久しぶりに、悠創の丘まで散歩に行く。次第に散歩の回数も少なくなっている。しかし、気持ちの持ち方で、散歩の習慣も維持できるように思える。足はいままでと変わりなく動くし、1時間30分かけて、9000歩を歩いてもさほどの疲労感はない。途中、季節の花を探し、桜や梅が実をつけているのを撮影する楽しみが、散歩へ背中を押してくれる。
本棚を整理していると、昔、読んだ本の気になった部分を抜き書きして、カードに整理してファイルしてあったのを見つけた。読んだ本は伊藤整の長編『変容』だ。小説の語り手と、老人が飲み屋で交わす会話の場面である。
「龍田君、七十になって見たまえ、昔自分の中にある汚れ、欲望、邪念として押しつぶしたものが、ことごとく生命の滴りだったんだ。そのことが分かるために七十になったようなものだ、命は洩れて失われるよ。生きて、感じて、触って、人間がそこにあると思うことは素晴らしいことなんだ。語って尽きず、言って尽きずさ。」
彼は私を脅かすように睨みつけ、やがて私を羨むように目をそらし、失われた生そのものを感じて歯ぎしりすような、怒った顔になった。
この本を読んだのは30年以上前のことで、記憶をたどれば、よほどこの部分を気に入って、大学で文学を教えている友人に、この小説の感想を、話したことを覚えている。彼は、「変容、ああ、あれは未完の小説だよ。」と言下に、否定的な言葉を発した。しかし、それは若さが故のせいだあったような気がする。七十歳を過ぎて、小説の言葉はさらに現実的な力を持って立ち上がってきた。