
天正10年(1582)6月2日、早朝、明智光秀は本能寺に織田信長を襲った。その日、備中高松城(中国地方)を攻略中の秀吉から援軍の依頼を受けた信長は、京都・本能寺に側近を連れて宿泊していた。出陣の命を受けた光秀は、丹波・亀山城から自軍を率いて、備中に向かったいた。織田軍団の武将たちは、天下統一を果たすため、各地で交戦中であった。光秀が反旗を翻したのは、その幸運と言える信長の隙をついたものであった。
頼山陽は、その時の光秀の心中を詩に詠んでいる。「吾れ大事を就すは今夕にあり。茭粽手に在り茭を併せて食らう」つまり、この大事をなすことに気も動転し、皮を巻いた粽を皮ごと食う始末であった。やがて、丹波から出てきた光秀は、京都と備中の分岐する老の坂に至る。
老の坂西に去れば備中の道
鞭を揚げて東に指せば天猶早し
吾が敵は本能寺に在り
敵は備中に在り汝能く備えよ
頼山陽の律詩「本能寺」の後半である。老の坂を西に取れば、秀吉の援軍として行く備中の道。東には信長の泊まっている本能寺である。ここで光秀は自軍に向かって、「敵は本能寺にあり」と叫ぶ。初めて、反乱の意思を全軍に知らしめたのである。空はようやく白んでくる早暁であった。多勢に無勢、明智の謀反を知った信長は自害する。だが、歴史家でもあった頼山陽は、結句で、光秀の真の敵は、備中にいる秀吉であることを詠んでいる。謀反を知った秀吉は、いち早く敵と講和を結んでとって返し、光秀軍を葬り去った。