おととい、連合の神津里季生会長が安倍首相と会談し、「収入が高い一部の専門職を労働時間規制の対象から外す『残業代ゼロ制度』」の政府案に同意したという記事が載っていました。電通相手に過労による自殺を招いた行為が裁かれようとしている中で、連合は、そして神津会長は、一体何を考えているのでしょう? 労働者側に立たない連合など、正直いらないと思います。連合に加入している皆さん、連合を本来の姿に戻すためにも、神津会長、そして連合の幹部の方たちに対し、怒りの声を上げましょう!!
さて、呉座勇一さんの’16年作品『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』を読みました。
あとがきから引用させていただくと、
「(前略)二〇十四年は第一次世界大戦開戦から一〇〇年ということで、同大戦に関する書籍・雑誌特集などが散見された。そういったものにパラパラと目を通していると、応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。
第一次世界大戦は様々な要因が絡み合って生じた戦争だが、一言で述べるならば、新興の帝国であるドイツが、覇権国家イギリスを中心とする国際秩序に挑戦した戦争だろう。だがサラエボ事件を受けてオーストリア支持を打ち出し、セルビアへの開戦を促したドイツにしても、セルビアを支持するロシアやフランスとの全面戦争を最初から望んでいたわけではなく、ましてイギリスとの激突など想定していなかった。これは英仏露など他の列強にも言えることで、各国の指導層は必ずしも好戦的ではなく、むしろ誰も意図しないまま世界大戦に突入していった。しかも全ての参加国が短期決戦を志向したにもかかわらず、戦争は長期化し総力戦の様相を呈した。結局、イギリス海軍の海上封鎖によって補給路を断たれたドイツが屈服する形で終戦となったが、勝者である英仏も甚だしく疲弊し、ヨーロッパ世界全体の没落を招いたのである。
応仁の乱も、新興勢力たる山名氏が覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争という性格を持つ。だが山名宗全は最初から細川勝元との全面戦争を望んだわけではなく、畠山義就と政長との間の局地戦である御霊(ごりょう)合戦に軍事介入し、義就を勝たせるという以上の目標をもっていなかった。勝元の反撃にしても、山名氏の打倒という積極的・攻撃的なものというより、同盟者である政長を見捨てたままでは大名としての面目を失うという危機感からやむなく報復に出た、と見るべきである。東西両軍は共に短期決戦を志向したが、戦争は長期化し足軽や郷民を動員する総力戦の様相を呈した。結局、東軍に補給路を断たれた西軍が屈服する形で終戦となったが、東軍諸将も大きく傷つき、鉄の結束を誇った細川一族でさえ以後は内紛を繰り返すようになる。参戦大名たちの没落を尻目に、いわゆる「戦国大名」が台頭してくるのである。古今東西を問わず、人類は同じような過ちを繰り返すのかもしれない。」
本書冒頭で掲げた戦前・戦後の議論に見られるように、応仁の乱は新時代を切り開いた「革命」になぞらえることが多い。結果的にそのような意義を果たした面は否定できないが、それが変革を求める民衆運動ではなく支配階級の“自滅”によってもたらされたことに留意する必要がある。しかも、その「革命」のために多くの血が流されたことも忘れてはなるまい。
とはいえ、将軍や大名たちの“愚行”を後知恵で糾弾するのは気が引けるので、なるべく彼らの思惑や判断を、当時の人々の認識や感覚に沿う形で理解するように努めた。彼らはそれなりに“出口戦略”を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしている。にもかかわらず、コミュニケーション不足やタイミングのずれによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いた。“損切り”に踏み切れなかった彼らの姿勢は、現代の私たちにとっても教訓となるだろう。
試行錯誤を重ねながら懸命に生きた人々の姿をありのままに描き、同時代人の視点で応仁の乱を読み解くという本書の試みがどこまで成功しているか心許ないが、多少なりとも新しい「応仁の乱」像を提示できたとしたら、それは著者の功績ではなく、経覚・尋尊という偉大な観察者のおかげである。また、東京大学史料編纂所の高橋敏子氏が幹事を務めていた「『経覚私要鈔』を読む会」(著者は二〇〇七~二〇十五年の期間に参加)での議論からも多くの示唆に得ている。この場をお借りして当時の参加者の皆さまに感謝申し上げる。(後略)」
