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西加奈子『サラバ!』その5

2017-07-01 04:11:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 僕とヤコブが蜜月を重ねていくように、姉と牧田さんも、その頃には学校中の噂になるほど、仲の良いふたりになっていた。だが「不穏」は、速度を増した。6月になると、父が突然、一時帰国すると言い出したのだ。今や圷家の嵐は姉ではなく、母だった。母はもくもくとご飯を食べていたと思ったら、急に「ああ」と大きな声を出して立ち上がったり、3秒に一度大きな舌打ちをして、家の雰囲気をこれでもか、というほど悪くしていた。僕はというと、ただただ困惑していた。僕は現実の声を追い出し、「サラバ」と言い続けた。
 宣言通り父が帰国すると、圷家はとても静かになった。母は泣かなくなり、ゼイナブと共にキビキビと家事をし、今までで最高に奇抜なお洒落をした。
 父が不在の間に、事件が起こった。カイロで暴動が起こったのだ。母は、このうえなく不安そうだった。僕は出来る限りの時間をヤコブと費やした。禁止されていた生水を飲み、屋台で売っている得体のしれないお菓子を食べ、そしてヤコブの家で家族に愛された。
 父がカイロに戻ってくると、母と父との関係にも、変化が現れた。お互い、そこにいないかのようにふるまうようになった。僕らが4年生になった夏、向井さんが帰国することになった。向井さんが帰国する日、僕は泣いた。僕と向井さんは、お互い手紙を書こうと約束して別れた。しかしその約束も、反故になった。原因は牧田さんだった。牧田さんは、僕とヤコブのような精神的なホモセクシュアルではなく、真性のホモセクシュアルだったのだ。驚くなかれ、僕と向井さんが音楽室に隠したあの雑誌を見て、牧田さんは自分のセクシュアリティに目覚めたのである。図らずも僕は、間接的に、姉の恋を終わらせてしまったのだ! 向井さんのことをきっぱりと忘れ、僕はますますヤコブに没頭した。
 ある日、母は「歩、日本に帰るよ!」と言った。母は泣いていた。
 母は僕だけを連れて帰るつもりのようだった。
 帰国した僕らは自宅に向かわず、そのまま祖母の家に向かった。
 矢田のおばちゃんの家にも行った。おばちゃんの家は、懐かしい匂いがした。だが、そんなおばちゃんの家で、変わったことがひとつあった。その変化は、ちょっと驚くべきものだった。奥の部屋の壁際に、大きな祭壇がしつらえられていたのだ。お札にはこう書いてあった。『サトラコヲモンサマ』僕らがおばちゃんの家にいる間、女の人がやってきた。おばちゃんが部屋に入れると、僕らがいるのも気にせず、まっすぐ祭壇に行った。そして目をつむり、何事か唱えながら、掌を交互に持ち上げる。女の人は、どうやらお祈りを終えると、バッグの中から封筒を出し、祭壇の二段目に置いた。その際、また深々と頭を下げ、矢田のおばちゃんにも頭を下げた。「ほんまに、サトラコヲモンサマのおかげですわ。」おばちゃんは「良かったやないの。」うっとりするほどの威厳で答えた。
 日本にいる時間は、あっという間に過ぎていった。何故日本に帰ってきたのか、僕にはさっぱり分からなかった。今回の一時帰国で、もっとも興味深かったことは、カイロの空港に着いたときに「帰ってきた」と思ったことだった。
 家の静けさと同じように、僕らの未来も、静かに告げられた。僕たちは日本に一時帰国して、もう3ヶ月後には、本格的に帰国することになったのだった。僕は帰国することを、誰よりも先に、ヤコブに報告した。ヤコブは言葉を失っていたが、やがて口を開いた。「神がそう望むなら。」ヤコブは、僕を初めての場所に連れて行った。それは石造りの教会だった。僕はそのとき、初めてヤコブの宗教を知った。「僕は、コプト教徒なんだ。」「アユム、祈ろう。」「何を?」「何だっていい。心に思いつくことを、なんでも。」『またヤコブと会えますように。』不思議なことに、自然と言葉が浮かんできた。『それまでどうか、ヤコブをお守りください。』
 ヤコブはある場所で立ち止まった。身振りで、座ろう、と言っていることが分かった。僕は、僕らのあずかり知らないところで、僕らの運命が決定されてしまうことに絶望していた。ヤコブとこうやってふたり、じっとナイル河を見ていられたら。見たことのある景色、過ごしたことのある時間だったが、そのときの僕は、まるで生まれて初めて世界を見た赤ん坊のような気持ちだった。僕は、腰かけたまま、ただ泣いていた。僕らは言い続けた。「サラバ。」「サラバ。」僕らの前に、大きな白い生物が現れた。「見たよな。」僕は言った。「見た。」僕らはそれから、何も言わなかった。「サラバ。」ヤコブが言った。「サラバ。」僕も言った。それが、ヤコブとの別れだった。(また明日へ続きます……)