17年一緒に暮らした愛猫を亡くしましたが、日々のささやかな幸せを、
手のひらで温めて暮らしています。
以前からずっと念願だった、
満開の藤を見に行ってきました。
調べてみたら割と近くに
藤で有名なお寺があることが分かって。
青空の下で風に揺れる藤は本当にきれい。
小さな藤棚くらいしか見たことがなかったから
こんなに見事な藤が見られてウキウキしてしまう。
名物の九尺藤の盛りは過ぎていたけれど
ちょうど白い藤が満開になっていました。
あまり見たことのない珍しい白藤だけど、
紫の藤に負けず劣らず優美な風情。
境内にはこんな珍しい八重咲の藤も。
一瞬、葡萄の房のようにも見えますが
あたり一面甘い香りが漂っていました。
やっと近くに藤の名所が見つかったから
来年は満開の九尺藤を見ることを
楽しみにしようと思っています。
これは朝の散歩道の一部だけど
こう見えても実は桜の並木道。
もうほとんど散り透いてしまったから
ただの木立にしか見えないけれど
風が吹くたび、ひらひらひらひら、
まだ桜の花びらが散ってきます。
敷き詰められた花びらで道は薄桃色。
もう殆ど葉桜になってしまったから
誰もお花見には来ないだろうけど
私はこの桜の花の最後の風情も好き。
桜の木が一年かけて育んだ花の
最期のひとひらまで愛おしみつつ
行く春を惜しむ今日この頃です。
急にぽかぽか陽気になったので
つい先日、お弁当を持って
小高い山の上にある公園で
のんびりピクニックしてきました。
散り始めたしだれ桜と
咲き始めたつつじの競演に迎えられて。
美しく手入れされたヒノキの森の
緩やかな遊歩道を歩くと
緑の香りと静けさに包まれて
心まで穏やかになってゆくよう。
もみじの柔らかな新緑も目に鮮やかで
ああ、今年も生命が巡ってきたんだなあと
毎年のことながら静かに感動してしまう。
若い頃は春には別れや変化があって
楽しいことばかりではなかったけれど
そういう思い出を全部ひっくるめても
春はやっぱり美しいし、
そこかしこに祝福が満ちているよう。
来年も、再来年も、その先も、
どんな悲しいことや辛いことがあっても
そしていつか私たちがいなくなった後も
こうして春が来て、花が咲くんだなあ。
そんな当たり前のことが
何だかとても大きな救いのような気もするし
春の美そのもののような気がするのでした。
やっと満開になったソメイヨシノが
昨夜の風雨で早くも散り始めました。
せっかく満開になったばかりなのに
花の生命は何とはかないこと。
<遠目にはまだまだきれいな桜並木>
「古きものが、常に新しきものと入れかわり・・・
この天地の間を動いてゆく。
この身が震えるほどの変転の中にあって
人の為せることというのは、
いかほどのものであろうか。
哀しいほどに、人の為す技は無力ではないか。」
「桜を眺めていると、
その人の技のはかなさが思われて、
人というものの可憐さに、
おれはしみじみとしてならぬのさ。」
<道端に散る花びらの中で咲くたんぽぽ>
「だからおれは・・・桜を見ていると、
人というものが愛しくなって
涙がこぼれそうになってしまうのさ。
おれは、人でよかったと、
こうしておまえと酒を飲みながら
桜の葉が風に触れるのを眺めていると、
そのように思うてしまうのだよ・・・」
<風が吹くたびに舞う桜ふぶきも美しい>
夢枕獏の「陰陽師」の中で
源博雅が安倍晴明に語る言葉。
この季節にはいっそう胸に響く。
生きとし生けるもののはかなさと、
それゆえの愛おしさを胸に抱いて
生きてゆきたいと思うのでした。
名古屋の東谷山フルーツパークに
枝垂桜を見に行ってきました。
このところのぽかぽか陽気で
一気に開花が進んだようで、
ため息が出るような美しさでした。
桜の名所と言われる場所は
どこもお花見の人でいっぱいで
人を見に行くようなありさまだけど
ここは広くて人の多さも気にならない。
広い園内を散策しながら
ゆっくりとお花見を楽しめます。
ソメイヨシノも美しいけど、
枝垂桜はピンクも濃くて愛らしく、
舞妓さんのような、優美な風情。
こんなに美しい花々があふれる春は
天からの祝福のように感じてしまう。
今年もまた桜が見られたこと、
(それもこんな美しい桜が見られたこと)
大切な人と一緒に見られたこと、
それだけで十分幸せであることを
桜は思い出させてくれる気がします。