本文278ページ中、130ページまで読んだ段階で、先を読むのを断念しました。登場人物があまりにも多く、人物関係も錯綜していることで、内容を理解することができなかったことが原因です。ベストセラーの本だと聞いていただけに、最後まで読めなくて残念です。
さて、呉座勇一さんの’16年作品『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』を読みました。
あとがきから引用させていただくと、
「(前略)二〇十四年は第一次世界大戦開戦から一〇〇年ということで、同大戦に関する書籍・雑誌特集などが散見された。そういったものにパラパラと目を通していると、応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。
第一次世界大戦は様々な要因が絡み合って生じた戦争だが、一言で述べるならば、新興の帝国であるドイツが、覇権国家イギリスを中心とする国際秩序に挑戦した戦争だろう。だがサラエボ事件を受けてオーストリア支持を打ち出し、セルビアへの開戦を促したドイツにしても、セルビアを支持するロシアやフランスとの全面戦争を最初から望んでいたわけではなく、ましてイギリスとの激突など想定していなかった。これは英仏露など他の列強にも言えることで、各国の指導層は必ずしも好戦的ではなく、むしろ誰も意図しないまま世界大戦に突入していった。しかも全ての参加国が短期決戦を志向したにもかかわらず、戦争は長期化し総力戦の様相を呈した。結局、イギリス海軍の海上封鎖によって補給路を断たれたドイツが屈服する形で終戦となったが、勝者である英仏も甚だしく疲弊し、ヨーロッパ世界全体の没落を招いたのである。
応仁の乱も、新興勢力たる山名氏が覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争という性格を持つ。だが山名宗全は最初から細川勝元との全面戦争を望んだわけではなく、畠山義就と政長との間の局地戦である御霊(ごりょう)合戦に軍事介入し、義就を勝たせるという以上の目標をもっていなかった。勝元の反撃にしても、山名氏の打倒という積極的・攻撃的なものというより、同盟者である政長を見捨てたままでは大名としての面目を失うという危機感からやむなく報復に出た、と見るべきである。東西両軍は共に短期決戦を志向したが、戦争は長期化し足軽や郷民を動員する総力戦の様相を呈した。結局、東軍に補給路を断たれた西軍が屈服する形で終戦となったが、東軍諸将も大きく傷つき、鉄の結束を誇った細川一族でさえ以後は内紛を繰り返すようになる。参戦大名たちの没落を尻目に、いわゆる「戦国大名」が台頭してくるのである。古今東西を問わず、人類は同じような過ちを繰り返すのかもしれない。」
本書冒頭で掲げた戦前・戦後の議論に見られるように、応仁の乱は新時代を切り開いた「革命」になぞらえることが多い。結果的にそのような意義を果たした面は否定できないが、それが変革を求める民衆運動ではなく支配階級の“自滅”によってもたらされたことに留意する必要がある。しかも、その「革命」のために多くの血が流されたことも忘れてはなるまい。
とはいえ、将軍や大名たちの“愚行”を後知恵で糾弾するのは気が引けるので、なるべく彼らの思惑や判断を、当時の人々の認識や感覚に沿う形で理解するように努めた。彼らはそれなりに“出口戦略”を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしている。にもかかわらず、コミュニケーション不足やタイミングのずれによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いた。“損切り”に踏み切れなかった彼らの姿勢は、現代の私たちにとっても教訓となるだろう。
試行錯誤を重ねながら懸命に生きた人々の姿をありのままに描き、同時代人の視点で応仁の乱を読み解くという本書の試みがどこまで成功しているか心許ないが、多少なりとも新しい「応仁の乱」像を提示できたとしたら、それは著者の功績ではなく、経覚・尋尊という偉大な観察者のおかげである。また、東京大学史料編纂所の高橋敏子氏が幹事を務めていた「『経覚私要鈔』を読む会」(著者は二〇〇七~二〇十五年の期間に参加)での議論からも多くの示唆に得ている。この場をお借りして当時の参加者の皆さまに感謝申し上げる。(後略)」
本文278ページ中、130ページまで読んだ段階で、先を読むのを断念しました。登場人物があまりにも多く、人物関係も錯綜していることで、内容を理解することができなかったことが原因です。ベストセラーの本だと聞いていただけに、最後まで読めなくて残念です。