常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

家族

2017年07月02日 | 日記


家を離れて、学生となり一人暮らしを始めたころ、父母は遠い地から畑で採れたメロンや野菜を送ってくれることがあった。当時は空腹な生活を送っていたにもかかわらず、食への関心も薄く、父母の心遣いに感じ入るということはあまりなかったような気がする。自分で野菜作りをするようになって、子や孫に採れたてを送って喜ぶ声を聞くと、顧みて自分の青春時代は心が家族から離れていたように思う。関心は自分が生きていく道を切り開くことで、家族や故郷は二の次であった。日本の戦後の高度成長は、こんな心の構造の若者を多く生み出した時代であったように思う。

東日本の大震災で、家族や絆ということが見直された。しかし現実は、都会の片隅で孤独死していく人は増えていく一方である。孤独死というものが、これほど普通のことになってくると、従来の死生観の変更を余儀なくされる。今日は詩吟の会の、吟詠大会が開かれる。構成吟で選ばれたテーマは「子を思い、親を思う」、つまり家族に関する詩を特集して吟ずる。時宜を得たテーマであるように思える。山上憶良から暁烏敏まで、11人の詩人の詩が選ばれている。その中で頼山陽が一番多いが、私が注目しているのは、文化・文政から幕末を生きた歌人・橘曙覧の独楽吟である。

たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時 橘曙覧

曙覧は本居宣長の国学の風を慕って歌の道に進み、清貧のうちに国学者としての気概を貫いた。心の内面を重視し、国学者の実践者として清新な心の歌を詠んだ。なお、構成吟の最後を飾るのは僧にして哲学者暁烏敏の歌である。

十億の人に 十億の母あるも わが母にまさる母あらめやも

この歌を聞きながら、上野動物園で子を産んだシンシンをふと考えた。あの大きな体で、手に収まる子パンダを、一刻も離さずに、守っている姿は、やはり母の鑑というべきではないか。
コメント (2)
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