前置 1
今年のことだ。
雪が解けると、お隣さんとの境になっている木製の柵が、
壊れていることに気づいた。
早速、業者さんに修理をお願いした。
数日後、2トントラックに小石を積んで、
男の作業員が2人やって来た。
破損の原因は、冬場の凍結だと言う。
だから、雪解け水などが溜まらないよう、
柵の脇に1メートル程の溝を掘って、そこに小石を入れるのだとか。
1人は屈強な中年、もう1人は明らかに高齢者だった。
2人で、剣先スコップで溝を掘った。
作業を見計らって、お茶を勧めようと声をかけた。
わずかな休憩だったが、その高齢男性は多弁だった。
私は、もっぱら聞き役に徹した。
もう80になると言う。5年前、会社を息子に譲った。
膝が悪くて、動くのが大変になったからだ。
そして3年前、思い切って、その膝を人工関節にした。
すごく調子が良かったので、翌年、もう片方も手術した。
「S記念病院の若い医者だったけど、うまいもんさ。」
「昔と変わらず、動けるようになると、
息子の社長が、人手不足を理由に、この俺にも仕事を頼むんだ。」
その後ろ姿は、こうして働けることが嬉しいと語っていた。
前置 2
数ヶ月ぶりに、兄の魚料理店を訪ねた。
ランチ時で、相変わらずの賑わいだった。
しかし、カウンターの中の兄にいつもの覇気がなかった。
調理の合間をぬって、私の席まで来る兄は、
「膝が痛くて、この有り様さ。」
苦笑いをしながら、杖を頼りにし、
両足はくの字に曲げて歩いていた。
数年前から、膝は徐々に悪化していた。
何軒もの整骨院の世話になった。
昨年、近所に評判のいい整形外科医が開業した。
すぐにそこを頼った。
週に数回、膝に注射をしてもらった。
改善どころか、深夜でも痛みで目が覚めるようになった。
それでも、早朝の仕入れ、下ごしらえ、調理、接客と、
いつも通りに仕事を続けていた。
前置 3
パークゴルフで顔馴染みになったご近所さんと、
世間話のついでに「兄の膝が悪い。」と話した。
その方は、長いことS記念病院の整形外科に
入院したことがある。
すかざず、こんなことを教えてくれた。
「私が、入院している間、
けっこう沢山の方が、膝の手術をしていましたよ。
皆さん、数週間で歩けるようになって、退院していきました。
中には、一度に両足とも人工関節にする方もいました。」
「そうか。よし決めた。兄には人工関節を勧めよう。
S記念病院で手術だ。」
私の気持ちは、固まった。
前置 4
珍しく、お盆のお墓参りに兄姉と一緒に行った。
その帰り、姉宅でお茶をいただいた。
その席で兄に、棚を修理に来た高齢男性の話、
S記念病院で膝の手術をした方のことを伝えた。
そして、S記念病院での手術を勧めた。
「いろいろと治療を試みたが、一向に治らない。
だから・・・。」
兄は、ためらった。
「それぞれのお医者さんは、
最善と思うやり方で治療をしてくれたんだ。
でも、今日まで治らなかった。
だから、今度も治らないかも知れない。
それで、今までと同じなんだよ。
でも、もしもだ。もしも、それで良くなったら、
それは、儲けもんじゃないの。
ダメでもともとだよ。やってみる価値はあると俺は思うよ。」
私は、普段にも増して、力説した。
前置 5
私以外の方々からの助言もあり、
両足の人工関節手術を決断した兄から、電話がきた。
「手術の前日に入院する。
……その時、執刀医から手術について説明がある。
……俺と女房だけでは心許ないから、一緒に話を聞いて欲しい。」
と言う。
前日の夕方、年若い整形外科医から話を聞いた。
4時間を越える手術だと言う。
もしものことをいくつか上げ、説明があった。
「でも、この医師なら大丈夫。」
私は、何度か言葉を交わしながら、そう確信した。
そろそろ本題に近づく。
その日、兄が入院したS記念病院の病室は、
2年半前、私が右肘の手術のために使った部屋だった。
もう、町の様相は変わってしまったが、
6階のその窓からは、高校時代まで、
家族5人で暮らしていた場所が、一望できた。
本 題
2年半前、右肘の手術を前日に控えた私の日記である。
『明日、S記念病院で肘の手術を受ける。
そのため、今夜はそこの病室でペンを握っている。
人生、巡り巡って何があるか分からないものだ。
まさか、この病院に入院し手術するなんで、
