常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

『木』幸田文

2017年06月08日 | 読書


この春は、山菜のわらびなども採ったが、山行で見た新緑と高山の花が印象に残った。この光景を見ることができるのはあと何回か、ということが頭をよぎると、新緑の輝きは老いた者の心を強く打つ。「末期の目」という言葉があるように、年齢とともに物を見る目は、毎年深くなって行くようである。

幸田文に『木』という随筆と呼べばいいのか、紀行文なのか区別されないような本に、年取って木を見ることに触れた部分がある。

「芽吹きを好く癖は以前からのものだけれども、ここ数年はよけいその傾向が強くなった。多分、老いたからだと思う。老いた心はひとりでに、次の代へ繫続とか、新しい誕生とかへの、そこはとない希望がいつも、潜在的に作動しているようである。私が花や葉もその生れの時期を好くのは、そういうひそかな下心のせいにちがいなかろう。」(幸田文「安倍峠にて」)

幸田文の観察眼は鋭く、見たものを文に書き取る能力にも優れている。

「蕾が花に、芽が葉になろうとする時、彼等は決して手早く咲き、また伸びようとしない。花はきしむようにほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。」

幸田文のような眼を持つことができれば、いまそのどまんなかにある老年の日々は、もっともっと輝かしいものになるに違いない。
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