みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

東電旧経営陣に無罪/企業の社会的責任は免れぬ/「人災」の疑問は残る/釈然としない無罪判断/原子力ムラ擁護の判決だ

2019-09-23 20:42:32 | ほん/新聞/ニュース
きょうは秋分の日で、学校や保育園はお休み。
昨日からお泊りの子どもたち3人と一緒に、
平和堂高富店の2階にある「室内遊園地 キッズパラダイス高富店」に行ってきました。
ここに遊びに来るのは2回目。
前は開園の10時に行ったら一番乗りだったので、
10時過ぎに行ったら、すでにすごい人数の子どもたちが遊んでいます。


お昼ご飯を食べる場所もないので、
下の平和堂でお昼ご飯を買って帰ってきました。
遊び疲れたゆずちゃんはご飯を食べてすぐにお昼寝。
お迎えに来てもらうまで爆睡していました。

話しは変わりますが、、
東京電力福島第1原発事故を巡って業務上過失致死傷罪で強制起訴された
東電旧経営陣の3人に、9月19日、東京地裁は無罪を言い渡しました。

原発がメルトダウンするという大事故を起こしても、誰も責任を問われないとは!
とても納得できない、不当な判決です。

 社説:「人災」の疑問は残る 東電旧経営陣に無罪 
2019年9月20日 中日新聞

 東京電力の旧経営陣は「無罪」-二〇一一年の福島第一原発事故で検察審査会が強制起訴した裁判だった。本当に予想外の事故だったのか疑問は残る。
 事故の三年前まで時計の針を戻してみよう。国の地震予測である「長期評価」に基づく津波の試算が最大一五・七メートルにのぼるとの報告がなされた。東電社内の会合で元副社長に「『(津波想定の)水位を下げられないか』と言われた」-担当していた社員は法廷で驚くべき証言をした。元副社長は否定し、「そもそも長期評価は信頼できない」と反論した。

「力が抜けた」と証言
 社員は「津波対策を検討して報告するよう指示された」とも述べた。だから、その後、防潮堤を造る場合は完成までに四年を要し、建設に数百億円かかるとの報告をしている。元副社長は「外部機関に長期評価の信頼性を検討してもらおう。『研究しよう』と言った」と法廷で応じている。
 てっきり対策を進める方向と思っていた社員は「想定外の結論に力が抜けた」とまで証言した。外部機関への依頼は、対策の先送りだと感じたのだろう。実際に巨大津波の予測に何の対策も講じないまま、東電は原発事故を引き起こしたのである。
 この社員は「時間稼ぎだったかもしれないと思う」「対策工事をしない方向になるとは思わなかった」とも証言している。
 社員が認識した危険性がなぜ経営陣に伝わらなかったのか。あるいは対策の先送りだったのか。これはぬぐえぬ疑問である。
 旧経営陣の業務上過失致死傷罪の責任を問うには(1)原発事故との因果関係(2)大津波などが予見できたかどうか(3)安全対策など結果回避義務を果たせたか-この三点がポイントになる。

電源喪失予測もあった
 東京地裁は争点の(2)は「敷地高さを超える津波来襲の予見可能性が必要」とした。(3)は「結果回避は原発の運転停止に尽きるが、原発は社会的有用性があり、運転停止だと社会に影響を与える」ため、当時の知見、社会通念などを考慮しての判断だとする。
 原発ありきの発想に立った判決ではないか。「あらゆる自然現象の想定は不可能を強いる」とも述べたが、それなら災害列島に原発など無理なはずである。
 宮城県に立地する東北電力女川原発との違いも指摘したい。女川原発が海抜一五メートルの高台に建てられたのは、八六九年の貞観地震を踏まえている。だから東日本大震災でも大事には至らなかった。
 〇八年の地震予測「長期評価」が出たときも、東北電力は津波想定の見直しを進めていた。ところが、この動きに対し、東電は東北電力に電子メールを送り、津波対策を見直す報告書を書き換えるように圧力をかけた。両社のやりとりは公判で明らかにされた。
 「危険の芽からは目をそらすな」-それは原発の事業者にとって常識であるはずだ。旧ソ連のチェルノブイリ事故が示すように、原発でいったん事故が起きれば被害は極めて甚大であり、その影響も長期に及んでしまう。
 それゆえ原発の事業者は安全性の確保に極めて高度な注意義務を負う。最高裁の四国電力伊方原発訴訟判決でも「(原発の)災害が万が一にも起きないように」と確認されていることだ。
 「最大一五・七メートルの大津波」という重要なサインが活(い)かされなかったことが悔やまれる。〇四年にはスマトラ沖地震の津波があり、インドの原発で非常用海水ポンプが水没し運転不能になった。〇五年の宮城県沖地震では女川原発で基準を超える地震動が発生した。
 これを踏まえ、〇六年には旧経済産業省原子力安全・保安院と電力会社による勉強会があった。そのとき福島第一原発に敷地高一メートルを超える津波が来襲した場合、全電源喪失から炉心損傷に至る危険性が示されている。
 勉強会が活かされたらとも悔やむ。防潮堤が間に合わなくとも電源車を高台に配備するなど過酷事故対策が考えられるからだ。福島第一原発の非常用電源は地下にあり、水没は容易に発想できた。国会事故調査委員会では「明らかな人災」と厳しく非難している。
 今回の刑事裁判は検察が東電に家宅捜索さえ行わず、不起訴としたため、市民の検察審査会が二度にわたり「起訴すべきだ」と議決したことによる。三十七回の公判でさまざまな事実関係が浮かんだ意義は大きい。