想像すらしたことがなかった。
昔、この病院は、S所の従業員だけが利用できる病院だ。
私にとっては、高い城壁のむこうにある病院だった。
50年以上も昔と、今では大いに違う。
だが、決して踏み込めなかった病院に、
私は入院、そして手術を受ける。
何とも言い表せない不思議さを感じる。
ただ時の流れと済ませてしまうのは、
どうも私らしくないとも思うのだが・・・。』
私が7,8才の頃、母の友だちがこの病院に入院した。
母と一緒にお見舞いに行った。
病室までの廊下を歩きながら、こんな会話をした。
「私たちはこの病院で診てもらうことはできないんだよ。
入院もできないの。」
「どうして。」
「ここは、S所で働いている人だけの病院なの。」
「へぇ-。」
母は、友だちの体調を気遣い、
見舞いの品を風呂敷に包み、抱えていた。
それは、近所の鶏が産んだ卵を数個譲り受け、
それをもみがらの敷いたお菓子の紙箱に並べたものだった。
大部屋のベットに何人もの患者さんがいた。
「きっと、みんな元のように元気になるんだ。」
そう思って、何故かうらやましくなった。
「もしも、僕たち家族が病気になったら、
どうなるのだろう。」
不安な気持ちのまま、
見舞いのお菓子箱を差し出す母をじっと見ていた。
それから数年の間に、
父と兄姉が次々と入院、手術を受けることになった。
でも、すぐそこにある
S病院のお世話になることはできなかった。
しかたなく、バスで小1時間はかかる病院で、
3人とも治療を受けた。
小さな私の心は、初めて理不尽さを覚えた。
以来、S病院の横を通る時は、
必ずその建物をにらみつけていた。
昭和44年4月、
S病院は、一般市民の診療を始めた。
それでこそ、本来の医療機関の姿だと思う。
どんな事情が企業にあろうとも、
今は、人の命や健康に『公平』であることに安堵している。
そうそう、先日見舞った兄は、
歩行器を頼りながらも、
病棟の廊下をゆっくりゆっくり歩いていた。
その後ろ姿に、ちょっとだけ私の目が潤んだ。
大通りを飾る 満開のベコニア
今年のことだ。
雪が解けると、お隣さんとの境になっている木製の柵が、
壊れていることに気づいた。
早速、業者さんに修理をお願いした。
数日後、2トントラックに小石を積んで、
男の作業員が2人やって来た。
破損の原因は、冬場の凍結だと言う。
だから、雪解け水などが溜まらないよう、
柵の脇に1メートル程の溝を掘って、そこに小石を入れるのだとか。
1人は屈強な中年、もう1人は明らかに高齢者だった。
2人で、剣先スコップで溝を掘った。
作業を見計らって、お茶を勧めようと声をかけた。
わずかな休憩だったが、その高齢男性は多弁だった。
私は、もっぱら聞き役に徹した。
もう80になると言う。5年前、会社を息子に譲った。
膝が悪くて、動くのが大変になったからだ。
そして3年前、思い切って、その膝を人工関節にした。
すごく調子が良かったので、翌年、もう片方も手術した。
「S記念病院の若い医者だったけど、うまいもんさ。」
「昔と変わらず、動けるようになると、
息子の社長が、人手不足を理由に、この俺にも仕事を頼むんだ。」
その後ろ姿は、こうして働けることが嬉しいと語っていた。
前置 2
数ヶ月ぶりに、兄の魚料理店を訪ねた。
ランチ時で、相変わらずの賑わいだった。
しかし、カウンターの中の兄にいつもの覇気がなかった。
調理の合間をぬって、私の席まで来る兄は、
「膝が痛くて、この有り様さ。」
苦笑いをしながら、杖を頼りにし、
両足はくの字に曲げて歩いていた。
数年前から、膝は徐々に悪化していた。
何軒もの整骨院の世話になった。
昨年、近所に評判のいい整形外科医が開業した。
すぐにそこを頼った。
週に数回、膝に注射をしてもらった。
改善どころか、深夜でも痛みで目が覚めるようになった。
それでも、早朝の仕入れ、下ごしらえ、調理、接客と、
いつも通りに仕事を続けていた。
前置 3
パークゴルフで顔馴染みになったご近所さんと、
世間話のついでに「兄の膝が悪い。」と話した。
その方は、長いことS記念病院の整形外科に
入院したことがある。
すかざず、こんなことを教えてくれた。
「私が、入院している間、
けっこう沢山の方が、膝の手術をしていましたよ。
