雨上がりの紫陽花は、ことのほか美しい。それほど雨や水とこの花は似合っている。文学作品にも、紫陽花をモチーフに多くの作品が書かれてきた。泉鏡花の『紫陽花』も、小説のクライマックスに紫陽花が登場する。この掌編に登場するのは、10歳ばかりの氷り売りの少年と腰元を連れた年かさの貴婦人の3人である。少年は氷室から出した氷、実は雪の固まりを筵に包んで、それを天秤にかけて担いでいる。年端のゆかない少年には、荷は重くよろけるようになりながらも、「氷や、氷や」と叫びながら、市へと走っていく。冷蔵庫などない、明治の世である。
その少年の前に日傘を杖のかわりして歩く貴婦人が、後ろから傘をさしかけさせて現れる。暑さのためによほど喉が渇いたのであろう、「あの、すこしばかり」と少年に声をかけた。少年は筵をほどき、氷の固まりを鋸で切り取った。ところが、出かけに継母が渡した鋸が炭を引いたままであったので、氷には炭の粉がついて真っ黒である。少年が何度もやり直しても、氷は黒いままだ。暑さのために氷はみるみるうちに融けていく。
貴婦人は、待ちきれず「さ、おくれよ。いいのを、いいのを」と急かせる。少年は残った氷をさし出した。貴婦人が「こんなのじゃあ」と言って払いのけると、少年は怒ったように貴婦人の手を掴んで、小川の辺に連れていく。少年は、流れに炭で黒ずんだ雪を洗い、水晶のようになった氷のつぶを貴婦人に見せて「これでいいかえ」と言った。貴婦人は「堪忍おし、坊や、坊や」と
言いながら、気を失って絶え入る様子である。腰元がかけよって「御前さま、御前さま」とすがりついた。
気を失いかけている貴婦人の口へ、少年は雫のような氷を含ませた。その貴婦人は、少年に淋しい笑顔を見せたが、ひともとの紫陽花の色がその顔にうつりこんでいた。貴婦人がその後、蘇生するのか、はかなくなってしまうのか、その結末は書かれていない。