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奥田英朗『ヴァラエティ』その5

2018-07-11 06:15:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「フジヤマ飲料の件は、どうしても納得がいかないので、原田に直接問い質(ただ)すことにした。会社時代ならさっさと諦めただろうが、経営者になった今は、そう簡単に引き下がれない。泣き寝入りは会社の評判を落とすと、本にも書いてあった。タフなネゴシエーターだと周囲に思わせなければ、この先なめられるだけだ。
 由花にお遣いを言いつけ、一人になったとき電話をかけた。原田は虚を衝かれたようで、居留守を使うこともなく電話に出た。『なんだ、中井か。元気でやってるか』声が上ずっている。『フジヤマ飲料の件でちょっとお話があります。うかがいます。お時間いただけないでしょうか』和宏は努めて慇懃に言った。
『フジヤマ飲料? そのことなら別に話すことはないんだけどなあ』
『そうおっしゃらずに。こちらにはあるんです。三十分ください。近所ですからいつでも参ります』
『フジヤマ飲料はうちのクライアントだけど、そのことをわかって言ってるわけ?』
『もちろん承知しております。ただ、企画書といえども知的所有権があるのではないかと、わたしは考えているわけです。部長はそう思われませんか?』
 和宏の問いかけに、原田が口ごもった。
『例の企画書は、わたしの個人名で提出してあります。大興堂の在職中に書いたものですから、背任行為に当たると言われればそうかもしれませんが、それで知的所有権までが消滅するとは思えません』
 しばらく沈黙があり、原田が口を開いた。『またあ、そんなにしゃちほこばるなよ』いつもの懐柔する口調になっていた。この男は、陰ではいろいろやっても、直談判となるといつも軽いのだ。
『ですから、お目にかかって……』
『わかった、わかった。じゃあ今からでも来てくれ。明日は部長会のゴルフコンペでな。楽しくラウンドしたいから、面倒なことは今日のうちに片付けたい』
『では、すぐにうかがいます』(中略)
原田とそれぞれの立場から意見交換をした後に、原田)
『うちとは取引するの?』
『できればそうさせていただきたいと思っています』
『正直に言うよ。古巣の制作部だとむずかしい。局長がおかんむりだしな。ほかの部署を当たってくれ』
『わかってます』
顔を見合わせ、互いに表情を緩めた。直接話してよかったと思った。(中略)
『しかし社長ともなると、性格も変わるね。おまえさん、以前ならテーブルひっくり返してるだろう』原田が言った。
『そんな……』目を伏せて苦笑する。(中略)
『じゃあ商談成立だ』原田が手を差し出す。和宏はそれを握った。
 おれの手は全然分厚くないなと、やけに場違いなことを思った。

 会社に戻ると、由花が法務局から帰ってきていた。会社設立登記の申請がしてあったので、それが完了したかどうかを補正簿というファイルで確認してきてもらったのだ。
『載ってました。これです』
 由花が早速登記簿謄本を取り、持ち帰ってくれた。
『窓口で何か聞かれた?』
『身長を聞かれました』
『殴ってやれよ』
 岡崎も帰社していたので、三人で集まり、書面を見る。《商号・ナカイ・エージェンシー、本店・東京都港区虎ノ門4丁目店…》。データが並んでいるだけの紙切れだ。しかしこれがないと銀行でも取引先でも会社だと認めてもらえない。
 気持ちがふくらんだ。まだまだ会社の前途は多難だが、スタート位置に着くことはできた。今日が我が社の創立記念日だ。この先苦しいことがあったら、今日を思い出そう。自分が三十八歳で社長になった日だ。
『寿司の出前を取ろう。由花ちゃん、上寿司三人前ね』
『わかりました』
『それから写真を撮ろう。おれたちが創立メンバーだ。近くの写真館に電話して、至急カメラマンを寄こしてくれって━━』
 そのとき、オフィスのドアが開いた。無精髭(ぶしょうひげ)の男が突っ立っている。よく見ると望月だった。
『どうも遅くなりまして。さっきアメリカから帰ってきました』
 和宏はしばし眉をひそめた。『なんだ、おまえ。大興堂の正社員になったんじゃないのか』
『いいえ』望月が首を振る。(中略)
『この野郎、脅かしやがって。どうして電話に出なかった』
『ああ、ケータイを落としたんですよ。ハドソン川に』
『くそったれが。おーい、由花ちゃん、寿司は四人前だ』
『はーい』
『あら、君も社員? ずいぶん大きいね。身長何センチ?』
『百八十センチだよ、この野郎』
『中井さん、何を怒ってるんですか』
『うるせえ。社長と呼べ』
 体の奥底からよろこびが込み上げ、オフィスを歩き回った。
 子供のように飛び跳ねる。三人の社員が不思議そうに眺めていた。
 心の中で毒づく。おれは社長だ、文句があるか━━。」(また明日へ続きます……)


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P.S 昔、東京都江東区にあった進学塾「早友」の東陽町教室で私と同僚だった伊藤さんと黒山さん、連絡をください。首を長くして福長さんと待っています。また、この2人について何らかの情報を知っている方も、以下のメールで情報をお送りください。(m-goto@ceres.dti.ne.jp)