昨日の続きです。
(中略)
小川がが社に残ったのは、どうやら原田が説得したかららしいと、社内の事情通から知らされた。
『二人一緒に抜けられたら、管理能力を問われちゃうだろう。原田部長、必死に引き止めたらしいよ。噂だと新しいポストを用意するみたいだね。肩書きだけだとしても、役職手当で年収百万円アップ。三十三歳の小川にはおいしい話なんじゃないの』
人間なんてそんなものだと、和宏は苦々しく思った。みんな自分が可愛いのだ。
不安に駆られ、望月に念を押すと、『おれは行きますよ。契約社員なんて、いつまでもやってられないでしょう』とのんびり口調で言っていた。(中略)
朝起きて会社に行かなくていいとわかったときは、体がやけに軽くて、なにやら長年の肩凝りが消えたような感覚を味わった。(中略)
下に降りていくと、子供たちが学校へ出かけるところだった。『パパ、行ってきます』二人とも目を合わせないで言い、玄関から逃げるように駆けていく。
『何かあったの?』(中略)
『祐希が「着ていく服がない」って朝からわがまま言うから、「パパが会社辞めたからうちは金がありません」って脅したの』久美子が澄まし顔で答える。
『おまえね、子供に不安を与えるなよ』
『いいの。たまには』テーブルに朝食が並んだ。(中略)
電車を乗り継ぎ、降りたのは、大興堂のある虎ノ門から徒歩圏内の神谷町だった。辞めた会社の近くを第一候補にしたのは、土地に馴染みがあるのと、対抗意識からだ。(中略)
(不動産屋から)家賃を聞くと月八十万円とのことだった。保証金は五百万円近くかかる。和宏はため息をついた。せめてあと月十万円安ければ。しかしこれが相場だろう。(中略)
『物件選びは出会いですからね。気に入られたのなら、手付金を打ったほうがいいいかと━━』
『ここ、住所はどうなるの?』
『虎ノ門四丁目になります』
『ここにします』和宏は決めた。これ以上の物件はない。(中略)このさきはすべて自分の決断で動く。(中略)1回の躊躇(ちゅうちょ)でチャンスを逃すのがビジネスの世界だ。(中略)
すぐに店舗で仮契約を結び、手付金を納めた。(中略)
ただし、“気が重いリスト”に新たな項目が加わった。保証人を二名立てろと要求されたのだ。実家の父の了承はすでに得ているが、もう一人となると予定になかった。常識的なセンでは、姉の夫か妻の実家になるのだが……。(中略)
(同僚の岡崎も合流してくれることを電話で確かめた後、)その足で、知り合いのグラフィックデザイナーの事務所に行くことにした。社名ロゴと名刺をデザインしてもらうためだ。
社名はとっくに決めてあった。『ナカイ・エージェンシー』だ。先に起業した先輩から、『くれぐれも子供と会社の名前は普通にすること』とアドバイスを受けていた。(中略)
『信じられない。家賃八十万円だって』
その夜、家に帰って事務所の件を告げると、久美子は恨めしそうな目で言った。(中略)
『祐希、春樹。パパは自分で会社を作ることになりました』
二人が顔を見合わせ、戸惑っている。
『パパは社長です』
『社長? すっごーい』小三の祐希が途端に目を輝かせた。『じゃあ洋服買って』
『ぼく、サッカーボール』小一の春樹が後に続く。
『そういう話じゃないの』久美子が横から口を挟んだ。『会社を作っても、しばらくは大変だから、うちは節約生活に入ります』
『セツヤクって?』と春樹。
『お金を遣わないこと』
二人が急にしゅんとする。
『大丈夫。お小遣いはちゃんと毎月あげるから。おまえたちはいつも通りにしてなさい』子供たちをよろこばせたくて、少し大きなことも言った。『軌道に乗ったら、我が家は別荘とヨットを買います』
『すっげ━』春樹が声を上げる。
『パパ、信じちゃうでしょう』
『いいだろう。夢を語るぐらい』
『よくない。あなたたち、よそで言わないでね』久美子が怖い顔で、子供たちに言い聞かせていた。(中略)
夕食後、(中略)『ああ、そうだ。あのね。だめならだめで全然いいんだけど……。わたしの親戚に二十二歳の女の子がいて、由花(ゆか)ちゃんっていうんだけど、その子、失業中なんだって。おかあさんから電話がかかってきて、もしよかったら雇ってもらえないかって━━』
久美子が流しに向かったまま言った。
『どういう親戚なのよ』
『おかあさんの妹の娘。要するに。わたしとは従姉妹(いとこ)同士』(中略)
『雇ってもいいよ』
『そうなの?』
『どうせ事務の子は必要だもん。ちゃんとした会社にいたのなら、入社試験も通ったわけだし、最低限のスキルもあるだろうし。……で、もしその子を雇った場合、代わりにお義父さん、事務所の不動産契約の保証人になってくれないかな。実は二人必要だって言われてね』
『なんだ、交換条件か』妻が苦笑している。『じゃあ、あっちにも聞いてみる』(中略)」(また明日へ続きます……)
