常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

塩原温泉

2012年06月23日 | 旅行


晴れ。台風一過のおだやな陽気。
那須塩原温泉へ出かける。娘夫婦と孫、先方の両親と約2年ぶりの再会である。ガーミン社のGPSのナビで高速道を塩原温泉に直行する。

塩原温泉卿は明治17年に塩原街道が開かれるて、塩原11湯として知られるようになった。尾崎紅葉、夏目漱石、斉藤茂吉、田山花袋などの文人が訪れ、この地を舞台にした作品が生み出された。

国道400号は、次第に山地へ向かう。渓谷に沿ってカーブの多い山道を過ぎると、トンネルがある。渓谷に沿って設けられている散策路で、清流の景観を楽しむ観光客の姿があった。初めて訪れるところだが、目前に那須山地が迫り、思いがけない景勝地である。
この街道を開いたのは、土木県令で名高い明治の三島通庸と知って感慨深いものがあった。通庸は山形県令時代に栗子隋道、関山隋道を開いた人物だからだ。



私たちが泊まったホテルは那須塩原ホテル。塩原温泉郷の中心地に位置する。リザーブされた7階の部屋は、落ちついた和室、窓からは林の向こうに、山地が広がっている。2年ぶりに再会した懐かしい顔、なかでも孫の成長と爺婆世代の健在がうれしい。



部屋で小憩ののち、温泉の北を流れる箒川沿いの散策路をみんなで歩く。川の対岸にも山地がせまり、緑が豊かである。



那須山地を下ってくる箒川は急流だが、水はあくまできよらかで、釣竿を手に肴を追う釣り人の姿も見られた。岩魚か、はたまた鮎か。午後の日差しが温泉地にあまねくそそぎ、
いつか旅愁に浸っていた。



ホテルの裏側に源三窟と呼ばれる史跡鍾乳洞がある。ここは源義経の腹心であった源有綱が頼朝軍に追われて、この洞窟に隠れ住み、お家再興を図った跡とされ、武士が米をとぐ姿が再現されている。雨水が地下の石灰岩を溶かしてできたの空洞が、この鍾乳洞であるとパンフレットには解説している。



ホテルの夕食。メインデッシュは和牛の陶板焼き、生姜の釜飯。2年ぶりの再会で会話が弾む。健康談義、震災の話、原発の話、孫の進路などなど。娘のおしゃべりが座の中心になっている。いつの間に、こんなおしゃべりになったのか。
食後爺同士で囲碁の対戦、1勝1敗の平和なドロー。長距離運転の疲れも、温泉で流されここちよい眠りにつく。


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路傍の花

2012年06月21日 | 日記


デジカメ片手に朝の散歩。あたりに目をやると、たくさんの花があることに気づく。
きょうはそんな花たちを写真に収めてみた。いつも思うが、どうして写真が上手にならないか、またしても思い知らされた。

散歩コースの道路にはプラタナスなどの街路樹があり、その根元に花が植え込んである。ちょうど、黄花コスモスの花盛りである。昨日の強風で、コスモスの木が倒れているが、けなげに花をいっぱいに咲かせている。この花はコスモスの一種ではあるが、葉は菊に似ている。秋風が立つと可憐なコスモスの花が咲くが、黄花はひと足先に満開だ。



足元にドクダミの白い花が咲き始めた。ドクダミは別名十薬といい、茎に強い香りがある。悪臭と嫌う人もいるが、白い十字の花を愛する人も多い。緩下剤、利尿剤など古くから薬草として利用されてきた。

どくだみの十字に目覚め誕生日 西東三鬼



雨に似合うのは紫陽花だが、多くは蕾の状態で、日当りのいいところでガクがほころび始めた。もう、二、三日で紫の花が見られるだろうか。アジサイに紫陽花の字を使ったのは平安時代の学者、源順である。白楽天が命名した紫陽花は、陽を好む別の花である。長い間、誤用してきた。

紫陽花や白よりいでし浅みどり 渡辺水巴



ぶどう畑ではすでに花の時期を過ぎ、実が成長を始めていた。花でなくとも、充分に美しい光景だ。房のひとつひとつに、紙をかぶせ成長を守っている。



ジャガイモの花が終わろうとしている。強風のため、方々で倒れかかっている。この花を見ると、ふるさとを思い出す。北海道のジャガイモ畑は、一面に花をつけるとみごとだった。花がさいて20日も経つと、根の先に新ジャガができる。蒸して塩をつけて食べると、淡い香りが口に広がった。

五升薯といひて珍重蝦夷に住む 高浜年尾



バラが花びらを散らし始めた。路傍の花は白を中心に地味な花が多いが、バラには華やかさがあふれている。方々のバラ園で、その妍を競っている。
わずか一時間ばかりのあいだに、こんなにも花に出会うことができる。

花びらの落ちつつほかの薔薇くだく 篠原梵

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緑のカーテン

2012年06月20日 | 日記


台風4号が駆け足で通過していった。
6月の台風が本土上陸すいるのは、珍しいことらしい。ここ山形へは、昨日の雨、そして夜半の風が強かったが、電車の運転停止ぐらいで大きな影響はなかった。

わが家の西の窓は西日が入り、夏はまぶしく室温も上がる。そこで去年から、ベランダにゴーヤを植えて、緑のカーテンを作った。去年の反省を踏まえ、西に高くネットを張り、6本の
ゴーヤを這わせている。昨夜の風でゴーヤは大丈夫かと見たが、脇ツルがしっかりとネットをつかみ無事であった。

