ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

まだ 中々・・ だが

2019-07-06 20:32:17 | あの頃
 まずは、本ブログの2017年7月8日「真相はどこ」から、
その書き出し部分を添付する。 

 【3年前の7月7日に、表題『ブログをはじめます』で、
このブログを開いた。
 その翌々日、表題『ジューンベリー』で、
本格スタートとなった。
 以来、週1回の更新を基本とし、
今回で160回にわたり、私の想いを綴ってきた。

 確かな数字はつかめないが、
読んでくださっている方々が、間違いなくおいでになり、
時には手紙や葉書、メール等々が届く。
 私の大きな励みになっている。

 ブロク開設にあたり、『シンボルツリーはジューンベリー 
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして』、
こんな言葉で、このブロクのテーマ説明を試みた。

 しかし、それが様々な理解を呼んだようだ。
今日までの私の歩みの、ちょっとした拾い物を、
置き忘れないようにしたい。
 そんな思いを説明したつもりだったのだが・・・。

 それにしても、この3年間で記した「拾い物」は、
様々だった。
 しかし、まだ拾い忘れている大切なものはあるような気がしている。

 これからもその1つ1つを私なりのやり方で、しっかりと掌に載せ、
形を整え、このブログに載せていきたいと思う。】

 そして遂に、今日、丸5年の節目を迎えた。
「1つ1つの積み重ねが、ここまで・・。」
 大した1歩ではないにしても、やはり継続はすごい。
私の何かを変えたような気がする。

 『人生は自分探しの旅』。
その言葉に何度か出会ってきた。

 まだまだ私自身を見つけ出せてはいない。
でも、「忘れ物を拾い」ながら、書き綴った5年だった。
 だからか、少しだけ「私理解」が進んだように思う。

 許してはいけないこと。もう許してもいいこと。
宝物にしたいこと。捨ててしまってもいいこと。
 そんな色々な色分けが、少しはできるようになったかも・・。

 さて、ずっと「いつかは」と頭の片隅にありつつ、
話題にできないままにしてきたことがある。
 まだ中々立ち入れないが、
少しずつでも記して行こうと思う。

 まずは、1981年、82年、83年の年賀状に添えた、
4つの詩を載せる。

    今日も前へ

 冬の日陰から
 太陽を求めて
 ローラースケートと三輪車が
 這ったり 引きずったり

  安らぎの隙をついて
  息子を襲う 喘息
  やっと“パパ!ママ!”と
  訴えて せき込む時間
  吸うことと吐くことの不協音が
  ヒュ-ヒューゼーゼーとくり返し
  無力が私の胸と脳裏をかけめぐる
  なすすべもなく ただ背中をさすり
  苦悩する暗い寝室

 すりむいてでも 両手をついてでも
 明るい陽差しの所まで
 きょうも 四人
 足並みそろえて進みたい
 あんな夜が
 遠い語り草になる日を祈りながら
             (1981年)


    期待と共に北の空

 ランドセルと園児カバンが
 パパを送り出し
 明るい陽差しの下を
 踊りながら 登校する姿が
 窓辺に映る時
 ママとチビが
 白いセリカで動き出す

 そんな生活の隙間の日
 収穫を終えた田に
 客土の時まで積もりに積もった
 根雪の美しさを
 初めて見る目と
 六年ぶりの目が
 北の空へと飛び立った

 北は寒いだろう 雲は重いだろう
 地上は凍てついているだろう
 そして
 その空気を胸いっぱい
 吸い込んだ時
 息子の体はどうなるのだろう
 私らは 勇気をふりしぼり
 「パパ ママ
 ボク 力ついたでしょう」の
 言葉を待って
             (1982年)


    うつむかないで
        六月 再入院の一コマ

 人参畑の広がる
 台地の中に
 近代的な病棟が一つ
 長男はそこの患者となった
 たった二時間の面会時間

 孫の急病に
 七十五の祖母が空路を急ぎ
 二男と保育所から家路に
 六月の夕陽は
 やさしく二つの影を伸ばしてくれた

 夕やみの畑道で
 私は
 ふとふり返った
 非常口の明かりの下で
 じっと
 私を追う長男
 小さく手をふり
 そっと涙をかくしてた 
            (1983年)


    軽やかに一日
        十一月 運動会の風景

 早朝の台所が 
 いそがしく のり巻き
 にぎやいだ

 ママと手をとり
 ゴールをめざす
 赤リボンを胸に
 初めてだと明るく語る長男

 半袖半ズボンで
 真剣にかけだし
 やがて顔から転倒
 土色の頬のまま
 一等賞だと
 自賛してみせる二男

 ああ健康
 私はそって指をおり
 何年ぶりだろうと
 空を見上げる
             (1983年)


 この4つの詩は、長男が6、7、8歳、
二男が3、4、5歳の頃のものだ。
 あれから、40年が過ぎようとしている。
でも、忘れられない日々である。

 長男に喘息の発作が始まったのは、
4歳になってからだった。
 次第に、発作をくり返すようになった。
しかも、深夜に症状が悪化した。

 車で15分程の病院が、24時間受け入れてくれた。
喘息発作を止めるため『吸入器』で、治療薬を吸った。
 それでもダメな場合は、2時間程度の点滴をした。
長男の場合、そこまでの治療でほとんど回復した。

 深夜0時から3時頃までの時間帯だった。
彼への付き添いは、私が引き受けた。
 月に数回、そんな緊急処置をくり返した。

 それでも、次の朝になると、
長男は平気なふりして、保育所にも学校にも行った。
 だがら、若干寝不足でも、私も家内も出勤できた。

 その喘息発作は、年々重くなった。
「大きくなったら治るから・・。」
 周りからそんな励ましを受けた。

 でも、深夜に咳込み、発作で苦しむ小さな背中は、
今思い出しでも、涙が浮かんでくる。

 辛い思いをしている我が子を、
病院へ運ぶことしかできない私だった。
 二男の明るさに救われながらも、
無力感だけの私になっていった。

 そんな時、地域のミニコミ誌に、
『東洋医学で喘息を治療』。
 そんな記事があった。
私の団地から、すぐのところの医院だった。
  
 ためらいなど全くなかった。
長男の喘息が治るなら、その一心だった。
 長男を連れて、その医院へ行った。

 そこでの診察や処置が、
さらに病状を悪化させたのかどうか、
それは言い切れない。

 だが、私は父親失格とも言える。
今もその悔いが蘇り、胸を締め付ける。

 何の精査もせず、その医者を頼った。
あの頃、どこの小児科も内科も、
長い待ち時間を覚悟した。
 なのに、いつも待合室に人気はなかった。
私は、その不自然さに気づきもしなかった。

 その医者が勧めるまま、漢方薬を煎じた薬を、
朝夕と飲ませた。
 その耐えがたい苦さを我慢し、
長男は何も言わず、飲み続けてくれた。

 それでも一向に発作は減らなかった。
それどころか、長男は次第に痩せていった。
 その異変に気づいたのは、
半年以上も過ぎてからだった。

 慌てて以前のかかりつけ医院へ行った。
長男の様子を診た医師は
「あの先生は、何を考えているのか・・」
と、絶句した。

 今も自責の念に縛られたままだ。

 長男の喘息に関しては、これだけに留まらない。
いつかの機会に、書き加えることにする。


 

  花菖蒲が咲いていた(歴史の杜公園)

        ※次回ブログ更新予定は 7月20日(土)です

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