地震の歴史は繰り返す
 安全神話が崩れた今、国の原発政策に対する国民の目は厳しい。歴史は繰り返す。地震の歴史も繰り返す。重大なサイン見落としによる過酷事故は、やはり「人災」にも等しい。繰り返してならぬ。苦い教訓である。


 (社説)原発事故判決 釈然としない無罪判断
2019年9月20日 朝日新聞

 腑(ふ)に落ちない判決だ。2011年の福島第一原発事故をめぐり、東京電力の旧経営陣3人が強制起訴された裁判で、東京地裁は全員に無罪を言い渡した。
 判決は、事故を防ぐにはあらかじめ原発の運転を停止するしかなかったという前提に立ち、そうしなければならないだけの確かさをもって、津波の襲来を予測できたかを検討した。
 そして、国の機関が02年に公表した「三陸から房総沖のどこでも巨大地震が起こり得る」との見解(長期評価)を、根拠を欠き、信頼性に疑問があると指摘。原発は社会生活や経済活動を支える重要なインフラであり、旧経営陣に運転を止める義務はなかったと結論づけた。
 事故の被災者が国や東電に損害賠償を求めた訴訟では、この長期評価に基づき、「津波は予測できた」との判断が積み重ねられてきた。非常用電源を高台に移転させるなど、簡易な対策を講じていれば事故を防げたとした判決も複数ある。
 民事裁判に比べて刑事裁判では厳格な立証が求められるとはいえ、あまりの乖離(かいり)に驚く。未曽有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任を問われない。人々が納得できるだけの説明が尽くされたか、大いに疑問が残る裁判となった。
 一方で、公開の法廷で審理が行われた意義は大きい。政府や国会などの調査では言及されなかった重要な事実が、いくつも明らかになったからだ。
 例えば、東電内部では長期評価を踏まえて防潮堤建設などの検討が進み、最高経営幹部が出席する会議でも津波対策が話題になった。だが勝俣恒久元会長は公判で、「関心を持たなかった」と述べた。他の2人の被告も「記憶にない」を繰り返し、権限を互いに押しつけ合って、自らの無罪を主張した。
 原発の運転がこのような組織と人物に委ねられ、監督すべき政府もそれで良しとしてきた。その帰結があの事故だった。
 過去の話、あるいは東電特有の体質として片付けられるものではない。
 最近、火山噴火やテロへの備えなど、原発の安全性をめぐって新たな課題が次々と浮上している。だが電力各社は、手当てするには膨大な時間と金がかかるとして、対策の先延ばしを認めるよう原子力規制委員会に働きかけている。福島事故からいったい何を学んだのだろう。
 確率は低くても、起こり得る危機に対する鋭敏さをどう培うか。規制はいかにあるべきか。災害列島というべき日本で、原発に未来はあるのか――。裁判が突きつけた重い課題に、社会全体で向き合わねばならない。 


