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この人の話しが聞きたかったが、こんな記事を見つけた。

2012-08-11 | ちょっと気になるマスコミ報道

    福島第1原発:吉田前所長   シンポジウムにビデオ出演

                              毎日新聞 2012年08月11日 22時45分 より転載

 

インタビューに応える東電の吉田昌郎・前福島第1原発所長=ビデオ映像から撮影

 

 東京電力福島第1原発事 故で、収束作業の陣頭指揮を執った吉田昌郎前所長(57)=現在は本店原子力・立地本部付=が11日、福島市であったシンポジウムにビデオ出演した。吉田 氏

は「事故で一番インパクトがあったのは3号機の水素爆発(昨年3月14日)だった」と振り返り、「自分も含めて死んでもおかしくない状態だった。(爆発 で)10人ぐらいは死んだかもしれないと思

った」と述べた。吉田氏が退任後に事故時の心境を語るのは初めて。

 吉田氏は冒頭、「政府などの事故調査委員会が一段落するまで、自分が話すことはルール違反と思ってい た」と、インタビュービデオを公開した理由を説明。今後の課題については「事故の

責任問題もきちっとやるべきだが、第1原発を安定化させることがベースに なる」と強調した。

 東電が第1原発から全面撤退を検討したとされる問題については、「本店と官邸との間の騒ぎで、現場では 絶対に一言も言っていない」と断言。「もし現場を離れれば、5、6号機もメルト(ダ

ウン)し、燃料が溶ける。福島第2原発も人が近づけなくなり、大惨事に なる。そこまで考えれば当然(第1原発からは)逃げられない」と述べた。

 

2  さらに、原発に残った所員が死亡した場合を考え、「墓標」の代わりにするために、ホワイトボードに所員 の名前を列挙して記入したとの当時の秘話を紹介。高い放射線量を顧みず、現場

に行く部下について「へろへろで、寝ることもできず、食事も十分でなく、体力 的に限界という中で、現場に行く連中がたくさんいた。私が昔から読んでいる法華経の中に登場する、地面から湧い

て出る菩薩(ぼさつ)のイメージを、すさま じい地獄のような状態の中で感じた」と述べた。

 ビデオは約30分間。シンポジウムは、長野県の出版社「文屋」が主催した。

 吉田氏は、健康診断で食道がんが見つかったため昨年12月、所長職を退いた。今春に手術を受けて自宅療 養していたが、先月26日、外出先で体調不良を訴え、脳出血で緊急手術を受け

た。ビデオ収録はその前の10日に行われた。主催者によると、収録の際、吉田 氏は「お盆明けには復帰したい」と話し、体調は良好な様子だったという。【中西拓司】

 

3  覚悟というほどの覚悟があったかはよくわからないが、結局、我々が離れてしまって注水ができなくなってしまうということは、もっとひどく放射能漏れにな る。そうすると5、6号機はプラント

はなんとか安定しているが、人もいなくなると結局あそこもメルト(ダウン)するというか、燃料が溶けることになる。そ のまま放っておくと、もっと放射能も出る。福島第2原発も一生懸命、プラント

を安定化させたが、あそこにも人が近づけなくなるかもしれない。そうなると非 常に大惨事になる。そこまで考えれば、当然のことながら逃げられない。そんな中で大変な放射能、放射線がある

中で、現場に何回も行ってくれた同僚たちがい るが、私が何をしたというよりも彼らが一生懸命やってくれて、私はただ見てただけの話だ。私は何もしていない。実際ああやって現場に行ってく

れた同僚一人 一人は、本当にありがたい。私自身が免震重要棟にずっと座っているのが仕事で、現場に行けていない。いろいろな指示の中で本当にあとから現場に話を聞くと 大変だったな

と思うが、(部下は)そこに飛び込んでいってくれた。本当に飛び込んでいってくれた連中がたくさんいる。私が昔から読んでいる法華経の中に地 面から菩薩(ぼさつ)がわいてくるというところが

あるが、そんなイメージがすさまじい地獄のような状態で感じた。現場に行って、(免震重要棟に)上がって きてヘロヘロになって寝ていない、食事も十分ではない、体力的に限界という中で、現

場に行って上がってまた現場に行こうとしている連中がたくさんいた。そ れを見た時にこの人たちのために何かできることを私はしなければならないと思った。そういう人たちがいたら、(第1原発

の収束について)このレベルまで もっていけたと私は思っている。

 

4  −−吉田さんは所員の精神の支柱だった。

 ◆私は何もしていない。私のとりえは福島第1原発に 4回、赴任したことだ。第1原発のメンバーの名前もほとんどわかっているし、協力企業さんも結構つきあいがあり、名前で呼べるんですね。

「○○さん、○○ くん、大丈夫か」とか。それだけだ。それで声をかけただけだ。私は。何もできていない。みんなやってくれたということだ。いまだにそう思っている。

−−事細かなコミュニケーションをとったということか?

 ◆そうだ。やはり知らない間じゃないということだ。昔から一緒に仕事をした仲間だ。そういう仲間が大変な現場に行って帰ってき、出て行くというのを見ているので、頭を下げるしかない。

−−3号機が爆発した段階では死ぬかと思ったか?

