新美南吉の作品に、心動かされはじめたのは、
20代の頃、教職についてまもなくだった。
南吉が紡ぐ物語のいろんな場面に共感した。
そして、文学が持つ力を信じるようになった。
巧みなストーリー性を生み出す彼の賢さとは別に、
いつからか、新美南吉という人そのものに
勝手に私を投影することも、しばしばあった。
彼の作品にある「せつなさ」や
「さみしさ」、「優しさ」に心が騒いだ。
私が奥底にしまっていたものと同じものを、彼は描いてくれた。
今だから言えるが、それが私を力づけていた。
いつ頃からだろうか、
愛知県半田市にある、彼のお墓に詣でたいと思うようになった。
彼のそばで、「ありがとうございます。」と掌を合わせたかった。
しかし、それをやらずに今日まで来てしまった。
私の忘れ物の一つと言える。
3月1日、名鉄名古屋駅から、急行で40分、知多半田駅に降りた。
若干冷たい風があったが、
そこまでの車窓を流れる空にも、この地にも雲はなかった。
駅前に街を案内する大看板があった。
そこに大きく、『山車と蔵と南吉の街 半田』と記されていた。
そして、そばの赤い郵便ポストの上には、
キツネのマスコット(ごんぎつね)が置かれてた。
それだけで、この街が南吉を大切にしていることが分かった。
無性に、嬉しかった。
早速案内所に行き、パンフレットを頂いた。
そこにこんな一文があった。
『平成2年のこと、
南吉と同じ岩滑に生まれた小栗大造さんは、
ある壮大な計画を思い立ちました。
“南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、
彼岸花で真っ赤な風景を描こう。”
ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、
一人また一人と手伝う人が現れ、やがてその活動は
「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。
こうして現在では、秋の彼岸になると東西1、5キロにわたって
300万本もの彼岸花が咲くようになりました。』
堤が真っ赤に色づいた写真が誇らしげに載ったパンフレットを片手に、
幸せな気分で、私はタクシーに乗った。
これまた親切なドライバーさんだった。
私の要望通り、南吉の生家、記念館、
そしてお墓へと案内してくれた。
大した知識ではないけどもと言いながら、
ガイド役もかって出てくれた。
そして、家内との記念写真のシャッターまで押してもらった。
父が畳屋、そして義母が下駄屋を営んでいた生家は、
東海道の裏街道ともいわれる大野街道の分岐点にあった。
南吉はこの店の前を通る
旅人や物売りを眺めながら育ったそうだ。
今は閑静な住宅地の一角だが、
思いのほか道幅が狭かった。
その生家の隅に、ひっそりとたたずむ石碑があった。
『冬ばれや大丸煎餅屋根に干す』と刻まれていた。
当時、隣が煎餅屋で、
顔の大きさ程もあった「大丸煎餅」が名物だったらしい。
屋根を見上げていた南吉の姿を想像した。
そして、冬ばれの日に訪ねることができた好運に感謝した。
そして次は、新美南吉記念館である。
そこは、「ごんぎつね」の舞台、中山の地にあった。
遠くには、ごんが住んでいたと言う権現山が、
穏やかな稜線を見せていた。
予備知識がないままの来場だった。
降車しても、記念館を見つけることができなかった。
平成6年に開設したその建物は、
全国コンペで選出された斬新なもので、
隣接する童話の森にすっかりと溶け込み、緑に包まれていた。
他の館とは趣きが異なるたたずまいに、言葉を無くした。
半地下にある展示室の入口では、
『この石の 上を 過ぎる 小鳥たちよ
しばし ここに 翼を やすめよ』
と、南吉の詩「墓碑銘」の書き出しが迎えてくれた。
現代アート風に展示された南吉の世界。
自筆原稿をはじめ、書籍、童話のジオラマ模型が、
そっとその場にマッチしていた。
ここでも、南吉は大切にされていると思った。
余分な解説など不要な展示だが、
その中の一つに私の目が惹かれた。
丸く縁取られた額に、こんな言葉が並んでいた。
