つい先ごろまで、山へ行くのは趣味のひとつに過ぎなかった。年老いると、自然に山に行けなくなり、その趣味は終わっていくものと、単純に思っていた。今年になって山に行ったのは3回に過ぎないが、山を見る目や意識に大きな変化が生まれているような気がする。これから先、自分の足であと何年山へ行くことができるか、という自身への問いかけが増えている事実がある。その意識が一回の山行を大事にしたいという意識が強まっている。その分だけ、山で得られる感動の質が過去よりも一段と深まっているように感じる。仲間たちの山への思いに共感できることもびっくりするほど増えている。山はすでに趣味の領域を越え、生きていく意味を知らせてくれる存在であるように思える。
北杜夫は「山について」というコラムで、山のやさしさについて語っている。カラコルムの遠征隊加わって得た体験から、「日本の山々は緑に満ち、いかにも優しい。(中略)日本人は、いくら荒々しいといっても根底は優しい日本の山に登り、幾多の文学作品を産んできた。その文学の根本は、やはり優しいということである。」と述べている。尾崎喜八の山の随想が、まるで水が砂地に吸い込まれれるように、心の襞に沁み込んで行く。
尾根では、いつものとおり暖かでひっそりして、自分自身がおとなしい野山の鳥やけものや
何をも強く要求しない草や木とちっとも変ったものでないことが感じられたし、頂上では、
周囲からぬきんでたその高さのために心が高尚にされて、そこからの眺望は、いつもひとつ
の高い見地というものを教えられることだった。
こんな山の随筆を拾い読みしながら、ひとときを過ごしたり、ブログにその思いを綴ることは、いかにも心楽しい時間である。