常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ブラケット撮影

2012年11月24日 | デジカメ


デジカメが面白い。長いあいだデジカメをいじってきたが、昨今のデジカメの機能はおどろくばかりだ。ブラケットなど、聞いたこともない機能だが、この撮影にセットすると明るさや色合いが、3種類を自動的に変えて記録してくれる。明るさを微妙に変えるだけで、写真の雰囲気は驚くほど変わる。

パノラマ撮影も感動的だ。ターゲットマークを合わせるだけで、3枚のつながりでパノラマ写真が得られる。動画も実に簡単に撮影できる。散歩、登山などの楽しみに写真に記録する楽しみが追加された。当分、このカメラに慣れるまで、さらなる楽しさを満喫したい。

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小雪

2012年11月23日 | 日記


昨夜の最低気温が-0.3℃、この秋始めてマイナスになった。24節気の小雪である。雪の便りが聞えてくるが、まだ本格的な雪の季節ではない。日ざしは次第に弱くなり、紅葉した葉が散っていく。通りでは、落葉を集めて、広場の片隅で燃やしているのを目にする。子どものころの唱歌を懐かしく思い出す。

かきねの かきねの 

まがりかど

たきびだ たきびだ

おちばたき

「あたろうか」

「あたろうよ」

きたかぜ ぴいぷう

ふいている

次第に寒くなっていく室内で、暖房に火鉢を取り入れている。ほんのりとしたやさしい暖房である。ふとんの中は湯たんぽだ。エアコンやガスストーブの出番は、さらに気温が下がってからだが、節電というより生活を昭和の時代に戻すことで、その日の暮らしが楽しくなる。
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青トマト

2012年11月22日 | 農作業


畑の後片づけをする。一シーズンなり続けたトマトが、最後に青い実をたくさんつけていたので採ってくる。去年の秋に、産直売り場で青トマトが販売されていたので、買ってきたことを思い出したからだ。酢漬けにしてピクルスにすると大変おいしかったので、この実でことしもピクルスづくりに挑戦する。

青トマトをキーワードにグーグル検索をしてみると、驚くほどのレシピがヒットする。思いがけず、日本中にこんなにも、青トマトを食べている人がいると思うと嬉しくなる。

二つ三つふぐり下がりに青トマト 石塚 友二

日本人がトマトを食べるようになったのは、そんなに古い時代でもないらしい。家庭菜園を始める理由の一つが、いつでもトマトが食べられるということであった。畑に行くたびに、赤くなったトマトをもいでくるのが、今年の楽しみであった。ことしは、きいろのトマトを植えたので楽しみも倍加した。加えて、猛暑である。ほとんどの葉もの野菜が縮こまって成長しないなかで、暑さに強いトマトだけは、元気になりつづけた。

そんなトマトに感謝をこめて、畑からそっと根をぬいて、柿の木の下に葬った。来年は、もっと精進しておいしい野菜がつくれるようにと、トマトの木に誓った。
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三吉山

2012年11月21日 | 日記


わが家のベランダの正面に上山の三吉山が見える。右の肩が尖って見える山である。標高574m、頂上に神社があり、上山市民に親しまれている山だ。斉藤茂吉が生まれた金瓶から、三吉山は手に取るように眺められた。

おさなくて見しごと峯のとがりをる三吉山は見れども飽かず 斉藤茂吉

茂吉が子どものころ遊び歩いた野山から、三吉山はその姿を隠すことなくどこからでも見ることができた。子どものころから馴れ親しんだ山の姿は、年を重ねても身体のなかに埋め込まれたような記憶として残り続ける。東京への空襲が激しくなって、茂吉は生地金瓶へ疎開するが、傷心の茂吉を抱き抱えるように三吉山は茂吉を癒したのである。

茂吉の父・熊次郎は長男広一の満州従軍中に、武運長久を祈って、金瓶から三吉山頂上の神社へ日参するのを欠かさなった。私もこの山には5度ほど登ったが、頂上までの標高差は400mもあるので、日参はよほどの強い意志がなければ叶わぬであろう。

ベランダから三吉山の山容が毎日眺められる。稜線を左へ進むと葉山だ。この山の左端は、山砂利採集のため削られ、その山容を大きく変えた。
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落ち葉

2012年11月20日 | 日記


雪の来る前、山道には分厚い落ち葉の絨毯になる。青春の日には、こんな落葉を見て感傷に誘われたこともある。それは、上田敏の訳なるヴェルレーヌの詩を口ずさんでいたからかも知れない。

秋の日の

ヴィオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し。

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かへて

涙ぐむ

過ぎし日の

おもひでや

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

ささめなく

とび散らふ

落葉かな。

こんな詩を暗記して、朗誦するのが恥ずかしく、口のなかでひとり飴をしゃぶるようにして味わった。青春の日のなつかしい思い出である。



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