常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

流山がすごい

2022年12月22日 | 日記
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最近、本の読み方が変わってきた。ハウツー本などは、読んではいけないと教わってきた。しかし、年齢を重ねると、読む本のジャンルも変わってくる。本は主にブックオフから、安くなったものを選ぶ。興味の中心は、AI関連、脳関連、精神医学の樺沢本、筋トレ関連など、むしろハウツー本のようなものが主流になっている。そんななかで、成毛眞や落合陽一など、新時代の書き手にも注目している。FBで成毛眞をフォローしていたら、大西康之『流山がすごい』という新潮新書のレビュウがあった。仕事上の知り合いらしく、日経の記者であり、流山市民の大西から、流山を一度見てください、と言われていたという。

流山に行ったのは先月11月25日のことだった。生後半年のひ孫を見るためだ。おおたかの森駅前のホテルから冬晴れの富士山を見て感激した。アマゾンで『流山がすごい』を注文したら、発売の19日に届くという知らせが届いた。この本の第1章は「保育の楽園が生んだ奇跡」である。孫は産休で職場を休んでいるが、来春には子を保育園に置いて、職場に復帰する。もう保育園も決まり、復職の準備も進んでいる。この街の保育のシステムは、駅中に保育ステーションがあることだ。朝、電車に乗る時、このステーションに子を置いて出勤する。ステーションでは、子たちをバスに乗せ、それぞれの保育園に預ける。夕刻、バスは保育園から子を受け取り、ステーションに置いて電車で帰ってくる親の迎えを待つという仕組みだ。流山市民なら月2000円でこのサービスが受けられる。この保育の制度が人気を呼び、流山は人口増加率1位を6年間続けている。

山形から流山まで、足の弱った妻のために車で行った。上山で東北中央道に乗り、福島から東北道、郡山から磐越道、いわきから常磐道で流山インターまで、休みながら5時間弱。保育の街として注目を集めているが、もう一つ大きな注目点がある。今は公園でしか活用していない利根運河。千葉と茨城を分ける利根川を江戸川と結ぶ運河は、舟運を期待して明治に西洋の技術で開通した。鉄道が舟運にとって変わると、運河はすぐにご用おさめになった。インターを降りて、運河大橋まで9㌔、江戸川の河川敷に巨大な倉庫群が現れる。12棟、延床面積162万㎡、東京ドーム30個分という巨大さだ。倉庫は言うまでもなく、ネットショッピングのアマゾン、楽天が物流の拠点となっている。先日送らてきた一冊の本も、この拠点から送られてきたのかも知れない。

さらに、この倉庫群を上った台地に有機野菜の農場がある。ここで作った採れたての野菜は、コンビニにのぼりを立てて売られ始めた。子育てから、有機野菜、そして無店舗のネットショップまで。ここには、新しい日本の未来の姿がある。そんな環境で育つひ孫は、どんな子に、新しい時代の子に育っていくのだろうか。楽しみなことである。
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雪晴れ

2022年12月21日 | 登山
待ちに待った雪晴れである。予報は終日曇りと、あったが晴れ間を待って里山を登る。山の会の今年最後の山行だ。山中でも30㌢ほどの積雪で、カンジキも必要としないが、坂道では雪の下の枯れ葉に乗ると足が滑る。だが、久しぶりに見る青空、木の着雪。やはり、低い山でも、自然に触れることは楽しい。足が弱くなり、この後どれほどの山に登れるかと思うと、この景色を見逃せないという気持ちが強くなる。新雪の上に、一人か二人の足跡がある。人が歩いているということだけでも、うれしい気持ちになる。

深雪道来し方行方相似たり 中村草田男

盃山。山形市の馬見ヶ崎川の対岸の山だ。ここは遥か昔、学生時代にしばしば登った里山だ。夏から秋、この川は伏流水になって、石ころの川になる。そこを渡って、この山に登った。不思議に友達と一緒ではなく、寮から一人で歩いて山に行く。山に登りながら、故郷のことを考える時間であった。石狩川の畔で育ったので、川にある緑や山は、故郷を偲ぶことに適していたのかも知れない。山の上から、山形の街が望遠できる。同級会で山形に来た友人が過ごした時間は、この川であった。馬見ヶ崎川は、青春の思い出させる懐かしい川である。旧制山形高校に学んだ亀井勝一郎も、春の盃山に登ったことを書き残している。

「春は三月、四月、そのころになると私はよく盃山に登った。この小山の裾を馬見ヶ崎が流れているが、それを眼下に見下ろし、山形の街、桜桃畑、野、田畑とひろびろとした盆地を眺めつつ、柔かい春風のなかで昼寝したものである。海のないのがはじめの間実に不思議であった。

私もだが、亀井も、この里山の思いでを、終生にわたって心のうちにしまっていた。この時期に青春の聖地に来ることができたことが幸せである。この日の山行同行者6名。男女3名ずつ。
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雪を踏む

2022年12月19日 | 日記
昨夜からの雪で、道路が圧雪になった。除雪車が未明に来て、道端に雪を除けて、その上に5㌢ほどの雪が積もった。スニーカーで雪道を歩いた。久しぶりの雪を踏む感触が懐かしかった。子どものころの、北海道の雪が思い出される。その頃の雪はサラサラであった。昨夜のここに降った雪は湿気を含み、靴で踏むと、キュッキュッと音がする。毛糸の帽子と手袋で、寒さは防げる。雪の上を歩く楽しさ、遠い昔の記憶が身を軽くする。