クリック してね 
人気ブログランキングへ

  社説:東電旧経営陣に無罪/企業の社会的責任は免れぬ  
2019年9月20日  河北新報

 東京電力福島第1原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣の3人に東京地裁(永渕健一裁判長)はきのう、無罪の判決を言い渡した。
 検察官役の指定弁護士側は被告の勝俣恒久元会長(79)、武黒一郎元副社長(73)、武藤栄元副社長(69)に禁錮5年を求刑していた。
 未曽有の被害をもたらした2011年3月の原発事故から8年半余り。判決は、市民判断で強制起訴された企業トップらの刑事責任を退けた。
 原発事故の責任は一体、誰にあるのか-。犠牲者の遺族や古里を奪われた避難者に限らず、釈然としない思いが募る人は多いだろう。
 被害者らが提起した民事訴訟では、東電の過失を認める判決が相次ぐ。一方、個人に刑罰を科す刑事裁判では、具体的な予見可能性や結果の回避可能性など、より厳格な立証が求められる。判決は、個人の過失を問う刑事裁判のハードルの高さを改めて印象づけたとも言える。
 裁判で問われたのは、事故前の津波対策だ。大津波の襲来を3人は予測できたか。それが最大の争点となった。
 東電は08年3月、第1原発に「最大15.7メートル」の津波が到達すると算出している。高さ約10メートルの敷地を越す津波襲来の可能性を示すこの試算について、3人は08年6月から09年春にかけて報告を受けるなどしていた。
 試算の基になったのが、国の地震予測「長期評価」。裁判では、津波の予見可能性の前提として、その長期評価の信頼性が焦点となった。
 判決は、長期評価について「具体的な根拠を示さず、信頼性に合理的な疑いが残る」と判断し、巨大津波の予見可能性を認めなかった。
 判決は事故の重大性は認めながらも、「津波についてあらゆる可能性を想定し、必要な措置を義務づければ、原発の運転はおよそ不可能になる」とも指摘している。社会的インフラとしての原発の役割を重視するあまり、判決の軸足は原発優先に傾いているようにも映る。
 しかし、原発は極めてまれな自然災害にも備えるのが運転の大原則のはずだ。事故が起きれば深刻な事態となるのは火を見るより明らかで、どんなに小さな可能性にも対処する義務が求められるのではないのか。
 巨大津波の試算の報告を受けながら、旧経営陣は何ら津波対策を打ち出していない。裁判を通じ、社員らのさまざまな証言から、経営側の危機管理の甘さ、責任回避の姿勢が浮き彫りになった。
 旧経営陣の刑事罰は免責されたとはいえ、原発事業者としての企業の社会的責任は免れまい。
 原発の安全を確保する責任は誰にあるのか。その答えが見いだせない限り、東電はもちろん、原発への不信を拭い去ることはできないだろう。


 <社説>東電旧経営陣無罪 原子力ムラ擁護の判決だ
2019年9月21日  琉球新報

 原子力ムラに寄り添った判決と断じざるを得ない。
 2011年3月に起きた東京電力福島第1原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の旧経営陣3被告に、東京地裁が無罪の判決を言い渡した。事故回避のために原発を止める義務を課すほどの大津波の予見可能性はなかったと判示した。
 避難者が集団で国や東電に損害賠償を求めた民事訴訟では、津波を予見でき事故を回避できたとする判決が多い。
 刑事裁判では過失立証のハードルが高い。そうだとしても、未曽有の被害をもたらした原発事故で誰も刑事責任を負わないのは納得し難い。
 国は「絶対安全」と強調し、各地で原発の設置を推進した。万全の用意があって初めてそう言える。現実には、「絶対安全」だから最高水準の対策は不要という、倒錯した理屈がまかり通った。
 原子力政策を所管する経済産業省、原発を運転する東電など、産官学から成る原子力ムラは本来、原発事故に対して連帯して責任を負わなければならない立場にある。規制等を担う国と東電は「共犯」関係にあったと言えよう。
 「事故が起きないように、また起こったとしても人体や環境に悪影響をおよぼさないよう、何重にも対策が取られています」「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」
 文部科学省と経産省が10年に発行した小学生・中学生向けのエネルギー副読本「わくわく原子力ランド」「チャレンジ!原子力ワールド」に、このような記述がある。
 政府は、教育現場を含め、さまざまな機会をとらえて「安全神話」を植え付けようとした。
 今回の判決は、自然災害に対し、事故が絶対に起きないレベルの安全性が求められたわけではない―と指摘している。政府の主張がうそ偽りだったことを改めて浮かび上がらせた。
 「あらゆる可能性を考慮して必要な措置を義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる」とも判決は断じた。事故当時、「絶対安全」を確保しつつ原発を稼働させることなどできなかったわけだ。ここでも政府の欺瞞(ぎまん)が浮き彫りになる。
 起訴状によると、3被告は大津波を予測できたのに対策を怠り、原発事故によって長時間の搬送、待機を伴う避難を余儀なくさせるなどして、44人を死亡させたとされる。
 電源設備を高台に移し浸水しないように適切な対策を講じていれば、事故は回避できたはずだ。遺族、被害者の無念はいかばかりだろうか。市民感覚から懸け離れた東京地裁の判決である。
 本をただせば、「絶対安全」を掲げて原発建設を推し進めた、政府の国策詐欺同然の手法にたどりつく。原子力ムラの責任を曖昧にしたままでは禍根を残す。 


最後まで読んでくださってありがとう
人気ブログランキングへ
クリック してね
 

 記事は毎日アップしています。
明日もまた見に来てね
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする