gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

スティーヴン・スピルバーグ監督『ブリッジ・オブ・スパイ』

2017-07-14 05:53:00 | ノンジャンル
 中国の民主化を訴えて投獄されたまま、ノーベル平和賞を受賞した著名な人権活動家で作家の劉暁波さんが入院先の病院で亡くなりました。享年61歳。あまりにも早い死でした。心から哀悼の意を捧げるとともに、中国の民主化が一日でも早く実現することを心の底から祈ります。

 さて、スティーヴン・スピルバーグ監督・共同製作の’15年作品『ブリッジ・オブ・スパイ』をWOWOWシネマで見ました。
 “1957年、冷戦は頂点に達し、米国とソ連はお互いの核戦力を恐れ、双方がスパイを放ち、スパイ狩りも白熱した。事実に基づく物語”の字幕。
 画家のアベルはソ連のスパイとしてFBIに逮捕される。彼の弁護人として協会から推薦されたドノヴァン(トム・ハンクス)は、アベルが不法滞在の令状に基づいて逮捕されたにもかかわらず、令状の範囲を超えた家宅捜索で押収された、スパイとしての膨大な証拠品を無効にすべく地裁に臨むが、陪審員たちは有罪を決定する。ドノヴァンは判事宅を訪れ、将来アメリカのスパイがソ連に捕まった時のために、その交代要員としてアベルを生かしておくべきだと説得し、懲役50年の刑を獲得する。「絞首刑にしろ!」と叫ぶ人々。ドノヴァン宅に撃ち込まれる銃弾。通勤電車の中で冷たい視線を浴びるドノヴァン。
 しかしドノヴァンはそれにも満足せず、最高裁に上告し、アメリカ国民に当然のこととして認められている市民権がアベルに認められていないとして、不法滞在に応じた刑を要求するが、結局、それは受け入れられない。
 その時、CIAの任務を受けた若いパイロット、パワーズがソ連領内へスパイ飛行機で潜入し、低空飛行で空から写真を撮り続けるが、ソ連が放ったミサイルを被弾する。パワーズは命令通り、自らも犠牲となるべく、機体の爆破装置のボタンを押そうとするが、空中に放り出されてしまい、パラシュート降下し、身柄をソ連に拘束される。
 アベルはアメリカ当局から二重スパイに協力すれば罪は問わないとの誘いを受けるが、母国への忠誠を誓い、それには応じない。またパワーズも眠らせずに連日取り調べを受ける、拷問まがいの尋問を受けるが、一切アメリカの機密に関しては口を閉ざす。
 その頃、ベルリンでは東西のベルリンを隔てるために壁が築かれ、経済を勉強すべく留学していたアメリカ人の若者、プライアーは、そのどさくさの中で東ドイツ政府に逮捕されてしまう。
 ドノヴァンはアメリカ政府から、あくまでも民間の交渉人として、極秘にアベルとパワーズの交換交渉をするために、ベルリンに向かうように要請されるが、ドノヴァンはプライアーも交換の1人とすることを主張する。ドノヴァン宛てにはアベルの妻と名乗る者から手紙が届くが、アベルはそれはソ連が立てたニセモノだと言う。
 妻にはスコットランドへ友人と釣りに行くと嘘をつき、ベルリンに向かったドノヴァンは、まずアベルのニセモノの妻と息子、いとこに会わせられ、「人質交換のために来た」と告げると、ニセモノの妻は泣き始める。彼らが去った後、ソ連大使館の二等書記官が現れ、「先にアベルを解放すれば、その後、パワーズも解放する」と言うが、ドノヴァンはあくまで同時に解放されることを要求する。またプライアーの解放もドノヴァンは要求するが、二等書記官は「彼は東ドイツの管理下におかれ、管轄外だ」と言う。改めてドンヴァンは東ドイツを代表する弁護士と交渉するが、東ドイツ側はパワーズについてのソ連との交渉について知っていて、「二重の解放になる」と抗議する。ベルリンからの帰り、壁を乗り越えようとして射殺される人々を見るドノヴァン。
 しかし、結局2対1の交換をドノヴァンは相手に同意させることに成功し、アベルとパワーズは国境の橋で、プライアーは同時刻に別の場所で解放されることとなる。
 その時刻、プライアーが解放場所に現われたことを確認したドノヴァンは、アベルとパワーズの交換を行う。アベルはドノヴァンに「自分がソ連に信用されているなら、抱き合って迎えられるだろうが、車の後座席にすぐに座らされるようであれば、ソ連は私を信用していないだろう」と語る。パワーズは元同僚と抱き合って迎えられるが、アベルは車の後座席にすぐに誘導される。それを無言で見つめるドノヴァン。
 ドノヴァンが帰宅すると、テレビでは今回の交換についてのニュースが流れていて、ドノヴァンの名前も報道されている。喜ぶ妻と子供たち。
 ラスト、通勤電車内で新聞に載っているドノヴァンの写真を見て、ドノヴァンを温かく見守る婦人。ドノヴァンが外を見ると、壁を乗り越えて遊ぶ子供たちが見える。
 “アベルは帰国後、妻と娘と再会。ソ連は公的にはアベルをスパイと認めなかった。パワーズは1977年、ヘリコプターの墜落で死亡。2000年、CIA長官賞、捕虜賞、2012年、銀星賞を死後受賞。1962年プライアーは経済学博士となり、現在、経済学名誉博士及び上級研究員。交換交渉の成功によりドノヴァンはケネディ大統領から新たな使命を受けて、1962年の夏、ビッグス湾での捕虜1113名の解放をめざし、カストロと交渉すべくキューバへ。ドノヴァンの交渉によって9703名の男女、子供が解放された”の字幕で、映画は終わります。

 見応えのある映画でした。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/