『ナフタリンの匂いのする着物は
何かよいことがあるときにしか
僕の家ではきられなかったので、
僕の鼻は今でもナフタリンの匂いを
幸福の匂いと思っている。』
昭和12年6月7日(23才)の日記である。
なんて繊細で素直な、柔らかな感性なんだろう。
こんな瑞々しさがほしいと思った。
この一文に接しただけで、満たされている私がいた。
帰り際、もしかしたらここでしか手に入らないのではと、
館長を長年務めた矢口栄氏著の
『南吉の詩が語る世界』を求めた。
その本に、何十年も前、心を熱くした詩を二つ見つけた。
貝 殻
かなしきときは
貝殻鳴らそ。
二つ合わせて息吹きをこめて。
静かに鳴らそ、
貝がらを。
誰がその音を
きかずとも、
風にかなしく消えゆるとも、
せめてじぶんを
あたためん。
静かに鳴らそ
貝殻を。
林 檎
手もて撫づれば
きゆるきゆると
笑ふなり
その肌はなめらかに
しつとりとして
わが指にからむなり
陽にかざせば
ぴかつと光るなり
さびしくてならぬ日
きまぐれに一つ買ひたれど
まことにめでたし
りんご 木の果
詫びつつおもしろくなりて
きゆるん きゆるんと
笑はせていくなり
2作とも、辛く、もの悲しい。
はかない程にきれいだとも思う。
ひたすらに純粋なものを求めるこんな南吉に、
励まされるのは私だけだろうか。
いや、そんなことよりも、南吉には、
半田の眺めと、半田の光りと、半田の匂いが一番あうと思った。
さて最後は、公設の「北谷墓地」に眠る南吉の墓を訪ねた。
周囲と変わらない広さの墓であったが、
墓石は立派なものだった。お父上が建立したそうだ。
墓前に立つと、色とりどりの綺麗な花が手向けられていた。
いつもお世話をしている方々がいらっしゃるとか。
伺えたことの幸せ、作品との出会いに感謝等々、
深々と頭を垂れ、しばしの時間合掌をさせてもらった。
「ここまで来てよかった。」
帰り際、墓地の脇に、
ひっそりとあの六地蔵が並んでいた。
また一つ、私の忘れ物が減った。
雪解けの地面から今年も福寿草が
20代の頃、教職についてまもなくだった。
南吉が紡ぐ物語のいろんな場面に共感した。
そして、文学が持つ力を信じるようになった。
巧みなストーリー性を生み出す彼の賢さとは別に、
いつからか、新美南吉という人そのものに
勝手に私を投影することも、しばしばあった。
彼の作品にある「せつなさ」や
「さみしさ」、「優しさ」に心が騒いだ。
私が奥底にしまっていたものと同じものを、彼は描いてくれた。
今だから言えるが、それが私を力づけていた。
いつ頃からだろうか、
愛知県半田市にある、彼のお墓に詣でたいと思うようになった。
彼のそばで、「ありがとうございます。」と掌を合わせたかった。
しかし、それをやらずに今日まで来てしまった。
私の忘れ物の一つと言える。
3月1日、名鉄名古屋駅から、急行で40分、知多半田駅に降りた。
若干冷たい風があったが、
そこまでの車窓を流れる空にも、この地にも雲はなかった。
駅前に街を案内する大看板があった。
そこに大きく、『山車と蔵と南吉の街 半田』と記されていた。
そして、そばの赤い郵便ポストの上には、
キツネのマスコット(ごんぎつね)が置かれてた。
それだけで、この街が南吉を大切にしていることが分かった。
無性に、嬉しかった。
早速案内所に行き、パンフレットを頂いた。
そこにこんな一文があった。
『平成2年のこと、
南吉と同じ岩滑に生まれた小栗大造さんは、
ある壮大な計画を思い立ちました。
“南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、
彼岸花で真っ赤な風景を描こう。”
ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、
一人また一人と手伝う人が現れ、やがてその活動は
「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。
こうして現在では、秋の彼岸になると東西1、5キロにわたって
300万本もの彼岸花が咲くようになりました。』
