるのも何年ぶりだろうか・・。

崇福寺は黄檗宗の寺院で、江戸時代の初期、長崎で貿易に当たっていた華僑の人たちが、故郷の福州から超然という僧を招いて開いた寺で、日本最古の中国様式の寺院だという。地元では「福州寺」とも呼ばれているそうだ。

楼門からして他の一般的な寺と異なる。現愛の建物は江戸後期に再建されたもので、竜宮門とも呼ばれている。

そして第一峰門へ。ここからが境内である。

本堂にあたる大雄宝殿に出る。本尊は釈迦如来。ちょうど賽銭箱の前に扇風機が置かれ、暑さをしのぐ意味でもしばらくここに立って風に当たりながらお参りとする。

禅宗寺院に見られることが多いのだが、お堂の中にはさまざまな言葉が書かれた額が掲げられている。漢字なので何と書かれているのかはわかるのだが、じゃあその四字熟語や七言句はどういう意味なのかと尋ねられると・・・正直わからない。禅の何かの言葉なのだろうが、そこは不勉強なもので。寺の方がいらっしゃれば解説してくれるのかな。

大雄宝殿の向かいは護法堂。中央には観音像、右手には関帝(関羽)像、左手には韋駄天像が祀られる。ここに観音さんが祀られているのなら、崇福寺が九州西国霊場の札所になってもおかしくない話であるが、さすがに中国様式というのはカラーが違いすぎるのだろう。種田山頭火は崇福寺にお参りしたのかな・・?

奥には媽姐(まそ)門、媽姐堂がある。媽姐とは道教で航海や漁業を司る守護神だそうだ。華僑の人たちが崇福寺を開いたのも、媽姐を祀って貿易の航海の無事を願うためだったという。

この境内にいるだけでも異国情緒を味わえる。来てよかった。

なお、崇福寺の門前に「長崎四国八十八ヶ所」の案内板がある。このところ、「八十八ヶ所」という文字を見るとドキッとしてしまうのだが(新たな札所めぐりが科されるなあ・・・)、崇福寺は第3番、先ほど訪ねた清水寺は第16番とある。そして第1番はこの先にある延命寺という寺だが、こちらは九州八十八ヶ所百八霊場の札所でもある。九州八十八ヶ所百八霊場は福岡県で始めたばかりで、長崎までたどり着くのはいつのことやら全く見通せないのだが、いずれ訪ねることになる。その時は崇福寺、清水寺にも再訪することになるかな・・。

崇福寺を参詣したこともあり、昼食は新地中華街だろう。ちゃんぽん?皿うどん?どちらにするかはさておき、路面電車にて向かうことにする・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~いざ、軍艦島へ・・しかし上陸ならず

2022年08月03日 | 九州西国霊場

「軍艦島上陸クルーズ」の午前便の船は寄港地の高島を出航。防波堤の釣り人も手を振って見送ってくれる。高島から軍艦島まではおよそ3~4キロといったところか。中ノ島を過ぎていよいよ沖合に近づく。

クルーズ船はいったん停まり、上陸可能条件に当てはまるかの最終確認を行うという。ただ、先ほどの話からして、条件の一つである波高0.5メートル以下というのが厳しそうだ。それどころか、周りには雲も広がり小雨すらぱらついてきた。おそらく、上陸は無理だろう。

上陸可否の回答を待つ間、周囲をクルージングするという。まずは島の西側、コンクリートで固められ、小中学校、病院、社宅が並ぶ一帯である。

続いて、「島がもっとも軍艦らしく見える角度」として、島の南西まで船を走らせる。軍艦島という名前は、その姿が軍艦「土佐」に似ているからということだが、外海に面した側ということもあり、島に住んでいた人でもそれほど目にする景色ではなかったそうである。ガイド曰く、「軍艦島」と呼んでいるのは外からの見学・見物客で、島の人たちはあくまで正式名の「端島」と呼んでいたという。

元々の端島は小さな岩盤に過ぎなかったが、石炭の採掘で出たボタで海底を埋め立て、その上をコンクリートで固めてできた島である。最盛期には東京23区を上回る人口密度を有し、高層マンション、病院、学校、ショッピングセンター、娯楽施設があり、当時としては家電の普及率もほぼ100%だったという。神社もあり、御輿をかつぐ祭も行われていた。

そうかと思えば、ビルの上に土を盛り、田んぼや畑も作っていた。これは食料を自給するわけではなく、緑がほとんどない島の子どもたちへの情操教育の一環だったそうだ。さらには、ベルトコンベアが社宅の建物の中を通っていたという事例もある。そこまでやるか、という感じである。何が何だかカオス状態に思うが、ありとあらゆるものがこの限られた空間に詰め込まれていた。そして地下に長く伸びる炭鉱・・・。

生活が決して快適とは言い切れない軍艦島、いや端島に多くの人が集まったのは、生活のため、石炭を掘って生きる糧を得るためである。

ちょうど、崩壊が進む30号棟が見える位置に来た。昨年の秋に「余命半年」と告げられた建物である。遠目ではあるが、手持ちのパンフレット写真と比べても確かに空間が大きくなっているように見える。