ゴーヤはこれからわき目を出し、葉が込み合って日をさえぎる筈だ。下の方で早くも花をつけた。カーテンの役割と同時に、実も成らしてくれる。
ゴーヤは沖縄で使われている名で、沖縄料理のゴーヤチャンプルーがブームになってこの名が一般的になったが、和名はツルレイシである。別名ニガウリ。

俳句の季語では荔枝(レイシ)が秋の植物として分類されている。
なかの実を包むわたは甘く、皮には苦味があるので、ニガウリと呼ばれる。この間、テレビで紹介されていたが、中綿を捨てるのはもったいない。この部分の天ぷらが美味である、ということが語られていた。

実をひそめ雨晴れている荔枝棚 八木林之助

ゴーヤカーテンを作る方法がネットで紹介されいた。摘心を2回行って葉を繁らすことだ。一回目は八枚目の葉のところで摘心、翌日7枚目の枝目を取る。翌日6枚目の枝芽を摘む。そして5枚目から下の枝を伸ばす。

2回目の摘心。小枝の葉が7枚出たら芯をを摘む。小枝の枝芽は摘まずにそのまま残す。

台風の影響で気温が上がる昨今だが、ゴーヤの緑のカーテン効果を期待したい。
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桜桃忌

2012年06月19日 | 日記


さくらんぼが出回った。お茶菓子がわりに、赤い可憐なさくらんぼが出される。自動車を修理した帰りに、お土産にさくらんぼをいただいた。甘酸っぱい懐かしい味が、口いっぱいにひろがる。季節の贈り物に知り合いに送る準備をする。

昭和23年6月23日、玉川上水に投身自殺した太宰治と恋人の戦争未亡人山崎富江の遺体が発見された。二人が失踪してから1週間後のことであった。奇しくもその日は、太宰治の39歳の誕生日にあたっていた。この時期は、さくらんぼが出回り、ちょうどひと月前に書いた小説「桜桃」にちなんで、「桜桃忌」と名づけられ太宰の生前を偲ぶ集いが、三鷹市の禅林寺で開かれるようになった。

「子供より親が大事」。小説「桜桃」で太宰その人を連想させる父がつぶやく言葉である。白痴の長男と生まれたばかりの長女の世話に明け暮れる妻を横目に、筆の進まない小説の仕事に嫌気を抱いて飲みに出かける父の言い訳の言葉だ。

その飲み屋で、つまみに桜桃が出た。
「私の家では、子供たちにぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事もないかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾のように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。

この小説を書いて、2ヶ月後に太宰は心中をしている。このとき太宰はすでにぎりぎりの精神状態であった。「人間太宰治」を書いた山岸外史は、最後の会見で太宰が吐いた言葉を記している。

「君、とかげの尻尾ってやつは、切られたあとでも、まだ、ぴちぴちと、地面の上で踊っている。あれは、切られても、まだ、生きているのだ」

太宰は最後の瞬間に、ぴちぴちと跳ね回りながら、「人間失格」を書き上げたのである。
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切り抜き張

2012年06月18日 | 日記


昔、新聞の切り抜きにはまっていたことがある。もう30年も前の作業だが、いまも保存して時々眺めたりして楽しんでいる。朝日新聞に「日記から」と題して、著名な作家や学者が1週間単位で、日記風なエッセーを書きつぐコラムがあった。

朝の散歩から帰って切り抜き張をパラパラとめくっていると、散歩に関するものが、2編目についた。中国文学の一海知義と山田風太郎のものである。

一海知義は「散歩」と題して、
「このごろなぜか早起きになり、毎朝散歩する。雨の日も傘をさして出る。そう遠くへは行かぬので、同じ道を歩いていることが多い。いきおい同じ風景の中での四季の微妙な変化、人びとの生活の移り変わりががうかがえて、興深い。」

さらに続けて漢学者らしい薀蓄が述べられる。
「ところで散歩の散は、散木、散人などというときの散に通ずるらしい。散木、散人ともに中国古代の哲学書『荘子』に見える。散木とは、使い道のない役立たずの樹をいう。散人も同様、いわば無用の人間をいい、よく雅号の下につけて何とか散人と気取る人もいる。散歩も同じだとすれば、散歩とはあてもなくふらつくこと、用もない外出である。散歩は健康によいなどというが、それは結果であって、健康のために散歩したのでは、散歩の語義に反する。」

散歩という漢字はどこか和風で、漢詩に梁川香蘭の「散歩」というのがあったと記憶しているが、どこか漢文化と似合わない語だと思っていたが、一海先生の薀蓄でこんな誤解も払拭された。

山田風太郎の「午前三時半の散歩」はユニークだ。
「未明の散歩。ある夏の夜明け方これをやったらきわめて快適だ。それからやみつきになった。多摩の丘の上の町から犬を連れていろは坂を下り、麓の堤防を歩いて帰る。行程約1時間10分。途中で日の出を見ることになる。すると、このごろは午前3時半出かけるのがいちばんいい。だから、出かけるときはまだ真っ暗だ。」

こんな時間には人通りもない。パトカーが不審がって、止まって様子を見ていた、とも書いている。私の知り合いにも、暗がりから散歩に出かける人がいるが、やっぱり気持ちがいいのだろうか。雪道を暗がりで懐中電燈を持って歩いているいうが、危ないなあと思っていたら、案の定転倒して腰を痛めた。

私の散歩は、そのときに応じて臨機応変である。
雨の日や雪道は階段を約1時間、時間のないときは近くの坂道を約1時間、比較的ゆとりのあるときは、自転車で千歳山に行き頂上まで往復1時間。そして目的ははっきりと、足の筋肉を鍛えるためである。健康はもちろん、足が弱ると老化が進む。そのために、はかない抵抗を試みている。
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