ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

S記念病院に 想う

2016-10-14 22:01:59 | あの頃
  前置 1

 今年のことだ。
雪が解けると、お隣さんとの境になっている木製の柵が、
壊れていることに気づいた。

 早速、業者さんに修理をお願いした。
数日後、2トントラックに小石を積んで、
男の作業員が2人やって来た。

 破損の原因は、冬場の凍結だと言う。
だから、雪解け水などが溜まらないよう、
柵の脇に1メートル程の溝を掘って、そこに小石を入れるのだとか。

 1人は屈強な中年、もう1人は明らかに高齢者だった。
2人で、剣先スコップで溝を掘った。

 作業を見計らって、お茶を勧めようと声をかけた。
わずかな休憩だったが、その高齢男性は多弁だった。
 私は、もっぱら聞き役に徹した。

 もう80になると言う。5年前、会社を息子に譲った。
膝が悪くて、動くのが大変になったからだ。

 そして3年前、思い切って、その膝を人工関節にした。
すごく調子が良かったので、翌年、もう片方も手術した。

 「S記念病院の若い医者だったけど、うまいもんさ。」
「昔と変わらず、動けるようになると、
息子の社長が、人手不足を理由に、この俺にも仕事を頼むんだ。」
 その後ろ姿は、こうして働けることが嬉しいと語っていた。


 前置 2 

 数ヶ月ぶりに、兄の魚料理店を訪ねた。
ランチ時で、相変わらずの賑わいだった。

 しかし、カウンターの中の兄にいつもの覇気がなかった。
調理の合間をぬって、私の席まで来る兄は、
「膝が痛くて、この有り様さ。」
苦笑いをしながら、杖を頼りにし、
両足はくの字に曲げて歩いていた。

 数年前から、膝は徐々に悪化していた。
何軒もの整骨院の世話になった。

 昨年、近所に評判のいい整形外科医が開業した。
すぐにそこを頼った。
 週に数回、膝に注射をしてもらった。
改善どころか、深夜でも痛みで目が覚めるようになった。

 それでも、早朝の仕入れ、下ごしらえ、調理、接客と、
いつも通りに仕事を続けていた。


 前置 3

 パークゴルフで顔馴染みになったご近所さんと、
世間話のついでに「兄の膝が悪い。」と話した。

 その方は、長いことS記念病院の整形外科に
入院したことがある。
 すかざず、こんなことを教えてくれた。

 「私が、入院している間、
けっこう沢山の方が、膝の手術をしていましたよ。
皆さん、数週間で歩けるようになって、退院していきました。
 中には、一度に両足とも人工関節にする方もいました。」

 「そうか。よし決めた。兄には人工関節を勧めよう。
S記念病院で手術だ。」
 私の気持ちは、固まった。


 前置 4

 珍しく、お盆のお墓参りに兄姉と一緒に行った。
その帰り、姉宅でお茶をいただいた。

 その席で兄に、棚を修理に来た高齢男性の話、
S記念病院で膝の手術をした方のことを伝えた。
 そして、S記念病院での手術を勧めた。

 「いろいろと治療を試みたが、一向に治らない。
だから・・・。」
 兄は、ためらった。

 「それぞれのお医者さんは、
最善と思うやり方で治療をしてくれたんだ。
でも、今日まで治らなかった。
 だから、今度も治らないかも知れない。
それで、今までと同じなんだよ。
 でも、もしもだ。もしも、それで良くなったら、
それは、儲けもんじゃないの。
 ダメでもともとだよ。やってみる価値はあると俺は思うよ。」
私は、普段にも増して、力説した。


 前置 5

 私以外の方々からの助言もあり、
両足の人工関節手術を決断した兄から、電話がきた。

 「手術の前日に入院する。
……その時、執刀医から手術について説明がある。
……俺と女房だけでは心許ないから、一緒に話を聞いて欲しい。」
と言う。

 前日の夕方、年若い整形外科医から話を聞いた。
4時間を越える手術だと言う。
もしものことをいくつか上げ、説明があった。
 「でも、この医師なら大丈夫。」
私は、何度か言葉を交わしながら、そう確信した。

 そろそろ本題に近づく。
 
 その日、兄が入院したS記念病院の病室は、
2年半前、私が右肘の手術のために使った部屋だった。

 もう、町の様相は変わってしまったが、
6階のその窓からは、高校時代まで、
家族5人で暮らしていた場所が、一望できた。


 本  題

 2年半前、右肘の手術を前日に控えた私の日記である。

 『明日、S記念病院で肘の手術を受ける。
そのため、今夜はそこの病室でペンを握っている。

 人生、巡り巡って何があるか分からないものだ。
まさか、この病院に入院し手術するなんで、
想像すらしたことがなかった。

 昔、この病院は、S所の従業員だけが利用できる病院だ。
私にとっては、高い城壁のむこうにある病院だった。

 50年以上も昔と、今では大いに違う。
だが、決して踏み込めなかった病院に、
私は入院、そして手術を受ける。

 何とも言い表せない不思議さを感じる。
ただ時の流れと済ませてしまうのは、
どうも私らしくないとも思うのだが・・・。』 

 私が7,8才の頃、母の友だちがこの病院に入院した。
母と一緒にお見舞いに行った。
 病室までの廊下を歩きながら、こんな会話をした。

 「私たちはこの病院で診てもらうことはできないんだよ。
入院もできないの。」
「どうして。」
「ここは、S所で働いている人だけの病院なの。」
「へぇ-。」

 母は、友だちの体調を気遣い、
見舞いの品を風呂敷に包み、抱えていた。
 それは、近所の鶏が産んだ卵を数個譲り受け、
それをもみがらの敷いたお菓子の紙箱に並べたものだった。

 大部屋のベットに何人もの患者さんがいた。
「きっと、みんな元のように元気になるんだ。」
 そう思って、何故かうらやましくなった。

 「もしも、僕たち家族が病気になったら、
どうなるのだろう。」
 不安な気持ちのまま、
見舞いのお菓子箱を差し出す母をじっと見ていた。

 それから数年の間に、
父と兄姉が次々と入院、手術を受けることになった。
 でも、すぐそこにある
S病院のお世話になることはできなかった。
 しかたなく、バスで小1時間はかかる病院で、
3人とも治療を受けた。

 小さな私の心は、初めて理不尽さを覚えた。
以来、S病院の横を通る時は、
必ずその建物をにらみつけていた。

 昭和44年4月、
S病院は、一般市民の診療を始めた。
 それでこそ、本来の医療機関の姿だと思う。

 どんな事情が企業にあろうとも、
今は、人の命や健康に『公平』であることに安堵している。

 そうそう、先日見舞った兄は、
歩行器を頼りながらも、
病棟の廊下をゆっくりゆっくり歩いていた。
 その後ろ姿に、ちょっとだけ私の目が潤んだ。




   大通りを飾る 満開のベコニア  

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