この春は、山菜のわらびなども採ったが、山行で見た新緑と高山の花が印象に残った。この光景を見ることができるのはあと何回か、ということが頭をよぎると、新緑の輝きは老いた者の心を強く打つ。「末期の目」という言葉があるように、年齢とともに物を見る目は、毎年深くなって行くようである。
幸田文に『木』という随筆と呼べばいいのか、紀行文なのか区別されないような本に、年取って木を見ることに触れた部分がある。
「芽吹きを好く癖は以前からのものだけれども、ここ数年はよけいその傾向が強くなった。多分、老いたからだと思う。老いた心はひとりでに、次の代へ繫続とか、新しい誕生とかへの、そこはとない希望がいつも、潜在的に作動しているようである。私が花や葉もその生れの時期を好くのは、そういうひそかな下心のせいにちがいなかろう。」(幸田文「安倍峠にて」)
幸田文の観察眼は鋭く、見たものを文に書き取る能力にも優れている。
「蕾が花に、芽が葉になろうとする時、彼等は決して手早く咲き、また伸びようとしない。花はきしむようにほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。」
幸田文のような眼を持つことができれば、いまそのどまんなかにある老年の日々は、もっともっと輝かしいものになるに違いない。