(中略)
小川がが社に残ったのは、どうやら原田が説得したかららしいと、社内の事情通から知らされた。
『二人一緒に抜けられたら、管理能力を問われちゃうだろう。原田部長、必死に引き止めたらしいよ。噂だと新しいポストを用意するみたいだね。肩書きだけだとしても、役職手当で年収百万円アップ。三十三歳の小川にはおいしい話なんじゃないの』
人間なんてそんなものだと、和宏は苦々しく思った。みんな自分が可愛いのだ。
不安に駆られ、望月に念を押すと、『おれは行きますよ。契約社員なんて、いつまでもやってられないでしょう』とのんびり口調で言っていた。(中略)
朝起きて会社に行かなくていいとわかったときは、体がやけに軽くて、なにやら長年の肩凝りが消えたような感覚を味わった。(中略)
下に降りていくと、子供たちが学校へ出かけるところだった。『パパ、行ってきます』二人とも目を合わせないで言い、玄関から逃げるように駆けていく。
『何かあったの?』(中略)
『祐希が「着ていく服がない」って朝からわがまま言うから、「パパが会社辞めたからうちは金がありません」って脅したの』久美子が澄まし顔で答える。
『おまえね、子供に不安を与えるなよ』
『いいの。たまには』テーブルに朝食が並んだ。(中略)
電車を乗り継ぎ、降りたのは、大興堂のある虎ノ門から徒歩圏内の神谷町だった。辞めた会社の近くを第一候補にしたのは、土地に馴染みがあるのと、対抗意識からだ。(中略)
(不動産屋から)家賃を聞くと月八十万円とのことだった。保証金は五百万円近くかかる。和宏はため息をついた。せめてあと月十万円安ければ。しかしこれが相場だろう。(中略)
『物件選びは出会いですからね。気に入られたのなら、手付金を打ったほうがいいいかと━━』
『ここ、住所はどうなるの?』
『虎ノ門四丁目になります』
『ここにします』和宏は決めた。これ以上の物件はない。(中略)このさきはすべて自分の決断で動く。(中略)1回の躊躇(ちゅうちょ)でチャンスを逃すのがビジネスの世界だ。(中略)
すぐに店舗で仮契約を結び、手付金を納めた。(中略)
ただし、“気が重いリスト”に新たな項目が加わった。保証人を二名立てろと要求されたのだ。実家の父の了承はすでに得ているが、もう一人となると予定になかった。常識的なセンでは、姉の夫か妻の実家になるのだが……。(中略)
(同僚の岡崎も合流してくれることを電話で確かめた後、)その足で、知り合いのグラフィックデザイナーの事務所に行くことにした。社名ロゴと名刺をデザインしてもらうためだ。
社名はとっくに決めてあった。『ナカイ・エージェンシー』だ。先に起業した先輩から、『くれぐれも子供と会社の名前は普通にすること』とアドバイスを受けていた。(中略)
『信じられない。家賃八十万円だって』
その夜、家に帰って事務所の件を告げると、久美子は恨めしそうな目で言った。(中略)
『祐希、春樹。パパは自分で会社を作ることになりました』
二人が顔を見合わせ、戸惑っている。
『パパは社長です』
『社長? すっごーい』小三の祐希が途端に目を輝かせた。『じゃあ洋服買って』
『ぼく、サッカーボール』小一の春樹が後に続く。
『そういう話じゃないの』久美子が横から口を挟んだ。『会社を作っても、しばらくは大変だから、うちは節約生活に入ります』
『セツヤクって?』と春樹。
『お金を遣わないこと』
二人が急にしゅんとする。
『大丈夫。お小遣いはちゃんと毎月あげるから。おまえたちはいつも通りにしてなさい』子供たちをよろこばせたくて、少し大きなことも言った。『軌道に乗ったら、我が家は別荘とヨットを買います』
『すっげ━』春樹が声を上げる。
『パパ、信じちゃうでしょう』
『いいだろう。夢を語るぐらい』
『よくない。あなたたち、よそで言わないでね』久美子が怖い顔で、子供たちに言い聞かせていた。(中略)
夕食後、(中略)『ああ、そうだ。あのね。だめならだめで全然いいんだけど……。わたしの親戚に二十二歳の女の子がいて、由花(ゆか)ちゃんっていうんだけど、その子、失業中なんだって。おかあさんから電話がかかってきて、もしよかったら雇ってもらえないかって━━』
久美子が流しに向かったまま言った。
『どういう親戚なのよ』
『おかあさんの妹の娘。要するに。わたしとは従姉妹(いとこ)同士』(中略)
『雇ってもいいよ』
『そうなの?』
『どうせ事務の子は必要だもん。ちゃんとした会社にいたのなら、入社試験も通ったわけだし、最低限のスキルもあるだろうし。……で、もしその子を雇った場合、代わりにお義父さん、事務所の不動産契約の保証人になってくれないかな。実は二人必要だって言われてね』
『なんだ、交換条件か』妻が苦笑している。『じゃあ、あっちにも聞いてみる』(中略)」(また明日へ続きます……)