本来であればここから上陸する桟橋まで回り込んだところで、船長から正式に上陸中止の案内放送が流れた。別に乗客から「えー」という声が出ることもなく、仕方ないなという雰囲気だった。やはり夏の時季は上陸が難しいようで、あるクルーズ船会社の過去のデータを見ても、厳しくなった現在の上陸可能条件よりも前の期間を見て、もっとも「上陸率」が低かったのは毎年7月だとあった。自然相手のことなので何とも言えないが、今後西九州新幹線で長崎を訪ねる旅行者の皆さんに向けても発信すべき情報だと思う。

まあ、上陸できたとしても立ち入ることができるエリアはごく限られているし、皆さんが期待している?廃墟群に入れるわけでもない。あまり上陸、上陸とあおるのではなく、クルーズ船で島の外周からじっくりと建物を見るのがメイン、そして訪ねるほうも「運がよければ上陸できることもある」くらいの気持ちで乗船したほうがよさそうだ。

・・・と、達観したかのようなことを書いている私だが、過去にもクルーズ船で周回し、一度上陸したことがあるから気持ちに余裕があるところで、これがもしまったく初めての軍艦島だったらどういう反応を示しただろうか。

最後に、「端島の面影をもっともよく残す角度からの景色をご覧いただき、島を後にします」とのアナウンス。自然の岩盤、そして緑がかろうじて残る側からの眺め。軍艦という仰々しい名前ではなく、本来の島の姿、そしてわずかな時代ながら華々しかった島が自然に戻る様子を語っているような表情である。現在は、元々住んでいた人でも上陸できる条件は同じく限られている端島。名残惜しいがクルーズ船は進路を長崎港に向ける・・。

この後、同じく軍艦島を目指す他社のクルーズ船ともすれ違うが、同様に上陸できないことだろう。それぞれ運航する時間が少しずつずれているので、ひょっとしたらどこかの会社が訪ねた時だけ波高が収まるとか、風が弱まるとかいう奇跡が起こるのかもしれないが・・。

伊王島大橋、女神大橋とくぐって再び長崎港へ。昔からのドックや、高台の上にあるグラバー亭も見る。港に戻るにつれて雲も厚くなったようである。今にも雨が降り出しそうだ。

予定より30分以上早く、元の乗り場に戻って来た。上陸できなかったので、上陸チケットと引き換えに上陸料310円を払い戻すという。310円はいいから、チケットを記念に持ち帰ろうかとも思ったが、係の人が予約リストと照合しており、払い戻さないと後で連絡が来ても面倒なので素直に310円を受け取る。これは、この後の納経料になるな・・。

さて、これから本題の九州西国霊場に戻る。第25番の清水寺は市街地にあり、路面電車の1系統の終点である崇福寺電停からすぐである。昼食の前に寺に行こうと、最寄りの五島町電停から路面電車に乗り込む・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~いざ、軍艦島へ・・高島に立ち寄る

2022年08月02日 | 九州西国霊場

7月24日、長崎訪問の2日目である。前日は晴れの時間が長かったが、この日は曇り、ところにより雨の予報である。まず午前中に軍艦島への上陸クルーズに参加して、戻ってから九州西国霊場第25番・清水寺を訪ねるのだが、軍艦島については海上の状況により上陸できない場合がある。天候はどうなるだろうか・・。

まずはホテルでの朝食。朝食会場が密になるのを防ぐためとしてテイクアウト方式を取っている。昨今ではバイキング形式に戻すホテルも増えていると思うが、時間となって受取場所のレストランに向かうと、客室数もそれなりにあるホテルにしては手狭に見えた。まあ、これならテイクアウトも仕方ないだろう。メインメニューは皿うどん。主食はライス、パンのいずれかを選ぶ方式だが、主菜が皿うどんというのはどちらに寄せればいいのだろうか・・。

チェックアウトして駅のコインロッカーに荷物を預け、海べりの県庁を右手に眺めながら歩き、「軍艦島上陸クルーズ」の受付場所に向かう。2014年に乗船・上陸した時は「軍艦島コンシュルジュ」を選んだが、今回は別業者である。

現在、軍艦島へのクルーズ船を運航しているのは5社で、それぞれにアピールしている点がある。その中で今回「軍艦島上陸クルーズ」を選んだのは、軍艦島の手前にある高島に立ち寄るというのがポイントだった。高島にて、軍艦島のかつての姿を精巧に復元した模型や、石炭資料館の見学もコースに含まれている。クルーズ船3600円、上陸料310円を一緒に支払う。仮に上陸できなかった場合は軍艦島上陸料は返金されるという。

乗り込むのは「ブラックダイヤモンド」という名前のクルーズ船。「黒いダイヤ」・・まさに石炭である。定員は200名とある。9時10分の出航で8時10分が受付開始、船内は自由席ということで乗船口には長い列ができる。

乗船開始となり、外の景色を存分に眺めようと、上段のデッキ席後部に陣取る。集合時刻の8時50分が近づくとデッキもほぼ埋まる状態となった。さすがは軍艦島の集客力である。

