朝8時頃の常念岳です。
シャッターを押した時に目の前をカラスが横切って行きました。
北アルプスの山並み。
≪ちょいと情報≫
昨年12月15日の信濃毎日新聞の記事に、『「信濃の国」30代は歌えない? 県歌50周年を前に県調査 』という記事があり、へえーーと感じていたのですが、 1月5日付の毎日新聞でもこれについての記事が配信されたようです。
以下記事の抜粋です。
信濃の国は十州に--。
長野県が「県民は全員歌える」と誇ってきた県歌「信濃の国」を、県民の1割近くが全く歌えないことが、県のアンケート調査で初めて明らかになった。
30代に歌えない人が目立った。ほとんどの小学校で県歌を教えることが県民への高い浸透率を支えているが、県によると学校で県歌を教えない時期があったとみられる。
調査は長野県在住の1202人を対象に実施。
794人が回答した。
全部または1番を歌える」と答えたのは79.4%、「部分的に歌える」を含めると90.7%に及んだ。
「メロディーは知っているが歌えない」は7.4%、「メロディーも知らないので歌えない」は1.4%で、「信濃の国」を歌えない人は1割弱となった。
「信濃の国」は1900年に教材として制作された。県の北部と南部が対立し「分県論」が噴出した40年代後半、県議会で傍聴席などから合唱が起きて対立を鎮めたという実話が残る。
68年に県民意識を高めようと、県歌となった。
と言う事でした。
長野県のホームページには、県歌「信濃の国」についてのページがあります。
(以下は長野県のご了承をいただきホームページの内容を転載させていただきました。)
■県歌「信濃の国」について(出典 長野県ホームページ)
「信濃の国」は、1899年(明治32年)に長野県師範学校教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌1900年(明治33年)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲しました。
「信濃の国」はもともと信濃教育会(注)が作った唱歌です。
当時は教育の場にも日清戦争の影響が及んでおり、これを心配した同会が戦争とは離れたテーマを教材とすることを目的に長野師範学校の教諭に作成を依頼したもので、「地理歴史唱歌」6作品の中の1つでした。
1900年(明治33年)10月に行われた師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯(今でいえばダンス)に使われたのが、「信濃の国」が初めて披露された場であるといわれています。
その後「信濃の国」は、師範学校の卒業生が県内の学校で生徒に教えたことにより各地に広がり、歳月を経て、親から子へ、子から孫へという形で歌い継がれてきました。
昭和41年に県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、昭和43年5月20日に「信濃の国」が県歌として制定されました。こうして「長野県民のほとんどが歌える」と言われる県歌が誕生したのです。
(注)信濃教育会:現在の公益社団法人信濃教育会。長野県の教育向上を図る目的で設立された、県下の小・中・高・特別支援等学校及び大学の教職員等教員による団体。研修や教育・学術図書の研究などを実施。
以上です。
県歌「信濃の国」を、9割もの長野県民が歌えるととらえるか、長野県民の1割が歌えないととらえるか、ですかね。
過去を振り返って、私が最後に県歌「信濃の国」を歌ったのは、昨年4月に沖縄を旅行した際に夕食をとった料亭那覇ででした。
私自身、「信濃の国」を歌う機会が減っているのは確かです。
国際宇宙ステーションに滞在した、長野県出身の宇宙飛行士である油井亀美也さんは、ISS到着後の通信回線で結んだ約20分間の東京事務所との記者会見の中で、「信濃の国は十州に」と県歌の「信濃の国」を歌う場面もあったそうです。
宇宙でも信濃の国が歌われていたのですね。
第一章 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや通し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
第二章 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳
浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
第三章 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
第四章 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の棧かけし世も 心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ姨捨山
しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
第五章 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
第六章 吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い