皆さん、数週間で歩けるようになって、退院していきました。
中には、一度に両足とも人工関節にする方もいました。」
「そうか。よし決めた。兄には人工関節を勧めよう。
S記念病院で手術だ。」
私の気持ちは、固まった。
前置 4
珍しく、お盆のお墓参りに兄姉と一緒に行った。
その帰り、姉宅でお茶をいただいた。
その席で兄に、棚を修理に来た高齢男性の話、
S記念病院で膝の手術をした方のことを伝えた。
そして、S記念病院での手術を勧めた。
「いろいろと治療を試みたが、一向に治らない。
だから・・・。」
兄は、ためらった。
「それぞれのお医者さんは、
最善と思うやり方で治療をしてくれたんだ。
でも、今日まで治らなかった。
だから、今度も治らないかも知れない。
それで、今までと同じなんだよ。
でも、もしもだ。もしも、それで良くなったら、
それは、儲けもんじゃないの。
ダメでもともとだよ。やってみる価値はあると俺は思うよ。」
私は、普段にも増して、力説した。
前置 5
私以外の方々からの助言もあり、
両足の人工関節手術を決断した兄から、電話がきた。
「手術の前日に入院する。
……その時、執刀医から手術について説明がある。
……俺と女房だけでは心許ないから、一緒に話を聞いて欲しい。」
と言う。
前日の夕方、年若い整形外科医から話を聞いた。
4時間を越える手術だと言う。
もしものことをいくつか上げ、説明があった。
「でも、この医師なら大丈夫。」
私は、何度か言葉を交わしながら、そう確信した。
そろそろ本題に近づく。
その日、兄が入院したS記念病院の病室は、
2年半前、私が右肘の手術のために使った部屋だった。
もう、町の様相は変わってしまったが、
6階のその窓からは、高校時代まで、
家族5人で暮らしていた場所が、一望できた。
本 題
2年半前、右肘の手術を前日に控えた私の日記である。
『明日、S記念病院で肘の手術を受ける。
そのため、今夜はそこの病室でペンを握っている。
人生、巡り巡って何があるか分からないものだ。
まさか、この病院に入院し手術するなんで、
想像すらしたことがなかった。
昔、この病院は、S所の従業員だけが利用できる病院だ。
私にとっては、高い城壁のむこうにある病院だった。
50年以上も昔と、今では大いに違う。
だが、決して踏み込めなかった病院に、
私は入院、そして手術を受ける。
何とも言い表せない不思議さを感じる。
ただ時の流れと済ませてしまうのは、
どうも私らしくないとも思うのだが・・・。』
私が7,8才の頃、母の友だちがこの病院に入院した。
母と一緒にお見舞いに行った。
病室までの廊下を歩きながら、こんな会話をした。
「私たちはこの病院で診てもらうことはできないんだよ。
入院もできないの。」
「どうして。」
「ここは、S所で働いている人だけの病院なの。」
「へぇ-。」
母は、友だちの体調を気遣い、
見舞いの品を風呂敷に包み、抱えていた。
それは、近所の鶏が産んだ卵を数個譲り受け、
それをもみがらの敷いたお菓子の紙箱に並べたものだった。
大部屋のベットに何人もの患者さんがいた。
「きっと、みんな元のように元気になるんだ。」
そう思って、何故かうらやましくなった。
「もしも、僕たち家族が病気になったら、
どうなるのだろう。」
不安な気持ちのまま、
見舞いのお菓子箱を差し出す母をじっと見ていた。
それから数年の間に、
父と兄姉が次々と入院、手術を受けることになった。
でも、すぐそこにある
S病院のお世話になることはできなかった。
しかたなく、バスで小1時間はかかる病院で、
3人とも治療を受けた。
小さな私の心は、初めて理不尽さを覚えた。
以来、S病院の横を通る時は、
必ずその建物をにらみつけていた。
昭和44年4月、
S病院は、一般市民の診療を始めた。
それでこそ、本来の医療機関の姿だと思う。
どんな事情が企業にあろうとも、
今は、人の命や健康に『公平』であることに安堵している。
そうそう、先日見舞った兄は、
歩行器を頼りながらも、
病棟の廊下をゆっくりゆっくり歩いていた。
その後ろ姿に、ちょっとだけ私の目が潤んだ。
大通りを飾る 満開のベコニア
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