常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

干し柿

2012年11月19日 | 日記


朝の気温が2℃。朝の太陽のもとで、ベランダの干し柿が乾燥を待っている。この季節の風物詩だが、ことしの柿は伊藤先生から頂いた。尾花沢の柿は、焼酎で渋抜きして、生食で食べている。ことしの柿は小粒だが、甘みが強くおいしい。干し柿もおいしくなるか。

干柿の緞帳山に対しけり 百合山羽公



デジカメ「オリンパスXZ-1」が値下げになったので購入。いままで使っていたコンデジとは比べようのないシャープな写真が撮れれる。しばらくは、このデジカメの操作に慣れることに重点を置く。
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大井沢峠

2012年11月17日 | 登山


峠の樹間から、雪を被った朝日連峰が垣間見られた。ここ数日の冬型の気圧配置で、不順な天気の晴れ間をみて、大井沢峠をあるいた。この峠は、大江町柳川と西川町大井沢を結ぶ峠道であった。最上川舟運で左沢に運ばれた物資を大井沢へ運ぶ、山中の動脈であった。昭和になって国道112号線が整備され、車がここを走るようになると、この峠道の使用は次第に減少し、現在は廃道になっている。

天気予報が今日の晴れを報じていたので、高速山形道を使って大井沢に向かう。朝、7時に自宅を出て、月山の冠雪を見るころ、青空に日がさしていたが、大井沢に着く頃には、雨が降っている。登山口で様子を見るが、雨脚が強いので様子見方々、この道の情報を教えてくれた志田さん宅へ行く。気持ちよく迎えてくれ、道の様子を詳しく教えてくれる。

「私はここで店をやり、酒を売っていたんです。酒を仕入れるため、この峠道を歩いていたのす。2斗の酒樽を背負って、峠越え2時間半ぐらいだったな。その内、法律が変わって、酒は1升瓶でなければ運んで悪くなってからは、1升瓶10本が一回に運ぶ量だったな。昔人だから、長くは休まないのよ。疲れてくると腰掛けられるような樹を見つけて腰を下し、少し休んで、すぐまた歩き始めるという具合にな。道は濡れていると滑るから気をつけろや。熊がいるから、話し声を出しながら行け。ここの熊は、悪さをしないのでな」

志田さんの話は、昭和の時代がつい昨日のように甦らせてくれる。この村落に生涯を奉げた女医・志田周子のことが、ふと思い出される。

西山のオリオン星座 かヽるをみつヽ患家に急ぐ 雪路をふミて 志田 周子

西山とは大井沢の集落の西に聳える朝日山塊の山々である。大正から昭和の無医村でひとり苦闘する周子の心中は、いかばかりであったろうか。北海道の無医村・志文内で馬橇で雪の中を、しかも夜、往診に出向く守屋富太郎(斉藤茂吉の兄)のことが偲ばれる。

ひと寝いりせしかせしまに山こえて 兄は往診に行かねばならぬ 斉藤 茂吉



峠は標高867m、落葉の上には昨夜の雪が薄く見られた。沢を登るところで道をはずし、藪をわける登りになる。道をはずしたお陰というべきか、倒木にキノコがたくさん出ている。ナメコ、マメツムタケ、ムキタケ、クリタケ等々。ことし一番の収穫となる。

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里山に雪

2012年11月15日 | 日記


寒気が入って、雨の夜は冷えて、朝ベランダから見える里山に雪が降った。昔から、龍山に雪が3回降ると、いよいよ平地に雪がくると、この地方では言い伝えられてきた。朝の外気は当然のことに冷たい。道路に散った落ち葉を濡らす初しぐれの季節である。

芭蕉の句に

初しぐれ猿も小蓑をほしげなり

去来と凡兆が編纂した蕉門の発句・連歌集である「猿蓑」の最初に掲げられた芭蕉の発句である。普通、発句集では、春から始めるが、いきなり冬の初しぐれを出したところに、この一門の思い切りのよさと面白さがある。

そんな猿の心境も分かるような寒気の到来だ。畑の片付け、春に向けての準備となにかと心さわしない季節だ。

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高松葉山温泉 古窯

2012年11月12日 | 詩吟


詩吟の仲間と年一回の温泉を楽しむ。一年の吟の練習の成果を録音してCDにする。もう5年以上続けた、伊藤先生発案の催しである。宿は葉山温泉、名高い古窯だ。このホテルの会長も古くからの岳風会の会員である。岳風会の新年会を、ここ古窯と天童温泉の滝の湯で交代で行っているので、もう馴染みの宿である。

教場は教わる曜日によって三つに分かれている。この三つが一同に集まるのは、秋の懇親を兼ねた発表会以外にない。昨年、古窯を使ったところ、女性の会員から好評であったので、今年も同じ会場になった。昨年は、東日本大震災の余波で、旅館も閑散としていたが、少し観光に人が戻ったのか、かなりの泊り客がいた。

この旅館はもてなしがいいと評判を取り、拡張してきたが、一時のブームも去り、昨年の停滞のあと落ち着きを取り戻しているように見える。温泉が何よりで、8階の大浴場からは、上山の夜景が楽しめる。宴会の料理は年寄りには、大きすぎるボリュームだ。すき焼き、マツバ蟹、マグロトロ鮨がメインで、一晩でカロリーオーバーになる。朝のバイキングも、細かな気遣いが行き届いている。

宴会はカラオケで盛り上がる。詩吟愛好家には、カラオケ好きが多いようである。年一度、仲間で泊まって、縮こまった生活を発散させたことになる。こうした集まりも、一人欠け、二人欠けて年々縮小していくのは止むを得ないことである。
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金山峠

2012年11月10日 | 登山


峠道は、日本の近代化とともに、どんどんと新道にとってかわられ、通る人もなく忘れ去られていく。上山市と宮城県七ヶ宿町を結ぶ羽州街道の金山峠もそんな峠道である。かっては出羽の大名が参勤交代の道として使い、楢下には本陣が二つ置かれていた。

明暦にこの道が改修されて、馬が通るようなったが、それまでは荷は背負子が担いで運んだ。いま、その峠道を上から見た写真を撮ったが、急峻な山道であることが一目瞭然である。改修後はここを物資の通る道として利用され、塩、綿、米、酒などが奥州へと移出され、宮城側からは生魚、麦粉が移入された。荷物を積む馬車が通るようになったのは、明治の中期になってからである。

山の会のリーダーのTさんの提唱で、県内にある峠道を歩こうということになり、今日は下見をかねて、金山峠の入り口と峠を越える地点を確認した。車道を歩く男性が一人、リュックを背負って歩いている。車を止めて、どこまで歩くのですかと聞いたところ、「上山から七ヶ宿までですよ。七ヶ宿に着いたらまた戻ってきます。いつも歩いてますよ」ということであった。

かっては誰もがこの山道を歩いたのだが、いまそれを聞くと誰もがびっくりしてしまう。車は確かに物流に革命をもたらし、この社会になくてはならないものだが、歩く行為が極端にすくなくなったことで失われていくものもまた多い。おりから、山の木々は紅葉の最終期を向かえ、燃え立つような錦繍である。
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