常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

余白の時間

2018年02月27日 | 日記


年に一、二度、大学時代の旧友と同期会を行っている。十数名が集まって、夜遅くまで盃を傾ける。仙台や東京から駆けつける常連もいる。いくつになっても、話は学生時代の思い出になる。しかし、寄る年波で、今年集まったのは6名。酒好きで、元気な者ばかりで、酒の上とはいえ、言いたいことがいい合える、なかなか得難い会合である。酔うと「あのバカが」というのが口癖の、一番元気な男が、今年は連絡もなく欠席した。誰も口にはしないが、身体を壊していないかという心配がふとよぎる。いつ重い病になっても不思議のない年代ののだ。

後期高齢を過ぎて、誰もが余白の人生を過ごしている。定年を過ぎてから、大学に入りなおし、彫刻を始めた人。新聞に個展を開いた記事が載る。篆刻を始めた人からは、展示会の案内が届いたりする。歴史を専攻していた友人は、古文書の研究会に入り、余白の時間のほとんどをその解読に当てていると話す。解読できないことが楽しい、と真顔で話す。経済学を専攻した人からビットコインは何ぞやと問いかけられたり、「源氏物語」を古文で読でるいるという話す人があるかと思えば、山形市の街の歴史の生き字引のような人がいる。そうかと思えば、妻の思いがけぬ病に介護の苦労を赤裸々に語る人。数時間の会合にしては、話は尽きることはない。

人生を生き抜いてきた老いた顔ばかりだが、年輪を重ねていい顔になっている。余白の時間の過ごし方はそれぞれだが、誰にも責めたりすることはできない。残された時間を、自分の裁量で過ごすのは、この年代に許された数少ない自由である。
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