フエイスブックの友人から誕生日を祝うコメントが届いた。昨年、後期高齢者の仲間入りをしたが、もうそれから一年が経った。一年が経つのがあまりにも早く感じられるのは、高齢者の特徴であるらしい。今日はどんよりとした曇り空だが、静かな日だ。今日は特別の日だから、心に残る本を読もうと本棚を探してみた。一冊の文庫本、『井上靖全詩集』が、本棚の隅に埋めこまれていた。文庫本の解説を読むと、この詩集が世に出るのは、昭和33年で井上靖が『闘牛』で芥川賞を受けた8年後になっている。井上は小説を書くかたわら、ひそかに詩を書き綴っていた。
詩集を開いて拾い読みをしていくうちに、一篇の詩が目にとまった。題して「比良のシャクナゲ」である。
むかし「写真画報」という雑誌で“比良のシャクナゲ”
の写真をみたことがある。そこははるか眼下の鏡のよう
な湖面の一部が望まれる比良山系に頂きで、あの香り高
く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおお
っていた。
その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆ
られ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろ
うことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤
独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうとー。
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峰の白い花を瞼に描く機会は私に多
くなっている。ただあの比良の峰の頂き、香り高い花の
群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、
その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひ
らすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下
界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだ
らぬものに思えてくるのであった。
この詩なのか、散文とも思える文に触れて、私の来し方、精神の遍歴のようなものが浮かび上がってくる。76歳の静かな日に、ぴったりとくる一篇である。井上は自分の詩を、「詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さい箱のようなもの」と述べている。井上のこの詩への対し方にも共感を覚える。