奥田英朗さんの 奥田英朗さんの’16年作品『ヴァラエティ』を読みました。6つの短編と一つのショートショート、それに奥田さんとイッセー尾形さん、奥田さんと山田太一さんの対談を収録してできた本です。
第一話『おれは社長だ!』の中から文をそのまま引用させていただき、あらすじになるよう再構成させていただくと、
「いよいよ自分で会社を興そうと決めた。
三十八歳の中井和宏(かずひろ)は、準大手の広告代理店『大興堂』に入社して十年が過ぎた頃から、ずっと独立の機会をうかがっていた。(中略)
最初に打ち明けたのは、同じ部署で長年一緒に仕事をしてきた五年後輩の小川だった。和宏との“師弟関係”は誰もが知っていて、周囲が一目置くコンビだった。(中略)
『そんな気、してました』
いきつけのバーで、小川は目を伏せて苦笑いし、和宏の心の中を言い当てた。(中略)
『そこでだ……(中略)おれはおまえと一緒にやりたいと思っている。来る気はないか』
小川は、これも予想していたことなのか、さして驚く様子もなく、カウンターに頬杖をついて微苦笑した。
『急に言われても返事はできないだろうから、一週間、考えてくれないか。(中略)』
『中井さんがいなくなると、会社つまんねえだろうなあ』
『じゃあ一緒に来い』
『うちは子供が生まれたばかりなんですよ(中略)ちなみに、ほかは誰を誘うんですか』と小川。
『望月に声をかける』
『ああ、彼ならついて行きますよ。契約更新のたびにもめてたから』
『あいつを誘うのはおれの責任だ』
望月というのは大学を中退し世界を放浪し、海外取材コーディネーターから広告業界に横滑りした愉快で自由な男だった。有能ながら契約社員という身分のため、給料は低く抑えられている。スカウトしたのが和宏なので、待遇面ではずっと責任を感じてきた。
『で、原田部長には言ったんですか』
『まだだ。来週にでも言おうと思っている』(中略)
『原田部長、いい人なんだけど、その先がないんですよ』
『うちの会社って、結局は成果主義を恐れてるんですよ』
一度吐き出すと、溜まっていたものがどんどん出てくるのか、ついには『あのオッサン、とろいんですよ』とまで言い放った。(中略)
翌日は望月に起業を打ち明け、新会社に誘った。高等遊民といった感じの三十歳の独身男は、『ああ、いいッスねえ。よろしくお願いします』と軽く言い、歯茎を剥いてニッと笑った。(中略)
(原田部長に打ち明けると、なんとか残るように説得してきたが、和宏の決意が固いことを知って、引き止めをあきらめ、
『……わかった。局長にはおれから言っておく。で、いつ辞めるんだ?』
『できるだけ早く。もちろん仕事の引継ぎはちゃんとやります』
『ああ、頼む』
原田が、脱力したのか床の間の柱にもたれた。『そうか、そうか。中井は独立か』天井を見つめ、ひとりごとのようにつぶやいている。その姿に哀れをもよおしたが、和宏は退職を告げたことにほっとしていた。これで第一歩を踏み出した。(中略)
(帰宅すると)
『ねえ、どうなったの。部長さんに話したんでしょ』
ワックスがけを終えた久美子が、流しで手を洗いながら聞いてきた。
今日、辞職を告げると、家を出るときに妻に言ってあった。久美子は『そう』とだけ返事し、憂いを含んだ目で見送っていた。
『話したよ。あの手この手で引き止められた』
『小川さんは?』
『奴はついてくる。辞めるのに時間差があるかもしれないけど』
『なんか、小川さんの奥さんに申し訳ない』久美子がぽつりと言った。
『どういうことよ』
『だって、今の会社にいれば少なくとも生活は保障されるわけだし、普通に貯金してれば家だって買えるし……。そういう安定を、男の付き合いで失うのって、奥さんからしたら納得が行かないと思う』
『別に無理に引き抜こうとしてるわけじゃないさ(中略)小川だって一人前の男なんだよ。奴は奴の意思で決める。それにな、終身雇用なんてもう当てにできないんだぞ。うちの会社だって、いつか外資が入り込んでリストラを始めるかもしれないじゃないか。保証なんてものは今の世の中ないの』
『そうかもそれないけど』
久美子が目を伏せる。(中略)
数日経つと、和宏が退社することがほとんどの部署に知れ渡っていた。中規模の会社なので、このあたりはいかにも家族的だった。かつての上司や同僚が入れ替わり立ち替わりやって来て、お茶や食事に誘った。(中略)
そんな中、小川が自分からランチに誘ってきた。どうやら決心がついたらしい。(中略)
ところが、座敷で向かい合うと、小川が微苦笑し、『中井さん。すいません、ぼく、会社に残ることにしました』と頭をかいて言った。
うそだろう━━。和宏は絶句した。(中略)
『カミサンと相談して、少なくとも家を持つまでは会社にいようって━━』