冬帽の内にひとりひとりの帰路 中尾寿美子

昨夜、夜中に一度目が覚めた。枕頭の本に手を伸ばす。落合陽一『日本進化論』、荻野文子『ヘタな人生論より徒然草』。超高齢化社会をテクノロジーで解決する、というこの時代ならではの視点と吉田兼好の徒然草の視点で、この社会を生きる。この二つの取り合わせが面白い。こんな時間を過ごせるなら、眠りは少し犠牲にという思いがよぎる。それでも、本の一編を反芻しながら、眠りに就いた。

「人は、自分の生活を簡素にし、贅沢を退けて、財宝ももたず、俗世の利欲をむやみに欲しがらないのが、りっぱだといえよう。昔から、賢人で裕福な人はまれである。(『徒然草』第18段)人間に必要なものは第一に食うもの、第二に着るもの、そして第三は住むところ。衣食住と病気のときの薬、この四つのものがあれば幸福である。落合陽一の説く、高齢になって衰える身体を、AIなどのテクノロジーで補う。長い時間の経過のなかで、生きることの意味はさほど変わっていない。


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寒波

2022年12月15日 | 源氏物語
雪が降りつづく。厚い雪雲に覆われた空は見えず、辺りの山並さへも消し去っている。ここへきて、山形の豪雪地肘折に、一日で83㌢の積雪があったと報じられた。一晩で朱鞠内や幌加内の積雪を追い抜いた。自分の生涯は、豪雪地と無縁ではない。昭和55年の山形市に一晩で降った雪は1ⅿを越えた。午後から降り出した雪が、夕刻にはバスの運行さえままならず、車が進まず置き去りにした車はさらに道路を使えないものしていった。その夜、バスで帰ったが、20分ほどで着く家まで、3時間もかかった記憶がある。

寒波が居座っているが、雪はまだ道路に積る状況ではない。車の屋根の雪も数㌢にとどまっている。週末に、さらに強力な寒気が降りてくるらしいが、その時の降雪がどうなるか、心配なことだ。雪は現代の交通手段さえ、時にはマヒさせる。古い時代の山に住む人々は、雪に閉ざされ、外に出ることさへ容易ではなかった。雪はしばしば、別離のシンボルとして文学のなかで語られてきた。『源氏物語』の「薄雲」には、源氏との間に生まれた明石の姫君と母明石の君の悲しい別れの名場面がある。

明石の姫君は将来、天皇の后になることが占い師から予言されている。だが、明石の辺境の地にあって、その望みは叶えられない。源氏は姫君を二条院に迎え、紫の上の養女になることを提案する。明石の君は、二条院に自分の居場所はないが、娘の将来を考え、源氏の提案を受け入れる。母と娘、生木を裂くような悲しい別れの朝、君の住むあたりは雪が深く積っていた。

落つる涙をかき払ひて、「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」とらうたげにうち嘆きて
  雪深みみ山の道は晴れずとも 
  なほふみかよへあと絶えずして
とのたまへば

雪が降るこんな日には、娘のことが気がかりになるでしょう、どうか絶えることなく頼りを寄こしてください、と乳母に嘆願した。この場面は、京都嵐山の渡月橋の辺りである。小倉山の山麓であり、桂川の対岸に嵐山が聳えている。雪が降り積る季節、明石の君は我が子との別離にのぞんでどんな思いであっただろうか。柔らかい白い絹の衣を何枚も打ち重ねて、ただ軒端から、山の雪や汀の氷を打ち眺めていた。
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次年子そば

2022年12月14日 | グルメ
大石田の次年子へ友人と蕎麦を食べに行った。1300円で食べ放題。ワラビの一本漬けとキクラゲ、キュウリ漬けが出て、お椀入りの蕎麦はお代わり自由。普通の蕎麦店なら1椀は盛り蕎麦1枚と見ていい。豪の者は、5杯、6杯と行くが、今日は自分と友人が3杯半、一緒の女性が2杯。辛味大根の汁が入ったツユがサッパリして食欲をそそる。数年前に来た時は1杯1000円であったが、蕎麦の風味は記憶と違っていない。食べた量も、当時とほぼ同じだ。雪のなかの山中の蕎麦店だが、平日でも10人近くの客がいた。

次年子は葉山の東北に位置し、大浦口、山内、川前から入るがいずれも峠を越える近づき難い山村である。大同2年に、秋田からお里という婦人が入村し、箕造りを伝えたという伝説がある。この技術は、狭い村のなかだけで受け継ぎ、門外不出の技術であった。箕とは、竹で編んだバスケットの形をし、ここに米の実と、付随する殻や不要な小片を中に入れ、風にあてながら振るって穀物だけを残す、選別の手作業用具だ。機械化が進んだ現代では、もう見られない懐かしい道具である。次年子のような山村で、平安の昔から連綿と受け継がれて来た箕造り。戦後の30年位まで続いたであろう。

集落のなかで箕を一家で手分けして箕を作り、稲刈り前の時期に、箕を持って農家を廻るのは男の仕事であった。農村に入ると、懇意にしている家に泊りこんで、古い箕の修理と持ってきた箕を売る。ただ、集落にだけある箕造りの技術を、他出させない約束が色々とあった。入り婿した集落の者は、箕を作るのは集落に帰ってしなければならなかった。箕と炭焼き。加えて、集落の山地を開墾して少しづつ田畑増やす。昭和の時代には、ここは40戸ほどに分家を増やしていた。箕が廃れてて、蕎麦を生業とする家ができたが、この山中まで客を呼ぶのは容易ではない。自家製の蕎麦粉と手打ち、そして食べ放題という、この地独特の蕎麦屋が口伝えに広がっていく。宮城や福島など隣県と、山形方面から、客が来るようになった。


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