不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

放射冷却

2021年01月06日 | 日記
朝、目が覚めて外を見ると朝焼けが見えた。青空のなかに千歳山の雪景色を見るのは何日ぶりだろう。それだけに、放射冷却で氷点下7℃という、この冬一番の冷え込みになった。窓を開け放って部屋に外気をいれると、冷たい空気に身が引きしまる。久しぶりの青空に、心にたまった鬱積も晴れたようだ。東根温泉でゆっくりする予定をしていただけに、この晴天はことのほかうれしい。
とりあえず、周囲の山の雪景色をカメラに収めた。昨日、ワンノートの機能をスマホとパソコンに同期することに成功したので、細かなメモが取れ、ブログの更新も便利になったので、温泉旅行の楽しみも増える。

冬青空わが魂を吸ふごとし 相馬遷子 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒の入り

2021年01月05日 | 日記

今日小寒、いわば寒の入りである。2週間後には大寒を控え、一番寒い季節がやってきた。列島の東西、日本海側では雪、太平洋側では乾燥期である。低温と乾燥、コロナやインフルエンザ菌が活発になる条件でもある。寒は厳しい季節に違いないが、雪国の人はそれを受け入れ、逆手にとって楽しんでいる人もいる。昨年の冬に雪がなかったので、積雪を喜ぶ向きも多い。今年は、どのスキー場も、雪に関しては心配はない。

白菜の沁みるしたじや寒の入 神保愷作

昨日、テレビで山形郊外の山中で、雪中のソロキャンプを楽しんでいる人たちが紹介されていた。テントの内には暖をとる薪ストーブ、外には料理用の器具を持参して雪上ではなければできない料理を楽しむ風景があった。中でも桜の薪の上でつくるスモーク料理。野菜も肉も、桜のスモークでしっかりと焙られて、いかにも美味しそうな料理である。キャンパーが口を揃えて言うのは、「静か」だということだ。しんしんと降る雪の音のほかにには、鳥の声も絶えているのであろう。街では出会えない異界が、すぐ近郊の山中にある。

同じ雪中の暮らしでも、良寛が越後の国上山中腹の五合庵で過ごすした冬は、想像をこえた厳しいものがある。雪が深くなると、雪を踏んで庵を訪ねる人も絶えてしまう。そこで一冬を越すためには、暖や調理のための薪の用意、そして何よりも飢えをしのぐに足る食料。

うづみ火に足さしくべて臥せれども
 こよひの寒さ腹にとほりぬ 良寛

厳しくそして寂しい一人暮らし日が長いほど、春を待つ心の期待は深まる。そして春を迎える歓びそれだけ大きくなる。良寛の歌や詩の深さは、この越後の厳しい冬のなかで得られたものだ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽し

2021年01月04日 | 日記
雪が降り続く。年末からの雪は、車道こそないものの、近所の庭先の木々には重たいくらいに降り積もった。コロナの感染は衰えを知らず、総理の年頭の記者会見で緊急事態宣言の今週中の発出を表明した。明るいニュースのないなかで、天皇陛下の年頭のあいさつに接して、安堵する気持ちがした。原稿をテーブルの上に置いてあるが、そこへ目を落さず、一語一語ゆっくりと心をこめて語る言葉が心に沁みる。YouTubeの映像を保存して、じっくりと見た。

正月たち春の来らばかしくこそ
 梅を招きつつたのしき終へめ(万葉集巻5 815)

どなたかのブログで梅の花が咲いた写真を拝見した。ニュースは暗いものばかりだが、古い言葉「楽し」を取り上げて新年の賀としたい。古語辞典を引いてみると「楽し」の意味は、満腹で満ち足りた気持ちで貧しの対とある。もっとも平安の女流文学にこの言葉が見られないのは、宮廷の女房たちの意識に口にのぼせるのにふさわしくないと考えたであろう、とまで古語辞典に書いてある。ちょっとはしたない、ということであろう。

