結城哀草果が育った村は、山形市百目鬼(どめき)である。珍しい地名である。それだけに地名にまつわる伝説もある。この村の近くをを流れる本沢川が、ドドーと音を立てて流れていた。その音からとったのが百で、目鬼は恐ろしい鬼の目のような地形からきているという。急流が運んでくる石を除いて、田を拓く作業は、この地区の先人たちの努力以外にはない。近隣には、悪戸という土地もある。これも川の淀みでたまる芥からきているという。百目鬼と同様に、ここでも田が拓かれ、肥えた土地であった。年貢を軽減するため、この地名を残したという。村の人々の知恵というべきか。
尊さよ稲の葉先におのづから水玉のぼり日は暮にけり 哀草果
哀草果は養子として結城家に入るが、すでに美田では稲を育てるのに余念がなかった。哀草果は田の見回りがしながら、農作業を覚えていった。作業のかたわら書籍を読み、歌を作り随筆を書いて、中央の雑誌に投稿した。哀草果は上級の学校に入ることは許されなかったが、本を買うことは認められた。農作業のないとき、哀草果は蔵の2階にかくれるようして本を読んだ。作業場にローソクを立てて、本を読む歌も作っている。
今日のように農機などはなく、農作業は家族が身体を張らなければならない。電気とてない、時間の取れない農業中心の村から、なぜこのような才能あふれる歌人が出たのか。哀草果の歌集を読んでいると、その謎が少し解けたような気がする。この村の近辺からは、漢学の本沢竹雲や数学の会田算左衛門を輩出し、月並み俳句をひねる風流庶民の存在など、村には文化的な気風が育まれていた。ひとり哀草果だけでなく、『山びこ学校』の無著成恭、画家の斎藤二郎、『山が泣いている』の作者鈴木実など、全国に名の知れた人材を輩出している。
あかがりに露霜しみて痛めども妻と稲刈れば心たのしも 哀草果