本来は9時10分出航なのだが、予約客が20分前の集合時刻をきっちり守り全員揃ったということで、定時を前倒しして8時55分には船が動き始めた。

まずは長崎港の中を進む。右手に見えるのは三菱重工業長崎造船所のドックをはじめとした施設群である。開港以来、長崎の製造業を支えてきた名門である。竣工以来100年以上経過した現在も現役で稼働しているドックもある。その奥には、迎賓館として使われている(普段は公開されない)占勝閣という建物もある。他にも護衛艦やら大型船の姿を見る。

長崎港の両側を結ぶ女神大橋をくぐる。前日は国道でこの下をくぐったが、より低い海面から見ると改めてその高さがうかがえる。橋を架けるにしてもこれほどの高さにしなければならない、それだけ大型の船舶がここを出入りするのだなと改めて認識するところ。女神大橋を抜けると海も開けてくるが、その分、風、波が少し強くなった。この位置でこの状況だと、軍艦島への上陸は厳しいかもしれない。軍艦島への上陸基準も2021年以降厳しくなったと聞いている。

マリア像も立つ神ノ島教会や、もう1ヶ所の長崎造船所のドックを見た後、伊王島大橋をくぐる。ここは前日渡ったが、歩道も設けられていて歩行者、自転車の姿もあった。確かにこの橋で本土とは陸続きにはなったが、フェンスも低かったし、私などはこの橋を渡るのは結構勇気がいりそうだ。風や雨の日は特に・・・。

伊王島を過ぎると波がより高くなった。座っていても手でどこかを握らないと持っていかれそうな場面もある。ただ、何もない大海原に漕ぎ出すのではなくまず寄港する高島が遠くに見えているぶん、まだ安心ではあるが・・。

長崎港から30分ほどでその高島に上陸。高島は江戸時代から石炭の採掘が行われており、明治の初めにトーマス・グラバーにより近代鉱山として開かれた。後に岩崎弥太郎の三菱により本格的に開発された。その後、過酷な労働問題や爆発事故など、さまざまな歴史もあったが、軍艦島より後の1986年まで操業していた。今も残るマンション群はかつての炭鉱労働者の住宅の名残である。

クルーズ船から下車した客はそのまま石炭資料館に誘導される。建物の前には大型かつ精巧な軍艦島の模型があり、まずはこちらに集まる。説明してくれるのは、先ほどからクルーズ船でもガイドをしていた男性。

その話の前にお断りとして、「今の状況では軍艦島には上陸できない」と言う。先ほど「軍艦島の上陸基準が厳しくなった」と書いたが、長崎市の条例によると、以下の3点のうち一つでも該当すると、軍艦島上陸のための桟橋の利用不可という。

1.風速が秒速5メートルを超えるとき

2.波高が0.5メートルを超えるとき

3.視界が500メートル以下のとき

この日、先ほど伊王島を過ぎたところで波高が0.5メートルをわずかながら超えていたそうだ。最終的には軍艦島近くまで行き、改めて波高などを確認して船長が判断をするという。なお、晴天だった前日23日、クルーズ船運航5社すべてが午前・午後のどちらも上陸できなかったそうだ。さらに言うと、4~5月は比較的上陸率も高かったそうだが、6月以降は一転して上陸率は4~5%ほどしかないとのこと。この条件で行くと、そもそもの話として夏場というのは上陸には不向きで、年間を通しても上陸できるのは100日程度しかないという。

・・・前回、私が訪ねた2014年の元日も冬のことで波は結構あったと思うが、その時はまだ基準が緩やかだったから「船長の頑張りによって」上陸できたということだろう。

軍艦島から人が去って約50年、廃墟となった建物の風化も進んでおり、放っておけば崩壊する危険性もある。案内で触れられていたのが、1916年、日本で最初となる鉄筋コンクリート造りのアパートである「30号棟」。軍艦島へのクルーズ船での上陸が許可された2009年、また軍艦島が世界遺産に登録された2015年と比べても、大雨や台風の影響で建物の崩落が進んでおり、2021年秋には調査に携わった東大の教授から「余命半年」と告げられた。現在はその時からすでに半年を経過しており、「崩壊のカウントダウンが始まっている」という。

上陸基準を厳しくしたのは、建物の崩落に遭うリスクを少しでも減らす意味合いもあるようだ。

模型の説明が終わった後で石炭資料館を見る。ただ、多くの客が一度に押し掛けるし、見学時間もそれほどないので、速足で一回りしてそのまま外に出る。

石炭資料館の前、岩崎弥太郎の像の下には何匹もの猫がたむろしている。今の高島は釣りで訪ねる人も多く、そのおこぼれを頂戴できるというので猫の島でもあるそうだ。

高島から軍艦島へは10分ほど。上陸できるか否かの最終判断のために、ともかく島に近づく。その前に隣の中ノ島に近づく。当初はこちらも海底炭鉱の島として開発が試みられたが断念し、代わりに軍艦島の人たちの公園(島のてっぺんには桜の樹が植えられ、花見を楽しんだ)として、また島には設けられなかった火葬場、墓地として使われたという。

ここまで来て目の前には軍艦島・・・正式名称・端島の姿が大きくなる。果たして上陸できるのか・・・?

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