また宴会などの酒肴が豊富で満ち足りた感じ、裕福である。金持ちだというの意味も項目に載っている。お正月のお節料理や、お正月の親戚中が集って宴げを催すことは、「楽し」と表現される。明治になって唱歌にも

年の始ののためしとて
終りなき世のめでたさを
松竹たてて門ごとに
祝ふ今日こそ楽しけれ

年が明けたが、近年この楽し、という生活は我が家から縁遠くなるばかりだ。迫る病、もてあますお節料理、当分実現しそうにない家族の集い。年老いた二人だけで、形ばかりの正月を終えた。せめてもの癒しとして、温泉旅館で上げ膳据え膳を楽しみに行く。コロナには感染しないように注意をしながら。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦月

2021年01月03日 | 日記
一月のことを、かつては睦月、むつきと言った。一年に一度、親せきや友人が集って、睦み親しみ合うことからきているらしい。今年はコロナの影響で、こんな昔からの風習も自粛を余儀なくされいる。
今日も朝から雪、気温は-2℃。こうまで雪が続くと、すっきりとした青空が恋しくなる。昨日の駅伝の中継を見たが、関東の空は、雲ひとつない青空であった。背骨のように列島の中央を通る山脈の、東と西では、これほど気候が違うのかと、この季節になると思い知らされる。

あんどんの油なめけり嫁が君 子規

札幌の友人が、気温が零下19℃まで下がったと知らせてきた。こんな知らせに接すると、昔過ごした北海道の正月が思い起こされる。薄い戸板だけの廊下はさしづめ冷蔵庫のようであった。した豚のや牛の足が一本まま天井から下げてあり、一冬の一家の蛋白源を賄った。10人ほどの大家族には、これくらいのワイルドさが必要であった。そういえば、成人して友人の家を訪ねた時、居間の後ろの窓を開けて、雪の中にビールをさし込んで冷やしてご馳走になったことも忘れられない。天井を走り廻るネズミの音が年中聞こえてくる。養蚕などしている農家では、ネズミは害獣で嫌われた。「嫁が君」というは、ネズミのことで、ネズミをいないものとする隠語であった。明治の頃は寝静まった家の行燈の油を舐めることもあったらしい。

新年も三日目になると、お節というのが飽きてくる。二人住まいで新年を過ごすためにほんの少しだけ準備したものが、まだ大量に残っている。年を重ねると、食べる量が少なくなっていることに改めて気づかされる。明日も、明後日も、残さずに食べるには、飽きたなどとは禁句になる。早くいつもの食事に戻りたいと思うのは、食べる量が少なくなったことと大いに関係している。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正月二日

2021年01月02日 | 日記
元旦が雑煮で、二日は麦とろが我が家の定番である。家の伝統などというものはないが、二日の日にとろろ掛けご飯を食べるのは、子どもの頃からの慣わしだ。長芋は長生きにつながるという胡散臭い縁起を長くかついできただけで、ことさら自慢するようなことでもない。しかし、そのおかげかなのか、朝飯が済んでから窓の外にすばらしい景観があった。新年の冷たい雪を被った千歳山がその存在感を主張している。こんな景観は長生きをしていなければ、なかなか見られないだろう。

ひっそりと村の二日のつねのごと 長谷川素逝

雪道を外に出てみる。昔の正月は、2日が買い初めであった。貰ったわずかなお年玉を握りしめて、雪道を3㌔もある町まで歩いた。その頃を思い出しながら、ケーズデンキまで歩いたが、雪の足をとられて歩きづらい。静かだった元日に引きかえ、車が車道で渋滞している。車列を横目にして、店に入ると、すかさず検温、手指消毒。それにしても、店のなかはびっくりするよう大勢の人が来店して、ざわついている。こんな売り場を見るのは久しぶりだ。初売りの風景はそこにあるが、子どもの頃の買い初めの高揚はすでにない。雪道にとられた足の疲れがばかりが気になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする