どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

久しぶりに

2007年04月24日 | 日記
早く目覚めた

4:45だった

夜明けがこんなに早くなっているなんて 気がつかなかった

残業地獄のせいで短い睡眠時間で事足りるようになったのか トシのせいかは判らぬが 

何事も 少量で事足りるっていうのは悪く無い

余分な物を削ぎ落とした先に見えてくるものは何か

そんな事を考えながら… おっと時間だ~

行って参ります


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真摯な心

2007年04月24日 | 日記
今日は少し早い帰宅 といっても22時を過ぎていたが

夜空に星は見えなかったが 今日一日をしかとやり遂げたという思いで帰宅した

毎日がこうあるわけじゃないが かくありたいと思っている


此処に入ったのは偶然というか 粗忽者の悲しい性で 実は何一つ知らなかった

まさか 自分のページが出来て日記を書くなんて 予想だにしなかったし 誰かと知り合うなんていう気持ちも無かった

そんなアホは このカフェの中を探しても両手の指の数ほどもいないだろうと思う


初めての日 勝手に出来た自分のページに増殖する足跡 それにどう対処したら良いのかも判らなかった

しまった!と思った

そう得意な分野じゃないからだ


あれから3年半 素敵な人々との出会いがあった

去った人も多いが 新たな出会いもまたしかり

今もそれは続いている


私の扉を見ていただければ その変遷の一部が分かる

名前や住所を知らなくても 足跡の会話しかなくても それが途切れようとも 何処かで繋がる人がいる

出逢っただけで万々歳 いつもそう思う

だから 失う事も別れも それはそれで良しと思っている


大切なのは 本当に出会うこと

いつもそう思って訪問してくださる方のプロフや日記を拝見している

飲んだくれの労働者に過ぎないが 真摯な心も忘れちゃいない

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断章

2007年04月22日 | 日記
正義は人の頭の数だけある

だから戦は無くならない

戦争反対を唱えるのは簡単だ

だが物事がそう単純じゃない事は 長く生きていれば判る

私はそれほどの楽観主義者ではない

自分の周囲の人々を見ても それは充分納得のいくことだ

丸く生きるか とんがって生きるか どちらもそれなり

互いにアホと思う関係はパラレルで 永遠に交差する事は無い

交差が無い以上 それは存在しないにも等しい

結論は そういうことだ
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高円寺徘徊―後編

2007年04月22日 | 日記
今日は一日怠惰に暮らすのだ 

例え世間の非難を浴びようともパジャマ姿で過ごし 寝転がって本を読み 眠くなったら寝る

午後からは天気も下り坂だろうしと 朝からそう決めたのだが 意外に晴天で但し強風

案の定 本を読んでいたら次第に眠りに誘われ…

暑かった!

私の経験上 暑いと悪い夢を見る

身体が 早く目を覚ませ!と命令しているようにだ


高円寺徘徊の続きがあった

蚕糸試験場跡地にも行った

ここは現在公園になっている

おそらく 当時の面影として残っているのは門柱と入り口の事務所だけだろう

父は 此処にもよく来たと言っていた

公園を一巡りしていると 池の中にある岩の上で甲羅干しをしている沢山の亀と遭遇

当時もあった池ならば 父を知っているだろうか 亀は万年だから


帰りに グラタン屋という名前の通りグラタン専門店で食事

父も祖母もグラタンは大好物だった

老舗で(と言ったってさほどじゃないだろうけど) なんでも機械を使わず手で小麦粉を練っているそうだ

かなりの年の男性が二人でやっている

テーブルは5,6卓ほどか

メニューにビールはありますか と尋ねると瓶ビールですけれど という返事

出された物はキリンのラガー 当然だね♪

スペシャル蟹グラタンを注文した

上の焦げ目がパリパリしていて美味しい

一人の老人が入ってきた

どうも常連客らしい 奥さんは? 今日は水泳 なんて話している

いつものですか? うん いつものにして

食事をしながら耳をダンボにしていると 店の主人との会話から78歳と判明

もしや ずっとこの地に住んでいる方なら父を知っているだろうか なんて思ったが 訊けなかった


高円寺という名の通り 高円寺というお寺がある

徳川家光が鷹狩にしばしば訪れてはこの寺で休憩した為に 門扉には葵の御紋がしかと彫られている

父が兄弟と自転車で坂道を下って遊んだと話していたが この高円寺さんの近辺にそんな坂もあった

ちなみに 父はこのお寺の名を言う時 必ず「さん」を付けていた

曹洞宗のお寺と記憶しているが 道路から本道までが意外に長く 

その両側に植えられた木々が木陰のアーチを作っている

涼やかで 端整で 決して豪奢ではないが きちんとしていた

きちんとしてるってのは 気持ちが良いものだ


我が家から1時間とかからないのに 滅多に行く事の無かった土地の徘徊は 後悔と満足の入り乱れたものとなった

帰りのバスでは眠りこけた

終点に停まったのも気がつかず バスに放置されていた

目が覚めると既に乗客は誰も居ない

慌てて出口に向かうと 運転手が別の運転手と雑談をしていて その人があれ?お客さんだ…と

惚けて 此処終点ですか と尋ねて降りた(当然知ってる!)

お願いだから 全員降りたかどうか確認してよ~

恥ずかしさの中 まだ醒めやらない頭を抱えて帰宅した事を付け加えておく



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気になる美術館

2007年04月22日 | 日記
ジョサイヤ・コンドルは日本近代建築の父と呼ばれる人である

若くして優秀な彼は 1876年工部大学校造家学科(現・東大建築学科)の教授として招聘された

第一期生(4名)には 東京駅で有名な辰野金吾 今も残る迎賓館(旧赤坂離宮)を作った片山東熊がいる

ちなみに建築という言葉は伊東忠太による翻訳造語だそうだが その彼も此処で学んだ

東大にはコンドルの銅像があるが その台座はこの忠太の設計によるものだ

帝国ホテルを設計したライトや 宣教師として来日し設計会社を設立したヴォーリズより知名度は低いかもしれないが

古河庭園 旧岩崎邸 ニコライ堂を設計した人といえばどうだろうか

昨年見た日光の教会は宣教師ガーディナーの作だったが 今列記した外国人達は誰もがこの日本を愛した

いや 当時の日本を愛したと言っても良いかもしれない

コンドルもまた日本人の妻を娶り 彼女の死後間もなくこの地で亡くなった

話はそれるが 戦前来日した欧米人の多くは日本人の行儀の良さ 文盲率の低さ 

真面目な性格や清潔好きであることに驚きと感動の念を表している

さて コンドルに限らず建築家というものは押し並べて絵が上手い

ドイツ帝国の博物館を手がけた人の絵もなかなかだったし ヴォーリズも忠太も同様

そして このコンドルも浮世絵師の河鍋暁齋(きょうさい・ぎょうさい)の弟子であった

この暁齋と言う人 一風変わった人物でもあったようで 地獄絵を書いたり投獄されたりしている

イギリス人だからであろう コンドルは暁英という雅号を貰っている

彼の自伝を読んだことは無いが 妙法寺の鉄扉門を作ったいきさつは そんなところにあるのかもしれない

そこで 先週見に行ったわけ

機会があったら是非この小品を見て欲しい

感動は無いが 和洋折衷のユニークな門である

そして内緒だが 我が住居の近くのさるお寺にもあるのだ!

さてさて 此処まで来たら今度は暁齋の美術館に行かなければ

気になる美術館二つのうちの一つとは 実は此処なのである

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