昨日の東京新聞で、チャック・ベリーの死去後の新作が紹介されていました。「レディー・B・グッド」や「ダーリン」はYouTubeで見聞きすることができるので、興味のある方は是非ご覧ください。
さて、また昨日の続きです。
4月、僕は高校生になった! 女の子がいない寂しさよりも、解放感のほうが勝った。部活は迷ったが、やはりサッカー部に入った。練習は厳しかった。僕らの学年の部員の中で、僕が気になったのは須玖という生徒だった。一番目立たないはずの部員だったのだが、何故か僕の目を引く独特の雰囲気を持っていた。須玖はすごくサッカーがうまかった。俺が、俺が、と前に出たがる部員の中で、須玖のそのスタンスは特異だった。ある日覗いた教室で、須玖は本を読んでいた。須玖が後で僕に教えてくれた本は、『ホテル・ニューハンプシャー』だった。須玖は小説だけでなく、音楽や映画にも詳しかった。須玖は、芸術に対する対し方が夏枝おばさんに似ていた。やがて須玖が祖母の家にいるほうが、僕が須玖の家にいる時間よりも長くなった。いつの間にか須玖は、部活でもクラスでも人気者になっていた。
須玖との蜜月は、2年になって僕たちが同じクラスになると、ますます濃厚なものになった。男子校でそんなことをしていると、あいつらはホモだとか、そういう類の噂を必ずたてられたものだが、僕と須玖の間には、そんな心配はなかった。それはひとえに、須玖の人徳によるところが大きかった。
僕と須玖の友情は、僕に彼女が出来ても変わらなかった。僕には彼女が出来たのだ。僕らの高校の文化祭に来た、女子高の女の子だった。笑う裕子は、本当に可愛かった。裕子が僕に誘うような目をすると、鼻白む前に体が反応したし、僕の要求に、裕子はしごくあっさり応えてくれた。というわけで僕は、高校2年生の冬に童貞を捨てた。須玖はたくさんの女の子から告白攻めに逢っていた。須玖はどの子も、丁寧に断った。
「第四章 圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」
1995年1月17日。阪神淡路大震災が起こった。須玖はその日の学校を休んだ。裕子には、夜連絡を取ることができた。僕は裕子と話しながらも、ずっと須玖のことを気にかけていた。須玖の兄ちゃんが神戸にいることは、僕も知っていた。結局、須玖の兄ちゃんは、翌日、神戸から家まで歩いて帰って来た。母は、四六時中家にいるようになった。学校を休んでいる須玖に理由を尋ねると「時々考えるねん。なんで俺やなかったんやろうって。」3月20日、ある宗教団体が地下鉄サリン事件を起こした。その団体をテレビで見る機会が多くなった頃から、サトラコヲモンサマにも変化が訪れていた。サトラコヲモンサマは大きくなりすぎたのだ。姉は部屋から出なくなった。恐らく既婚の恋人と別れ、ふてくされた母と、二十歳を過ぎてまた、部屋に閉じこもるようになった姉との三人暮らしは、われ関せずを貫くことで生きてきた僕でも、さすがに揺さぶられるを得ない状況だった。震災の影響がすっかりなりを潜めても、須玖の不在は、僕たちチームを、そして僕たち学年全体を、どこか暗くしていた。秋になると、誰も須玖のことに触れなくなった。
姉も、この街を離れた。きっかけはやはり、矢田のおばちゃんだった。夏の暑い日、矢田のおばちゃんは長らくの沈黙を破り、姉になにごとか話していた。その日、姉は姿を現した。長らく部屋から出ていなかった姉からは、異様なにおいがした。髪が伸び、その髪は自らからまって、複雑なドレッドになっていた。ちょうどその頃、父の転勤が決まった。行く先は、アラブ首長国連邦、ドバイだった。とにかく、姉は父についてドバイに行きたいと言った。姉の髪は洗っても洗ってもほぐれなかった。結局おばちゃんは、姉の髪の毛を坊主にした。姉を空港まで送って行ったのも、矢田のおばちゃんと夏枝おばさんだった。自身と、それによる恋人との別れ、そして娘の宗教的ショックから、母自身もまだ立ち直っていなかった。だが、僕が東京の大学に行きたいと宣言し、姉も今橋家を去った頃から、母は思いがけず回復の兆しを見せ始めた。
東京は、僕にとって避難場所だった。1995年的悪夢から立ち直る場所だった。初めの頃は、これから全力で勉強するんだ、と固く決意していた。だが、それもたった2ヶ月で破られた。まず、サッカー部には入らなかった。須玖のことを思い出すのが怖かった。僕を拘束するものは、事実上無くなった。過去を切り捨て、ありあまる自由を、僕はありったけ甘受しようと思った。僕は下高井戸から徒歩20分ほとかかるアパートで暮らし始めた。狭い部屋だったが、空間すべてが自分のものだという事実に興奮したし、自分のテリトリーに、ヒステリックな女の肉親がいないということが、僕を何より安心させた。そして夏になる頃には、僕はこの家に、あらゆる女の子を連れこむようになった。ヤリまくった1年だった。遊びの終わりのきっかけは、サークルに入ったことだった。僕は映画サークルに入った。(また明日へ続きます……)
さて、また昨日の続きです。
4月、僕は高校生になった! 女の子がいない寂しさよりも、解放感のほうが勝った。部活は迷ったが、やはりサッカー部に入った。練習は厳しかった。僕らの学年の部員の中で、僕が気になったのは須玖という生徒だった。一番目立たないはずの部員だったのだが、何故か僕の目を引く独特の雰囲気を持っていた。須玖はすごくサッカーがうまかった。俺が、俺が、と前に出たがる部員の中で、須玖のそのスタンスは特異だった。ある日覗いた教室で、須玖は本を読んでいた。須玖が後で僕に教えてくれた本は、『ホテル・ニューハンプシャー』だった。須玖は小説だけでなく、音楽や映画にも詳しかった。須玖は、芸術に対する対し方が夏枝おばさんに似ていた。やがて須玖が祖母の家にいるほうが、僕が須玖の家にいる時間よりも長くなった。いつの間にか須玖は、部活でもクラスでも人気者になっていた。
須玖との蜜月は、2年になって僕たちが同じクラスになると、ますます濃厚なものになった。男子校でそんなことをしていると、あいつらはホモだとか、そういう類の噂を必ずたてられたものだが、僕と須玖の間には、そんな心配はなかった。それはひとえに、須玖の人徳によるところが大きかった。
僕と須玖の友情は、僕に彼女が出来ても変わらなかった。僕には彼女が出来たのだ。僕らの高校の文化祭に来た、女子高の女の子だった。笑う裕子は、本当に可愛かった。裕子が僕に誘うような目をすると、鼻白む前に体が反応したし、僕の要求に、裕子はしごくあっさり応えてくれた。というわけで僕は、高校2年生の冬に童貞を捨てた。須玖はたくさんの女の子から告白攻めに逢っていた。須玖はどの子も、丁寧に断った。
「第四章 圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」
1995年1月17日。阪神淡路大震災が起こった。須玖はその日の学校を休んだ。裕子には、夜連絡を取ることができた。僕は裕子と話しながらも、ずっと須玖のことを気にかけていた。須玖の兄ちゃんが神戸にいることは、僕も知っていた。結局、須玖の兄ちゃんは、翌日、神戸から家まで歩いて帰って来た。母は、四六時中家にいるようになった。学校を休んでいる須玖に理由を尋ねると「時々考えるねん。なんで俺やなかったんやろうって。」3月20日、ある宗教団体が地下鉄サリン事件を起こした。その団体をテレビで見る機会が多くなった頃から、サトラコヲモンサマにも変化が訪れていた。サトラコヲモンサマは大きくなりすぎたのだ。姉は部屋から出なくなった。恐らく既婚の恋人と別れ、ふてくされた母と、二十歳を過ぎてまた、部屋に閉じこもるようになった姉との三人暮らしは、われ関せずを貫くことで生きてきた僕でも、さすがに揺さぶられるを得ない状況だった。震災の影響がすっかりなりを潜めても、須玖の不在は、僕たちチームを、そして僕たち学年全体を、どこか暗くしていた。秋になると、誰も須玖のことに触れなくなった。
姉も、この街を離れた。きっかけはやはり、矢田のおばちゃんだった。夏の暑い日、矢田のおばちゃんは長らくの沈黙を破り、姉になにごとか話していた。その日、姉は姿を現した。長らく部屋から出ていなかった姉からは、異様なにおいがした。髪が伸び、その髪は自らからまって、複雑なドレッドになっていた。ちょうどその頃、父の転勤が決まった。行く先は、アラブ首長国連邦、ドバイだった。とにかく、姉は父についてドバイに行きたいと言った。姉の髪は洗っても洗ってもほぐれなかった。結局おばちゃんは、姉の髪の毛を坊主にした。姉を空港まで送って行ったのも、矢田のおばちゃんと夏枝おばさんだった。自身と、それによる恋人との別れ、そして娘の宗教的ショックから、母自身もまだ立ち直っていなかった。だが、僕が東京の大学に行きたいと宣言し、姉も今橋家を去った頃から、母は思いがけず回復の兆しを見せ始めた。
東京は、僕にとって避難場所だった。1995年的悪夢から立ち直る場所だった。初めの頃は、これから全力で勉強するんだ、と固く決意していた。だが、それもたった2ヶ月で破られた。まず、サッカー部には入らなかった。須玖のことを思い出すのが怖かった。僕を拘束するものは、事実上無くなった。過去を切り捨て、ありあまる自由を、僕はありったけ甘受しようと思った。僕は下高井戸から徒歩20分ほとかかるアパートで暮らし始めた。狭い部屋だったが、空間すべてが自分のものだという事実に興奮したし、自分のテリトリーに、ヒステリックな女の肉親がいないということが、僕を何より安心させた。そして夏になる頃には、僕はこの家に、あらゆる女の子を連れこむようになった。ヤリまくった1年だった。遊びの終わりのきっかけは、サークルに入ったことだった。僕は映画サークルに入った。(また明日へ続きます……)