山辺町の根際からら山道を登ると、愛宕神社がある。火伏の神社として地区民の尊崇を集め、今回の道を案内してくれたMさんも坂道をお神輿を担いだという話であった。その神社から続く歴史の道は、能中峰道と呼ばれ、途中で分岐して大蕨街道とつながっている。この街道は、廃道となり倒木や藪となって通ることができない。Mさんは、この道を直して、かっての街道を開くことが夢であると語った。
大蕨には稲村七郎左衛門という豪商がいる。尾花沢の鈴木清風を彷彿とさせる大商人だが、その出自に注目したい。戦国の折、難を避けて鳥海山山麓の大蕨稲村岳の近くに住んでいた郷士で、この地に入り山野辺家の客分として一族16名で移住している。山野辺家から260刈の田地を与えられたといえ、豪商へと成長するには、この街道の存在なしに考えられない。ここから宮宿への山中の街道は、近郷の青麻、紅花を集荷して最上川の舟運を使って京、大阪への商いが成立した。また、街道は出羽三山への参拝の道としても賑わい、馬継や茶屋など旅人が落とす金銭もあったであろう。稲村氏の出自である大蕨や鳥海山の地名や山の名がここにあることも関係しているのではないか。我々が歩いた能中道は、この豪商が谷を埋め、切通しを作り、できるだけ平坦にして通る人々の負担を軽減していた。
このような深い山中に点在する田畑を灌漑するには水源となる池が必要であった。湧水を集めて築堤し、大きな沼とするには、大規模な人力を必要とした。近在から集まる人は、宝暦の泥浚いで3万人、平時の水掛でも3,000から5,000人の人足が動員されたとの記録がある。冬を迎えるばかりの湖面は澄みきってさざ波を立てていたが、この池にも長い歴史の物語が眠っている。(続く)