 

5  今回一番インパクトがあったのは1号機もそうだが、3号機の爆発というのがあった。これは今まで経験した中で非常に、あとから考えれば水素爆発だったが、 その時点では何が起こった

かわからないという状態なので、これから、もう破滅的に何か起こってるんじゃないかと思った。爆発について。一つは自分が死ぬと いうこと、メンバーも含めて、免震重要棟の人間は死んでた

っておかしくない状態だった。3号機なんかは特にそうだった。あれだけのがれきが飛んできて。私 は、最初は行方不明者が何人ということを聞いた時に、確か数十人レベルでまだ安否が確認

できていないというのが最初の状況だった。ああこれは10人ぐらい 死んだかもしれないというふうに思った。そこから時々刻々、だれだれがという話が入ってきて、軽傷の人間は何人かいたが。

それから自衛隊の方には本当に申 し訳なかった。水を補給しにきてくれた自衛隊の部隊がけがをされて、本当に申し訳ないと思っている。不幸中の幸いで人命にかかわるものではなく、これは

あ る意味、仏様のあれかなという感じが私はしている。

 

6  −−原発に残ったメンバーの名前をホワイトボードに書くように指示したとのことだが、どのような思いだったか?

 ◆ほとんどその時のことを思い出せないが、たぶん、要するに最後まで残って戦ったのはこんな人間だぞということを残しておこうということだ。今から思えば。わかんないですよ。私自身。

本当に。                

−−墓標になると思って書いたということか。

 ◆はい。そうだ。

−−最後に何かお話はあるか?

 ◆いずれにしても今回の事象は、いろいろ国会とか政府事故調、民間事故調などで書かれているが、我々は 特に政府事故調にはすべてを話をさせていただいた。マスコミの方からいろいろ

問い合わせがあるが、お話は全部すべてそちらでさせていただいているので、そ こをベースに考えていただければいいと思っている。ただやっぱりなかなか我々の肉声というのは通じない。調

査委員会を通すと肉声がなかなか届かない。その 部分はいろいろな形でちゃんとメッセージを発信していかないといけないと思っている。私一人ではなくてあそこで一緒にやったいろいろな仲

間の経験をちゃん と伝えたい。

−−これから第1原発や福島県はどうあるべきか?

 

7  ◆そういう次元の高い話になると今すぐに答えがないが、やっぱり発電所をどうきちっと安定化させるかがベースだ。そこができていない中で、地元にお帰り いただくわけにはいかないの

で、そこが最大の(課題だ)。これは事故当時も言っていたが、日本国中だけでなく世界の知恵を集めて、より発電所、第1原発を より安定化させることが一番求められている。いろいろなだれ

の責任うんぬんということもきちっとやるべきだが、やはり発電所を少しでも安定させる。それに は人も必要だし、技術もいろいろな知恵が必要だ。そこに傾注するということが重要なことだと思

う。そのうえで、地元の方々に(通常の)生活に戻っていただ けるか考えることができる。いずれにしても現場を落ち着かせる、安定化させることが一番重要な責務だ。私はちょっとまだ十分な

体力がないが、戻ったらそう いう形で現場のために力を届けたい。

 

 

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核兵器禁止条約の交 渉開始のために、各国政府が国際政治の場で積極的に行動を

2012-08-11 | 世界の変化はすすむ

各国政府に行動訴え

原水爆禁止世界大会・長崎 「手紙」採択

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 核兵器なくせの声が世界各国の市民と政府の中でかつてなく強まるなかで、長崎は9日、原爆投下から67年の記念日を迎えました。長崎市内では、原 水爆禁止2012年世界大会・長崎と市主催の平和式典がおこなわれました。世界大会・長崎では「長崎からの各国政府への手紙」を採択。核兵器禁止条約の交 渉開始のために、各国政府が国際政治の場で積極的に行動するよう呼びかけました。


写真

(写真)「長崎からの手紙」を採択して閉幕する原水爆禁止2012年世界大会長崎=9日、長崎市

 原水爆禁止2012年世界大会・長崎は、1700人が参加し、2015年の核不拡散条約(NPT)再検討会議にむけて、「核兵器のない世界」への扉を開くために全力を尽くすことを訴える決議「長崎から各国政府への手紙」を採択して閉会しました。

 主催者あいさつした大会実行委員会議長団の安斎育郎さんは、4日に採択された国際会議宣言の重要点に触れながら、「核兵器のない世界」をつくり出 すために、「世界大会で学んだことを世界各国、日本各地に持ち帰り、核兵器廃絶のための創造性豊かな行動を」と呼びかけました。

 「被爆者の訴え」として、日本原水爆被害者団体協議会事務局次長の木戸季市(きどすえいち)さんがマイクを握り、「すべての人が安心して生きていける安全な社会、核兵器も戦争も、原発もない社会の実現を」と訴えました。

 「核兵器のない世界のために~草の根の運動交流」では、海外代表とともに九州各県の代表が、自治体と共同した「核兵器全面禁止のアピール署名」や被爆の実相を広げる原爆展開催の経験などを報告しました。

 最後に、運営委員会代表の野口邦和さんが行動提起。「『核兵器のない世界』への扉をこじ開けるためには、これまでにも増して世界諸国民の運動と世 論の高揚が必要だ」と強調。原発問題などでの劇的な行動の広がりに確信をもって、いっそう署名活動などに力をつくそうと呼びかけました。

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