アメリカを代表する作家アンダスンが、突然気を失い、経営していた塗料製造会社から姿を消したのは、1912年の11月27日のことであった。この年、アンダスンは36歳になっていて、秘書を相手に文章を口述中であった。突然喋るを止めたアンダスンは、事務室のドアを開けて出て行くとそのまま行方不明となってしまった。
失踪から4日後、アンダスンはクリーブランド市のドラッグストアの椅子にしょんぼりと座っているのを発見された。医師の診断では、極度の過労とストレスの結果、完全な記憶喪失にかかっていることが判明した。この失踪事件から7年後、アンダスンは代表作『ワインズバーグ・オハイオ』を発表している。オハイオ州の架空の都市ワインズバーグに住む25人を主人公のする短編をつなげて関係を持たせた新しい形式の小説で、新しい産業社会の隆盛に押されて沈んでいく田舎町の人々の生活を描いている。
私の本棚の片隅に、村上春樹の作品と並んで、新潮文庫の『ワインズバーグ・オハイオ』と『アンダスン短編集』が立ててある。この小説を推奨したのは、山形文学伝習所に訪れた今は亡き井上光晴であった。短編を連ねて一つの長編に仕立てていく形式に、井上光晴が共鳴したためであったかも知れない。
この小説のなかに「手」と題する一篇がある。ワインズバーグに住む小柄な老人であるウィング・ビドルボームの手にまつわる話である。彼の手は敏捷で、苺畑で一日に140クオートもの苺を摘んだ。若い新聞記者であるジョージ・ウィラードは、この老人と親しくなって二人で話をする機会が増えていった。
「ウィング・ビドルボームはそこで言葉をきって、長いあいだじっとジョージ・ウィラードの顔を見つめた。彼の目は輝いた。またしても彼は手を上げて少年の肩を撫でだした。と思うと、恐怖の表情がさっと彼の顔をよぎった。」
このとき、この老人は教師であったころの忌まわしい事件を思い出したのである。ウィング・ビドルボードは両手を深々とポケットつっこんだ。
本・書籍 ブログランキングへ