『あ、そう……』
どういう顔をしていいかわからなかった。(中略)」(明日へ続きます……)
第一話『おれは社長だ!』の中から文をそのまま引用させていただき、あらすじになるよう再構成させていただくと、
「いよいよ自分で会社を興そうと決めた。
三十八歳の中井和宏(かずひろ)は、準大手の広告代理店『大興堂』に入社して十年が過ぎた頃から、ずっと独立の機会をうかがっていた。(中略)
最初に打ち明けたのは、同じ部署で長年一緒に仕事をしてきた五年後輩の小川だった。和宏との“師弟関係”は誰もが知っていて、周囲が一目置くコンビだった。(中略)
『そんな気、してました』
いきつけのバーで、小川は目を伏せて苦笑いし、和宏の心の中を言い当てた。(中略)
『そこでだ……(中略)おれはおまえと一緒にやりたいと思っている。来る気はないか』
小川は、これも予想していたことなのか、さして驚く様子もなく、カウンターに頬杖をついて微苦笑した。
『急に言われても返事はできないだろうから、一週間、考えてくれないか。(中略)』
『中井さんがいなくなると、会社つまんねえだろうなあ』
『じゃあ一緒に来い』
『うちは子供が生まれたばかりなんですよ(中略)ちなみに、ほかは誰を誘うんですか』と小川。
『望月に声をかける』
『ああ、彼ならついて行きますよ。契約更新のたびにもめてたから』
『あいつを誘うのはおれの責任だ』
望月というのは大学を中退し世界を放浪し、海外取材コーディネーターから広告業界に横滑りした愉快で自由な男だった。有能ながら契約社員という身分のため、給料は低く抑えられている。スカウトしたのが和宏なので、待遇面ではずっと責任を感じてきた。
『で、原田部長には言ったんですか』
『まだだ。来週にでも言おうと思っている』(中略)
『原田部長、いい人なんだけど、その先がないんですよ』
『うちの会社って、結局は成果主義を恐れてるんですよ』
一度吐き出すと、溜まっていたものがどんどん出てくるのか、ついには『あのオッサン、とろいんですよ』とまで言い放った。(中略)
翌日は望月に起業を打ち明け、新会社に誘った。高等遊民といった感じの三十歳の独身男は、『ああ、いいッスねえ。よろしくお願いします』と軽く言い、歯茎を剥いてニッと笑った。(中略)
(原田部長に打ち明けると、なんとか残るように説得してきたが、和宏の決意が固いことを知って、引き止めをあきらめ、
『……わかった。局長にはおれから言っておく。で、いつ辞めるんだ?』
『できるだけ早く。もちろん仕事の引継ぎはちゃんとやります』
『ああ、頼む』
原田が、脱力したのか床の間の柱にもたれた。『そうか、そうか。中井は独立か』天井を見つめ、ひとりごとのようにつぶやいている。その姿に哀れをもよおしたが、和宏は退職を告げたことにほっとしていた。これで第一歩を踏み出した。(中略)
(帰宅すると)
『ねえ、どうなったの。部長さんに話したんでしょ』
ワックスがけを終えた久美子が、流しで手を洗いながら聞いてきた。
今日、辞職を告げると、家を出るときに妻に言ってあった。久美子は『そう』とだけ返事し、憂いを含んだ目で見送っていた。
『話したよ。あの手この手で引き止められた』
『小川さんは?』
『奴はついてくる。辞めるのに時間差があるかもしれないけど』
『なんか、小川さんの奥さんに申し訳ない』久美子がぽつりと言った。
『どういうことよ』
『だって、今の会社にいれば少なくとも生活は保障されるわけだし、普通に貯金してれば家だって買えるし……。そういう安定を、男の付き合いで失うのって、奥さんからしたら納得が行かないと思う』
『別に無理に引き抜こうとしてるわけじゃないさ(中略)小川だって一人前の男なんだよ。奴は奴の意思で決める。それにな、終身雇用なんてもう当てにできないんだぞ。うちの会社だって、いつか外資が入り込んでリストラを始めるかもしれないじゃないか。保証なんてものは今の世の中ないの』
『そうかもそれないけど』
久美子が目を伏せる。(中略)
数日経つと、和宏が退社することがほとんどの部署に知れ渡っていた。中規模の会社なので、このあたりはいかにも家族的だった。かつての上司や同僚が入れ替わり立ち替わりやって来て、お茶や食事に誘った。(中略)
そんな中、小川が自分からランチに誘ってきた。どうやら決心がついたらしい。(中略)
ところが、座敷で向かい合うと、小川が微苦笑し、『中井さん。すいません、ぼく、会社に残ることにしました』と頭をかいて言った。
うそだろう━━。和宏は絶句した。(中略)
『カミサンと相談して、少なくとも家を持つまでは会社にいようって━━』
『あ、そう……』
どういう顔をしていいかわからなかった。(中略)」(明日へ続きます……)