論語の子罕編に、
子、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝く者は斯くの如くか、昼夜を舎かず
というのがある。有名な川上(せんじょう)の嘆である。日々の過ぎるのが、異常に早く感じる年になって、この言葉は重い。頼山陽は13歳のとき、はじめて作った漢詩に、「十有三春秋 逝く者は已に水の如し」と詠んで、論語の句を踏まえたが、13歳の少年が感じる句の重みは、70歳をはるかに過ぎて、比すべくもない。
この句の解釈は、日本では古くから、人間の生命も、歴史も、川の流れのように休むことなく移ろっていくという詠嘆と宇宙の活動が無限に発展するものとする希望、という二つの解釈が行われてきた。桑原武夫は『論語』のなかで、この句は絶望としての詠嘆と解釈すべきではなく、静かな諦念の境地とみるべきと、指摘している。
若い世代が読むのと、老年が読むのととでは自ずから受け取り方は異なるであお^ろうが、私もこの諦念の境地を支持したい。過ぎ去った青春は取り戻せるものではないが、その回想のなかで美しいものとして、そっとしまっておくことはできる。