17年一緒に暮らした愛猫を亡くしましたが、日々のささやかな幸せを、
手のひらで温めて暮らしています。
この週末、みみにゃんは
年1回の健康診断と予防接種。
春はフィラリア予防で混むので
今年から秋に切り替えました。
相変わらず、病院嫌いのみみにゃんは
キャリーに入るのを嫌がって大暴れ。
じたばたするみみにゃんと取っ組みあって
私は汗だく、毛まみれで。
すっかりドラ猫モードになって
「ふぎゃーお、ふぎゃーお」大騒ぎだけど
決して引っ掻いたり、噛んだりしないから、
みみにゃんはすごいと感心しつつ。
(帰宅後、隠れてしまったみみにゃん)
お腹に針を刺す尿検査と血液検査、
そして、お尻に予防接種。
痛いことばかりでかわいそうだけど
ありがたいことに、肥満以外は問題なし。
突然キャリーに押し込められて、
自分のテリトリー外にさらわれて
他の猫や犬の匂いだらけのところで
痛いこといっぱいされるのだから
みみにゃんの負担は察するに余りある。
12歳といえば人間だと60台半ば。
予防接種していないと万一の時に
入院させてもらえないことが多いから
ここまで無理やり頑張ってきたけれど
いつまでこの負担を強いるべきか
これからは悩むことになりそうです。
この頃、ふと思うことがあって。
それは自分が思うほどに
自分は弱くないのじゃないかということ。
そして自分が思う以上に
多くの人々に支えられてきたことを
忘れすぎかもしれないということ。
例えば、わたしの左手の手首のあたりには
3歳の時にアイロンでやけどをした、
ダイヤ形にひきつれたやけどの痕がある。
かなり目立つところにあるのに、
一度もそのことでいじめられたことがない。
私自身がまったく気にすることなく、
隠しもしなかったせいもあるだろうけど
これまで出会った人々が優しかった。
子どもの頃は、残酷なものだから、
「気持ち悪い」と言われても仕方ないのに
思えば、誰一人、ただの一度も。
おかげでこのやけどの痕を
コンプレックスに思うことなく大人になれた。
(こんなお食事も余裕で完食)
それにわたしは小さい時から体が弱く、
今でも冷えればすぐ体調を崩すし、
体力もないので、無理はきかない。
20代、30代の頃は病院との縁が切れず
入院や手術も何度も経験したけど、
気がつけば、ここ10年くらいは
大きな病気も、入院もしていない。
普段は「体力のなさ」に気をとられ、
「どうにかこうにか元気」位に思っていたけど
同年代の知人・友人がつぎつぎと
大きな病気を経験したりしているのを聞くと
ひょっとしたら私は元気なのかも、と。
これまで自分の体力をずっと否定してきたけど
わたしは自分の体をもっと信じていいし、
自分の体力にもっと自信を持つべきかも。
病弱だったわたしが、この年まで
仕事をずっと続けてこれただけでも、
小さな小さな「奇跡」に等しいこと。
そして自分が優しい人々に囲まれてきたことを
あたり前ではなく、もっと「ありえないこと」、
「あり難いこと」と感謝しなくては。
ここに今のわたしが存在していられるのは
自分が強かったとか、運が良かったではなく、
たくさんの人々に支えられていたから。
これもまた、小さな「奇跡」にちがいない。
そんな当たり前で、大切なことを
日常に流され、忘れてしまうから、
グチったり、文句が出たりするのかも。
誰にでもあるそんな小さな奇跡を
これからはもっと大切にしなければ。
伯母に続いて、知人までもが他界。
伯母は90歳を越えた大往生だったけど
知人は20歳も年下の女性で
しかも第一子の出産がきっかけ。
赤ちゃんが無事に誕生したのがせめても。
経過は順調で、出産真近と聞いていたのに
飛び込んできたのは、思いもかけない訃報。
どうすることもできず、言葉もなく、
仕事中にもふとした拍子に涙がこぼれたり、
以来、なんだかすっかり情緒不安定。
つきあって11年になるおしどり夫婦で、
妊娠初期に中東赴任が決まった彼女を支えるため
だんなさまは、仕事を辞めて同行したほど。
だんなさまの心情を思うと、胸がさらに痛む。
ああ、「悼む」とは「痛む」ことなんだ。
彼女のことを思うとき、こんなに心が痛む。
彼女と一緒に仕事をしたのは2-3ヶ月程だったけど
私のどこかに彼女の存在が確かに刻まれていて
そこがキリキリと締めつけられるように痛む。
「魂の永遠」を信じているわたしでも
「肉体の死」がこんなにもつらいなんて。
本当の「死」の意味を分かっていなかったと
今さらながらに思い知りながら、
ただただ、彼女の冥福を祈るしかなく。
一週間前に母方の伯母が他界。
お葬式にも参列出来なかったので
せめてお写経をさせて頂きたくて
久しぶりに嵯峨野に行きました。
正座ではもたない自信があったので
椅子に座ってお写経できる大覚寺へ。
時代劇のロケにも良く使われるだけあって
渡り廊下が続く風情が美しい。
観光客の喧騒からも離れ、
静かな時間が流れています。
一心不乱にお写経した後は、
ランチでひと息入れた後、清涼寺へ。
海を越えて渡来した仏様の説明を伺って
次は緑に包まれた二尊院へも行きました。
写真は遠慮したのでないですが、
こちらの仏さまは整ったお顔立ちで
2体仲良く並んでおられました。
少し戻って、祇王寺にも寄りました。
こちらは苔が美しく、しっとりした風情で
東山魁夷の絵で、ご存知の方も多いはず。
途中、竹林の中にある野宮神社でお参りし、
最後は天竜寺で夢窓国師のお庭を拝見。
昔はこのお庭が好きで、よく来たものでした。
歩き疲れたので、天竜寺前のお茶屋さんで
本わらびもち入りのパフェで休憩。
ゴマアイスや白玉だんごも入って
すっかりお腹が冷えながらも、完食。
合計2万歩、距離にして14km以上。
疲れたけど、やっぱり嵯峨野は良いところ。
伯母さんも一緒に楽しんでくれたかな。
85歳の
ナディア・ステアさんという女性の
すてきな詩を見つけました。
いろんな日本語が出回っているけれど
あまりにも多くのバージョンがあるので
原文から私が訳したものをご紹介。
「人生をもう一度やり直すとしたら、
今度はもっとたくさんの失敗をしよう。
肩の力を抜いて、のびやかに生きよう。
今よりももっと馬鹿げた人になって、
あまり深刻にならないで、
そしてチャンスを逃したりしないで。
もっとアイスクリームを食べ、
体にいい豆類はそこそこにして。
現実的な問題は増えるかもしれないけど、
頭の中の問題は減るはず。
私はこれまで常に良識ある人生を
あまりにもまともに生き過ぎたから。
(後略)」
(みみにゃんは「面白い人生」の良いお手本)
私はまだ85歳までには時間があるけど
なんだか身に染みてしまった。
小さな失敗はいっぱいあるけど
大失敗する勇気はなかったから。
小さなバカはいっぱいしてるけど
大ばか者になる勇気はなかったから。
いつか寿命が来て、この世を去る時に、
「ああ、どうにか無難に生きたなあ」より
「失敗だらけだったけど面白かったなあ」
そう思えたほうが、やっぱり幸せな気がして。
これから一度は「大ばか者」になって
ちっちゃな自分の殻を飛び出して
「大失敗」というものもしてみたいかも。
そうすると何だか面白い人生が
待っているような気がするから。