堤が真っ赤に色づいた写真が誇らしげに載ったパンフレットを片手に、
幸せな気分で、私はタクシーに乗った。
これまた親切なドライバーさんだった。
私の要望通り、南吉の生家、記念館、
そしてお墓へと案内してくれた。
大した知識ではないけどもと言いながら、
ガイド役もかって出てくれた。
そして、家内との記念写真のシャッターまで押してもらった。
父が畳屋、そして義母が下駄屋を営んでいた生家は、
東海道の裏街道ともいわれる大野街道の分岐点にあった。
南吉はこの店の前を通る
旅人や物売りを眺めながら育ったそうだ。
今は閑静な住宅地の一角だが、
思いのほか道幅が狭かった。
その生家の隅に、ひっそりとたたずむ石碑があった。
『冬ばれや大丸煎餅屋根に干す』と刻まれていた。
当時、隣が煎餅屋で、
顔の大きさ程もあった「大丸煎餅」が名物だったらしい。
屋根を見上げていた南吉の姿を想像した。
そして、冬ばれの日に訪ねることができた好運に感謝した。
そして次は、新美南吉記念館である。
そこは、「ごんぎつね」の舞台、中山の地にあった。
遠くには、ごんが住んでいたと言う権現山が、
穏やかな稜線を見せていた。
予備知識がないままの来場だった。
降車しても、記念館を見つけることができなかった。
平成6年に開設したその建物は、
全国コンペで選出された斬新なもので、
隣接する童話の森にすっかりと溶け込み、緑に包まれていた。
他の館とは趣きが異なるたたずまいに、言葉を無くした。
半地下にある展示室の入口では、
『この石の 上を 過ぎる 小鳥たちよ
しばし ここに 翼を やすめよ』
と、南吉の詩「墓碑銘」の書き出しが迎えてくれた。
現代アート風に展示された南吉の世界。
自筆原稿をはじめ、書籍、童話のジオラマ模型が、
そっとその場にマッチしていた。
ここでも、南吉は大切にされていると思った。
余分な解説など不要な展示だが、
その中の一つに私の目が惹かれた。
丸く縁取られた額に、こんな言葉が並んでいた。
『ナフタリンの匂いのする着物は
何かよいことがあるときにしか
僕の家ではきられなかったので、
僕の鼻は今でもナフタリンの匂いを
幸福の匂いと思っている。』
昭和12年6月7日(23才)の日記である。
なんて繊細で素直な、柔らかな感性なんだろう。
こんな瑞々しさがほしいと思った。
この一文に接しただけで、満たされている私がいた。
帰り際、もしかしたらここでしか手に入らないのではと、
館長を長年務めた矢口栄氏著の
『南吉の詩が語る世界』を求めた。
その本に、何十年も前、心を熱くした詩を二つ見つけた。
貝 殻
かなしきときは
貝殻鳴らそ。
二つ合わせて息吹きをこめて。
静かに鳴らそ、
貝がらを。
誰がその音を
きかずとも、
風にかなしく消えゆるとも、
せめてじぶんを
あたためん。
静かに鳴らそ
貝殻を。
林 檎
手もて撫づれば
きゆるきゆると
笑ふなり
その肌はなめらかに
しつとりとして
わが指にからむなり
陽にかざせば
ぴかつと光るなり
さびしくてならぬ日
きまぐれに一つ買ひたれど
まことにめでたし
りんご 木の果
詫びつつおもしろくなりて
きゆるん きゆるんと
笑はせていくなり
2作とも、辛く、もの悲しい。
はかない程にきれいだとも思う。
ひたすらに純粋なものを求めるこんな南吉に、
励まされるのは私だけだろうか。
いや、そんなことよりも、南吉には、
半田の眺めと、半田の光りと、半田の匂いが一番あうと思った。
さて最後は、公設の「北谷墓地」に眠る南吉の墓を訪ねた。
周囲と変わらない広さの墓であったが、
墓石は立派なものだった。お父上が建立したそうだ。
墓前に立つと、色とりどりの綺麗な花が手向けられていた。
いつもお世話をしている方々がいらっしゃるとか。
伺えたことの幸せ、作品との出会いに感謝等々、
深々と頭を垂れ、しばしの時間合掌をさせてもらった。
「ここまで来てよかった。」
帰り際、墓地の脇に、
ひっそりとあの六地蔵が並んでいた。
また一つ、私の忘れ物が減った。
雪解けの地面から今年も福寿草が
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